神戸へ

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◾️亡くなった母の年金を支給停止にすることに関して、母の住まいの地域を所管している年金事務所に電話をしました。そうすると、母が住んでいた地域を所管する事務所ではなくて、大津の事務所でも良いということを教えてもらいました(そうか、知らなかったな)。ただし、住民票とか戸籍抄本とか、諸々の書類を発行してもらうために、あちこちをウロウロしなくてはいけません。また、年金事務所から送られてくる書類に記入をして提出しなくては行けません。事務的なことは先週でお終いと思っていましたが、来週以降にも続きそうです。

◾️喪主になるのは、今回で2回目です。父と母の2回だけでもう十分なわけですが、父や母の看病や介護、亡くなりそうになる直前の段階から亡くなった後のいろんな手続きや供養に至るまでを含めて、いろいろ勉強させてもらったような気がします。先週は、母が入所していた老人ホームの居室から荷物を撤去しました。その次の日は、暮らしていた自治体の役所で様々な手続きをしました。次から次へと担当者がやってこられて、丁寧に説明をしてくださいましたので助かりました。落語の「善哉公社」のような、たらい回しになることはありませんでしたが、よくわからない事ばかりでした。助かりました。人は、様々な制度に登録されています。当たり前のことですが、いろんなことに気がついたり、改めて認識したり…。そういう経験を文字化して、子どもたちに伝えておく必要があるんじゃないのか。今、そういうふうに思っています。エンディングノートには、そういう子どもに向けたマニュアルのようなことを書いておく部分はあるのかな…。いろいろ介護や看取りの本も出版されていますね。自分自身の介護、看取り、葬儀、亡くなった後の諸々のこと。勉強して、子ども達と共有しておこうと思います。子ども達からすれば、私の生きている間にそういう勉強をすることは、なんだか気がすすまないことでしょうしね。親の介護が終わったので、次は自分の終活をきちんとできるようにしなければなりません。

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20190114kobe6.jpg◾️毎日、亡くなった母のことであちこちに移動しているわけですが、一昨日の土曜日は神戸に行ってきました。神戸に本籍があるからです。必要だったのは戸籍抄本ですが、JR三宮駅に隣接するビルに市役所のサービスコーナーがあり、休日でも受け付けてもらえることがわかりました。ただし、当日の発行にならないとのこと。発行は、火曜日以降になるとのことでした。ちょっとがっかりでした。ということで、せっかく神戸に来たからと少し街をぶらついて帰ることにしました。まずは、市役所の展望台に登り、高いところから自分の故郷である神戸の街を見渡しました。私の記憶の中にある故郷・神戸の街は、阪神淡路大震災以前のものですから、海と山に挟まれたその地形は変わらないにしても、街の雰囲気は随分変化してしまいました。展望台から神戸の街を眺めた後は、東遊園地に行きました。もちろん「慰霊と復興のモニュメント」へ。この日は、市内のたくさんの中学生たちが集まって、「1.17希望の灯り」から火を分けてもらっていました。何かのイベントの一部ですね。おそらくは、17日に開催される「阪神淡路大震災1.17の集い」の関連かと思います。次に神戸に来て戸籍抄本を受け取るのは17日になるので、また東遊園地に行ってみようと思います。

◾️そのあとは、元町の中華街に行きましたが、人混みが嫌でそこから外れてみると、有名な「ぎょうざ専門店 赤萬」が目の前に。ここで遅い昼食をいただきくことにしました。神戸の餃子は味噌ダレでいただきます。有名店だけあって、かなり美味しいと思いました。そしてデザートは、大学時代に所属していた関西学院大学交響楽団の後輩である採田くんが経営カフェに行きました。「フルーツカフェ サイタ!サイタ!」です。以前から、噂に聞いていたフルーツサンドを、この日、やっといただくことができました。これも美味しかったな〜。みなさんも、ぜひ「フルーツカフェ サイタ!サイタ!」へ。母の通夜や葬儀が終わり、ちょっと故郷の神戸で休憩です。
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母のこと

20190111funeral.jpg ◾️新年4日の晩から、娘の一家が我が家にやってきました。もちろん、可愛い孫も一緒です。今回は、人見知りもなく、娘夫婦があらかじめ画像や動画で私のことを事前学習しておいてくれたおかげか、笑顔で「おじいちゃん」と言ってくれました。一緒に、積み木でも遊びました。アホのように見えるでしょうが、私自身は、大変幸せです。

◾️5日は、その娘夫婦と孫、そして息子や妻と一緒に老人ホームにいる老母を見舞いました。というか、見舞う予定でした。ところが、朝、老人ホームから連絡が入りました。血液の酸素量や血圧が下がっているので病院に搬送するというのです。母は、先々月あたりから、かなり弱ってきていましたが、とりあえず、救急隊員の方達の処置で少し持ち直したようです。病院に駆けつけて母を見守りましたが、幸いなことに、母の様子が落ち着いてきたということで昼過ぎに老人ホームの方に戻ることになりましたが、老人ホームに戻った母が喋ることはありませんでした。意識があるようにも思えませんでしたが、孫たち(息子と娘)が一生懸命声をかけて見舞ってくれました。意識がないように見えてはいましたが、ひょっとすると、孫たちの声が聞こえていたのかもしれません。

◾️見舞った後は、老人ホームの側と「看取り」についての合意をしておくことにしました。滋賀医科大学の医師から、「いつ亡くなっておかしくない。まだ2年先まで生きておられるかもしれない。いつ亡くなられるかはわからない。だからこそ、お母様の延命治療をどうするのか老人ホームの側ときちんと相談をして欲しい」とのアドバイスをいただいたからです。ただし、「看取り」の協議については隣接するクリニックの医師の同席が必要とのことで、正月の休み明けに、その協議を行うということになりました。

◾️朝から大騒動でしたが、ひとまず、母を見舞った私たちは遅い昼食を摂るため老人ホームの外に出ました。そして昼食を摂っている時、老人ホームの方から私の携帯電話に連絡が入りました。今しがた、母が息を引き取ったというのです。孫たちに会った直後だったこともあり、大変驚きました。本当のことはよくわかりません。都合の良い考えかもしれませんが、孫に会って、孫の声を聞いて、安心して息を引き取ったのではないかと思います。享年86歳でした。7日に通夜を、8日に葬儀を相済ますことができました。家族と親戚だけの小さな葬儀でしたが、生前母が私によく言っていた通り、葬儀会社には、明るい華やかな洋花で祭壇を飾っていただきました。葬儀の後は、孫も含めて家族や親戚の皆さんと、母の棺を鮮やかな花でいっぱいにしました。

◾️葬儀の後は、比良山系の麓にある火葬場に。天候も晴れ。少し暖かい日でした。母のご遺体がお骨になるまで親戚の皆さんから、それぞれの方の母の思い出をたくさんお聞きすることができました。炉から出てきた母の遺骨については、女性の職員の方が、大変丁寧にご説明くださいました。まるで人骨の講義をされているかのように丁寧にご説明くださいました。その中で、「指仏」という言葉を知りました。指先の骨なのだそうです。「お母様は、手先がご器用でいらしたのでしょうね」と職員の方が言われました。たしかに。和裁、洋裁、編み物が好きでしたし、料理も好きでした。おそらくは母のお骨上げをしてくださった家族や親戚の皆さんの記憶に残ることでしょう。お骨上げ。それを見ていた孫も自分でやってみたかったようですが、1歳9ヶ月でまだ少し小さいわけで、ちょっと無理ですね。ごめんね。おじいさんの時には、ぜひよろしくお願いします。

◾️9日は亡くなった母が入所していた老人ホームに行って、母の居室から荷物を引き上げてきました。母が使っていた電動式の介護のベッドとリクライニングの車椅子については、ベッドは福祉団体に、リクライニングの車椅子は老人ホームに寄付させていただきました。考えてみれば、母のことについては、この10年間で実に多くの皆さんのお世話になってきました。その方達のお顔が頭に浮かんできます。地域包括支援センターの職員さん。介護保険のケアマネージャーさん。ヘルパーさん。訪問看護師さん。いろいろ支えてくださったご近所の皆さん。病院の医師や看護師の皆さん。老健の職員の皆さん。最寄りの役所の職員の皆さん。老人ホームの職員の皆さん。司法書士の先生。それから妻をはじめとする家族や親戚の皆さん。最後は、葬儀会社の社員の皆さんや火葬場の職員の方にも。お一人お一人の方達に、母のことに関していろんなことをお話しし、ご相談してきました。その時々、皆さんからの親切で優しいお言葉から、どれだけお力をいただけたかわかりません。また、facebookにも母の介護のことを投稿してきましたが、fbの友達の皆さんにも、介護で疲れた気持ちをどれだけ慰めていただき、励ましていただいたかわかりません。本当にありがとうございました。

◾️10日は、母が暮らしてい町の役場に行き、様々な手続きをしました。後期高齢者医療、介護保険、障害者手帳…。うっかりしていて、印鑑証明証のカードと障害者手帳のことを忘れていました。明日は、もう一度カードと手帳を返却しに役場に行って、その後は尼崎にある年金事務所に行きます。年金と健康保険の手続きをします。これで、とりあえずは社会的な手続きは一段落かなと思います。明日は、大阪梅田を経由することになります。昔、奈良に暮らしていた頃、母の世話をしに行く時には、よく阪急梅田三番街の「インデアンカレー」で昼食を摂って気合を入れたものです。明日は、うまくいけば開店直後に食べられるかもしれません。甘くて辛いカレーをいただきながら、この10年間のことを、いろいろ思い出すことにします。

2019 あけましておめでとうございます!

◾️新年、あけましておめでとうございます。皆さま、本年もよろしくお願いいたします。

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◾️大晦日に息子が帰省しました。元旦は、いつもよりも1人多い3人でお雑煮とお節料理いただきました。これは習慣だと思いますが、正月は家で作ったお節料理を頂かないと気持ちが落ち着きません。蒲鉾、イクラ、カズノコ以外は、すべて我が家で作られたものです。あっ、そうそう、葉蘭も南天も庭にはえているものです。雑煮だけは私が作ります。我が家の元旦の雑煮は、すまし。例年は鶏肉と水菜と焼き餅なのですが、水菜が売り切れていたことから替わりに小松菜です(関東方面は、小松菜入れることが多かったような気が…)。明日からは、雑煮は白味噌になります。ちなみに餅ですが、年末に購入したデロンギのオーブントースターでうまく焼けました。まあ、こんな感じで穏やかな元旦を過ごしました。

◾️2日は、帰省した息子も一緒に、家族で老人ホームにいる老母を見舞いに行きました。到着したのは、3時のオヤツを食べたあとです。老人ホームに入所して2年少しが経ちますが、今は話しかけても「はい」としか言えません。息子(=孫)が話しかけても、反応がありません。誰がやってきたのか、よくわからないのかもしれません。そうこうしているうちに、また眠ってしまいました。ひさしぶりに見舞いに来た息子には、母が弱っていることがよくわかるようでした。ただし、痛みや苦しみが見られないようなので安心したようです。

◾️ 2年前、母が滋賀の老人ホームに移ってしばらくしてからの正月は、まだみんなで介助をすれば、我が家に連れてくることができました。2年前は、まだ笑顔がありました。しかし、その年の春に脳内出血を起こしました。滋賀医大に入院しました。退院はできましたが、身体に麻痺が残ることになりました。介護保険のレベルも要介護5になりました。すべてに介助を必要とするようになったのです。その後、腎臓の問題で、またまた入院。この10年間に、眼底出血、横紋筋融解、硬膜下血腫…いろんなことで入院してきました。入院のたびに体力がなってきたように思います。今は、「はい」しか言えない程弱ってきているわけです。5日には、娘の家族と一緒に老人ホームの母を見舞おうと思っています。小さな孫(母にとってはひ孫ですが…)のことがわかるかな。

◾️見舞いの後は、少し琵琶湖の風景を眺めながら帰宅することにしました。南湖の東側から、比叡山、そして雪で白くなった比良山系の山々をしばらく眺めて風景を「味わい」ました。お正月からキャンプを楽しまれている方達がおられます。すごいですね。
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◾️ここで少し昨年のことを振り返っみようと思います。2018年は、私にとってどんな年だったのでしょうか。良いことばかりではありません。不愉快なこと、腹ただしいことがありました。これはここに書くわけにはいきませんね。まあ、組織で働いていれば、ある意味で仕方のないことでもあります。悲しいこともありました。大津駅前のいつもの居酒屋「利やん」のマスター光山幸宏くんが亡くなったことです。本当に悲しかった。仕事では大きな変化があったわけではありませんが、還暦を迎えたことで、なにか気持ちに少し変化が生まれたきたように思います。退職まで順調にいけばあと8年になり、大学教員として今後取り組むべきことが、私の意思というよりも、様々な方達との「ご縁」のなかで、結果として絞り込まれてきたようにも思います。

◾️おそらく人生最後になる、流域ガバナンスに関する文理連携の研究プロジェクトも終盤を迎えました(こういうプロジェクトは、生涯に何度もできるものではありません)。当初からの構想を大切にしつつ、強い意志を持って最後までやり遂げます。このように終盤を迎えていることもありますが、新しい取り組みも始まりました。市民団体「水草は宝の山」も、少しずつですが歩みを進めています。この取り組みを契機として新たにNPOも生まれようとしています。「ビワポイント」という環境保全活動をサポートする社会的仕組みも動き始めるはずです。また、仰木の里学区の皆さん、大津市役所、そして龍谷大学の学生・教職員の協働による「学生まちづくりLaboratory」の取り組みも前進を始めました。そんなこんなで、来年も、地域社会の中に「贈与の精神」が循環する素敵な取り組みや仕組みが、お世話になっている皆さんとのつながりの中でうまく育っていくように、楽しみながら努めていきたいと思います。

◾️そうそう、昨年は、母校・兵庫県立兵庫高等学校の同級生の皆さんとも、再びつながり、交流が始まりました。とても嬉しかった。たいへんありがたいことです。同級生の皆さん、よろしくお願いいたします。神戸を訪問するチャンスが増えると素敵だなと思っています。

◾️冒頭の動画は、「水草は宝の山」の活動に一緒に取り組んでいる山田英二さんが、経営されている真野浜(大津市)の民宿「きよみ荘」の上から撮られた、初日の出の動画です。山田さんは、毎日のように朝日を撮影されています。初日の出の動画、1時間以上の長さがあります。もし、お時間があったら全てご覧になって琵琶湖の素晴らしさを感じ取っていただければと思います。初日の出だけをご覧になりたい場合は、時間を端折って、後の方からご覧になってください。

義父の米寿の祝い

▪️昨日は、義父の米寿の祝いが奈良の「あやめ館」というお店でおこなわれました。以前暮らしていたマンションのすぐそばにあるお店です。長年連れ添ってこられた義母。義父と義母の2人の娘。その連れ合い2人(そのうちの1人は私です)。そして社会人となってそれぞれの職場で頑張っている2組の娘夫婦の子どもたち、つまり孫が4人。孫の連れ合いも1人。そしてそして1歳半になったひ孫もみんな揃い、11人でお祝いをしました。食事の後は、花束と、お祝いしたみんなからのメッセージを書いた色紙を贈りました。

▪️普段、義父は家族専用のSNSを通して、ひ孫である ひなちゃん の日々の成長や、孫たちの頑張っている様子を楽しみにしているようです。SNSを使って、孫やひ孫の様子を知ることができるように、iPadをプレゼントされているのです。昨日、義父は、ひさしぶりに孫とひ孫全員に会えました。人生の幸せは人それぞれですが、孫やひ孫に囲まれるというのは、そのような幸せの1つなんじゃないでしょうか。大切だと思います。思い起こせば、すでに社会人になった孫4人がまだ3人の頃、みんなで還暦のお祝いをしました。ついこの間のような気がします。あっという間ですね。

▪️還暦の頃、義父は、米寿になる頃のことを想像していたでしょうか。昨日は、そのことを聞きそびれました。私自身は、今還暦ですが、とても米寿まで長生きできる自信はありません。でも、孫のひなちゃんが成人した時に、一緒に飲みに行ける程度には体力と健康を残しておきたいなと思っています。でも、どうなるでしょうね。それは19年後です。これも、あっという間でしょうね。楽しみです。こうやって世代を超えて集まることは、その機会に、人生についていろいろ考え学ぶことになります。大切なことだと思いました。

▪️昨日は、老人ホームに入所している母の見舞いにも行きました。昨日は、老人ホームの「秋祭り」でした。ホームの中では、職員さんたちも着物に着替えるなどして、いろんなゲームや催しを楽しんでおられました。私の母親は、すでに寝たきりの状態ですが、リクライニングの車椅子で居室から出て少し「秋祭り」を楽しんでいたようでした。母は食欲はあるようで、寝たきりの状態ではありますが、身体の方はなんとかなっています。ただ認知的な部分では、どんどん曖昧になってきているような気がします。息子の私と、ひ孫のひなちゃんのことはなんとかわかるようです。

▪️亡くなった父の看病と看取りから始まり、そのあとは母の世話で10年たちました。実際に、ご自宅で介護された方たちのような大変な苦労はありませんでしたが、それでもいろいろありました。こちらも、今となれば、その過程でいろいろ学んできたんじゃないか、これからも学び続けるんじゃないのか、そのように思うわけです。

実家の荷物の処分

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◾️86歳の母は、身体が弱り、滋賀県の老人ホームに入所しています。母が住んでいた家を、このまま放置しておくわけにもいかず、処分することにしました。まずは、家の中の「物の処分」です。当初は、自分の力でやろうと思っていましたが、時間ばかり経過し、精神的にも重荷になってきたことから、先週の木曜日、母が住んでいた家の「物の処分」を業者さんにお願いしました。昨日は、この「家の処分」に先立って、諸々の手続きが必要になることがわかり、最寄りの役所に出かけました。そのついでに母の家を見に行くと、家の中はすっからかん。後は掃除だけの状態になっていました。4tトラック3台弱の物があるとの見積もりでしたが、すべて運び出されていました。呆気なくというか…さすがプロですね。あまりの量に途方に暮れていたのですが…。プロはすごいなと思います。
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◾️この家は、私が結婚してから建てられた家なので、私自身は特別な思い入れはありません。私からすると、亡くなった父の看病や介護、父が亡くなった後は、母の生活介護や入院のために通った家であり、どちらかといえば「しんどい思い出」ばかりしかありません。庭の草刈りも大変だったな…。とはいえ、気持ちは、少しずつ肩の荷が軽くなりつつある…という感じでしょうか。家の中はすっからかんと書きましたが、業者さんに買い取ってもらえるものは、残されていました。テレビ、カメラ、時計、それからどういうわけかゲームボーイ…。これ、売れるんですね。後は掃除をして、家の処分に取り掛かります。知り合いの行政書士さんと、親戚の不動産屋さんにお願いします。溜まっている仕事に、早く戻らなくてはいけませんので。

◾️これからの時代、子ども達に、私が経験したような苦労はかけられません。そういう時代になってきたと思います。「終活」と「引き継ぎ」をしっかりしなければと、改めて思っています。あっ!忘れていたことがあります。庭木の剪定も業者さんに頼まないと…。いろんなプロにお願いしています。

寒波で雪が降る

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■昨晩から雪が降り始めました。大津市に暮らしていますが、私の住まいは琵琶湖の南湖の西側にあたります。先日のエントリー「滋賀の冬の天候」にも書いたように、滋賀は、日本海側の気候と太平洋側の気候の中間地点になります。私の住まいは、そのちょうど境目辺りになるのです。ということで、昨晩は雪が降りました。雪が降ったと言っても、滋賀県北部の湖北のお住いの方達からすれば、たいした積雪ではありません。除雪についても、朝、ごく簡単に済ませることができました。しかし、滋賀県の各地で雪が降ったようです。しかし、雪の振り方には、南北で大きな差があります。

■トップの写真、そしてその下の段の2枚に分けて撮った写真では、琵琶湖の南から西側に位置する山々が確認できます。左が南になります。右側、北に行くにしたがって、山々が雪で白くなっていくことがおわかりいただけるでしょうか。一番左側は大津市の中心市街地の裏にある音羽山でしょうか。雪が降った気配はあまりありません。写真の中央に高いビルが見えます。プリンスホテルです。その右側に見える山は比叡山です。少し白くなっています。さらにその右側、遠くの比良山系が見えます。真っ白です。写真には写っていませんが、写真のもっと左の方、つまり瀬田川の下流の南郷方面になりますが、そちらは全く雪の気配がありません。この写真から、「滋賀県は日本海気候区、東海気候区及び瀬戸内海気候区が重なり合う地域」であることがよくわかります。琵琶湖のある滋賀県は、若狭湾にも、伊勢湾にも、そして大阪湾にもつながっているのです。
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20180114biwako6.jpg■今日は、伊吹山もよく見えました。米原市に位置する山ですから、かなり北にあるわけですが、湖北のあたりは雲が切れたせいか、伊吹山は太陽の光に輝いていました。この写真は、草津イオンモールの屋上駐車場から撮ったものです。左側が、通常の倍率。右側は拡大しています。この写真にはきちんと写っていませんが、所々、湖北や鈴鹿の山々も確認することができました。大津の街中から見える伊吹山、なかなか素敵です。「こうやって琵琶湖を取り囲む山々を眺めることに意味があるのか」とお思いになるかもしれませんが、滋賀の大地に想いを馳せること、私の中ではちょっとした楽しみなのです。

■今日は、老母の見舞いに老人ホームに行きました。その帰りにこの景色を眺めました。老母は現在の老人ホームに移動してから1年経ちました。簡単に言えば老いがますます深まってきたように思います。最近はなかなか言葉が出てきませんし、大事な人の名前も出てこなくなりました。今のところ、私の名前はわかるようですけれど。こうなると、仕方がないとわかっていても、ちょっと気が重くなりますね。そんなこともあってかどうかわかりませんが、草津イオンモールの中にある園芸店で、ヒヤシンスの球根が植えられた小さな鉢を買い求めました。ヒヤシンスは、冬の寒さに耐えて春に花を咲かせる植物なのだそうです。まだ、小さな硬い蕾が見える程度ですが、美しい花を咲かせてくれるでしょうか。

老母の見舞い、琵琶湖大橋からの伊吹山

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20180108ibuki3.png■昨日は、老人ホームに入所している母の見舞に出かけました。85歳です。3日の晩に娘の家族が我が家にやってきて、4日に母の見舞いに一緒に行くつもりだったのですが、娘と孫(ひなちゃん)が風邪をひいていたことから、「曽祖母と曽孫との対面」は先送りとなりました。そのかわりに、昨日は、iPadに入っている、「孫がオモチャのラッパを吹く動画」を見てもらいました。といいますか、母は目が見えなくなってしまったので、聞いてもらいました。ラッパが吹けることに驚くとともに、ラッパがならない時は、自分でプーと声を出していることを面白がっていました。

■最近は、食事と入浴とリハビリ以外は、ベッドで横になっており、ほぼ寝たきりの状態です(要介護5)。そのような母と話しをしようとするわけですが、昔のように喋らることはありません。昔は、もういい加減にして欲しいとと思うほどに、一方的に聞きたくもない話しをしていたわけですが、今はこちらが話しかけないとすぐに黙ってしまう。話しをしても、同じような内容しか話すことができません。元旦は息子と一緒に見舞いましたが、ひさしぶりに祖母に会った印象を「会うたびに衰えていく」と語っていました。ひさしぶりに会うからこそ、母(祖母)の衰えを強く感じたのでしょう。

■小一時間ほど母の居室にいた後、「また来るわ」と言って老人ホームを後にしました。行きは別に用事のあった家人の車に便乗して老人ホームのすぐそばまで送ってもらいましたが、帰りは近江大橋を渡って膳所のあたりまで歩くことにしました。距離は、約4.5kmほどになるでしょうか。昨日は薄曇りでしたが、遠くの山々がよく見えました。比叡の山々には雪が積もっていませんが、北にある比良山系の頂きは雪で白くなっていました。湖東の方に目を転じると、遠くに雪で白くなった伊吹山がはっきり見えました。その横には、やはり白い鈴鹿の山々がくっきりと見えました。普段、伊吹山の存在を意識することはあまりありません。空気が澄んでいる時以外は、なかなか目に入ってこないからです。昨日、facebookで、伊吹山の麓にお住いの知人が雪の伊吹に登頂して山スキーで降りてこられたことを知りました。伊吹山の頂上の雪で純白になった風景も写真で拝見しました。昨日は、伊吹山の頂上からも大津の街が見えたのではないでしょうか。

「看取り」という死に方/石飛幸三/


■この動画の中に登場する医師・石飛幸三さんは、「胃ろう」の問題を厳しく批判されています。胃ろうをしても、胃が弱っているので食道に逆流して誤嚥性肺炎につながる。誤嚥性肺炎を防ぐことが、逆になっている…石飛さんはそう指摘されています。人生の終末において、少しずつ肉体が死に向かって弱っている時期に、どうして無理に治療を継続するのかという問題です。石飛さんは、『「平穏死」を受け入れるレッスン: 自分はしてほしくないのに、なぜ親に延命治療をするのですか?』『平穏死という生きかた』『家族と迎える「平穏死」–「看取り」で迷ったとき、大切にしたい6つのこと』等の著書も出版されています。これらの書籍のタイトルからもわかるように、肉体が自然に弱って死に向かっている人を、無理やり生かそうとする現代社会の医療や福祉のあり方を根本から批判されているのです。自然な状態で死を迎えることを見守る=「看取り」は、どうすれば可能なのでしょうか。石飛さんの著書はヒントを与えてくれそうです。

NHKスペシャル「老衰死」

昨日のラン

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■滋賀の老人ホームに入所している母が85歳になりました。姪(私の従姉妹)からの誕生日プレゼントも届いていました。玲子ちゃん、ありがとう!もっとも、母は目が見えないし、脳内出血の影響で左半身に麻痺が残り、麻痺している左手には痛みを感じるようで、誕生日プレゼントを自分で持つことができません。認知的な部分でだいぶおかしなことを言います。「今日は、ちゃんとゴミ出しをしてくれたか」。「出しといたで」と答えておきました。まだ、自宅に住んでいるような気持ちになっているのですね。老いが深まっているなあという感じなんですが、曽孫のひなちゃんのことについてだけは、いつも比較的まともなことを言います。昨日は、娘が送ってくれたひなちゃんの動画を「聞かせ」ました。わかってくれたかな。

■ところで、義理の母も少し具合が悪く、昨日は、妻は夕方から実家に向かいました。姉妹で交代で介護をしています。介護には車がいるので、今、我が家には車がありません。ということで、買い物も全部歩いていく必要があります。改めて、滋賀の家庭には車が2台以上あることの意味がよくわかるようになりました。とはいえ、歩いて10数分のところにスーパーがあるので、まだマシかもしれませんね(買い物だけで小一時間かかってしまいますが…)。問題は、年を取って足腰が弱くなってしまった時です。足腰は、あっというまに弱くなってしまいます。これは、親の介護をしながら学ばせてもらったことです。身体を使うのが億劫になると、筋肉が衰えます。筋肉が衰えると、さらに身体を動かすのが億劫になります。悪循環ですね。というわけで、しっかりした足腰をできる限り維持できるように…というわけでもないが、昨日もジョギングをしました。

■ランニングのログをiPhone6のアプリで記録をしています。ご覧の通りです。最初は、けっこう身体が軽く感じられました。2kmから3kmは5分55秒/km、3kmから4kmは5分45秒/km。調子が良かっんです。ただし、住宅地の中のアップダウンを走り終えた後、9kmあたりから、きつく感じられるようになりました。そのあとはちょっと歩いてしまいました。マラソンに関するある本に、「ニコニコ、ルンルン♪」で走ることのできるスピードは、ややきつく感じられるスピードと書いてありました。心拍数は、私の年齢だとでも、だいたい108/分程度らしいです。心拍数って測ったことがありません。仕方がないので、まあその時の気分で走っているけれど、おそらく今日は速すぎたのだと思います。おそらく、6分30秒/kmあたりでずっと安定して走ることが今の私には必要なようです。さて、昨日の消費カロリーですが、942kcalでした。で、体重は減っているのかといえば、やっと1kgぐらい減ってきたでしょうか。体脂肪は微妙に減ってはいますが…。今月は、まだ、たかだか71.5kmしか走っていません。ウルトラマラソンの距離にも届きません。身体があまり変化しないのも、仕方がありません。とはいえ、顔の肉が少し削げてきたかな。

■ところで、体脂肪等を計測する体組成計に加えて血圧計も使っています。以前、血圧は高めでした。薬を飲んでいたこともあります。しかし、走ることで血圧が下がることを経験上知りました。現在は、50代の平均以下に下がっています。上が128で下が80、脈拍も65。体脂肪の変化は緩慢だけど、血圧はわかりやすいですね。あまり、こういうのに縛られるのは嫌ではありますが。

親の介護のこと、入院と受診

20170517kaigo.jpg ■兵庫県の自宅で暮らしていた老母は、介護ヘルパーさんに通ってもらっても1人暮らしが困難になり、自宅近くの介護老人保健施設に入りました。それが2年前の晩秋。そして昨年の秋からは滋賀県の老人ホームに移動しました。私の自宅の近くに来てもらったのです。老人ホームに入所した時は、もう全てに介助が必要になっていましたが、食事だけはなんとか1人でできていました。

■身体は弱ってきていますが、それなりに安定していたと思っていたところ、1ヶ月前の朝のことになりますが、突然、老人ホームから連絡が入りました。身体を動かせなくなったので、近くの病院に救急車で運びます…という連絡でした。診察の結果、脳内出血であることがわかりました。糖尿病で血管が弱っているところに高血圧が重なり、脳内出血したようです。幸い、命に影響を与える状態になってしまうまでに処置することができました。手術をする必要もありませんでした。

■ただし、脳内出血のために麻痺が残ってしまいました。食事も1人ではすることができなくなりました。ただ、麻痺等の問題は残っていますが、とりあえず老人ホームに帰ることができるようになりました。それが、一昨日のことです。退院時には、麻痺による言語の障害もだいぶ緩和されてきたように思いましたが、認知的な部分はどうだろうかと不安になりました。家に帰りたいらしく、「家の廊下には手すりもついているし、ヘルパーさんも来てくれるし、大丈夫」と言うわけですが、すべてに介助が必要で、とてもそのような状態ではありません。そもそも1人で歩ける状態ではありませんが、本人にあまりその自覚がありません。なんだかこちらまで悲しくなってきました。これで、脳内出血のこともとりあえず一安心と思っていたところ、昨日の午前中になりますが、老人ホームからまたまた連絡が入りました。今度は、消火器の様子がおかしいということで、同じ病院の消化器内科の外来で受診することになりました。直腸の潰瘍でしたが、幸いにもきちんと治療をしてもらい、夕方までに老人ホームに帰ることができました。

■いろいろ、続きますね。2009年に父が亡くなり、父がしていた母の世話を私が引き継ぐことになりました。何度も病院に入院しなければならなくなりました。眼底出血、薬の副作用による横紋筋融解、転倒による硬膜下血腫…。自宅で動けなくなっているところを、レスキュー隊に救出されたと母の自宅のお隣の家の方から連絡が入り、朝1限の授業のために9時過ぎに大学についていたけれど、慌てて休講にして電車とバスで駆けつける…というようなこともありました。兵庫県の介護老人福祉施設に入り、そして今は滋賀県の老人ホームで暮らすようになり、私は精神的に随分楽になりましたが、それでもこのような入院騒動が起きるわけです。全体に身体が弱ってきているように思います。

■昨夕は、「お腹が減った、早く夕食を食べさせて欲しい」とクレームを言うほど食欲がありました。ただし麻痺があるので、誤嚥をしないようにと、ご飯はお粥、肉や魚はすり身、その他もトロミがつけてあります。それを時間をかけて職員の方に食べさせてもらうのです。しかし、母が言うに、「お粥はもう飽きた」のだそうです。そうだろうな〜と思います。でも、仕方がありません。なぜおかゆなのかを説明しますが、どこまで理解できでいるでしょうね。入院をしたことで、おかしなことを言うようになりました。素人判断ですが、軽い認知症のような…。周りの人は、老人ホームに戻り落ち着いてくると、元に戻ってくると言ってくださいます。そうあって欲しいと思っています。

■今は、老人ホームの個室で思う存分テレビを聴いています。視力がほとんど無くなっているので聴くだけです。それでも、ニュースを聴いて「籠池?あの事件はまだやっているんか」と独り言を言っていました。入院前のニュースの記憶があるんですね。なんだか、認知的な部分については、しっかりしているところと、おかしなところと、まだら模様のような感じです。子どもの頃、私からすると「鬼母」のような人で、母との思い出はろくなものがありません。辛いことばかりだったような気がします。そのため、ずっと良い関係ではなかったわけですが、こうやってここまで老いてしまった母を目の前にすると、あの「鬼母」がね…と、複雑な気持ちになります。

【追記】■今日も老人ホームをのぞいてきました。体を動かすことができないので、ベッドからリクライニングのついた椅子への移動は二人掛かりになります。麻痺は残っているけれど口はまだ達者、施設長さんの話しでは予想しているよりも随分元気とのことなので、まあよしとしなければなりません。明日の午前中、私はすでに仕事の予定がはいっていますが、老人ホームの職員さんが付き添っていただき、病院で受診することになっています。こういう費用もかさんでくるので、介護認定を見直していただく必要があります。以前と比較して、身体がこのような状態になっているので、いろいろ専門家とも相談をしなければなりません。高齢者を支える様々な制度、きちんと勉強してきませんでした。これって、もはや現代社会に生きていく上で基礎知識のようなものだと思うのです。

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