「古屋六斎念仏踊りオンライン稽古」


■滋賀県高島市朽木の古屋の六斎念仏踊り、担い手の高齢化により途絶えてしまったのですが、外部の皆さんの力もあって復活することになりました。詳しくは、このブログに投稿した「朽木古屋『六斎念仏踊り』の復活」をお読みいただければと思います。ただ、その後、コロナ感染拡大の中でこの念仏踊りを受け継ぐ活動はどうなっているのかな…と少し心配していました。昨日は、関係者の皆さんがfacebookに投稿された記事で、こうやってオンラインでお稽古をされていたことを知りました。感動しました。コロナ禍においても、こうやって頑張ってくださっていたのですね。ありがとうございます。

野口・国境の炭焼

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■滋賀県高島市マキノ町野口の「国境炭焼きオヤジの会」を訪問しました。午後から炭焼による村づくり活動についてお聞きする予定でしたが、そのことに加えて、午前中は地元のマキノ西小学校4年生の校外学習の様子を見学させていただきました。国境は、高島市マキノ町野口の、3つある集落(小字)の中でも一番北にあります。ちょっと150mほど歩くと福井県に入ります。

■トップの写真は、「国境炭焼きオヤジの会」が作られた炭窯の小屋です。入り口の上には、「夢炭」と書いた看板が掲げてあります。「むーたん」と読みます。たしか、商標登録されているはずです。夢の炭…なかなかロマンチックなネーミングですね。この日は、小学生がやってくるということで、窯の中にライトが照らされていました。私たちも、窯の中に入れていただきました。2段目左の写真は窯の中から撮ったものです。3段目左は、粘土の塊です。炭窯に隙間から空気が入ると炭にならずに灰になってしまいます。そこで、その隙間をこの粘土で塞ぎます。適度な粘りが出るように色々加えてあります。粘土は硬くても柔らかくてもダメなようです。微妙ですね。
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■4段目左。左側の割った木材が、右側のような炭になります。重さは1/6に、サイズも少し縮見ます。5段目右、小学生のみなさんが、焼いた炭を適当な大きさにノコギリでカットしています。普通の材木とは切る際の感触が違うので、驚きの声が上がっていました。6段目は、この炭焼窯の近くにある願力寺で、昔の暮らし、特に囲炉裏のある暮らしについて、お話を伺っているところです。いろんな質問が出てきます。予想以上にいろんな知識があります。少し驚きました。
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■午後から、願力寺で「国境炭焼きオヤジの会」の活動について、指導している大学院生とともにお話を伺いました。今回は、高島市役所の職員さんも同行された。部屋の真ん中の囲炉裏には、炭が燃えていています。大変温かいです。囲炉裏には五徳が置かれています。五徳に置いた網で餅を焼いていただき、ご馳走になりました。今日も、3時間ほどお話を伺いながら、楽しい時間を過ごすことができました。

■2010年「水源の郷活性化事業補助金」の助成を受けて野口という区の事業として始まった炭焼。最初は、活性化の事業として、どのようなことに取り組むのかを議論されたようです。議論の結果、炭焼をやることになりました。炭焼は、この地域の生業の中心、現金収入の中心でした。この地域のアイデンティティと深く結びついているのです。こんな話も聞くことができました。福井県との県境に位置するこの地域は雪深く、冬の間は炭焼きができません。現金収入が途絶えきます。そこで、炭の問屋から借金をして、雪が溶けて春になってから炭を焼いて、現金ではなく炭で返したというのです。もちろん、そのような経験をされている方は、どうだろう、ご健在ならば100歳前後の方たちでしょうか。

■さて、「国境炭焼オヤジの会」の皆さん、炭を焼くだけでなく、炭を使った石鹸を商品開発して販売もされてきました。近くの道の駅だけでなく、ネットでも販売されたようです。もちろん、炭そのものの販売についても努力されてきました。そうやって盛り上げてきた炭焼きなのですが、活動を始めて10年経過すると、担い手の高齢化や担い手不足等により、炭焼きの活動自体が難しくなってきています。先行きは暗いわけです。しかし、どういうわけだか話は明るく盛り上がります。暗いけど明るい、ここは社会学的にはけっこう大切なポイントかなと思います。

■当初は区の事業として始まった事業ですが、今は野口の有志の個人による活動になっています。加えて、近くの愛知県から在原に移住されてきた方も参加されています。この方はなかなかのアイデアマンのようで、活躍されています。炭窯の煙突にセンサーを設置して、釜の温度を測定したり、窯に原料の薪を運ぶのにも、ローラーコンベアを使ったり、高齢化の中にもいろいろ工夫を提案されているのです。野口の皆さんから期待されています。今日も、リーダーのKさんに、柱を立てて窯全体をブルーシートで覆えるようにすれば、天候に左右されずに炭が焼けると話されていました。しかし、80歳目前のKさんは、「そこまでして、炭を焼きたくないわ」と笑いながら話されていました。このあたり微妙なのですが、大変興味深い点でもあります。

■当初より、野口以外の人たちにもオープンにした活動をされてきました。ただし、炭焼きの作業は、天候や様々な条件に左右されます。作業の段取りが変わるのです。遠く離れたところに住んでいる方、たとえば大津に暮らしておられる方に、急にボランティアで作業をお願いすることもなかなか難しいわけです。結局は、自分たちで作業をすることになります。オープンに活動をする上で、インターネット等での情報発信が大切になるのですが、現在はそこまで手が届いていません。

■高島市には野口の他にも炭焼で活性化に取り組む集落があります。「連携して高島市全体でブランディングしては」という発想も出てくるわけですが、集落によって炭の質が異なるため、それもなかなか難しいとのことでした。炭は工場で生産する工業製品とは異なるのです。もっとも、難しいと言ってばかりでは仕方がありません。なんとか、炭焼を事業化、企業化していきたいとも考えておられます。もう区の事業ではないので、地域外から本気で取り組む若い担い手が来てくれるのならば、技術やノウハウを伝えるという発言がありました。そういう若い担い手が参加してくれるのならば、一緒に頑張るし応援もするという発言もありました。もしそうならば、面白い展開になるのかもしれません。また、「半農半X」ならぬ「半炭焼半X」(炭焼や炭焼に関連する付加価値をつける仕事と、他の仕事(”X”)を組み合わせた働き方)が成立するのならば、実現する可能性もあるのかなと思います。あと、炭焼するには太くなり過ぎた山の広葉樹の利活用をどうするのか。これも大きな課題です。現在、炭にする薪をどうやって調達しているかといえば、別荘地で大きくなりすぎて伐採された樹、炭焼のサイズに割って使っています。山の広葉樹は太くなりすぎて、使えないのです。

■おそらく、こういう現実があることを認識するのならば、地域の支援策もこれまでとは違ったものになってくるのではないかと思います。また、役所の中で部署ごとに縦割りになった支援策をうまく組み合わせていくことも必要だろうと思います。

雲洞谷(うとだに)の炭焼き

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20211117utodani1.jpg■高島市朽木の雲洞谷を訪問しました。「うとだに」と読みます。こちらの「まるくもくらぶ」の活動に関して、指導している大学院生とお話を聞かせていただきました。今回は、高島市の中山間地域の活性化について一緒に仕事をしている市役所の職員さんも同行されました。楽しかったです。お話しいただいたのは、「まるくもくらぶ」のリーダーのIさんと、ここに移住してきてIさんと一緒に活動しているFさんです。Fさん一家は、京都からここに転居されました。お2人に、いろいろ細かな質問に丁寧にお答えいただきました。ありがとうございました。

■写真は復活した炭焼窯です。炭焼は、かつての生業の柱でした。山での暮らしを象徴する生業なのです。その炭焼きを経験されている方を先生役に、「まるくもくらぶ」では炭焼窯を復活させました。活動されているのは70歳前後の人たちです。年齢は前後しますが、全員幼馴染であり、青年団も消防団も一緒に活動してきた仲間です。彼らは炭焼きの手伝いはしても、自分たちの手で炭窯を作ったり炭を焼いたことはありません。そして、親の世代とは異なり、この山村の中だけで暮らしてきたわけではなく、外の職場に通勤しながらここに住み続けてこられました。車と湖西線を使えば、住み続けることができたのです。ただし、同い年の同級生で雲洞谷に残っているのは、Iさんお1人だけです。

■Iさんが生まれたのは1949年。いわゆる団塊の世代です。Iさんが中学生の頃に、「燃料革命」の影響がこの山村にも届くことになりました。そして雲洞谷の炭焼も1960年代の後半には途絶えることになりました。Iさんの記憶では、炭焼きに必要な広葉樹を伐採した後に、杉の苗をどんどん植えていきました。その頃、政策の後押しもあり広葉樹がどんどん針葉樹に替わっていきました。「拡大造林」です。

■先程、炭焼き経験者を先生役に…と書きました。集落を代表する生業としての炭焼きは途絶えていましたが、その経験者の方だけは、身体が動く間、小さな窯で炭焼きを続けてこられていました。2019年、その方から炭焼きを教えてもらう「勉強会」を開催しました。記録を残して、自分たちでも炭焼きが継続できるようにしたのです。この「勉強会」には、多くの外部の人たちも参加されました。「勉強会」がオープンな形であることが興味深いですね。この村に住み続けるのには、外部の人たちの関わりが重要だとの考えを、活動の当初からお持ちだったのです。雲洞谷のことに関心を持ち、気になる人たち、今流行りの言葉で言えば、関係人口を増やそう、そのような考えのもとで取り組まれているのです。

■「まるくもくらぶ」のロゴは、丸の中に「雲」という漢字を書いて、その後にひらがなで「くらぶ」がついてきます。なんでも、消防団の法被の背中は、この「まる雲」が描かれているそうです。ポイントは、「まる」が完全に閉じておらず、少し切れていて、外部に対して開かれているところにあります。つまり、集落で閉じた活動ではなくて、「外部に開かれた活動ですよ、外部の方達にも参加してもらいたいのですよ」という気持ちが表現されているのです。まあ、このブログには全てを書ききれないわけですが、貴重なお話を聞かせていただくことができました。炭焼き以外にも、栃餅、鯖のへしこ、鯖のなれ寿司の話もおもしろかったですね〜。鯖のなれ寿司は食べたことがありません。食べてみたいな〜。この山深い山村の人たちにとって、琵琶湖の淡水魚よりもひと山越えた若狭の海の魚の方が手に入りやすいし重要だったのでしょう。

■本格的に寒くなる前に、再度、雲洞谷を訪問する予定です。その時は、栃餅の原料である栃の実を実らせる巨木にも逢いに行ってみたいと思います。

炭焼きのこと

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■指導している大学院生とともに、高島市朽木で炭焼きと村づくりに関して、少しずつお話しをお聞きしています。昨日の午前中は朽木の椋川(おっきん椋川交流館)で、是永宙さんからお話を伺いました。ありがとうございました。

■高島市の中山間地域は、高度経済成長期の前半までは、どこの地域でも炭焼きをされていました。いわゆる燃料革命の前までになります。高島市内では、現在確認されているだけで、4つの集落で炭焼きされているか、これから復活させようとされています。いずれの地域も、過疎と高齢化が進行している地域です。かつて炭焼きを生業としてされていたのは、現在の年齢で言えば、80歳代も半ば以上の方達になります。70歳代の方であれば、手伝いはしたけれど、自分が家の中で中心になって炭焼きをしていたわけではありません。ですので、何歳位の方が、いつ頃から炭焼きを復活させようとしたのかにより、微妙に取り組み方や、何のために炭焼きを復活させたのかという理由については違いがあります。

■炭焼きに焦点を当てて聞き取りをしていますが、その背景となる村の暮らしや社会経済の背景、また外部からやっくるIターンの人びとの存在、村づくりの活動、さらには最近の流行りの言葉でいえば、関係人口の拡大といったコンテクストの中で炭焼きの活動を位置付けなければなりません。いつか、もう少し詳しくこのブログでも報告できるかもしれません。

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