朽木古屋「六斎念仏踊り」の復活
■2009年の4月、1人の学生が私のゼミの配属になりました。脇田ゼミ6期生の坂本昂弘くんです。その坂本くんが4年生になり卒業論文の調査に取り組むことになりました。ひょっとすると、3年生の終わりかもしれません。坂本くんが提案してきた調査は、滋賀県高島市の朽木にある山村の研究でした。話しを聞いてみると、京都府の美山や福井県の名田庄に近い場所にあります。最初は、「そのような遠い場所に調査に通えるのかな…」と指導教員として若干の不安がありましたが、よく聞いてみると、お祖父様がその山村にお住まいで、お父様もその山村のお生まれ、つまり自分自身のルーツがその山村だというのです。朽木にある古屋という集落です。
■坂本くんの問題関心は、過疎化が進み、限界集落化が進む古屋で、その山村に転居してくるIターン者の方たちが果たす社会的な役割に注目するものでした。彼は、お祖父様のいらっしゃる山村に大きなバイクで通いながら調査を進めました。調査を行うたびに、研究室に来て報告してくれました。その内容は、とても興味深いものでした。良いセンスの持ち主で、とても指導のしがいがありました。私自身は、古屋に行った経験は全く無かったのですが、彼の報告を丹念に聞きながら、時々質問をしていく、そのようなやり取りというか指導の中で、坂本くんはメキメキ力をつけていきました。坂本くんの卒業論文は、「限界集落にみるIターン者の役割-滋賀県高島市朽木針畑を事例に-」として提出され、優秀論文に選ばれました。卒業後、坂本くんは滋賀県内の企業に就職しました。卒業後は、facebookを通して再びつながりが生まれ、元気に働いている様子が伝わってきました。そのうちに、大津駅前のいつもの居酒屋「利やん」で飲もうということになっていました。
■話しは変わります。母校・関西学院大学の先輩である辻村耕司さんは、滋賀県を中心に活躍されている写真家です。県内の民俗芸能等の撮影でも、たくさんのお仕事をされています。辻村さんと出会ったのは、私が滋賀県立琵琶湖博物館に勤務されている時ですから、もう20年近くも前のことになります。辻村さんともfacebookで日常的に交流していますが、一昨年の秋のこと、朽木の古屋の「六斎念仏踊り」の映像に記録する仕事に関してfacebookでメッセージをくださいました。そして、映像記録の一部を拝見させていただくことができました。その時に、ピンときました。「六斎念仏踊り」については、坂本昂弘くんが彼の卒業論文で言及していたからです。そして、坂本くんに、「君が継承者になりなさいよ!」と言っていたからです。さっそく辻村さんに許可を頂き、その「六斎念仏踊り」の映像記録の一部を坂本くんにも見てもらいました。坂本くんからは、「色々考えさせられました。少し泣きそうになりました」との返事をもらいました。「六斎念仏踊り」の継承者の孫として、坂本くんも、いろいろ悩み考えていたのです。しかし、今の仕事でめいっぱい、なかなか「六斎念仏踊り」に取り組む余裕がないこともよく理解できました。
■再度、話しは変わります。今年の話しになります。先月のことです。ある仕事で、辻村さんとお会いしました。その際、2013年から行われなくなっていた古屋の「六斎念仏踊り」が、8月14日に復活することになったと教えていただきました。「六斎念仏踊り」の継承者である古老の皆さんと、村の外の若者とが連携することにより復活することになったというのです。主催は、「高島市文化遺産活用実行委員会」と「朽木の知恵と技発見・復活プロジェクト」です。辻村さんからは、当日、坂本くんもやってくるとお聞きしました。もちろん、見学させていただくことにしました。
■朽木の古屋に行くには、ふた通りのルートがあります。ひとつは、高島市朽木の中心地である市場から行くルート。もうひとつは、国道367号線(鯖街道)から古屋に向かうルート。大津市内に住む私は、後者のルートで古屋に向かうことにしました。道は舗装されているものの、道幅はかなり狭く、対向車が来たらどうすればよいのかと、ドキドキするようなところもありました。狭い山道を通りつつ、幾つかの集落を抜けて大津市内からは1時間20分程で古屋に到着することができました。おそらくは、いつもは静かな山村に、たくさんの方たちが集まってこられていました。
■「六斎念仏踊り」は、20時から始まりました。その様子については、上の動画をご覧ください。また、「六斎念仏踊り」の民俗学的なことについては、以下の「(財)滋賀県文化財保護協会」の「滋賀文化財教室シリーズ[223]」をご覧いただければと思います。私も、歴史的・民俗学的なことについては、これから、いろいろ勉強してみようと思っています。ここでは、ごくごく簡単に説明しておきます。「滋賀文化財教室シリーズ[223]」にも説明してありますが、もともとは、現在のようにお寺で行われるものではなく、太鼓を持った踊り手3人と、笛2人、鐘2人の合計7人で行われます。この一団で、古屋にある約20軒の家を順番に回って「六斎念仏」を踊ったのです。夜の22時頃から翌日の夜明けまで、それぞれの家の祖霊を供養するために行われていました。14日に「六斎念仏踊り」がおこなわれた玉泉寺は、曹洞宗のお寺です。伝承によれば、以前は天台宗の寺だったといいます。集落の中にある寺の宗派が変わることは、それほど珍しいことではありませんが、祖先祭祀やお盆と結びついた「六斎念仏踊り」の方が古くからの歴史を持っていると考えられているようです。もう一つ、これは自分への備忘録のつもりで書いておきますが、「滋賀文化財教室シリーズ[223]」には、次のような記述があります。
昭和49年発行の『朽木村志』の記述から、編さん当時の六斎念仏の姿を見てみましょう。
生杉と古屋の2地区で毎年8月14日に行われていた六斎念仏も、徐々に忘れられつつありましたが、昭和46年に、この2地区を含む地域一帯が県立自然公園の特別指定地域に編入されたことから、地元有志の人々によって六斎念仏の保存活動が行われるようになったといいます。
■まだ実際に『朽木村志』を読んでいませんが、すでに昭和40年代から徐々に忘れられつつあったということに注目したいと思います。古屋のある朽木は、林業が盛んな地域でした。昭和40年代というと、全国的に日本の林業が不況に陥った時代です。山での仕事がなくなり、朽木の古屋でも、多くの人びが山を降りました。その頃と、「六斎念仏踊り」の保存活動が行われるようになった時期とが重なっていることです。このあたりの事情は、また関係者の皆さんに詳しくお聞きしてみたいと思います。
■「六斎念仏踊り」の復活が無事に終わった後、私は坂本くんのお祖父様のお宅にお招きいただきました。遠くまで来てもらったからと、ご丁寧におもてなしをいただきました。もう夜が遅かったこともあり、短い時間でしたが、お祖父様、お父様、叔父様とお話しをすることができました。非常に興味深いお話しをお聞かせいただくことができました。坂本くんのお祖父様は、林業の仕事がなくなった後も、山を降りて滋賀県内で新しい仕事を見つけて、生きてこられました。再就職した後も、実に度々、古屋に戻っておられました。といいますか、古屋の家と仕事のための家との間を往復されていたと言っても良いのかもしれません。街場と山を往復しながら、家を守り、村を守ってこられたのです。遠く離れた大都会ではなく、古屋から車で1時間半ほどの場所に暮らすことができたことは、坂本くんのお祖父様、そして同じように生きてこられたお仲間の人生に取って、非常に大きな意味を持っていたのではないかと思います。
■今回は、坂本昂弘くんや坂本家の皆様、辻村さん、そして「高島市文化遺産活用実行委員会」と「朽木の知恵と技発見・復活プロジェクト」の関係者の皆様に大変お世話になりました。非常に貴重な見学をさせていただくことができました。心より感謝いたします。なお、当日の玉泉寺での撮影が、シャッター音を消してほしいという指示がありましたが、私はスマホのカメラしかなく、音を消すことができませんでした。トップの写真は、坂本昂弘くんが撮影したものを使わせてもらっています。
【追記】■「朽木の知恵と技発見・復活プロジェクト」の皆さんに、プロジェクトのfacebookで、このエントリーのことをご紹介いただきました。ありがとうございました。
最澄がプロデュースした世界
■土曜日の晩に、突然、発熱してしまいました。普段、比較的健康に暮らしているし、熱が出ることもないので、37℃を超えると辛くなり、38度を超えると相当に辛くなります。もう、ふらふらになります。38℃越えの熱はまったく下がらず、翌日はずっと布団の中で過ごさねばなりませんでした。「これはもうあかん…」と、家族に頼んで市販の解熱剤を薬局で買ってきて飲んだところ、少しずつ熱は下がってきました。しかし、「こんなに急に熱が出るって、ひょっとしてインフルエンザ」との思いが消えず、職場の皆さんにも迷惑をかけると困るし…との思いもあり、医師の診断を受けることにしました(大学も含めて学校という場所では、あっという間に病気は広がってしまいます)。幸いにも、インフルエンザではないという診断をいただきました。喉が腫れているので、喉かららウイルスが侵入し発熱をしたのではないか…とのことでした。熱は下がってきましたが、今度は喉が痛みが相当にひどくなってきました。鼻水も止まらなくなりました。せっかくの連休なのですが…。初日の土曜日は、良いスタートを切ったのですが…。
■さて、土曜日は、私にとって連休の初日でした。「天気が良いので、どこかに出かけたい」という家族の強いリクエストがあり、いろいろ考えた末に、比良山系にある「びわ湖バレイ」に出かけてみることにしました。ちょうど天気も良く、五月晴れで空も澄み渡っていたので、「びわ湖バレイ」に登ると大きな琵琶湖が良く見えるに違いないない思ったのです。奈良から大津に転居したこともあり、以前とは違い、「びわ湖バレイ」も随分近くになりました。
■ところで、私は長年にわたって琵琶湖や琵琶湖流域に関して研究をしてきましたが、これまでこの「びわ湖バレイ」に登ったことがありませんでした。これは、なかなか信じてもらえないのですが…。「関西人であれば、普通、家族の行楽でびわ湖バレイに行くもんちゃうの」というご意見もあろうかと思いますが、本当に行ったことがなかったのです。というわけで、今回、人生初の「びわ湖バレイ」。家族のリクエストという側面もありますが、私自身も素敵な経験ができました。
■「びわ湖バレイ」は、スキー場として開発されました。琵琶湖の西側、湖西地域にある比良山系にはたくさんの山々が連なっています。その中の、打見山から蓬莱山にかけての幅広い稜線上に、スキー場のゲレンデが広がっています。そこが「びわ湖バレイ」です。もちろん、スキーは冬だけです。それ以外のシーズンには、高原公園として多くのひとびとが行楽に訪れます。もともとは、産業経済新聞社が1965年に開設したスキー場です。50歳以上の年代の皆さんは、この「サンケイバレイ」という言葉に馴染みがあるのではないでしょうか。
■それとはともかく、トッブの写真をご覧ください。これは蓬莱山から撮った風景です。空のように見えるのは琵琶湖です。琵琶湖の向こう側には、湖東の地域が広がっています。近江八幡市にある沖島も確認できますね。彦根市の荒神山もわかります。スケール感を出すため…ではないのですが、赤い服を着ているのは私です。家族が撮ってくれました。しかし、これでも実際に見た時に感じるスケール感とはかなりの落差があります。下は、iPhone6 plusのパノラマ機能で撮ったものです。この蓬莱さんの山頂に立つと、右側は大津の街が見えます。「プリンスホテル」やオペラハウスである「びわ湖ホール」が確認できます。また左側を見ると、湖北の奥琵琶湖も薄ぼんやりではありますが見えてきます。土曜日は、竹生島もわかりました。きっと、空気が澄み渡った冬期であれば、大津の街から、伊吹山や湖北の山々まではっきりと見えるのでしょうね。
■下の4枚の写真は、そのパノラマの風景を、4回に分けて撮ったものです。上段左は、打見山から湖北方面を撮ったものです。上段右は、湖東方面。下段左は、野洲や守山、そして堅田方面。下段右は、比叡山や京都方面になります(京都の街は見えませんが…)。「びわ湖バレイ」の一番南端、蓬莱山が南に緩やかに斜面になっていく直前のところに、このようにお地蔵様が並んでいました。
■ところで、この様な風景を見ながら、家族が質問をしてきました。「琵琶湖は、なぜ琵琶湖という名前なのか」という質問です。楽器の琵琶に似ているから琵琶湖…というのは、よく知られています。南湖が左で弦を押さえる部分、一般に弦楽器では指板ないしはフレットと呼ばれる部分です。それに対して大きな北湖は、琵琶の本体、胴の部分にあたるのわけです。ちなみに、この様な名前の由来については、歴史学者の木村至宏先生のご著書『琵琶湖-その呼称の由来』が有名です。ごく簡単な説明であれば、同じく木村先生が『琵琶湖ハンドブック』の中でも「『琵琶湖』の名前」というタイトルで解説されています。以下は、引用です。
琵琶湖の名前は、湖の歴史に比べて新しく、16世紀初頭が最初で、広く知られるようになったのは今から320年前である。それまでは近淡海、淡 海、水海、湖などと呼ばれていた。名前は湖上に浮かぶ竹生島にまつられている弁才天に典拠。弁才天がもつ楽器の琵琶が湖の形状に似ていることに由来する。それと琵琶が奏でる音色と湖水のさざ波と相似していたことも密接な関係がある。
弁才天の持つ琵琶が、どうして湖の形状に似ているといわれるようになったのであろうか 。前出の『渓嵐拾葉集』の編述者は 、比叡山延暦寺の学僧光宗であるが、おそらく眼下に広がる湖を日々眺望して、楽器琵琶から湖の形状を観想をしたに違いない。上空から見ることのできない時代に、驚くべき洞察力といえるだろう。また『同書』には弁才天は湖とともに比叡山を守る神として位置付けられている。
■琵琶湖の名前の由来が、直接的に琵琶湖の形に似ていることからきているにしても、その背景には、天台宗・比叡山延暦寺、竹生島の弁財天などの宗教の存在があることがわかります。実際、2015年には、琵琶湖は、「琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産」として文化庁の「日本遺産」に選定されています。以下が、その選定理由になったストーリーの概要です。
「穢れを除き、病を癒すものとして祀られてきた水。仏教の普及とともに東方にあっては、瑠璃色に輝く「水の浄土」の教主・薬師如来が広く信仰されてきた。琵琶湖では、「水の浄土」を臨んで多くの寺社が建立され、今日も多くの人々を惹きつけている。また、くらしには、 山から水を引いた古式水道や湧き水を使いながら汚さないルールが伝わっている。湖辺の集落や湖中の島では、米と魚を活用した鮒ずしなどの独自の食文化やエリなどの漁法が育まれた。多くの生き物を育む水郷や水辺の景観は、芸術や庭園に取り上げられてきたが、近年では、水と人の営みが 調和した文化的景観として、多くの現代人をひきつけている。ここには、日本人の高度な「水の文化」の歴史が集積されている。」
■この琵琶湖、水、そして天台宗・薬師如来の関係については、長年にわたり滋賀県の文化財保護に関して活躍されてきた大沼芳幸さんが、興味深い文章を書いておられます。これは、産経新聞に掲載された「びわこの考湖学 第2部」の第25回「多数の薬師如来古仏 清らかな水の世界の盟主」です。私が興味深く思った部分を引用します。
平安時代後期の歌謡集「梁塵秘抄」には、琵琶湖を次のように表現しています。「近江湖は海ならず、天台薬師の池ぞかし」すなわち、平安時代の人々は、琵琶湖を天台宗の根本如来である、薬師如来の浄土と意識していたことがわかります。
民が栄え、国が栄えるために最も必要なことは何でしょうか?それは、豊かな実りであり、その実りをもたらすものは「水」です。そして水は、すべての命を育む神聖なものです。最澄にとって、水を祈りの対象とすることが、彼の理想を成就させるために、不可欠な要件だったのではなかったのでしょうか。
薬師如来の本当の名前は「薬師瑠璃光如来」。瑠璃の光とは「水の光」です。すなわち薬師如来は清らかな水の世界の盟主なのです。なおかつ、薬師如来が住まう浄土は「東方浄土」とされています。比叡山の東に広がるのは「琵琶湖」です。最澄にとつて、水に祈り、水の力を得るための聖地として、東方に生命あふれる琵琶湖が広がる、比叡山の地を選んだことは、いわば必然だったのかもしれません。ただ、最澄が初めて琵琶湖を「浄土」として位置付けたわけではないと思います。それ以前から近江には、琵琶湖を神の住まうところとして神聖視するアニミズム的な心象が根付いており、これを最澄が仏教の世界に再編したのでしょう。そして、琵琶湖に注ぐ水の源である山々に、次々と山寺が建立され、ここに、「水のカミ」である薬師如来が安置されたのです。このことが、近江に特異的に多く残る薬師如来古物の秘密なのです。この水のコスモスともいうべき世界をプロデュースした最澄の名に「澄」の字が含まれていることにも、深い意味があるのではないでしょうか。
■大沼さんの考えは、近江盆地と琵琶湖が生み出す水に対する土着の信仰を、仏教が取り込み(習合し)、最澄が一つの宗教的世界としてプロデュースした…というものです。近江盆地の山々から琵琶湖へと注ぐ水。水のネットワークを通して生み出される世界。これは、現在、「将来の琵琶湖のあるべき姿」として環境政策的に目指されていることの根底の考え方と重なり合っているようにも思います。非常に興味深く思いました。残念ながら、私自身は、文化史や宗教史に関する教養が乏しく、大沼さんのお考えを導きに、最低限のことをもう少し勉強しないと…と思いながら、ふとこんなことを妄想しました。もし、最澄が現在に蘇り、戦後の琵琶湖や琵琶湖の周囲で行われてきた様々な開発事業を目にした時、どのように考えるだろうな…、そのような妄想です。民が栄え、国が栄えるために行われたはずの様々な開発事業が、結果として何をもたらしたのか、おそらく最澄は鋭く批判することでしょうね。
■話しを戻しましょう。「びわ湖バレイ」では、雄大な琵琶湖の風景を楽しむだけではなく、満開の水仙の花も楽しみました。「びわ湖バレイ」の蓬莱山の左斜面には、30万株もの水仙が植えられている「水仙の丘」があります。関西で水仙というと淡路島が有名ですが、この「びわ湖バレイ」の「水仙の丘」も本当に素晴らしいものでした。遠くから見ると、斜面に、黄色いに点々が散らばってるいようにしか見えないのですが、そばに行って「水仙の丘」を登ると、この写真のような素晴らしい風景を楽しむことができます。もちろん、人工的に植栽されたものだと思いますが、とても感動しました。水仙は、ヨーロッパの地中海沿岸が現在地との事ですが、日本には中国を経由して伝わってきたそうです。その名前も、いろいろ調べてみると、中国では、その名の通り「水の仙人」、言い換えれば「水の神の化身」や「水の精の成り代わり」に例えられていたようです。なるほど、「梁塵秘抄」で「近江湖は海ならず、天台薬師の池ぞかし」と歌われた琵琶湖にふさわしい花なのかしれません。
■体調はあまりよくないのですが、それでもこの長文をエントリーするまでには、体力は回復してきました。ひょっとすると、スケールの大きい琵琶湖の風景に圧倒されて?!、発熱したのかも…しれませんね。
記録映画「鳥の道を越えて」
▪︎朝日新聞には「ひと」という欄があります。15日は、「ふるさとの鳥猟文化を記録する映画を撮った」今井友樹さんが紹介されていました。今井さんの故郷は、岐阜県の東白川村です。東白川村のある東濃地域(岐阜県の東の地域)では、鳥の群れをおとりで呼び寄せる「カスミ網猟」が古くから伝わっています。もちろん、現在では違法です。今井さんは、消えてしまった「カスミ網猟」に関する記録映画「鳥の道を超えて」を撮りました。その作品が、昨年のキネマ旬報ベストテンの文化映画作品賞に選ばれたようです。
▪︎私も、年に数回、岐阜県の東濃地方に行きます。私のばあいは、中津川市です。この土地の人たちからは、しばしば鳥猟の事を聞いてきました。そういうこともあって、今日の「ひと」の記事を読んでちょっと興奮しました。記事のなかに、「風土に根付いた庶民の生活文化を記録することが、日本の未来につながると確信した」とありました。その通りだとおもいます。この記録映画「鳥の道を超えて」、どこかで観ることができればいいなと思います。
【追記】関連情報です。
北陸地方における鳥猟文化の変遷に関する研究
農、漁、猟- 生活者にとっての本業とは何か? 水田漁撈とカモ猟からみる生業と自然の関係
亥の子(いのこ)
■昨晩、facebookの投稿で、野洲市(旧・中主町)で「亥の子」という行事が伝承されていることを知りました。投稿された方がお住まいの地域にある4〜5集落で、伝承されているのです。
■そもそも「亥の子」は、古代日本に中国から伝わったものです。私自身は、そのことを、岩手大学で開催された劉暁峰先生(清華大学人文社会科学研究院歴史系)の講演で初めて知りました。劉先生は、次のように説明されました。「秦王朝から漢の初期まで使われた旧暦の十月を正月とする暦法が存在し、日本でも中国から伝わった『亥の子(いのこ)』の行事が行なわれているようだが、その行事はこの暦法と関係している」。この「亥の子」について、『日本民俗学辞典』では次のように説明しています。「旧暦十月のおもに初亥の日に行われる年中行事の一つ。西日本の農村によくみられるもので、収穫儀礼と結びついた伝承が多い。(中略)イノコヅキ(亥の子搗き)とも称して、瀬戸内海沿岸部などでは、ゴウリン(郷臨)石などという石につけた数本の縄を子供たち全員で持ち、地搗きをしながら廻る。…」。
■私は、子どものときに、この「亥の子」を経験しています。小学校6年生(1970年)のとき、私は広島市の東部にある農村地域(混住化していましたが)に暮らしていました。そのときに「亥の子」を経験したのです。写真の少年は、私です。私は神主・禰宜のような格好をしています。地域にあるお宅を1軒1軒まわり、まず家の入り口でお祓いをします。そのあと、後についてきた子どもたちと、「亥の子石」についた縄をもって、地面を搗きます。そのとき、「い~のこ、いのこ、い~のこ餅ついて~、繁盛せ~、繁盛せ~」と歌うのです。このあたりは、地域によっていろんなはパターンがあるようです。
■私が体験した広島の「亥の子」のばあいは「亥の子石」でしたが、地域によっては「藁鉄砲」(藁束を硬く縛ったもの)で子どもたちが地面をたたくこともあようです。冒頭の野洲市のばあいも、「藁鉄砲」とのことです。
おうみ映像ラボ 遠足 ~映画『ワキノタン』の撮影地・高島市朽木針畑を訪ねて~
■知り合いの女性が、今春友人4名で「おうみ映像ラボ」というチームを立ち上げられました。滋賀県下のドキュメンタリー映画や記録映像を発掘するチームなんだそうです。素敵ですね〜。そのチームて、今週末に、朽木・針畑への遠足(上映会+撮影地の体験)にいく日帰りミニツアーの企画をたてられました。ということで、私は申し込みをさせていただきました。
■日曜日、JR湖西線・堅田駅から滋賀県高島市朽木針畑へバスで向かい、そこでドキュメンタリー映画「ワキノタン」を鑑賞します。作品は、「朽木針畑で40年間にわたり集落に暮らす人々の生活の中にある『暮らしの知恵・思い・カタチ』を記録映像として撮影してきた針畑生活資料研究会(主宰:丸谷彰氏)」によるものです。大変楽しみです。ドキュメンタリーを鑑賞したあとは、「朽木を散策し、針畑の山菜採集など食文化の体験を、生活文化に触れ」る予定です。
説明
映像を媒介にして、地域に引き継がれた技術や知恵、地域性・共同体の姿などの「暮らしの周縁」にあるものの価値を再認識する「共感の場」を創出することを目的としています。映像上映会や映像づくりなどを通じてネットワークを形成し、地域の人・技・文化・景観をアーカイブ化していきます。
この活動により、視覚・聴覚、また関わりの深い人のお話を通じて滋賀の恵みを再認識し、次世代に繋いでいこうと考えています。
ご関心のある方、映像記録の情報をお持ちの方、ご連絡いただければ幸いです。
「おうみ映像ラボ」どうぞ宜しくお願い致します。・2014年度 滋賀県「美の滋賀」地域づくりモデル事業 受託
所有者情報
メンバー:大原歩(大学非常勤講師・成安造形大学附属近江学研究所研究員)、大藤寛子(にぎやかし1)、藤野ひろ美(にぎやかし2)長岡野亜(映像作家)【五十音順】
【追記】■残念ながら、このイベント、台風のために延期になりました。
目には見えないものを感じとる力
■昨年、石川県の能登半島にいきました。そこで、アエノコトという儀礼に強く関心を持ちました。このアエノコト、文化庁のサイト(国指定文化財等データベース)では、以下のように解説されています。
奥能登のあえのことは、稲の生育と豊作を約束してくれる田の神を祀る農耕儀礼の典型的な事例として奥能登に顕著な分布を示しているもので、毎年12月と2月に行われる。
各農家における行事次第や内容には細部には相違が認められるものの、ゴテと呼ばれる世帯主自らの采配によって執り行われる。収穫後(12月5日が多い)に、田の神を田から家に迎え入れて、風呂に入れたり食事を供したりして丁重に饗応して収穫を感謝し、翌年の春の耕作前(2月9日が多い)にも再び風呂に入れたり、食事を供したりして饗応して、田の神を家から田に送り出して豊作を祈願する。
目には見えない田の神があたかも眼前にいますがごとく執り行う所作や直会には豊饒に対する感謝と願いが素朴なままに発露されている。
古くから稲作に従事してきた我が国民の基盤的生活の特色を典型的に示す農耕儀礼の事例として極めて重要なものである。
(※解説は指定当時のものをもとにしています)
■上記の引用で、私が注目したいのは、太字で強調した部分です。文化庁の解説では「目には見えない田の神があたかも眼前にいますがごとく」と書かれています。しかし、「いますがごとく」ではなく、本来は、実際に田の神がいらっしゃることをリアルに感じとろうとしてこられたのではないかと想像します。田の神は、何も語りませんが、聞こえない田の神の声を聞き取ろうとする心持ちが必要なのだと思うのです。以下のページをご覧いただければよいのですが、儀礼の最中は、田の神への様々な配慮が必要になります。目には見えない存在を感じとろうと感覚を研ぎすましていくことが、神とのコミュニケーションには必要なのです。
「アエノコト」「西野神社社務日誌」
■12月17日の深夜0時から、奈良の春日大社の摂社である若宮神社の「おん祭」が始まります。この「おん祭」の最初の儀礼である「遷幸の儀」に関して、春日大社の公式サイトでは、次のように解説しています。
若宮神を本殿よりお旅所の行宮(あんぐう)へと深夜お遷しする行事であり、古来より神秘とされている。現在も参道は皆灯火を滅して謹慎し、参列する者も写真はもちろん、懐中電灯を点すことすら許されない。これらはすべて浄闇の中で執り行われることとなっている。神霊をお遷しするには、当祭においては大変古式の作法が伝えられ、榊の枝を以て神霊を十重二十重にお囲みして、お遷しするという他に例を見ないものである。全員が口々に間断なく「ヲー、ヲー」という警蹕(みさき)の声を発する。又、楽人たちが道楽(みちがく)の慶雲楽(きょううんらく)を奏で、お供をする。
■動画では、1分15秒あたりからご覧いただけますでしょうか。上の解説にあるように、この「遷幸の儀」、「浄闇の中で執り行われ」ています。春日大社の神主の皆さんの「おーおー」という警蹕(けいしつ)の声しか聞こえてきません。古式の作法といいますが、暗闇であるがゆえに感覚が研ぎすまされ、神の存在を感じとることになります。
■私は、ずいぶん長いあいだ奈良に暮らしていますが、この若宮の「おん祭」の「遷幸の儀」という儀礼を一度も拝見したことがありません。あっ…拝見とかきましたが、これは正しくありませんね。神の存在を感じとる、感覚を研ぎすませる…ですから。今年は、ぜひ参列させていただこうと思います。