「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」


◼︎現生人類は日本列島に約3万8千年前、朝鮮半島から到達したといわれています。しかし、ルートはそれだけではありません。大陸と陸続きだった台湾から沖縄へと北上するルートからも、その後に生まれたといわれています。国立科学博物館の「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」は、それを実証するための実験です。上の動画は、そのプロジェクトを紹介するものです。いよいよ、壮大な実験が始まります。以下は、動画の解説です。

最初の日本列島人は、3万年以上前に、海を越えてやって来たことがわかってきました。中でも注目すべきは、到達困難な沖縄の島々。彼らはいかにして大航海を成功させたのか? このプロジェクトはその謎を解くために、2016年に始動しました。

私たちが最終的に再現したいのは、沖縄ルートの最初の関門である、台湾→与那国島の航路。2019年に予定するこの本番の実験航海は、世界最大の海流黒潮を越え、遠く水平線の下に隠れる島へ向けて、3日間に及ぶタフな航海になるでしょう。これをやり遂げたとき、未知の世界に挑戦し切り開いていった、祖先たちの知られざる姿が浮かび上がってくるはずです。

◼︎台湾から与那国島を目指すわけですが、これまでの実験、草や竹の船では黒潮の強い流れに流されてしまい、与那国島に近づくことができませんでした。今回は、風や波の穏やかな日を選んで出発するようですが、200kmを2日かけて航行するとのことです。詳しくは、直接、公式サイトのプロジェクトの解説のページをお読みいただければと思います。でも、人類はなぜ未知の世界を目指すのでしょうね。この辺りは、人類の本質に触れることかなと思います。

◼︎私は、社会学を学んできましたが、どういうわけか人類進化や、約10万年前にアフリカでホモ・サピエンスが誕生し、 そこからユーラシア大陸、北アメリカ、南アメリカなど世界中へと広がっていた、いわゆるグレイトジャーニーの類の話が大好きです。ということで、この国立科博のプロジェクトにも注目しています。

老母の見舞い、琵琶湖大橋からの伊吹山

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20180108ibuki.jpg20180108ibuki2.jpg
20180108ibuki3.png■昨日は、老人ホームに入所している母の見舞に出かけました。85歳です。3日の晩に娘の家族が我が家にやってきて、4日に母の見舞いに一緒に行くつもりだったのですが、娘と孫(ひなちゃん)が風邪をひいていたことから、「曽祖母と曽孫との対面」は先送りとなりました。そのかわりに、昨日は、iPadに入っている、「孫がオモチャのラッパを吹く動画」を見てもらいました。といいますか、母は目が見えなくなってしまったので、聞いてもらいました。ラッパが吹けることに驚くとともに、ラッパがならない時は、自分でプーと声を出していることを面白がっていました。

■最近は、食事と入浴とリハビリ以外は、ベッドで横になっており、ほぼ寝たきりの状態です(要介護5)。そのような母と話しをしようとするわけですが、昔のように喋らることはありません。昔は、もういい加減にして欲しいとと思うほどに、一方的に聞きたくもない話しをしていたわけですが、今はこちらが話しかけないとすぐに黙ってしまう。話しをしても、同じような内容しか話すことができません。元旦は息子と一緒に見舞いましたが、ひさしぶりに祖母に会った印象を「会うたびに衰えていく」と語っていました。ひさしぶりに会うからこそ、母(祖母)の衰えを強く感じたのでしょう。

■小一時間ほど母の居室にいた後、「また来るわ」と言って老人ホームを後にしました。行きは別に用事のあった家人の車に便乗して老人ホームのすぐそばまで送ってもらいましたが、帰りは近江大橋を渡って膳所のあたりまで歩くことにしました。距離は、約4.5kmほどになるでしょうか。昨日は薄曇りでしたが、遠くの山々がよく見えました。比叡の山々には雪が積もっていませんが、北にある比良山系の頂きは雪で白くなっていました。湖東の方に目を転じると、遠くに雪で白くなった伊吹山がはっきり見えました。その横には、やはり白い鈴鹿の山々がくっきりと見えました。普段、伊吹山の存在を意識することはあまりありません。空気が澄んでいる時以外は、なかなか目に入ってこないからです。昨日、facebookで、伊吹山の麓にお住いの知人が雪の伊吹に登頂して山スキーで降りてこられたことを知りました。伊吹山の頂上の雪で純白になった風景も写真で拝見しました。昨日は、伊吹山の頂上からも大津の街が見えたのではないでしょうか。

安曇川扇状地にある水田からの湧水

20170629yusui.jpg ■最近のことですが、高島市の農村地域で調査をしている時、興味深いものを見つけました。画像をご覧ください。丸く囲ってある中の水田から、冷たい地下水が湧き出ているのです。湧水です。ここは、安曇川左岸の扇状地、安曇川の堤防のすぐ近くにある水田です。安曇川の扇状地は、国内でも有数の規模を誇るものです。この扇状地が終わるあたり、扇端で、地下から水が湧き出てくるのです。とても冷たい水です。そのためでしょうか、湧水が出てくる周囲には稲の苗が植えられていませんでした。私の推測でしかありませんが、苗が生育するには水温が冷たすぎるのでしょう。苗が植えられているのは、この湧水の場所から数m離れた場所からでした。もうひとつ、水田から湧き出た水は、丸く囲ってあるところから水路を通して、手前に見える排水路に流されています。水田に冷たい水が広がらないようにしているのでしょう。このような現象は、この地域では一般的なことなのでしょうか。水田からの湧水。農作業をする上では困ったことのようにも思うのですが。残念ながら、確認することができませんでした。

■この安曇川の扇状地の湧水について、以前、1年生の学生の皆さんと一緒に見学したことがあります。新旭町の針江という集落です。その時のことは、このブログで以下のエントリーでご覧いただけます。

針江のカバタ(5)-「2016社会学入門演習」
針江のカバタ(4)-「2016社会学入門演習」
針江のカバタ(3)-「2016社会学入門演習」
針江のカバタ(2)-「2016社会学入門演習」
針江のカバタ(1)-「2016社会学入門演習」

■実は、来月の上旬になりますが、韓国からの視察団の皆さんを針江にお連れします。私は、そのコーディネート役を勤めています。そして、現地の「生水の郷」委員会の関係者の方に、針江の集落内で見られる湧水を生活用水として利用されている様子をガイドしていただくことになっています。針江以外にも、滋賀県庁の関係部局や、県内の地域社会で環境保全に取り組んでおられる集落を訪問します。充実した視察になるように頑張ります。

「村の古地図-志賀地域を歩く-」展

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■最近、知りました!! 大津市歴史博物館では、3月4日から26日まで、「志賀町・大津市合併10周年」を記念して、「村の古地図-志賀地域を歩く-」展を開催しています。知らなかったな~。以下は、この企画展のサイトからの引用です。

 平成28年3月で、志賀町と大津市が合併をして10年が経ちました。本展はそれを記念し、志賀地域にあたる和邇・木戸・小松学区各地域に残る、江戸時代から明治時代にかけての村や自然の景観を描き込んだ古地図を展示し、その移り変わりを紹介します。

 私たちの眼の前にひろがる地域の景観は、人々が生活のために家や道を作り、山や川は開発や災害などで絶えず変化し続けてきました。志賀地域は、比良山系の山並みと琵琶湖の豊かな自然に包まれ、江戸時代においては、生業(農業や漁業など)を通じて密接に結びつき、また北国街道を通じて多くの人々が行き来していました。私たちは、かつての景観や人々の暮らしの様子を実際に見ることはできませんが、その時々に描かれた古地図からその一端をうかがい知ることができます。

 志賀地域に残る共有資料(古文書・古地図)は、平成17年に刊行が終了した『志賀町史』編纂時に調査・整理され、現在では地元の歴史に関わる資料として、次世代に守り継ぐために、毎年の虫干しなどを行ないながら、大切に保管されています。この中で古地図をみてみると、江戸時代の検地に際して作成された絵図や、村々による山林や河川の共同管理、境界争いの際に領主(幕府や大名)から下された裁許絵図、さらには明治時代の地租改正に伴って作られた地籍図など、内容豊かな古地図が残されています。それら古地図の作成目的は、時代や状況により異なりますが、細部をよく眺めていくと、田畑や山林だけでなく、先人の暮らしに関わる生活空間や用水、道、寺院や神社の位置など、現在につながるかつての景観が描かれているのです。

■これは絶対に観に行かなくては!!

月刊『地理』2017年1月号

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■月刊『地理』(通巻740号 2017年1月号)の特集「環境問題解決への科学者の役割」に、総合地球環境学研究所で取り組んでいるプロジェクト「生物多様性が駆動する栄養循環と流域圏社会─生態システムの健全性」の紹介を兼ねたエッセー「超学際科学に基づく順応的流域ガバナンス-生物多様性が駆動する栄養循環と人間のしあわせ」が掲載されました。プロジェクトの代表である奥田昇さんと、プロジェクト研究員である淺野悟史さんとの共著です。私は、プロジェクト全体のフレームといくつかの基本的なアイデアを提供しているので、ここに名前を連ねています。だから共著なのですが、執筆の中心は代表者の奥田さん、そしてプロジエクト研究員の淺野さんがサポートしています。

■改めて読んでみて思うこと。私たちのプロジェクトは、学際を超えた超学際的研究プロジェクトであることから、非常にたくさんの分野の方達が参加しています。ひとつのプロジェクトであっても多様な考え方がそこにはあるわけです。これは生態学者である奥田さんの立場から見た私たちのプロジェクトであることがよくわかります。立場が変われば、表現の仕方等では微妙に違いが出てくると思います(自分だと、こういう啓蒙的な姿勢とか、「欠如モデル」的なことは絶対に書かない/書けないだろうな…とか)。文章というものは、人柄が出る。その人の骨身に染み込んでいるものが出てきます。そういうものですから。それは仕方のないことです。とはいえ、多くの皆さんに、プロジェクトが理解しやすい内容になっているのではないでしょうか。

■ところで、この特集の冒頭は、千葉大学環境リモートセンシング研究センターの近藤昭彦さんの「環境問題の現場における科学者とステークホルダーの協働」です(近藤さんが、この特集をコーディネートされたのだと思います)。このブログでも何度か取り上げた「Future Earth」の話しから始まります。新しい地球環境イニシアティブである「Future Earth」(FE)は、問題解決型プログラムであり、ステークホルダー(利害関係者、SH)との協働によるトランスディシプリナリティー(超学際)の実現を重要な達成目標として掲げています。しかし、このステークホルダーは多様で多層で考慮すべき課題が多いと近藤さんは述べています。

しかし、FEの理念に今日んを持った研究者としての立場からは、SHとして現場の当事者を考えたい。それはFEが対象とする問題は、それが地球環境問題であるとしても、人にとっては地域における自然との関係性の問題として出現するからである。その考え方の基盤には、地域を良くすることが世界を良くすることにつながる現在を良くすることがより良い未来の創成につながる、という考え方がある。これは、環境社会学における地球的地域主義(グローカルの考え方)である。

現代における経験に基づくと、問題の解決を諒解するために必要な基準として、①共感基準、②理念(原則)基準、③合理性基準、があるように思える。まず、SHとの間で、共感がなければ協働にはならない。次に、どのような社会が望ましいかという理念が共有される必要がある。問題の現場から離れたところにいる科学者にとっては理念であるが、SHにとっては原則となる。最後に、③科学の成果を問題解決に取り入れたい。FEにおいては、通常の科学の③だけでなく、①②の基準を重視することが超学際の達成につながると考えられる

■このような考えを提示した後、ご自身で関わってこられた原子力災害や印旗沼流域の環境問題を例に、科学者とSHとの関係について検討されています。そして、「SHとの共感を大切と考え、自らもSHとして政策に関わり、問題解決に関与する立場をとりたい」と自分の立ち位置を説明されます。そのような研究は、近藤さんも言われているように「論文で成果を競う従来型の研究ではなく、問題の解決の達成を目指す活動の中で役割を果たしたかどうかが問われる研究」ということになります。この点に関してですが、ビエルクというアメリカの政治学者(政策科学者)の著書『 The honest broker』を元に、科学者と政策の関係性に関する類型を元に4つのタイプを提示されています。

①純粋な科学者(政策には関与せず研究の成果を提示)
②科学の仲介者(研究成果を政策に提言)
③論点主義者(研究成果をもとに特定の政策を提言、主張)
④複数の政策の誠実な仲介者(研究に基づき可能な複数の政策を提言)

■私が専攻分野である社会学の場合は、ほとんどの研究者は①だと思います。しかし、社会問題を扱う研究者の場合は③であることが多くなるかもしれません。印象論でしかありませんが。近藤さんは、この③については次のように述べています。「特定のSHとの協働はあるが、特定の政策を提言、主張するものである。例えば、特定の施策に対する反対運動や推進に関わる研究は③に属すると考えられる」。日本の社会学の者の多くは、経済学者などとは違って、自ら政策の現場に飛び込み提言を行う人は少ないように思います(経済学では②の人の割合が社会学よりもずっと高いと思います)。もちろん論文の中で政策批判を行うことはあっても提言する人は少数派です。私の細かな専門分野を言えば環境社会学ということになりますが、この環境社会学の場合でも③の研究者がほとんどでしょう。

■近藤さんは、FE科学を推進するために必要なのは④なのだと言います。ただし、これは個人で達成することが困難なため、科学者集団として対応していくことが必要になってきます。私は、30歳代の終わりから文理融合・文理連携の研究プロジェクトにずっと関わってきました。そのような経験を積みながら考えてきたことは、近藤さんが主張されていることとほぼ重なり合うように思います。私自身も、総合地球環境学研究所のプロジェクトを通して、地域の広い意味での活性化と地域環境問題の解決を同時に視野に入れ、しかも地域の皆さんと一緒に考えながら活動し、さらに政策にも関わろうとしているからです。今日は、近藤さんの書かれたものを拝読し、非常に「勇気づけられた/力づけられた」ような気持ちになりました。④に取り組もうという考えを持った研究者は、まだまだ少数派だからです。

■ピエルクの文献ですが、以下の通りです。
Pielke, R. A.(2007): The honest broker: making sense of science in policy and politics. Cambridge University Press.

東京スカイツリー( 2 )

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▪︎トップの写真、中央に高い高層マンションが見えます。しかし、「東京スカイツリー」の450mの展望台からだと、たいした高さに見えません。ここは、墨田区の京島と呼びれる地域です。線路が見えますが、京成電鉄と東武電鉄です。少し離れたところに確認できますが、大きな川があります。これは荒川です。私は、東京の友人たちと、この京島から荒川にかけてのエリアを何度か歩きした。大変、思い出深い地域です。それこそ、「虫の眼」でもって歩きました。今回は、「鳥の眼」でこの地域を眺めています。「虫の眼」と「鳥の眼」、その両方で見るからこそ理解できることがあります。「虫の眼」からだけでは、また「鳥の眼」だけからでは、理解できないことがあると思います。両方が大切だ、それが私のスタンスです。これは社会を考えるさいの視点の取り方について比喩的にもいっているわけです。荒川の向こう側は、江戸川区です。写真ではよく確認できませんが、さらに向こう側には江戸川が流れており、江戸川の左岸は千葉県です。千葉の松戸にも行ったことがあります。松戸に親しくさせていただいている方たちが多数お住まいなのです。その松戸を訪問したのも何年も前のことになります。懐かしいです。

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▪︎左は東京タワーを撮ったものです。「東京タワー」にも登ったことがありますが、ずいぶん小さく見えますね。「東京タワー」は333m(「東京スカイツリー」は634m)、昭和33年(1958年)に竣工しました。私と「同い年」です。「東京スカイツリー」よりも「東京タワー」に共感を覚えるものですから、こんなに小さく見えることに少しがっかりしました。右側は、「東京スカイツリー」の南側の風景です。東京湾が見えます。小さくてわかりにくいですが、東京湾にポツンと何か建造物が見えます。これは、「東京湾アクアライン」の「風の塔」です。地下トンネルの換気のために設けられています。左の方には、「海ホタルPA」や「アクアブリッジ」のシルエットが確認できます。

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▪︎左の写真をご覧ください。手前の方に流れてくるのは隅田川です。その向こう側に流れているのは荒川です。さらにずっとずっと向こうには、筑波山も確認できます。手前の隅田川沿いの地域は、南千住です。ここも京島ほどではありませんが、歩いたことがあります。酒飲みの方たちには有名な店なのですが、南千住の「大林」という居酒屋にも数回行きました。懐かしいです。関心のある方は、ぜひネットで調べてみてください。東京に関心があるとしても私のばあいは、隅田川、荒川、江戸川の流れる地域が中心になります。私は、東京の友人たちと「東京底湿地帯」と勝手に呼んでいました。このあたりには、いわゆる「海抜0m地帯」が広がっています(実際には、-2mだったりするのだそうです)。

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▪︎写真左。中央に黒い細い帯のようなものがみえます。ここは、駅でいえば、王子、東十条、赤羽のあたりです。北区です。この地域も、よく歩きました。素敵な元気の良い商店街が健在でした。もし、東京に暮らすことがあれば、こういうところに住みたいなと思う場所でした。赤羽では飲みました。漫画「孤独のグルメ」で有名になった「まるます家」に行きました。懐かしいです。赤羽は台地の上に昭和30年代に開発された団地があり、台地の下には下町がひろがっています。ここもいろいろ勉強しました。思い出深い地域です。荒川の向こうには川口の街があります。若い学生の皆さんは、なんのことやら…でしょうが、吉永小百合が主演した「キューポラのある街」で有名です。赤羽、荒川、川口…。高度経済成長期、この川を挟んだ地域の関係は大変面白いものがあるのです。川口からすれば、赤羽は東京の入り口でもありました。川口の工場の女工さんたちが、休みに日に遊びにいく街でした。東京の一番北の入り口にあたる街でした。

▪︎真ん中の写真には、「上野恩賜公園」が見えます。この「上野恩賜公園」の左の方には、白い屋根のようなものが確認できます。これは、「東京ドーム」です。雲がなければ、おそらくは富士山も見えたのでしょうが、この日は、残念ながら確認できませんでした。右側の写真では、「両国国技館」が見えます。その横には「江戸東京博物館」も見えます。東日本大震災の後、東京の友人の皆さんと東京の街を歩くことがなくなりました。震災が、なにか私たちの意識を大きく変えてしまった感じがします。でも、またこの東京の街を歩くチャンスがやってくるのではと思っています。そうあってほしいと思います。

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▪︎今回、「東京スカイツリー」に登って感じたことがもうひとつあります。災害の問題です。東京都では、各地域における地震に関する危険性を、建物の倒壊及び火災、災害時の避難や消火・救援活動のしやすさ(困難さ)を加味して、それぞれの地域の危険度の測定を行っています。詳しくは、東京都都市整備局の「地域危険度とは」のページご覧いただきたいと思います。ひとつの目安ではありますが(危険度が低いから安心というわけではないでしょう)、こうやって地図化してみると、直感的に理解できます。上の図がそうです。東京都都市整備局では、「災害時活動困難度を考慮した総合危険度の高い地域は、建物倒壊危険度、火災危険度ともに高かった荒川・隅田川沿いのいわゆる下町地域一帯に分布しています。具体的には、足立区から荒川区、葛飾区西部、墨田区、江東区北部に広がる地域で、また、品川区南西部や北区北部から豊島区北部に広がる地域でも危険度が高くなっています」と説明しています。「東京スカイツリー」のあるあたりや、京島もこの危険度の高い地域に入ります。もっとも、このような危険度が、実際の地域社会のなかで、具体的にはどのように機能するのか / 機能しているのかという点については、私にはよくわかりません。「防災」や「減災」に対する取り組みがどれほど進んでいるのか、また、社会学の古典的な概念でいえば、このような危険度の提示が地域社会に対してどのような「潜在的逆機能」を持っているのか(特に、社会的に弱い立場にある方達にとって)…ということも気になるところです。

ブラタモリ~京都~

20141213buratamori.png「ブラタモリ~京都~」が、NHKの新春の特別番組として1月6日に放映されるようです。

街歩きの達人・タモリさんが、“ブラブラ”歩きながら知られざる街の歴史や人々の暮らしに迫る「ブラタモリ」が、3年ぶりに来年4月からレギュラー番組として復活します。ある土地のナゾに導かれ、ナゾを解明しようと、今話題の出来事や街に残された様々な痕跡にタモリさんが出会いながら、街の新たな魅力や歴史・文化などを再発見していきます。

■全国の「ブラタモリファン」の皆さん、期待いたしましょう。なお、2015年1月3日(土)午前8時15分からは、「ブラタモリ 新春アンコールSP」と題し、過去の放送回から選りすぐりの4本を、まとめて一挙放送するとのことです。こちらも楽しみですね。

NHKスペシャル「カラーでよみがえる東京 ― 不死鳥都市の100年 ―」

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■これは、すごい…と思います。「不死鳥都市」という言い方にシックリこないところもありますが、とても期待してしまいます。しかしです。なんといいますか、ナレーションと音楽で、かなり「その気」にさせられてしまいますね。トップ画像の下にある「投稿」をクリックしてください。NHKがfacebookに投稿した動画をご覧いただけます。詳しくは、以下のサイトをご覧いただければと思います。
http://www.nhk.or.jp/special/phoenix/
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■この公式サイトのなかに、東京という空間の歴史を地層に例えて表現している部分があります。最近、こういう「発想」、あちこちでみかけますね。たとえば、「東京時層地図」とかもそうです。まさに、「時」間の地「層」ですから。埼玉大学教育学部の谷謙二さんは、「今昔マップ」というサイトを運営されています。まだ、詳しくみていませんが、このサイトも興味深いですね〜。

人口減少地図(日本経済新聞)

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人口減少地図 統計でみる市区町村のすがた2014/9/24 公開

■あとで、きちんと本文を書きたいと思いますが、私自身は、これを、そのまま、「鵜呑み」にしてしまってはだめだ…と思っています。

ハルカス300

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■週末はいろいろ用事やおつきあいがあったため、本日、妻と一緒に母親の生活介護にいってきました。2人でやると母親の介護も比較的短時間で終わります。少し時間的余裕があったためでしょうか、「そうだ『あべのハルカス』、行こう!」と突然ぬ思い立ったのでした。いつもであれば、地下鉄御堂筋線で梅田から難波まで乗り、そのまま近鉄奈良線に乗り換えるのですが、今日は天王寺まで。「いったい、どのあたりにハルカスはあるんだろう…」と地上に出てみると、そこにドーンとハルカスがそびえていました。

■ハルカスは高さが300m。その58・59・60階が「ハルカス300」という展望台になっています。まずは、ひとつめのエレベーターで16階まであがり、そこから60階まで一気に登ります。大人1人1,500円の入場料です。ちょっと高いかな…と思いつつも、こういうときでないといけませんのでね。トップの写真は、60階から北方面を撮ったものです。すぐ眼下に天王寺公園が。その北には上町台地がのびています。四天王寺もみえます。上町台地の先には、大阪城公園の樹木の茂みもみえます。肉眼では、かすかに大阪城の天守閣らしきものがみえました。もう何年も前のことになりますが、この上町台地の周辺をよく歩きました。大阪のいにしえの歴史を想像し、その歴史と上町台地周辺の微地形を歩いて楽しみました。仕事や母親の介護でめいっぱい忙しくなり、そのような「まち歩き」をする時間や精神的余裕はなくなってしまいました。残念です。また、始めたいものです。

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■【左】60階の展望室に登ったところです。エレベーターの扉があくと、北側、難波や梅田方面がみえてきます。【右】クリックしていただくと写真が拡大ます。森のようにみえる場所は、大阪城公園です。大阪城の天守閣がかろうじて確認できます。
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■【左】通天閣が見えます。通天閣は高さ100mですから、ハルカスの1/3になります。ずいぶん小さく見えます。【右】ちょっと、ふざけています。背景は四天王寺です。
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■【左】大阪湾の方向ですね。木津川が夕日に照らされて輝いています。この写真ではわかりませんが、六甲山系が切れる辺り,肉眼ではかすかに明石海峡大橋の橋脚が見えました。【右】南には、長居競技場が見えました。大きなスクリーンになにか写っているのがみえました。その向こうには、二上山、葛城山、金剛山。300mあると、かなり遠くまで見通すことができます。
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■【左】生駒山です。この向こう側が奈良です。【右】しだいに暗くなってきました。上町台地の東、台地の上、台地の西。それぞれにライトが輝いています。ここが台地であることがよくわかます。
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■ハルカスの展望台「ハルカス300」は3層構造になっています。58階は天空庭園になっています。吹き抜けです。59・60階が回廊になっています。この58階の天空広場でビールをのみながら、大阪の夜景を楽しみました。【左】この隙間、どういう意味があるんでしょうか。ここから夕日が差し込んでくるのですが、年に2回だけ、ここに夕日が沈む…という話しがあるのです。気になります。【右】300mと表示してあります。

■下の写真。すっかり暗くなってからのものです。iPhoneで撮ったのでひずんでいますが、鉢植えの照明が天井に不思議な影(植木の…)を生み出しています。なんだか、素敵な雰囲気です。その向こうには、大阪の夜景がみえます。窓に近寄って撮ってみました。これは阿倍野の交差点です。
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