マザーレイク21計画学術フォーラム
■昨日は、滋賀県庁で「第1回マザーレイク21計画学術フォーラム」が開催され、私も委員として参加しました。この学術フォーラムは、これまでの「琵琶湖総合保全学術委員会」を改組したもので、琵琶湖と流域の状況を指標などを用いて整理・解説する役割をになっています。比喩的にいえば、琵琶湖の「定期健康診断」を行うということです。私は、「琵琶湖総合保全学術委員会」の委員として、「マザーレイク21計画(琵琶湖総合保全整備計画)」の第2期計画の計画づくりに参加しました。そのようなこともあったからでしょう、引き続き、学術フォーラムにも参加することになりました(第2期計画については、以下をご覧いただけれぱと思います)。
■「マザーレイク21計画」の第2期における施策の実施方法は、「順応的管理」を基本原則としています。常に、PDCAサイクルのなかで計画のあり方がチェックされていく必要があります。琵琶湖の環境課題は常に変化していきます。その変化に対応したより適切な指標の選択が必要になります。誰が、何のために指標を選択するのか…。これは、大変大きな問題です。指標の選択の仕方は、環境問題のアジェンダセッティングと深く関わっていると思われるからです。
■この「学術フォーラム」とは別に、県内の市町、NPO、研究者、事業者が参加する「びわコミ会議」が設置されています。この「びわコミ会議」は、多様な主体が交流し、琵琶湖の現状や政策に関して評価・提言を行う「場」、マザーレイクフォーラムを運営しています。それに対して、学術フォーラムでは、学術的見地からの整理と解析を行うことになっています。しかし、個人的な見解からすれば、この2つのフォーラムはもっと有機的に連関すべきものと思われます。学術的ではあっても、琵琶湖全体を俯瞰する視点からは見えてこない問題、県民の生活や生業(なりわい)のリアルな現場のなかからしか見えてこない問題、そのような問題もこの学術フォーラムのなかで議論されるべきと考えています。
■私は、環境社会学・地域社会学を専攻していますから、どうしても社会関連の指標が気になります。特に、マザーレイク21計画の第2期では、「暮らしと湖の関わりの再生」という観点から、琵琶湖や流域と人びとの生活や生業(なりわり)との「つながり」に注目しています。しかし、このような「つながり」の状況を的確に把握できる、言い換えれば指標化できるデータが少ないという問題があります。ポイントとはずれたデータを指標にしても、意味がないばかりか、逆に様々な弊害を生み出すことになります。もし、指標化に適したデータがないのであれば、新たにそのようなデータを把握する取り組みを県庁内部の部局を横断して実施していく必要もあろうかと思います。
■細かなことを書きましたが、この「学術フォーラム」のあり方については、時間をかけて微修正していく必要があろうかと思います。
【追記】■少し説明を加えますと、PDCAサイクルのなかで、指標をより適切なものにしていく作業さえも、多様な主体の連携のなかで進めていく必要がある…ということでしょうか。あと私が気にしているのは、流域のもつ「階層性」や「文脈依存性」という問題です。これについては、『流域環境学 流域ガバナンスの理論と実践』(和田英太郎 監修/谷内茂雄・脇田健一・原雄一・中野孝教・陀安一郎・田中拓弥 編,2009,京都大学学術出版会)のなかで論じていますが、いずれ、あらためてこのホームページでも関連記事をアップしたいと思います。
「減速」生活
■東京に出張しているから…というわけではないのですが、東京新聞の興味深い記事をみつけました。「経済成長っているの? 30代で脱サラ 「減速」生活」です。この記事(左写真をクリック)の続きですが…
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だが、少しずつ心の中のわだかまりが大きくなる。右肩上がりの成長はとっくに終わっているのに、会社は「もっと売れ、もっと利益を」と求め続ける。ついにはノルマ達成のため、自腹を切って買い物をするようになった。欲しくもないのに買ったスーツは二十着、靴は十五足以上。封も切らずにほこりをかぶった。
価格破壊が流行語になり、大量生産、大量消費の「使い捨て」に歯止めがかからなくなった時代。消費の最前線で確かに収入は増えた。でも息苦しかった。二〇〇〇年秋、三十歳の誕生日に辞表を出した。
わずか六・六坪の店を四年後にオープンした。年収は六百万円から三百五十万円に下がったが、妻と息子の三人家族で暮らすのに十分だ。それ以上は求めない。思い描いたのは、昔からある八百屋や鮮魚店。「このやり方で、人生をやり直してみせる」という反骨心もあった。「使い捨て」時代の反省から、値は張っても上質なオーガニック食材にこだわる。口コミで少しずつ客が増えると、休日を増やした。畑を借り、念願だった米や大豆作りを始めた。
一〇年秋に自らの経験をつづった著書「減速して生きる」を出版した。今の働き方に疑問を持つ人たちが店を訪れたり、メールをくれたりするようになった。その中には、靴修理業を始めた人もいれば、離島で鍼灸(しんきゅう)師になった人も。減速生活のありようはさまざまだが「皆仕事をする時間が減った分、社会貢献をしている」。昨年から、地方議員らでつくる「緑の党」の共同代表も務める。
社会全体では、まだ小さな変化かもしれない。「一輪の花は空から見ても分からないが、花畑になるためには一輪一輪が咲くことが大切」。池袋の小さなバーからその種まきが始まっている。 (森本智之)
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■太字にしたところは、私が気にいったところ…です。ただ、のんびり生きる…社会を拒否していきる…というのではないのです。
○今まで自分を振り回していた大きな社会の仕組みを相対化する。
○そうではないオルタナティブな価値を自らの生活のなかで育んでいく。
○そのような生活を維持する小さな仕組みを自分の手で確保する。
○社会貢献を通してこれからのあるべき社会づくりにコミットしていく
■そのあたりが大切なことなのではと思うのです。最後の「一輪の花は空から見ても分からないが、花畑になるためには一輪一輪が咲くことが大切」部分、素敵な表現だな~と思います。
消えていく「ダイヤモンド富士」-西日暮里・富士見坂
■前回の投稿では、新幹線の車窓から撮影した富士山をアップしました。天候にも恵まれ、青空をバックにした美しい富士山を楽しむことができました。しかし、東京に着いてみると、「富士山が見えなくなる」というネットのニュースを読むことになりました。
■東京の地形は、凸凹しています。武蔵野台地が雨や川で削られたためです。ですから坂が多いのです。地下鉄やJRで点から点へ移動しているとわかりませんが(地形マニアにはわかりますが…)、実際に歩いてみると東京の凸凹の特徴が非常によくわかります。江戸時代、武蔵野台地の高台から下る坂道からは、あちこちで富士山が見えていました(現在はビルが建ち並び、高層ビルに登らなければ確認できませんが…)。ですから、現在でも「富士見坂」という坂(地名)が東京の各地に残っているのです。
■この「富士見坂」という地名、名前の通り、その坂から眺望できる富士山の風景と坂との組み合わせから生まれています。もちろん富士山は、普通の山ではありません。詳しく説明する余裕はありませんが、信仰の対象となった山でした。江戸時代、江戸のなかには「富士講」という宗教組織が多数存在していました。ですから、当時の人びとの富士山を眺望する眼差しのなかには、宗教的な情熱が込められていました。富士山と、富士山を毎日眺望する江戸時代の人びとの相互作用のなかで、独特の自然観や生命観が培われいったのです。もっとも明治時代以降、そのような宗教的な情熱はしだいに衰退していきました。しかし、それでも、富士山を眺望すること自体が、ひとつの文化として、江戸-東京の人びとの暮らしのなかに定着し、受け継がれきたことに間違いありません。
■現在、実際に富士山を確認できる坂は残り少なくなりました。東京の街のなかに高いビルやマンションがどんどん建設されていったからです。以下は、毎日新聞の記事です。この記事によれば、「西日暮里の富士見坂」は、「唯一地面から富士山を見ることができる」場所のようです。この「西日暮里の富士見坂」から、年に2回、1月と11月に「ダイヤモンド富士」を見ることができます。「太陽が富士山の頂上に沈み、輝きを放つ」瞬間を、「ダイヤモンド富士」と呼ぶのです。トップの動画は、その「ダイヤモンド富士」を写した動画です。ところが、記事にもあるように「新宿区で建設中の住友不動産による45階建てマンションと、文京区で建設中の個人建築主による11階建てマンション」が、富士山の眺望を遮ってしまうことになりそうなのです。
「ダイヤモンド富士:都心では唯一の日暮里・富士見坂、見納めの危機 眺望を遮るマンション建設中/東京(毎日新聞2013年01月29日地方版)」
■この記事の後半部分では、以下のように書かれています(リンクがすぐ消えてしまいますから…)。
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昨年5月には、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関、国際記念物遺跡会議(イコモス)が、坂からの眺望を阻害するマンション開発の見直しを求めて都や建築主、荒川区、文京区などに勧告書を送っている。
これを受けて荒川区は、低くするよう計画の見直しを求めたが、事業主から回答は得られていない。文京区は計画の再考を依頼したが「あくまでお願いレベル。制限することはできない」と話す。
昨年10〜12月、日本イコモス国内委員会の副委員長が文京区と荒川区を訪れ、景観を守るガイドラインの整備を要請。荒川区は「関係区と連携して、前向きに取り組みたい」と検討を始めているが、現在建設中のマンションには間に合わない。
住民らで作る「日暮里富士見坂を守る会」は、行政や建築主らに再三、要望したが、有効な回答は得られていない。メンバーの池本達雄さん(54)は「富士山のある風景を愛するのは、江戸時代から続く文化。次の世代に伝えていかないと。まだ諦めていない」。早稲田大学講師で、富士見坂眺望研究会の千葉一輝代表は「イコモスの勧告は非常に重い。富士山の世界文化遺産の登録にも影響を与えかねない」と話し、今後も建築主らに働きかけていく。
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■ここに書かれている問題、京都の五山の送り火と景観に関する問題と似ていますね。京都の周囲の山々の眺望は、歴史的都市・宗教的都市である京都のアイデンティティと深く結びついています。しかしそのような眺望は、市街地に高いビルが建設されるにしたがい、しだいに失われてきました。そこで京都市では、このような眺望を保全・創出するために(たとえば賀茂川右岸から「大文字」への眺望)、「京都市眺望景観創生条例」を制定しました。また、新しい景観政策も導入しているようです。視界に入る建築物の高さやデザインをコントロールしようとしているのです。この京都の五山と景観に関する問題と東京の富士山と景観に関する問題、まったく同じレベルで比較することは無理かもしれませんが、東京という都市の歴史的なアイデンティティを担保するためにも、なんらかの社会的な取り組みが必要だと考えられます。長文になっているために詳しくここで説明しませんが、岩手県の盛岡市でも、中心市街地からの岩手山の眺望を確保するために、かなり以前から様々な取り組みが行われてきました。またチャンスがあれば、ご紹介できればと思います。ちなみに、岩手山も、古来から信仰の対象となった山でした。
第16回「北船路野菜市」(環境こだわり農産物PR&食育イベント)
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■先々週の土曜日、第三土曜日に大津市中心市街地にある丸屋町商店街・大津百町館前で第15回「北船路野菜市」を開催しましたが、先週末の土曜日にも引き続き「野菜市」を開催することになりました。
■研究会では、滋賀県農林水産部・食のブランド推進課の「環境こだわり農業連携PR事業」の事業を受託しています。その一環として、市内にある「みつばち保育園」で、園児と保護者の方たちを対象とした「環境こだわり農産物」&「食育」に関するイベントを開催する予定だったのですが、園児さんがインフルエンザに罹りイベントを中止することになりました。ただ、今回のイベントでは餅つきをする予定にしており、すでに準備もできていたことから、いつも「北船路野菜市」を開催している大津百町館前に会場を移動し、イベントを開催するとともに、北船路産の野菜を販売することにしたのでした。写真は、中日新聞の記事(滋賀版)です。2010年春に卒業したゼミのOBが送ってくれました。たまたま中日新聞を読んでいて気がついてくれたようです。ねTくん、ありがとうございます。「北船路米づくり研究会」の活動は、Tくんが卒業した翌月、2010年の4月から始まりましたから、びっくりしたでしょうね~。
■以下は、当日の様子を写した写真です。iPhone5で撮影していますが、ボケボケの写真ばかりです…。
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写真1段目左:これから蒸し上げるもち米、中:読売新聞の取材を受ける3年生リーダーMくん、右:呼び込みをされる研究会顧問・指導農家のFさん。
写真2段目左:野菜市。普段よりは出荷量は少なめでした。中:百町館で始まったクイズ大会。右:クイズの司会をする3年生2人。YamくんとYasくん。
写真3段目左:餅をつく指導農家と北船路のKさん。中:餅つきを子どもたちが見守ります。右:つきあがった餅を丸めます。保育園児の皆さんにあわせて小さめ。
写真4段目左:きな粉餅をみんなでいただきました。中:2臼目をついている3年生Mさん。右:中日新聞の取材を受ける3年生リーダーMくん。
【追記】■学長室広報の担当者から、読売新聞の記事をPDFファイルで送っていただきました。記事のコピーをPDF化しているためでしょうか、写真は潰れています。しかし、記事は読めます。
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NHKスペシャル「終(つい)の住処(すみか)はどこに 老人漂流社会」
■2009年に父が亡くなりました。約1年間看病しましたが、最後は病院で亡くなりました。肺がんでした。父がまだ動くことができた頃は、老いとともに体が弱ってしまった母の面倒を、父自身がみていました。しかし、父がなくなった現在は、介護保険でヘルパーさんに来ていただきながらも、週1回、母の世話をするために母の家に通っています。こうやって父を看取り、母の世話をしながら、私自身も年齢を重ね、「老い」について毎日深く考えざるを得なくなってきました。また、いずれやってくる自分が「死」ぬ時のことを(平均寿命よりもずっと手前かもしれませんし、もっと後かもしれません…誰にもわかりません)考えるようになりました。「死」一般の問題は、40歳を超えたあたりから少しずつ気になってはいましたが、父の死を経験したあたりから、自分自身どうやって「死」んでいくのか、どのように「死」を迎えるのか、どのように「死」を経験するのか(予期的に経験を先取りするということも含めて)ということについても考えるようになりました。亡き父がそういうふうに、私を導いているのかもしれません。
■父の看病をしながら、「日本の社会では、幸せに『死』を迎えることがなかなか難しい」ということがわかってきました。「死」に向かう人の肉体的な苦しみを緩和する「医学」。「死」に向かいながらも日々の生活の質を支える「福祉」。そして、自分が死んでいくことの恐怖や意味の喪失(自分の足下が底なしの真っ暗に暗闇であることに気がついたとき…)という精神的危機から救う広い意味での「宗教」。「医学」、「福祉」、「宗教」。この3つがきちんと連関していてこそ人は幸せに「死」を迎えることができるのでは…そのように思うのですが、現実には、この3つがバラバラに、それぞれ独自の論理とシステムで動いており、「死」に向かう人は、3つの機能分化したシステムにより引き裂かれるような状況に陥っているのではないかということです。父もそうでした。その父を看病し、看取った私たち家族も辛い経験をしました。
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■ところで、私がちょうど父の看病と看取りを経験したころ、研究会や学会で、ある1人の医師と出会いました。宮城県の名取市で終末期の在宅医療(自宅での看取り)に取り組む岡部健先生です。残念なことに、岡部先生は、先日、お亡くなりになりました。先生には、2度お会いして少しだけお話しをさせてもらっただけですが、大きなヒントをいただきました。写真は、朝日新聞に掲載された岡部先生の記事です。この記事のなかにある「臨床宗教師」のことも、私なりに理解すれば、「医学」・「福祉」・「宗教」を結びつけていくための試みなのかなと思っています。以下は、岡部先生がラジオ番組に出演されたときの録音です。東日本大震災での先生ご自身の経験から、「死後の世界とある程度つながりをもった感覚がないと、なかなか人間は死にきれないし、死んだあとに残った家族も受け止められない」と語っておられます。
■さて、ここから急に話しが変ります。最近、ショッキングなテレビ番組を視ました。「NHKスペシャル「終(つい)の住処(すみか)はどこに 老人漂流社会」という番組です。以下は、NHKスベシャルの公式サイトにある番組紹介です。
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『歳をとることは罪なのか――』
今、高齢者が自らの意志で「死に場所」すら決められない現実が広がっている。
ひとり暮らしで体調を壊し、自宅にいられなくなり、病院や介護施設も満床で入れない・・・「死に場所」なき高齢者は、短期入所できるタイプの一時的に高齢者を預かってくれる施設を数か月おきに漂流し続けなければならない。
「歳をとり、周囲に迷惑をかけるだけの存在になりたくない…」 施設を転々とする高齢者は同じようにつぶやき、そしてじっと耐え続けている。
超高齢社会を迎え、ひとり暮らしの高齢者(単身世帯)は、今年500万人を突破。「住まい」を追われ、“死に場所”を求めて漂流する高齢者があふれ出す異常事態が、すでに起き始めている。
ひとりで暮らせなくなった高齢者が殺到している場所のひとつがNPOが運営する通称「無料低額宿泊所」。かつてホームレスの臨時の保護施設だった無料低額宿泊所に、自治体から相次いで高齢者が斡旋されてくる事態が広がっているのだ。しかし、こうした民間の施設は「認知症」を患うといられなくなる。多くは、認知症を一時的に受け入れてくれる精神科病院へ移送。
症状が治まれば退院するが、その先も、病院→無届け施設→病院・・・と自らの意志とは無関係に延々と漂流が続いていく。
ささいなきっかけで漂流が始まり、自宅へ帰ることなく施設を転々とし続ける「老人漂流社会」に迫り、誰しもが他人事ではない老後の現実を描き出す。さらに国や自治体で始まった単身高齢者の受け皿作りについて検証する。その上で、高齢者が「尊厳」と「希望」を持って生きられる社会をどう実現できるのか、専門家の提言も交えて考えていく。
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■このダイジェスト版には登場しませんが、実際の番組の最後の方で、ある女性が運営している施設が紹介されていました。認知症の高齢者も含めて、複数の高齢者が入所されているわけですが、体が動く方、たとえば料理が得意な方は、自らも調理作業に参加しておられたりと、入所されている高齢者がお互いに助け合うように運営されていました。前回の投稿では、「幸せの経済学」という映画に関連して「ローカリゼーション」という言葉を紹介しましたが、こういう「死」の問題についても、同様の「ローカリゼーション」の発想が必要なのかと思っています。(続く)
これからの研究プロジェクト
■昨日は、夕方、客人がありました。もう15年程研究プロジェクトを通してお付き合いのある、京都大学理学部生態学研究センターの谷内茂雄さんです(いつもは、谷内くん…って呼んでますけど)。
■谷内さんとは、流域管理や流域ガバナンスのテーマで2つの大きなプロジェクトに取り組んできました。最近のプロジェクトの成果は、『流域環境学 流域ガバナンスの理論と実践』(京都大学学術出版会)として出版されました。今回、これまての流域ガバナンス研究の成果をもとにアメリカの学術雑誌に論文を一緒に投稿しよう…という相談と、次の流域管理の関するプロジェクトへの参加要請、プロジェクトの組み立て方に関する相談でした。谷内さんは生態学者であり、いわゆる理系の研究者ですが、私のような社会学者とも議論ができる人です(逆にいえば、私も谷内さんとはいろいろ話しが盛り上がります)。2人とも、非常に生真面目に、環境科学における文理融合・文理連携の可能性を追求してきました。
■最近は、地域貢献・学生の教育に没頭しているので、ひさしぶりに、いつもとは少し違う脳味噌の部分を使った気がしました(^^;;。なんだか、いい感じです。もっと研究にエネルギーを注がねば…と思っていますが、ここまで自分の仕事を拡げてしまうと、なかなか…ですね。でも、楽しみです。頑張ります。
地域の再生と大学の貢献(吉武博通)
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■大学教員の仕事には、すぐに頭におもいうかぶ教育・研究に加えて、学内行政や地域貢献があります。先日、「リクルート進学総研」というサイトの「カレッジマネジメント」(リクルート『カレッジマネジメント』は、全国の大学、短大、専門学校など、高等教育機関の経営層向けにリクルートが発行している高等教育の専門誌)で、吉武博通(筑波大学 大学研究センター長 大学院ビジネス科学研究科教授)さんが連載されている「連載 大学を強くする『大学経営改革』」を読む機会がありました。吉武さんは、混迷する日本の大学経営に関して、この連載で様々な角度から発言されています。そのような連載のなかで、今回は、大学の地域貢献に関連する「地域の再生と大学の貢献」を少しご紹介してみようと思います。
■現在、地域再生が強く求められていることは言うまでもありませんが、この点に関して吉武さんは、神野直彦さん(関西学院大学教授)を引用しながら、「地域再生とは、これから始まる時代における人間の生活の場の創造」であり「自然環境の再生と地域文化の再生が、地域社会再生の車の両輪となる」(神野直彦『地域再生の 経済学』中公新書 2002)と述べておられます。そのさい、「補完性の論理」(家庭やコミュニティでできることはそれらに任せ、できないことを基礎自治体、さらには上位自治体、そして国が補完的に担う)という考えにもとづき、「“自立”と“身近な場所での問題解決”」が必要であると主張されています。
■なんからの問題に関し、家庭・コミュニティ、基礎自治体・上位自治体、国のあいだで、何をどのように補完しあうのか、この点についてはかなり注意が必要ではありますが、「“自立”と“身近な場所での問題解決”」が必要だとの主張は、首肯できる論点かと思います。
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人間は社会と不可分な存在であるといわれるが,一人 ひとりがより良く生きる社会であるためには,個々人が 自立した上で相互に補完・協力しあうことが前提とな る。個の自立は教育の重要な目的でもある。日本の学 生の目的意識が諸外国の学生に比して希薄だといわれ ているのも,自立が十分に尊重・追求されてこなかった 結果かもしれない。同様に個が集まる集団や組織にも 自立が求められる。
しかしながら,個人は集団や組織に依存し,集団や組 織は行政に依存する,あるいは地方自治体は国に依存す る,という状態から脱しきれていないのが我が国の現状 である。
“自立”と深く関係するのが“身近な場所での問題解決”である。自分の問題は自分で,集団や組織の問題は その中で解決するのが基本だが,困難であったり,個や 集団・組織を超える問題であったりした場合でも,可能 な限り現場に近い場所で解決するというのがその意図 するところである。
現場から遠い場所では,実態を正確に把握することが 難しく,政策の成否が自分の生活に関わってくるという切迫感も持ち得ない。議論が抽象的になり,現場の実情に即した実効性ある制度設計にも限界が生じてしまう。
地域が自らの問題を可能な限り自力で解決する中で, 人も育ち,政治・経済・文化の質も高まるのではなかろうか。
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■では、このような地域再生に向けて、大学と地域はどのように連携していけばよいのか。吉武さんは、「大学が地域における教育により深くコミットすること」とともに、「地域の人材が成長し続ける場づくりを促す」ことが必要であると述べておられます。そして後者については、以下のように説明されています。
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問題は,自身の成長を促す知的刺激が十分ではなく, より高いレベルでものを考え,議論を交わす場も限られ ているという点である。これまでやってきたことを頑 なに守り,新たなことや変化を受け入れようとしない保守性が地域社会や組織内に色濃く残っていることも,次代を担う人材の育成を難しくしている。
地域再生の難しさは,古きものと新しきものの葛藤を避けては通れないことである。それだけに,地域の再生を担う人材には,古きものを理解しつつ新しきものを積極的に取り入れる,幅の広さや奥行きの深さが求められる。
このような人材を育成するとともに,自身を成長させ続けられる場が至る所に見出せる,そのような地域づくりを促すことも大学の重要な役割である。
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■吉武さんの主張は、少し具体性に欠けることは否めませんが、「自身を成長させ続けられる場が至る所に見出せる」という点は、大変重要ですし、魅力的なものです。現在、私は、社会学部で「大津エンパワねっと」という地域密着型教育プログラムの運営・学生指導にあたっています。また、ゼミで「北船路米づくり研究会」という地域貢献型の活動も行っています(詳しくは、このホームページの関連ブログエントリーをご覧ください)。そのようなこれまでの、私個人のわずかな経験蓄積ではありますが、吉武さんのお書きになっていることは、大変納得できるものがあります。このような現在の大学運営に期待されているマクロな視点をふまえつつ、現在の取り組みをより豊かなもにしていければと思います。
「地域資源と社会」研究集会
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■9月30日、東京農工大学で「地域資源と社会」研究集会が開催されました。以下は、この研究集会の趣旨について、研究集会の呼びかけ人代表である東京農工大学の土屋俊幸さん(林政学)がお書きになったものです。今年の7月に書かれたものです。
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もうすぐ東日本大震災から1年半が過ぎようとしている。震災の3日後に開催予定だった「地域資源と社会」集会も、被災地の東北地域以外も含めた東日本全体が混乱状態にあったことから中止された。主催者として、「延期」通知後、なにも連絡を差し上げなかったことについてまずお詫び申し上げたい。参加予定だった皆さんからは、多くのお尋ねや開催への希望を、様々な機会にお会いした際やメールでの会話の中でいただいた。さらに、こうした時だからこそ、開催する意義がさらに高まったという励ましもいただいた。また、これまで一堂に会する機会がほとんど無かった多様な分野の一線の研究者が集合し集中的な議論を行う「類い希な機会」が、実現直前まで行っていたことについても、お褒めの言葉と共に開催実現への期待をいただいた。
この手紙を差し上げている皆さんがそうであったように、私にとっても大震災と原発大事故は大きな衝撃だった。それ以来、多くのことを考え、多くの事柄を学び、またたくさんの人々と議論してきた。そして、この震災・原発事故の持つ意味と「地域資源と社会」研究集会を開催することの意味との間で、どのような齟齬があるのか、またどのような連関があるのか、についてずっと考えてきた。
そして、いま結論を出したい。地域資源、地域の自然資源、あるいは地域の自然環境・歴史文化的遺産、と社会が、どのように関わっていくべきか、もう少し具体的に言えば、地域資源の「管理」を、社会、特に地域社会がどのように担っていくべきか、について、関心を持つ社会科学者が垣根を超えて集い、議論し合う場・機会を作ることは、3・11以前に増して、いま、必要になっており、今こそ、その一歩を踏み出すべきだと私は強く思う。社会の変革、パラダイムの転換、が言われて久しい。一方、既存の枠組み、社会のあり方を固持しようとする勢力の反撃も勢いを増している。今こそ、「地域」という基盤に立ち返り、そこで「資源」と「社会」がどのように向き合い、そして関わっていくべきか、そしてその具体的な方法はどのようなものか、について、関心のある者達が一堂に会し、考えや事例を見せ合い、教え合い、確認し合い、そして議論し合うことを通じて、社会に発信し、社会を変えていく「力」を高めていくことが、緊急に求められている。そのことによってこそ、そして、そのことによってしか、社会の変革はない、と思う。
この集会の趣旨に賛同してくれた仲間たちと相談し、その第一歩として、2011年3月14日開催予定だった「地域資源と社会」研究集会を、改めて、2ヶ月後の9月末に東京・府中で開催することを決定した。おそらく、開催予定だった昨年の集会のような多くの「同志」が集まることは無理だろう。しかし、集まれる人々だけでも集まり、まず、第一歩を踏み出したい、と思う。
この手紙は、昨年の集会に参加を予定されていたみなさん、および不参加予定ながら賛同を寄せられていたみなさん等にお送りしている。ぜひ、多くの皆さんが参加されることを強くお願いしたい。
なお、この集会の対象を、当面は、社会科学者に限っていることについて、最後に少し説明をさせていただきたい。地域資源管理に研究者が関わる際には、自然科学者と社会科学者の協働が必須であることは、地域資源管理に何らかの形で関わった経験をお持ちの方々ならば、特に議論の必要はないだろう。さらに言うならば、管理の現場での自然科学者との継続的な議論・せめぎ合いの中からこそ、地域資源管理のあり方についての、実践的、総合的な考察が可能になると考えている。しかし、一方で、そうした協働作業の過程で浮かび上がってくるのは、自然科学者とは異なる社会科学者としての自らのスタンスを確立することの重要性である。地域資源管理における社会科学ないしは社会科学者の役割を明確にする場として、ひとまずは、この集会を設定したいと思う。
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■上記の呼びかけ文の冒頭にもありますように、2011年3月14日に第1回目が開催される予定になっていましたが、東日本大震災により開催延期になっていました。そして1年半後の昨日、やっと開催が実現したというわけです。もっとも、台風が接近していることから、予定していたプログラムを短縮せざるをえませんでした。とはいえ、林学、造園学、農業経済学、環境社会学…と、専門を異にする社会科学の研究者が集まって議論を行うことができました。キックオフの集まりとしては、大変有意義だったように思います。私も司会に求められて、異分野や自然科学者との連携のあり方について、これまでの20年程、文理連携による環境研究を行ってきた立場から発言させていただきました。本当は、研究集会のあとの交流会で、初めてお会いした皆さんといろいろなお話し&交流ができればよかったのですが、それは次回に…ということになりました。
流域管理という研究テーマについて
■以下の文章は、『ソシオロジ』という社会学の学術雑誌に掲載されたエッセーです。『ソシオロジ』には、「Doing Sociology」というコーナーがあり、自由に社会学的なエッセーを書けることになっています。私は当時の編集部の依頼にもとづき、「『ご縁』に導かれて流域管理の道へ」という、少々風変わりなタイトルのエッセーを執筆しました。2009年5月に発行された165号(第54巻1号)に掲載されています。このエッセーは、環境社会学を専攻する私が、どうして流域管理をテーマに研究をするようになったのか…そのあたりのことを書いた「自分史的なエッセー」にもなっています。
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●DOING SOCIOLOGY
「ご縁」に導かれ流域管理への道
脇田健一
若いころからわき目も振らずに、特定の社会学的なテーマを一貫して追い続け、着実に研究成果を積み重ねているようなタイプの研究者と話しをすることがある。そんなとき、私は少し居心地が悪くなってしまう。過去を振り返ったとき、自分自身、研究者としてのキャリアを自らの力で切り開いてきたとは到底思えないからだ。博士後期課程の最後の頃から環境社会学を専攻していこうとは考えてはいたが、実際のところは、その時々の自分が置かれた状況に大きく影響を受けながら、ふらりふらりと研究者としての道を歩んできた。誤解を招く表現かもしれないが、「ご縁」に導かれてここまで生きてきたように思うのである。
琵琶湖博物館時代のこと
大学院の博士後期課程を終えたあと、数年のオーバードクターの時代を経て、なんとか就職することができた。一九九一年四月のことである。研究仲間が大学に職を得ていくなかで、私の就職先は社会学を専攻する者としては少し変わったものだった。就職先は、滋賀県庁。配属されたのは、滋賀県立琵琶湖博物館の開設作業を行う滋賀県教育委員会事務局文化施設開設準備室(一九九五年からは琵琶湖博物館開設準備室)であった。一般の行政職とは異なり、滋賀県立琵琶湖博物館(一九九六年開館)の開設準備を行う学芸スタッフ(研究職)としての採用ではあったが、それまでいた大学の世界とは異なり、すべてが戸惑うことばかりでだった。ひとつは、役所という固い組織で働くこと自体に対する戸惑いである。県庁に入った当時、稟議書・起案書ひとつ仕上げるにしても、上司からOKをもらうのに随分時間がかかってしまった。ただ、そのような戸惑いは、固い組織に慣れるにしたがって薄まっていった。しかし、なかなか解消されない戸惑いがあった。
開設準備室での学芸スタッフの仕事の多くは、展示に関することであった。琵琶湖博物館のテーマは、「湖と人間」。「湖や、湖に代表される大いなる自然と人間の将来にわたるより良い共存関係を考えていく」ということが、この博物館に与えられた大テーマであった。私が担当したのは、「湖の環境と人びとのくらし」という「環境」をテーマにした展示室であった。博物館の大テーマのもと、「環境」を、どのような個別テーマと導線により表現し展示として構成していくのか、それを学芸スタッフたちと議論していくことが、準備室に入った時の最初の仕事になった。ところが問題があった。それまで大学や学会で通じる話しがまったく通用しないのである。それは当然である。他の学芸スタッフたちは、生物分類学、生態学、陸水学、地学、歴史学、考古学といった社会学とは異なる分野を専攻しているからだ。そのような彼ら・彼女らの研究には、手に取って触ることのできる「物」資料が明確に存在していた。ところが社会学を専攻する者が展示を考えると、「物」資料を直接扱うのではなく、「物」の向こう側に見える琵琶湖と人間の「関係」を展示で表現しようということになる。直接的に「物」を扱っている同僚からすれば、まわりくどくピンとこない。このように書くと、「社会的事実を『物のように』(comme des choses)客観的に観察せよというデュルケームの教えを忘れたのか」とお叱りを受けるかもしれない。しかし、「物」と「物のように」とはやはり違うのである。今でも忘れないが、ある学芸スタッフには「社会学って、明確な対象のない気の毒な学問だね」と皮肉を言われたことがあった。「社会学って、やたら間口が広くて(なんでもかんでも社会学)、抽象的で、曖昧で、理屈っぽくて…」。それが同僚たちの社会学に対する当初の印象だったのではないだろうか(私の至らなさが大きな原因だったのだが…)。戸惑いは、もうひとつあった。学芸スタッフのなかに数名の行政職の人たちがいた。彼らは、実際に政策課題を抱えて、これまで施策や事業に取り組んできた人たちだ。こんな質問を受けたことがある。「現実を相対化したり、視点をずらしたり、あるいはここが問題だと指摘はできるにしても、社会学は環境問題の解決のために何ができるのか」。もっともな意見だ。ただし、当時の私には、その質問にうまくこたえることができなかった。また、答えられるだけの経験もなかった。
文理連携
博物館とは、「物」資料を収蔵し、研究し、展示する教育研究施設である。そのような博物館の世界のなかで、私のような目に見えない「関係」を扱おうとする者は完全なマイノリティであった。もっとも、当時、学芸スタッフのなかには、もう一人社会学者がいた。現在、滋賀県知事をされている嘉田由紀子さんだ。嘉田さんは、当時、すでに独自の実践的な環境社会学を切れ開かれていた。それは、博物館の機能をフルに活用した研究でもあった。駆け出しの研究者であった私などにはとても真似のできないものであった。当時の私は、上司でもあった嘉田さんとは異なる、もっと別の道を模索するべきだと考えた。しかし、そのような別の道を自らの力で切り開いていったとは、とてもいえない。すでに述べたような「過酷な」(?)状況が、結果として、「ご縁」を生みだし、私の研究を新たな方向へと導いてくことになったように思うのである。
琵琶湖博物館では、個々の専門分野だけに閉じこもって研究をすることが許されなかった。「湖と人間」という館のテーマにふさわしい、自然科学と人文・社会科学のあいだにある壁を超えた学際的プロジェクトを進めていくことが義務付けられていた。私が参加したのは、「東アジアの中の琵琶湖-コイ科魚類の展開を軸にとした環境史に関する総合研究」であった。この学際プロジェクトの目的は、地球科学、古生物学、生物学、考古学、中世史学、民俗学、社会学といった、自然科学から人文・社会科学に至までの異なる分野の研究者たちが連携しながら、環境史という歴史的な研究方法を用いて、琵琶湖という自然環境のもつ価値を評価するための「新たな視点」を提示することにあった。この学際プロジェクトで私は、このプロジェクトのグランドデザインを考えるという機会を与えられた。そして、個々の専門分野に「何ができるのか」ということ以上に「何ができないのか」に気がつくこと、異なる分野の研究に「どのように貢献できるのか」を相互に発見していくこと、言い換えれば、相補的な関係を構築していくことが必要だと考えるようになった。また、それを明快なロジックとして表現していくことが必要だと考えるようにもなった。
このような研究プロジェクトを進めているとき、当時、京都大学生態学研究センターのセンター長をされていた和田英太郎さん(生態学・同位体生物地球化学)から、「琵琶湖を中心にアジアの流域管理に関する大規模な研究プロジェクトを始めます。学際的な、文理融合をめざす研究プロジェクトです。琵琶湖博物館からも参加してください」との依頼があった。この研究プロジェクト「地球環境情報収集の方法の確立-総合調査マニュアルの作成に向けて-」は、日本学術振興会の未来開拓学術研究推進事業として行われた「アジア地域の環境保全」のひとつとして企画されたものだ。研究プロジェクトの成果は、『流域管理のための総合調査マニュアル』(二〇〇二年)という形にまとめられている。私は、この『マニュアル』をまとめる編集ワーキンググループに参加した。
正直にいって、当初、プロジェクトはまったくうまく進んでいなかった。「アジア地域の環境保全」には、六つの研究プロジェクトがあったが、私たちのプロジェクトは、「アジア地域の環境保全」推進委員会の諸委員から、たびたびお叱りを受けていた。この研究プロジェクトは、流域の環境問題の解決に資することが求められていた。科学的研究にもとづいた分析結果を明らかにし、その分析結果にもとづいて問題提起するだけでは評価されなかった。具体的な「解決」に向けての提案や方法が求められていたのである。私たちのプロジェクトでは、この点がまったくうまくできていなかった。もうひとつ。錚々たる研究者達が参加して、自分が得意とする研究を進めたとしても、それらがバラバラであれば、プロジェクト全体としてはまったく評価されないのだ。自然科学から人文・社会科学にいたるまでの異なる分野の個々の研究を、ステープラーで綴じたような研究では、文理融合とはいえないのである。
流域管理には、多数の多元的な要因がからんでいる。このような流域管理の方法を確立するためには、ひとつの学問領域または専門分野の知識や経験だけでは不十分である。このことは流域管理に限らず、環境問題一般にもいえる。近年では、環境問題の解決のためには、これまでのような理系・文系と制度的に分かれていた学問分野を、問題解決にむけて融合していくべきだとの主張がなされるようになってきた。ただし、一足飛びにそのような融合を実現することはできない。そのため、現実的には、個別科学のこれまでの蓄積を活かしつつ、同時に、諸学問領域が自明としてきた前提、また諸学問領域間のズレを明らかにしながら、少しずつ確実に、融合に向けて諸学問分野の協働作業を進めていくことが必要になってくる。私は、その協働作業を文理融合ではなく文理連携と呼んでいる。
この文理連携の考え方にもとづいて、私たちは停滞していた研究プロジェクトをまとめていく作業に入った。私たちに与えられた課題は、「琵琶湖を中心としながらも、アジアの多様な流域を念頭におき、多様性と汎用性に配慮した、そして総合性を取り入れたマニュアルを作成しろ」という困難なものあったが、なんとか、さきほど述べた『マニュアル』にまとめることができた。このような作業にあたっては、琵琶湖博物館での経験を役立ったことはいうまでもない
総合地球環境学研究所のプロジェクト
未来開拓推進事業の研究プロジェクトが終了したとき、私は琵琶湖博物館から新設大学である岩手県立大学総合政策学部に異動していた。私は地域政策講座に所属することになった。地域政策講座には、農村社会学者の細谷昂さんをはじめとして、私以外に、五名の社会学者が所属されていた。こんどは、けしてマイノリティではない。新しい職場で、これまでの経験を活かしつつ、社会学の共同研究ができればと思っていた。実際、そのようなチャンスもあった。しかし私は、再び、琵琶湖に呼び戻されることになった。
未来開拓の研究プロジェクトのリーダーであった和田英太郎さんが、京都大学生態学研究センターから、京都に新しく設立された文部省の研究機関である総合地球環境学研究所(大学共同利用機関法人人間文化研究機構)に異動された。研究所内では、和田さんをリーダーとする「琵琶湖-淀川水系における流域管理モデルの構築」(二〇〇二年~二〇〇六年)という文理連携の研究プロジェクトが組織された。和田さんからは、このプロジェクトに参加してほしいとの強い要請があった。和田さんのもとには、『マニュアル』で一緒に頑張った「戦友」たちも集まっていた。「戦友」の一人からは、「『マニュアル』のときのような苦労はさせないから、さらに踏み込んだ研究をしよう」と熱心に口説かれた。『マニュアル』で私が提案した「階層化された流域管理」という原理的な考え方を積極的に取り入れて研究プロジェクトを進めていこうともいわれた。結果として、私は、この新しい研究所のプロジェクトにコアメンバーとして参加する決心をした。
岩手と琵琶湖はかなり離れている。一週間のうち、三日間を岩手で講義をして暮らし、残りの四日を琵琶湖周辺での調査や調査にむかう移動にあてる、そんなハードな生活を三週間続けたこともあった。もっとも、研究プロジェクトの優秀な若手スタッフが、調査の準備等をきちんとしてくれたので、私は琵琶湖へと移動するだけでよかった。ただ、それからしばらくした後、琵琶に引き寄せられるように、私は滋賀県の大津市にある龍谷大学社会学部に異動することになった。
研究プロジェクトが順調に進んだわけではない。内部からの反発もあった。「苦労はさせないから」とのことだったが、やはり、そうは問屋が卸さなかったのである。コアメンバーとはいえ私は研究所の所員ではなかった。離れた場所からは、研究プロジェクトの進捗管理がうまくできなかった。特に、若手研究スタッフの皆さんには申し訳なかった。もうひとつは、ピュアサイエンスを志向するポスドクの若手研究スタッフと、公共政策の科学を志向する社会学者の私とのズレであった。「私たちの就職や将来をどう考えているのだ」と不満をぶつけられたこともあった。たしかに、そのような若手スタッフの心配は理解できる。しかし、新たな流域管理の方法は、居心地の良い専門家の「共同体」からあえて抜け出す必要がある。そして、研究プロジェクト内部で生じる専門領域間のコンフリクトを超え、相補的な関係を構築しなければ生み出すことはできないと思うのである。
『流域環境学』
紆余曲折はあったものの、研究プロジェクトはなんとか終了した。海外からの研究者を招聘しての評価委員会でも、満足のいく評価を得ることができた。そして、研究プロジェクトの成果は、二年の準備期間を経て、日本生命財団からの助成を受け、今年の三月に『流域管理環境学-流域ガバナンスの理論と実践』(京都大学学術出版会)として出版されることになった。『流域環境学』は、流域管理の現状と課題から始まり、ガバナンスに配慮した新しい流域管理の考え方=「階層化された流域管理」の考え方の提案、流域診断の技法、流域管理を進めるための社会的コミュニケーション支援、流域環境学の発展課題と続く、五部から構成されている。
時代は、行政や専門家だけによる一律的なトップダウン的環境行政から、環境政策の決定過程に、地域住民や様々な関係者が多様な利害関係者として参加・参画するべきだという考え方に不十分ながらもしだいにシフトしてきている。このような環境ガバナンスの時代においては、従来の環境政策のようなトップダウン的なアプローチだけでなく、そのようなトップダウン的なアプローチと、地域社会からのボトムアップ的なアプローチをどのように接合していくのかが問われるようになってきている。しかし、現実には、そこには大きな制約条件が存在している。階層である(ただし、社会学でいう階層研究の階層ではない)。私たちは流域には複数の階層が存在しているとものとして捉える。そして、その階層に多様な利害関係者(ステークホルダー)が分散しているために、流域管理を進めるうえでの社会的コミュニケーションが困難になり、流域管理に関する問題認識に違いが生まれてくと考えている。このような問題を乗り越えるために、私は「階層化された流域管理」*という考え方を提示した。詳しくは、第二部の「『階層化された流域管理』とは何か」や「農業濁水問題の複雑性」といった拙論をお読みいただきたい。そして、研究プロジェクトでは、この「階層化された流域管理」の考え方をベースに、水質問題(農業濁水問題)を事例として、流域の問題解決を促進するための社会的コミュニケーションをどのように豊富化していくのかという観点に立ち、流域診断・流域管理の方法論の開発を進めてきた。おそらく、今であれば、琵琶湖博物館時代に言われた「社会学は環境問題の解決のために何ができるのか」という質問に対して、それなりに答えることができるかもしれない。もっとも、かつての同僚に納得してもらえるかどうかは別問題だが…。
さて、研究プロジェクトの成果を『流域環境学』にまとめたあと、私は、より実践的な段階へどのように研究を移行させていくのかを模索をしている。さきほど述べた研究プロジェクトの「戦友」とともに、滋賀県の琵琶湖総合保全学術委員会で、琵琶湖総合保全整備計画第二期のあり方について、異なる分野の研究者たちと継続的に議論をしている。また、滋賀県の琵琶湖環境科学研究所の「琵琶湖流域管理シナリオ研究会」にも参加している。ここでも、異なる分野の研究者が集まり、琵琶湖の環境保全計画の基本となる琵琶湖の将来像を、県民参加で描きだす手法を開発しようとしている。
このような私のDOING SOCIOLOGYが、学会内部の正統派の社会学の立場からは、どのように映るのか正直よくわからない。しかし、環境政策の現場では、専門分野の壁を超えた動きが確実に進んでいる。新たな「ご縁」のなかで、私の前にどのような道が広がっていくのか、大変楽しみにしているのである。
*この「階層化された流域管理」の考え方は、鳥越皓之さんの「生活環境主義」と、舩橋晴俊さんの「環境制御システム論」の成果を、自分なりに咀嚼し摂取しつ提示したものである。「生活環境主義」に対する私なりの考え方については、拙論「琵琶湖・農業濁水問題と流域管理」(『社会学年報』No.34、東北社会学会)の冒頭で簡単に述べたが、「環境制御システム論」も含めて『流域環境学』のなかでは十分に説明できていない。これらについては、別の機会に譲ることとしたい。 (わきた けんいち・龍谷大学社会学部教授)
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【追記】■このエッセーの最後に補記のように「これらについては、別の機会に譲ることとしたい」と書いています。この論考は、『環境社会学研究』vol.15(2009年)の特集「環境ガバナンス時代の環境社会学」の巻頭論文として掲載されました。「『環境ガバナンスの社会学』の可能性-環境制御論と生活環境主義の狭間から考える-」というタイトルの論文です。以下は、この論文の和文要約です。
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本稿では、環境ガバナンスが人口に膾炙する時代における、環境社会学の課題や役割について明らかにしていく。以上を明らかにするために、まず、環境社会学の二大研究領域である<環境問題の社会学>と<環境共存の社会学>の代表的な研究として、舩橋晴俊の環境制御システム論と鳥越皓之らの生活環境主義を取り上げ、それらの理論的射程を再検討する。そして、両者の議論と関連しながらも、その狭間に埋もれた環境ガバナンスに関わる新たな研究領域が存在することを指摘する。そのような研究領域では、以下の2つが主要な課題となる。(1)多様な諸主体が行う環境に関する定義(=状況の定義)が、錯綜し、衝突しながら、時に、特定の定義が巧妙に排除ないしは隠蔽され、あるいは特定の定義に従属ないしは支配されることにより抑圧されてしまう状況を、どのように批判的に分析するのか。(2)そのような問題を回避し、実際の環境問題にどのように実践的にかかわっていくのか。以上2つの課題を中心に、政策形成をも視野に入れながら、「環境ガバナンスの社会学」の可能性について検討を行う。
キーワード:環境ガバナンス、環境制御システム論、生活環境主義、環境に関する定義、環境社会学の役割
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