「びわ100ファイナル」の記録
▪️「びわ100」ファイナルからだいぶ時間が経過しましたが、記憶が曖昧になる前に、記憶していることをこのプログに残しておきます。とても長くなりますが、どうかご容赦ください。
▪️10月19日(土)・20日(日)の両日で、「第10回 びわ湖チャリティー100km歩行大会」=「びわ100 ファイナル」が開催されました。私は、第3回・4回・5回・6回・9回と過去5回出場し、ありがたいことに、なんとか全ての回で完歩することができました。とはいえ、毎回、本当に自信がなく、完歩できるのかどうか心配していました。今回はファイナルということで、悔いの無いものにしたいと、これまでの中で一番練習をしてきたように思います。とはいえ、普段からウォーキングにきちんと取り組んでいるのかといえば…けしてそのようなことはありません。7月に入り、そろそろ練習をしなくてはと思っていましたが、ものすごい酷暑のために、ウォーキングに取り組むことを躊躇していました。また、7月の下旬はコロナウイルスに感染してしまい、体調が回復した8月に入ってから真面目に練習のウォーキングで距離を積み重ねてきました。
▪️真面目にと書きましたが、全国のあちこちで開催されるウルトラウォーキングに参加されているようなベテランの皆さんと比較すれば、たいしたことはないのです。5kmあたりから始めて、10km、20km、30kmと歩く距離を少しずつ伸ばし、最後は、44km、そして最終的には55kmまで練習で歩きました。過去5回完歩して、練習時に50kmを超える距離が歩けたら、本番でもなんとか100kmを完歩できるという根拠のない思い込みのようなものがあるのです。30kmまでは1人で練習しましたが、44kmでは滋賀県庁の20名ほどの職員の皆さんと一緒に歩きました。そこには、親しくさせていただいている龍谷大学吹奏楽部OBの上道郁夫さんも一緒に参加されました。そして、その上道さんとは55kmの練習も2人で一緒に取り組みました。その55kmの長い道中では、足に塗る靴擦れ防止のクリームのことやシューズの情報を教えていただきました。そして本番も上道さんと一緒に歩くことになりました。これはとてもありがたいことでした。
▪️当日のことについて書きます。前日は、あまりしっかり睡眠を取ることができませんでした。4~5時間ほどです。緊張しているから、興奮しているからでしょうか。これは良くないですね。徹夜で歩かねばならないのに、睡眠時間が短いというのは問題です。でも、仕方がありません。大津市内の自宅からスタート地点の長浜市まで、JRで向かいました。まずエントリーをして、スタートの準備を始めました。スタートは、3グループに分かれてのスタートになりました。私は、一番最初にスタートするグループでした。スタートするまでに、上道さんとも合流しました。上道さんは、2番目のグループです。スタートは3分程私よりも遅くなります。でも、そのうちに追いついていただく約束をしました。スタート地点では、facebookを通して知り合った香東秀孝さんとも、今回実際にお会いしてご挨拶をすることができました。香東さんは、毎朝、10kmを歩かれるプラチナの脚の持ち主です。東京からお越しくださいました。もう1人、娘が勤務している企業の上司の方ともお会いすることができました。
▪️そうやってスタートを待っていると、雨が降り出してきました。これはまずいです。天気予報で雨が降ることはわかっていましたが、スタート時点からとは思ってもいませんでした。過去の大会で2回雨で辛い思いをしました。第4回と第9回です。足の裏が真っ白になり、ふやけて肉刺ができて、それが潰れて、その後は歩くたびに痛みを感じることになりました。その時の辛さが強く記憶に残っているので、今回は、上道さんの情報をもとに、万全の対策をして臨みました。GORE-TEXのシューズ、GORE-TEXのソックス、そしてGORE-TEXのレインウェア。足裏には少々高価なクリームも塗りました。結局、雨に悩まされることはなく、ソックスも履き替えることなく、ゴールすることができました。これらのことは、「びわ100ファイナル 準備編」として投稿しましたので、そちらをご覧ください。
▪️さて、スタート後のことを書きます。これまでは、多くの参加者の皆さんと団子になって歩くのが嫌で、けっこう飛ばし気味に歩いていたように思いますが、今回の目標は、最後までイーブンのペースで歩くということでした。ですから、追い抜かれても気にせず、ただひたすらペースを守る努力をしました。前に人がいると、ついつい追い抜きたいという気持ちになってしまうのですが、そうなるとペースが乱れてしまいます。その時は追い抜く余力があったとしても、後半戦ではそのことの積み重ねがマイナスに作用するからです。
▪️上道さんとは、彦根市内で合流できました。上道さんは、GARMIN社のスポーツウォッチをされています。私も息子から以前プレゼントされた同社のスポーツウォッチを腕につけていたのですが、事前の設定が不十分で、自分のスピードを「1kmあたり何分何十秒」という形式で表示できるようにはしていなかったのです。ということで、上道さんが前を歩かれる時は、スポーツウォッチでスピードを確認しながら歩いている上道さんに合わせて歩き、私が前の時は、上道さんから時々スピードを教えてもらっていました。そうやってペースをおよそ一定にキープできるように努力しました。「びわ100」ではIBUKIというGPSをリュックに装着して歩きます。スマホでも私たちがどのあたりを歩いているのかわかるのです。少し調子に乗りすぎでペースが早いと、上道さんのスマホに奥様から「早すぎる」と注意のメッセージがLINEで届いたりしました。まあ、そのようなこともあったのですが、最初からだいたい同じようなスピードで歩くことができました。これは、大きかったと思います。
▪️もうひとつ、今回はウォーキングの途中での栄養の摂り方に注意を払いました。私は糖尿病の持病があり(最近は、「糖尿病」という病名に伴う偏見やスティグマを排除するために「ダイアベティス」と言い換えるようになっているそうですが)、血糖を尿とともに排出する薬を飲み、食事にもかなり気を使っています。糖質をできるだけ摂取しないようにしているのです。問題は、普段の生活では血糖値を下げるように努力しているのですが、ウルトラウォーキング中は歩き続けるために、そのエネルギーとして血糖が必要になるのです。今回は、この問題を可視化するために、スポーツ栄養学の専門家のアドバイスをもとに、「FreeStyle LibreLink」という血糖値を測定するセンサーを左の二の腕に貼り付けて歩きました。過去に「びわ100」を完歩していても、途中で悪寒が生じてしまったり、歩くスピードが極端に遅くなることがありました。それは、低血糖によるものと思われます。
▪️今回の私の目標は、できるだけ血糖値を上げず、しかも低血糖にならないように歩くということでした。スポーツ栄養学の専門家からは、最後まで食べ続けるようにアドバイスをいただいていました。センサーの数値を見ながら、アンパン、アップルデニッシュ、おにぎり等をこまめに食べながら歩きました。「できるだけ血糖値を上げず、しかも低血糖にならないように」と矛盾するようなことを書きましたが、そのように上手い具合にはいきませんでした。エイドステーションでは、味噌汁とご飯が出ました。ご飯を食べると、血糖値がぐーんと上がりました。その数値を見て焦りました。普段は白米は食べないようにしているので、数値を見て驚いたのです。歩くと血糖値は下がります。食べると血糖値は上がります。血糖値が乱高下しました。ただ、今回は低血糖にならずに最後まで歩き続けることはできました。途中で、疲れて座り込んでおられる方達を拝見しました。ひょっとすると、栄養補給がうまくできていないのかもしれません。
▪️第1チェックポイント(近江八幡市)には、6時間40分で到着しました。時刻でいうと16時40分頃、夕方ですね。天気予報では、雨が止んでくるはずだったのですが、ところがどっこい、この第1チェックポイントで強風を伴う強い雨が降り出したのでした。参加者の皆さんはテントの下に避難されていましたが、それでも雨から逃れられません。私と上道さんは、この第1チェックポイントでゆっくり休むことをせず、土砂降りの雨の中をスタートしました。同じ頃に第1チェックポイントに到着された方の中には、半袖のTシャツに短パン、その上から簡易なレインコートを着用、そのようなスタイルの方がおられました。その後、どうされたのかわかりませんが、あの雨の中では歩くことは大変だったと思います。
▪️上道さんと私は、GORE-TEXの上下を着ていましたので、その辺りの心配はありませんでした。むしろ、短い休憩だけで、雨の中をスタートしたのです。 第2チェックポイントに向かう途中、これは嵐かなと思う瞬間もありました。途中、エイドステーションで前述のご飯と味噌汁をいただき、ここでもあまり休まずに、歩きました。ゆっくり休んでしまうと、脚の筋肉が固まってしまい、再スタートしてエンジンがかかるのに時間がかかってしまうからです。そうならないように、短い休憩でスタートしました。今回、上道さんと一緒に歩きました。もし、1人で歩いていたらどうなっていたでしょうか。おそらく、疲労のため、脚の痛みのため、休憩時間が長引いてしまったと思います。お尻から根が伸びてしっかり椅子に絡まっていくのです。そうなると、脚はますます固まっていきます。これは、まずいわけです。
▪️でも2人でバディを組んで歩いていると、お互いへの配慮が働き、「そろそろ行きますか」とどちらからともなく声を掛け合うのです。これは大きな気づきになりました。健脚、剛脚の方達は、関係のない話になりますが、普通の脚力の人たちは、同じような力の方とバディを組まれることをお勧めします。上道さんと私は、事前に、44kmと55kmを一緒に歩いていたので、ほぼ同じような力量で歩かれることがわかっていました。だからこそ、バディを組むことができたのです。
▪️嵐かなと思う瞬間もあったわけですが、途中からはその風が追い風になりました。野洲川にかかっている橋を渡るときは、両手をひげると後ろから風が押してくれる感じがしました。それほど風が強かったのです。第2チェックポイントには、21時39分頃に到着しました。ここでは、足の裏の状態をチェックしました。上道さんのシューズやソックスはGORE-TEXではなかったので、水たまりに片足をつけてしまい、足裏が白くふやけておられました。私が持っていた大判のバンドエイドを差し上げてそれで応急の対応をしていただきました。そのケアのためにしっかり休憩しましたが、休憩時間をできるだけ短くしてスタートしました。
▪️第2チェックポイントのあたりまで来ると、「脚が棒のようになっている」感じがします。でも、ここまでくると、55.6km歩いたことになります。「びわ100」は102.1kmですから、残りは46.5kmになります。でも、そういうふうには考えないようにしています。あえて、頭の中では「次の第3チェックポイントまで、たった15.2kmだ」と考えるようにしています。第3チェックポイント以降のことは、考えないようにしています。「びわ100」は今回がファイナルなので、もうこのような情報は役に立たないと思いますが、第2チェックポイントから第3チェックポイントまでは、歩道が整備されていて、とても歩きやすい道なんです。
▪️話はずれますが、歩きやすいということで言えば、すべての歩道ではありませんが、ずいぶん改善されていることを実感しました。これは、私の推測でしかありませんが、「びわ1」のために道が整備されているのではないかと思っています。「びわ1」は自転車で琵琶湖を1周するアクティビティですが、とても人気があります。滋賀県も力を入れています。滋賀県の関係人口を増やそうというわけです。結果としてですが、「びわ1」のおこぼれを「びわ100」もいただいているのではないかと思います。あくまで、私の推測でしかありませんが。
▪️第3チェックポイントまで来ると、「脚が棒のようになっている」のを通り越して「脚は完全に棒」になります。しんどいです。残りは、31.3kmです。でも、そのようには考えません。繰り返しになりますが、第4チェックポイントまで「たった12.2kmだ」と考えるようにしています。特に、第4チェックポイントまでは、瀬田川沿いを歩かないといけません。「びわ100」のコースの中では、個人的な印象ですが、歩きにくいのです。暗くて、しかも眠いのです。川に落ちないように気をつけて歩かねばなりません。今回は睡眠不足でした。不安がありました。フラフラして瀬田川で溺れるなんてとんでもない話です。ということで、コンビニに立ち寄り、眠気覚ましのカフェイン飲料を買って飲みました。「強眠眠打破」です。
▪️個人的な事情ですが、私には、なんとしても第4チェックポイントまで歩かねばならない理由がありました。この第4チェックポイントをベースに、瀬田川沿いを「びわ100」のボランティアスタッフとして巡回していた方が、私がやってくることを待っていてくださったのです。龍谷大学職員の竹之内正臣さんです。竹之内さんとは、第4チェックポイントでお会いすることができました。でも、気が付いていませんでしたが、それ以前にすれ違っていたのです。昨年の第9回の「びわ100」では、第4チェックポイントの直前では相当ばてていました。竹之内さんによれば、その時の様子とは今回は全然違っていたようです。上道さんと一緒にしっかり歩いていたので、それがまさか私だとは気がつかなったようです。
▪️第4チェックポイント。ここで83kmです。昨年は、雨で足がふやけて肉刺ができたため、ここでボランティアの方に足のケアをしていただきました。本当に、ありがたかったです。でも、今回は違っていました。GORE-TEXのシューズ、ソックスのおかげて足裏には何も問題が発生していませんでした。短時間の休憩とエイドのサービスを受けた後、再び、上道さんとスタートしました。ここからは、ゴールまであと19.1kmです。1kmを散歩のようにゆっくり15分で歩いても、残り5時間あればゴールできます。
▪️第4チェックポイントを出発する頃には、すでに明るくなっていました。瀬田川を遡り、プリンスホテルのあたりを歩いていると、朝日が登ってきました。なんというか、感動的な雰囲気でした。一緒に歩いた上道さんは、朝日に向かって手を合わせて拝んでおられました。ご来光ですね。もし1人で歩いていると、頑張りが足らずに、足はなかなか前には進まなかったと思います。上道さんと一緒に歩いているからこそ、頑張ることができたのだと思います。この辺りで、さらに頑張る気持ちにもなりました。応援してくださる方たちが現れたからです。
▪️まず、私の指導をしてくださったスポーツ栄養学の専門家=石原健吾先生(龍谷大学農学部)が、自転車(競技用のバイク)に乗って、私たちのところに応援に来てくださったのです。とても嬉しかったです。IBUKIで確認すると、石原先生の予想よりも先に進んでいたので、慌てて自転車で追いついてくださいました。石原先生は、昨年もボランティアとして第4チェックポイントの近くでお世話になりました。石原先生によれば、その時の私の様子と、今年とではかなり違っていたようです。昨年は、ふらふらの状態だったのですね。
▪️その後、毎週にのように通っている大津駅前のいつもの居酒屋「利やん」のご常連、中川俊典さんが、IBUKIをタブレットで確認しながら、私がどのあたりを歩いているのか探しておられました。目の前にいたのに。私の方からお声をかけさせていただきました。まさか、朝早く、わざわざ応援に来てくださるとは思ってもいませんでした。とても感動しました。
▪️石原先生や中川さんの応援を受けた後、いよいよ最後になります。残り12kmです。浜大津のあたりで、疲れ切って歩けなくなっている方もおられました。私はといえば、もう、脚が棒になる…を通り越して、大変なことになっていました。ちょっとかがむと倒れそうになります。でも、バディの上道さんが良いペースでリードしてくださいました。上道さんの足取りは、私とは違って最後までしっかりされていました。私は、脚を前に進めるだけで精一杯。上道さんにリードしていただきながら、坂本の街を抜けて雄琴温泉のゴールに向けて進んでいきました。
▪️スタートしてから22時間37分10秒。ゴールすることができました。20日の朝8時37分です。毎回のことですが、余裕を持ってのゴールではありません。やり遂げたという気持ちもありますが、それと同じだけ、「もう、これ以上、歩かなくて良いのだ」という安心した気持ちが湧いてくるからです。毎回のことですが、もう最後は大変でした。第2チェックポイントからはストックを使っていましたが、最後は杖のような感じでした。上道さんがリードとてくださったから、なんとかなりました。結果、自己記録が出ました。上道さんのお陰です。本当にありがとうございました。心より感謝いたします。
▪️ゴールの際には、運営スタッフの小林幹雄さんに出迎えていただきました。小林さんには、「びわ100」で毎回お世話になってきました。ありがとうございました。でも、今回が「ファイナル」なのですね。多くの皆さんは、ゴール後、雄琴温泉のどこかで疲れを癒してから帰宅されるのでしょうが、私は自宅がゴールの近くということもあり、家族に車で迎えにきてもらい、そのまま帰宅しました。家族から見ても、昨年とは違い、足取りがしっかりしているとのことでした。昨年は、玄関前にある階段を登るのも大変だったようで。今回は、脚が棒を通り越してもっと大変な状況になっていましたが、それでも体力を維持したままゴールできたようです。バディを組んでくださった上道さんをはじめとして、多くの皆様に支えていただいたおかげです。
「淡海ヨシボランティア」に参加しました。
▪️今日は、公益財団法人・淡海環境保全財団が主催する「淡海ヨシボランティア」のイベントに参加させていただきました。場所は、野洲市の須原地先(あやめ浜)です。今日のイベントには、3グループが参加されていたようです。そのうちの2グループは地元滋賀県の企業の社員の皆さんでした。親子連れで参加されている方もいらっしゃいました。私は、財団の職員さんにお誘いいただき、参加させていただきました。県のヨシ群落保全審議会のメンバーなので、会議だけでなくもっと現場に出かけなくてはとの思いから参加させていただきました。楽しかったんです。
▪️昨日は大雨でしたが、今日は快晴。ボランティア日和でした。淡海環境保全財団のヨシ苗育成センターで育てられたたくさんのポットに入った苗(たしか、200個でしたか…)を、それぞれが移植ゴテで浜に穴を掘って、ポットから取り出した苗を植えていきました。人数が多かったこともあり、作業自体は30分ほどで終了しました。きちんと苗が活着してくれると嬉しいです。このヨシ苗ですが、この浜に生えていたヨシを「親」として、そこから苗を増やしていったのだそうです。いろいろ配慮されていますね。
▪️もともとは、もっと水辺に植えていたそうなのですが、このあたりは風が吹くと強い波がやってきます。今日も、そのような日でした。すると、せっかく植えた苗も活着する前に流されてしまうようです。ということで、今回は、少し波で流されないように、陸側に苗を植えていきました。
▪️ボランティア活動の最後には、地元の松沢松治さんがご挨拶をされました。ご挨拶の中で印象に残ったことが2つありました。1つは、国が実施した超巨大事業である琵琶湖綜合開発で、このあたりのヨシ群落が失われてしまったことです。今は、湖岸に湖州道路が走っていますが、これは治水事業の一環として建設されたもの、道路とはいっていますが、堤防なのです。正式には「湖岸堤・管理用道路」と言います。琵琶湖周辺において、洪水時に浸水被害の恐れ がある地盤標高の低い地域(全長約50.4kmの範囲)に設けた堤防なのです。このような事業により、水害の被害に遭うリスクが下がったわけですが…。
▪️ 2つめは、昔はどんなに風が強くても琵琶湖の水が濁ることはなかったというお話でした。松沢さんによれば、大きな河川からの砂の供給がなくなってしまい、砂地だった湖底に泥も混じるようになったために、濁るようになったのだそうです。風が強く吹くと湖底の泥が巻き上げられ濁るのです。治水・利水事業により大きな河川からの砂の供給が滞ってしまうと、これまであった砂浜が少しずつ欠けていくことになります。ヨシは、砂が堆積するような場所に真っ先に生えてくる植物ですから、砂浜がかけていくとヨシ群落も衰退していくことになります。
▪️人間の行ったことに対して、自然は素直に反応しているのです。その自然の応答にきちんと耳を傾け、自然のもつ力に寄り添うようにしながら、松沢さんの記憶にある、かつてのようなヨシ群落を復活させていく必要があります。そうそう、2週間前は、この浜の横の歩道を一生懸命歩いていました。「びわ100」です。
西の湖(近江八幡市)の葦地(よしじ)を見学
▪️1993年、淡海環境保全事業財団が設立されました。2012年には、公益財団法人に移行しました。設立から、昨年で30年を迎えました。そのタイミングで「淡海ヨシのみらいを考える会議」が設立されました。私はこの会議のメンバーです。10月25日(金)に、さまざまな職業の方達、しかし琵琶湖のヨシ群落に強い関心をお持ちの皆様と一緒に、「現地見学会」に参加させていただきました。午前中は、公益財団法人・淡海環境保全財団の「ヨシ苗育成センター」を訪問して、財団の職員の方から、ヨシ苗育成事業、ヨシ紙事業、ヨシ腐葉土事業に関して丁寧な説明を受けました。午後からは、見学の場所を近江八幡市にある西の湖の円山に移しました。特定非営利活動法人「まるよし」の皆さんが活動されている葦地(よしじ)を訪問し、「まるよし」の代表である宮尾陽介さんに解説していただきました。
▪️トップの写真、刈り取ったヨシを乾燥させるためにヨシの束を寄せ合わせて立てます。これを「丸立て」というようです。ヨシ刈は冬に行われますので、季節外れの風景になるのですが、この場所が近々ヨシをテーマにしたイベントを「まるよし」さんで開催するとのことで、そのために「丸立て」を用意されたようです。ちなみに、この円山のヨシは大阪で開催される万博に運ばれ使われるとのことでした。円山には、ヨシ業者さんがおられます。産業としてヨシを栽培して、刈り取り、ヨシの商品を製造・販売されているのです(下の2枚の写真は、そのようなヨシ業者さんの作業場を撮ったものです。)。そして、それらのヨシを栽培する葦地は個人の所有地なのです。公有水面のヨシ群落は開発や土木工事により減少してしまったのとは異なり、ヨシ産業が存在し、ヨシを刈り取る土地も私有地であるため、このあたりのヨシ群落は残っていると言えるのかもしれません。ただし、かつてのようにたくさんのヨシ業者さんがいるわけではありません。中国から安価なヨシが輸入されることで、たくさんおられたヨシ業者さんの数もずいぶん減っています。
▪️ヨシについては、以下の短い説明が役に立つかもしれません。特に、「過大に評価されてきた水質浄化機能」に関しては注文していただきたいと思います。ヨシと言えば、「水質浄化」と多くの皆さんが思い込んでこられたように思いますが、そうではないことを専門家が指摘しています。では、ヨシ群落にはどのような機能があるのかということなのですが、「湖国の原風景を象徴する景観の形成、環境教育の場」、「鳥類・魚類などの生殖・繁殖の場」、「ヨシ産業や暮らしを支えてきた資源の供給」の3つが挙げられています。
「琵琶湖ハンドブック三訂版」7-7 ヨシ
▪️さて、特定非営利活動法人「まるよし」の宮尾さんからは、次のようなお話をお聞かせいただきました。上の写真ですが、真ん中に水路があり左右にヨシ群落が広がっています。左は、毎年きちんとヨシの刈り取り、火入れ等の作業がきちんと行われているヨシ群落です。右の方は、ヨシを刈り取る人が不足することで(高齢化で作業が大変になってこられた)、ヨシ刈ができなくなっていたヨシ群落です。宮尾さんたち「まるよし」では、3年前からこの土地でヨシ刈を始められました。まだ、左のヨシ群落のようにはなっていません。所々にオギが生えています。宮尾さんによれば、ヨシ刈が行われずに、そのまま腐って堆積していくとそこは水気のない乾いた土地になっていきます。そのような場所にオギが生えてくるとのことでした。宮尾さんたちが取り組んでいるヨシ群落も、きちんと管理をしていくことで、右のようなヨシ群落に少しずつ戻っていくのかもしれません。
▪️最後の写真は、宮尾さんがヨシ群落に渡っているところです。ヨシ群落には橋がかかっていません。この船を使って対岸のヨシ群落に移動するのだそうです。今後とも、宮尾さんには、特定非営利活動法人「まるよし」の活動状況や、円山や西の湖の周囲のヨシ群落の保全や利用等についていろいろ教えていただきたいなと思ってお願いしています。「まるよし」さんでは、ヨシの活用に力を入れておられます。現在は、岐阜県の業者さんや研究者とも連携して、ヨシを使った建築資材(ボード)の商品化に取り組まれています。琵琶湖のヨシ、現代的な文脈の中で、再び積極的に活用されるようなアイデアをもっと考えていかなければなりません。
龍谷大学吹奏楽部 秋華賞ファンファーレ G1 @JRA京都競馬場
▪️競馬のことはまったくわかりません。競馬場にも行ったことがありません。というか、ギャンブル一般、全て縁遠い感じですかね。とはいえ、この龍大吹奏楽部のファンファーレには注目です。競馬に縁遠い私は、菊花賞というの知っていても、この秋華賞というのは知りませんでした。昨年も秋華賞でファンファーレを吹いていますが、何のためのファンファーレなのか気にしていないというか、忘れてしまっていました。すみません…。
▪️YouTubeの動画を拝見する限り、当日のファンファーレうまくいったようです。よかった、よかった。音が外れるのは、予想が外れるにつながるので嫌われる…という話を聞いたことがあります。今年から新しい赤いパレードコスチュームになりました。かっこいいです。スクールカラーの赤です。
龍谷大学吹奏楽部 第51回定期演奏会
▪️龍谷大学吹奏楽部の定期演奏会のお知らせをシェアします。12月27日、ザ・シンフォニーホールで18:30(開演)からです。今回は、息子と息子のパートナーにも来てもらいたいと思い、必死になって「チケットぴあ」チケットを購入しました。「チケットぴあ」、慣れません。たぶん、これからもずっと…。
▪️今回も、クラシックの名曲が演奏されます。チャイコフスキーの交響曲第4番の4楽章です。編曲は、いつもお世話になっている日影貴文先生です。これまでも、ワーグナーの歌劇「さまよえるオランダ人」序曲 や、同じくワーグナーの歌劇「リエンツィ」序曲等を龍谷大学吹奏楽部のために編曲してくださいました。今回も、ものすごく楽しみにしています。
▪️以下は、龍谷大学吹奏楽部による歌劇「さまよえるオランダ人」序曲 と歌劇「リエンツィ」序曲の演奏です。
コンクールの前後で(4)~函館市電~
▪️路面電車が走る街は素敵な街が多いと思います。このブログでも、福井、岡山、広島、鹿児島、富山、そして大阪の路面電車について投稿してきました。私は路面電車が好きなんですね。先日訪問した北海道の函館も、函館市営の路面電車が走っています。市電と呼ばれています。札幌市で開催された全日本吹奏楽コンクール・大学の部に出場した龍谷大学吹奏楽部の金賞受賞を確認した後、札幌から函館まで移動しました。函館空港から関西に戻る前に、せっかくだからと、五稜郭にも立ち寄りました。その際、もちろん路面電車に乗りました。
▪️写真は、私が乗車した市電です。「五島軒」と書かれています。函館の老舗レストランの広告ですね。市電丸ごとレストランの広告になっています。市電の行き先の表示、「函館どつく」になってます。「どつく」と表記されていますが、通常はドックとカタカナです。wikipdiaの説明ですが、「船の建造、修理、係船、荷役作業などのために海岸、河岸、湖岸等を掘り込みまたは埋め立てて築造された湾入状・袋状の平面形の土木構造物」ということになります。ただ、関西人は「どつく」という表記に一瞬躊躇うのではないでしょうかね(笑)。
▪️ところで、車内では「あれっ?」と思うアナウンスが流れていました。調べてみると「函館の路面電車開業110周年記念 車内放送してみませんかぁ?(YouTube公開)」という企画のようです。面白いですね、この企画。「それぞれの停留場名ご案内の前に,函館の良いところ,函館の好きなところ,函館への想い,函館市電への応援 など,思い思いのコメントも入れて」あります。こうやって一般市民が車内放送という形により「参加」することで、マイレール意識が涵養されていくのであれば、素敵なことだなと思います。
仰木の耕作放棄地が、美しい畑になりました。
▪️10月22日の投稿「農業体験プレイベント」でした。その投稿にもあるように、自宅のある新興住宅地に隣接する農村、仰木の耕作放棄地で、有機農業を事業化された農家の指導のもと除草作業を行いました。除草作業後についてですが、農家がトラクターで耕運してくださり、とても美しい畑になりました。そのことを特定非営利活動法人「琵琶故知新」のサイトの記事でご覧いただけます。私も理事長として登場しています。まだまだ農業の真似事でしかありませんが、農家の指導を受けて、野菜を生産するのも、もうじき…ということになりました。
滋賀県ヨシ群落保全審議会
▪️昨日の午前中、「第40回滋賀県ヨシ群落保全審議会」が開催されました。審議会ですから、多くても年に2回ほどしか開催されませんが、これまで琵琶湖環境部の担当課とは、綿密に連絡をとりあい、審議会でも丁寧に議論をしてきました。私がこの審議会のメンバー、そして会長になったは2015年からですから、今年度で10年目になります。年に1回か2回の開催回数ではありますが、ずいぶん長くこのヨシ群落の保全に関わってきました。個人的にも色々勉強になりました。
▪️ところで、私がこの審議会のメンバーになった頃、そしてそれ以前は、琵琶湖総合開発のような大規模な巨大国家プロジェクトによって減少したヨシ群落を、造成によってどう量的に増やしていくのかを重視していました。しかし、面積的には一定程度回復してきた段階で、様々な観点から望ましいヨシ群落をどう維持していくのか、質的に回復していくのか、そのあたりに議論の焦点が写っていきました。「量」から「質」への転換です。ヨシ群落と人や地域との関わり、産業との関わりが希薄になり、ヨシ群落が望ましい状況ではなくなってきています。人の手が加わらなくなって里山が荒れていることは知られていますが、同じように、ヨシ群落も人の手が加わらなくなって荒れてきているのです。
▪️ヨシ群落が荒れているとはどういうことなのか、望ましいヨシ群落とはどういう状況なのか、立場や価値観によって異なります。たとえば、鳥類の保護を大切にされている方達が考える望ましいヨシ群落と、葦簀等、ヨシを地域産業の資源として使っている葦業者さんが考える望ましいヨシ群落とでは、かなりの違いがあります。ただ、多くの皆さんは、このままではダメだという思いを共有されているのだと思います。ヨシ群落の保全を気にしながらも、異なる立場の人たち、異業種の人たちが、どうすれば連携していけるのか…そのことが大切になってきているように思います。
▪️そのような連携を促進するためには、これまでのヨシ群落保全政策の基本的な視点、ヨシ群落を「守り」・「育てる」・「活用する」に加えて、ここからは個人的な意見ですが、「つながる」(「異業種」の方達が)・「知らせる」(ヨシ群落に関わる様々な情報を共有する)・「ほめる」(それぞれの前向きな取り組みを社会的に評価しあっていく)が必要なのではないかと思っています。また、審議会だけでなく、もっと機動力ある「情報交換の場」「連携促進の場」の創出が必要だとも思っています。
▪️昨日の審議会では、まず令和3年12月に改訂された「ヨシ群落保全基本計画」の概要説明があり、昨年度の取り組みの実施状況について、維持管理についての説明が行われました。特に厳しいなと思ったことは、ヨシ群落に生えてくるヤナギが巨木化して、群落の多様性が失われている場所があるということです。砂州のような場所にヨシがまず生えてきます。当初は「ヨシ主体の群落」なのですが、しだいに「混成群落」となり、最後は「ヤナギ主体の群落」に移り変わると言われています。以前は、ヨシ刈が盛んに行われて、ヨシ群落には人の手が加わっていました。生えてくるヤナギも、すべてではないしろ、湖岸の人びとによって伐採され、燃料等に活用されていました。人の手が加わることで、ヤナギ主体の群落になることはなかったのです。もっとも、審議会で問題にしているのは、「滋賀県琵琶湖のヨシ群落の保全に関する条例」により指定されている「保護地区」・「保全地区」・「普通地区」のヨシ群落になります。
▪️このようなヨシ群落のヤナギに関しては、これを伐採していくことになります。今は、伐採して薪にしています。そしてストーブ等の燃料を求めている方達に無料で配布しています。無料なんです。ホームセンターでも薪は売っています。一束1000円ほどします。もし、湖岸の伐採したヤナギを販売して、その収益を、ヨシ群落の保全に必要な資金にすることができれば良いのですが…。まず、商品化するには手間と人手が必要になります。費用が発生します。その費用は価格に加わります。値段も高くなりますね。加えて、もし商品になって利益が上がったとしても、その利益をヨシ群落保全のためだけに使うことは、現在の県の仕組みでは難しいという話を聞きました。なんとかならないものでしょうか。薪以外に、ヤナギを使えないのでしょうか。まな板に向いている、床材にも使われることがあると聞いています。ヤナギの利用法について、もっと知恵や情報が欲しいです。
▪️巨木化していくヤナギは、そして巨木化とまでいえないけれど、成長しつつあるヤナギは、どの群落のどのあたりにあるのでしょうか。その実態を把握しなければなりません。このことに関して、思いついたことがあります。琵琶湖やヨシ群落に関心をお持ちの多くの県民の皆さんに参加していただき、巨木化したヤナギの情報を集約していくことはできないだろうかということです。足場の問題がありますが、危険性がないということであれば、メジャー1つで「メタボ化したヤナギ」を確認することができます。また、「メタボなヤナギを探せ!!」です。電子タグを使うというのはどうでしょうか。里山の落葉広葉樹を活用していくために、樹に電子タグを打ち込み、情報を管理するということが行われています。これをヨシ群落のヤナギにも応用展開できないでしょうか。
▪️昨日は、事務局より「ヨシ群落info」の提案がありました。前回の審議会までは、「ヨシ群落カルテ(仮称)」という名称で呼んでいましたが、今回からは名称が変更になりました。これはどういうものなのか。ヨシ群落そのもののに関する情報と、ヨシ群落の保全に関わる団体の情報の2つから構成されています。形式はカードのようになっています。そして、それらの「ヨシ群落info」を Googleのマイマップを活用して地図上でつなげていく予定になっています。かなり簡単に説明してしまいましたが、こうやってヨシ群落の状況を社会的に共有していく予定になっています。できれば、県庁だけでこの仕組みを運用していくのではなく、この「ヨシ群落info」の活用の仕方をオープンに議論したいところです。
▪️このようなことも含めて、機動力ある「情報交換の場」「連携促進の場」の創出が必要だと思うのです。どうしたものでしょうね。公益財団法人・淡海環境保全財団では、「淡海ヨシのみらいを考える会議」を設立しています。私もそのメンバーです。この会議に、いくつかの提案をしてみようと思います。
コンクールの前後で(3)~ウポポイ、大沼公園、函館山~
▪️全日本吹奏楽コンクール・大学の部で、龍谷大学吹奏楽部の演奏を聴かせていただいた翌日、27日から28日のことについても、少し記録に残しておこうと思います。前日は、吹奏楽部金賞受賞のレセプションが札幌のすすきのにある居酒屋で開催されました。我が家は龍谷大学吹奏学部OBOGの上道夫妻と一緒に夕食を共にしました。コンクールで龍谷大学吹奏楽部が金賞を受賞したことをお祝いするためですが、加えて、1週間前には、上道さんと2人で「びわ100」に出場し、100kmを完歩し一緒にゴールしたことのお祝いの食事でもありました。北海道ということもあり、上道さんが選んでくださったお店は、すすきのにあるラム肉のシャブシャブのお店でした。美味しくいただきました。そのあとは、上道さんご夫妻と一緒に金賞受賞をお祝いするレセプションの会場に移動。少しだけ顔を出して、金賞受賞をお祝いしました。少しだけというのは、翌日早くホテルを出発しなければならなかったからです。
▪️翌日は、朝6時30分にはホテルをチェックアウトして地下鉄で札幌駅まで。土地勘がないので、地下鉄を降りてからも少し迷うことになりました。札幌からは次の宿泊地、函館まで鉄道で移動するのですが、その途中2ケ所で下車して、観光をする予定になっていました。まずは、白老で途中下車。白老は、苫小牧と室蘭の間にありますが、アイヌの皆さんが多数お住まいの地域です。ここには、2020年に一般公開された「ウポポイ 国立アイヌ民族博物館、国立民族共生公園」があります。短い時間でしかありませんが、博物館や施設を見学しました。以下は、公式サイトに書かれている「背景・目的」です。
アイヌ文化の振興や普及啓発は、伝承者の減少、アイヌ語や伝統工芸など存立の危機にある分野の存在、また、未だなおアイヌの歴史や文化等について十分な理解が得られていないといった課題に直面しています。このような背景を踏まえ、平成21年7月、「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」(座長:内閣官房長官)において、民族共生象徴空間はアイヌの人々が先住民族であるとの認識に基づきアイヌ政策の「扇の要」として提言されました。 ウポポイ(民族共生象徴空間)は、アイヌ文化を振興するための空間や施設であるだけではなく、我が国の貴重な文化でありながら存立の危機にあるアイヌ文化の復興・創造等の拠点として、また、将来に向けて先住民族の尊厳を尊重し、差別のない多様で豊かな文化を持つ活力ある社会を築いていくための象徴として位置づけられています。
▪️博物館の展示の解説に特徴がありました。アイヌの皆さんが自らの文化を説明するような文体になっていたからです。普通の博物館の展示解説は、第三者的に、客観的な文体を用いることが通常だと思うのですが、こちらの博物館は当事者であるアイヌの皆さん自身が説明する文体になっていました。また、こちらの施設は「民族共生象徴空間」となっていることから、アイヌ語が第一の公用語になっています。あまり時間がなく駆け足の観覧と見学でしたが、一日かけて学び体験する場所かなと思いました。
▪️残念だったことは、通常、博物館で発行されている図録の類がなかったことです。展示では十分に説明できないことについても図録で解説していただきたかったです。もうひとつ、気になったことがあります。アイヌは北海道の開拓の歴史の中で差別され抑圧されてきたわけですが、そのことが展示や施設からはしっかりと伝わってこないように思いました。確かに、一連の同化政策については展示の中で解説されていはましたが…。時間が無く、足早に展示を観覧したり、施設をめぐったからかもしれませんが、そのような負の歴史についてのもう少ししっかりとした説明があるべきではないかと思いました。共生という心地良い言葉のオブラートに包み込んで負の歴史を不可視化していくようなことに、もし結果としてであれ、この施設がそのように機能してしまうのであれば、それは困ったことだなと思います。その辺りのことに関して、博物館の研究者の皆さんはどのようにお考えなのかについても、知りたいと思いました。
▪️前日は、札幌でした。訪問した施設では、五稜星に象徴される北海道の開拓の歴史を知ることができましたが、そのような歴史の中ではアイヌの存在はよくみえませんでした。当時のアイヌは北海道以外の地域、現在のロシア領にも暮らしておられました。北海道に移住させられたことは博物館の展示から理解できました。近代国民国家の論理に翻弄させられてきたわけです。そのような事実を、当時の国際情勢、ロシアとの緊張関係という文脈に重ね合わせて理解する必要がないでしょうか。また、北海道の開拓の歴史には、アメリカが深く関与しています。そのアメリカの開拓の進め方、それは先住民政策とセットになっているわけです。そのことと、アイヌへの差別や抑圧とはどうつながっているのか、もう少し詳しい説明がどこかに(図録も含めて)あって欲しかったなと思いました。例えば、クラーク博士は、自国の先住民政策とアイヌの存在をどのように考えていたのでしょうか。はたして、そのような研究はあるのでしょうかね。
▪️引用した「背景・目的」の最後には、「我が国の貴重な文化でありながら存立の危機にあるアイヌ文化の復興・創造等の拠点として、また、将来に向けて先住民族の尊厳を尊重し、差別のない多様で豊かな文化を持つ活力ある社会を築いていくための象徴として」と書かれています。であれば、「なぜ存立の危機にあるのか」、「なぜ尊厳を尊重せず踏み躙ってきたのか」、「なぜ差別が行われてきたのか」、そのあたりのことを積極的に説明するべきではないかと思うわけです。話は少し変わりますが、帰宅後、 ETV特集「二風谷に生まれて 〜アイヌ 家族100年の物語〜」を視聴しました。このような内容です。
北海道平取町の二風谷には、アイヌ民族にルーツを持つ人が多く暮らす。貝澤太一さんもその一人。祖父と父は「二風谷ダム裁判」を提起し、初めてアイヌを先住民族と認める判決を勝ち取った。あれから30年近くがたち、何が変わり、何が変わっていないのか。太一さんは祖父と父が歩んできた過去を振り返ろうとしている。太一さんの視点から3代にわたる家族とアイヌの歴史をひも解き、日本社会とアイヌ民族の現在と未来を見つめる。
▪️この番組の中では、貝澤太一さんのお祖父様とお父様が、先住民としての土地や河川に対する権利を取り戻すために、裁判闘争をされてきたことが説明されました。そのような決然と権力と闘ってこられた上の世代に対して、太一さんは、自分自身のアイデンティティというか、自分の生き方に迷いがあるというのです。優しい方です。番組の最後の方では、もっと若い世代の捉え方や、外から二風谷に入ってこられたアイヌではないシサム(和人)の男性の経験も知ることができました。世代の間での違い。背景は簡単ではありません。少し脱線しました。この番組で紹介されたアイヌの皆さんの現在についても、ウポポイでは紹介していただきたいなと思いました。
▪️白老からは昼過ぎの特急に乗り、今度は、大沼に移動しました。最終的には、函館まで行くのですが、その途中で紅葉を楽しみたいというふうに考えていたからです。関西から新千歳空港に離陸した時は、周りの木々は美しく紅葉していて、そのことに感動しました。地元の人のお話では、今年の夏はものすごく暑かったので紅葉が遅れているということでしたが、札幌の紅葉、特に北海道大学の紅葉を楽しむことできました。大沼駅が近づくと電車からは活火山の北海道駒ヶ岳が見えてきます。この北海道駒ヶ岳の火山活動によって周囲には3つの湖沼が生まれました。かなりの広さになるのですが、1時間だけ途中下車をして湖沼の湖岸から紅葉を眺めて楽しむ予定でした。
▪️ところが、この辺りはまだ紅葉が進んでいませんでした。札幌からは鉄道に乗れば300kmほど離れています。大阪から広島あたりまでの距離になります。北海道はかなり広いので、なかなか土地に対する感覚が掴めませんね。「北海道内」とはいっても、本州の「県内」とは全く違っています。ある方から、北海道の場合、支庁が本州の県内にあたると考えた方が良いと教えていただきました。そうなんです、大沼は相当南の方に離れているのです。残念ですが、仕方がありません。再び特急に乗って函館まで移動しました。函館に到着した時は、もうすでに晩になっていました。
北海道はなぜ大きい? かつては札幌県が存在していたって本当?
▪️函館に到着した後、当初は、函館山から夜景を眺める予定でしたが、ものすごくたくさんの観光客が押し寄せるということもわかり、翌朝、タクシーを使って函館山に行くことにしました。夜景ではなく「地形」を楽しむことにしたのです。トップの写真は、その函館山から撮ったものです。正解でした。朝日の中で素晴らし風景を楽しむことができました。心に強く残る印象深い風景でした。乗車したタクシーの運転手さんも、丁寧に周りの風景を説明してくださいました。なぜ青函トンネルは下北半島ではなくて津軽半島の方なのかとか、あのあたりが歌手の北島三郎さんの故郷だとか、函館山は戦前は要塞だったので一般の市民は立ち入ることができなかったとか…。とても親切な運転手さんでした。運転手さんによれば、夏場は山頂にガスがかかっていることがあり、このような風景はなかなか見ることができないとのお話でした。ラッキーでした。
▪️せっかく北海道に来たのだからと、美味しいものもいただきました。もちろん、私は血糖値を気にしなければならないので、朝・昼の外食については苦労しました。朝・昼の外食は糖質が多いのです。写真の蟹はタンパク質ですから問題ありません。少し贅沢をしました。問題は糖質です。最終日の朝は「函館朝市」の中にあるお店で、ウニ丼いただきました。といっても小さな丼。小ぶり丼です。さらに、ご飯も少なくと注文しましたが、それでも私には多いわけです。ということで、お店の方には残してしまうことをお許しいただきました。フードロス、あかんやん…です。しかも血糖値は上がっただろうな。また、関西に戻る前に、塩ラーメンもいただきました。函館は塩ラーメン発祥の地なんだとか。でも、これも食べたらあかんやつです。血糖値をあげるやつです。さっぱりしていても、麺は血糖値をあげます。美味しかったけど、同時に、心も痛むな〜。旅行中は朝と昼の食事には、本当に困りました。
▪️函館を訪問したことをfacebookに投稿したところ、函館にお住まいで、函館のコミュニティFMでパーソナリティをされているさとうはるかさんからコメントが届きました。さとうさんは、龍谷大学社会学部の前に勤務していた岩手県立大学総合政策学部の卒業生です。卒業されたのは20数年前かと思います。函館のご出身で、新設の岩手県立大学に入学されてきたのです。さとうさんは私のゼミではありませんでしたが、仲良くしていただいた記憶があります。1学年100人の学生定員でしたから、そのようなつながりが生まれやすいのかな。さとうさんからコメントをいただき、とてもうれしかったです。
▪️今回は、龍谷大学吹奏楽部の皆さんが全日本吹奏楽コンクールに出場されることで、短期間ではありますが、このような個人的な北海道旅行をすることができました。感謝したいと思います。
コンクールの前後で(2)~五稜星のこと~
▪️25日(土)、「第75回全日本吹奏楽コンクール・大学の部」が開催される当日の午前中、北海道大学に続いて、「サッポロビール博物館」を観覧しました。「日本で最も歴史のあるビール博物館。1876年の北海道開拓事業から受け継がれるサッポロビールの歴史を体感できます」ということを売りにしている博物館です。ビールの博物館については、吹田市にあるアサヒビールミュージアムを数回見学したことがあります。こちらの博物館の場合では、「サッポロビールの歴史」を学ぶとができました。
▪️あとで気がつきましたが、この「サッポロビール博物館」の公式サイトでは、「サッポロビール博物館 3Dバーチャルツアー」を楽しみつつ学習することができるようになっています。ひとつひとつの展示の解説も、少し小さな文字になりますが、パソコンの大画面であれば読むことができます。上に掲載した写真からは、大切な「サッポロビールの歴史」は想像できませんね。ぜひ、バーチャルな展示を通してご覧になってみてください。非常に苦労されて製造技術を発展させてこられたことがわかります。
▪️展示室は、中国そして韓国から団体観光客の皆さんがガイドさんの説明を熱心に聞いておられました。そして、展示を見終わると、試飲のコーナーがあり吸い込まれるように入り、ビールを味わっておられました。しかし、私はその試飲コーナーには入らずに、隣接するレストランで昼食をとることにしました。建物の中に入ると、独特の良い香りがします。ラム肉の焼いた時の香りです。その日の晩は、龍谷大学吹奏楽部のOBOGご夫妻と一緒のラム肉のシャブシャブを楽しむ予定になっていたので、ラム肉以外のものをいただきました。テーブルの上にはジンギスカンの丸い鉄板がおいてあったのですが…。でもビールはいただきました。
▪️ビールのジョッキには赤い星が描かれています。これは、五稜星と呼ばれています。博物館の外にある煙突(今は稼働していない)や、博物館の入り口にもこの五稜星が描かれています。1869年に「北海道開拓使」が設置されました。目的には、北海道を開拓することにあります。その「開拓使」のシンボルマークが北極星をモチーフにしたこの五稜星なのです。この五稜星のマークは、サッポロビールだけでなく、あちこちにある歴史的な建造物に描かれています。
▪️昼食の後は、札幌時計台に移動しました。典型的な札幌観光をしてきたように思います。札幌には何回か来たことがありますが、その時は仕事で来ていて観光はしなかったので、大変有名な時計台ではありますが、今回が初めての訪問になりました。公式サイトにある説明によれば札幌時計台、正式名称は「旧札幌農学校演武場」というそうです。札幌農学校は北海道大学の前身として開校されました。北海道開拓の指導者を育成することが目的です。1876年(明治9年)になります。この時計台(演武場)はクラーク博士の提言により、農学校生徒の兵式訓練や入学式・卒業式などを行う中央講堂として建設されました。この時計台の屋根の下にも五稜星が2つあります。
▪️この時はあまり深く考えていませんでしたが、翌日、白老にある「ウポポイ 国立アイヌ民族博物館、国立民族共生公園」を見学した後には、複雑な気持ちになりました。五稜星をシンボルとする”輝かしい?”開拓の歴史は、アイヌ民族にとっては自分たちの土地が侵略されていく歴史でもあるからです。「北海道は海浜から「所有化」された—明治初年開拓使土地政策とアイヌ民族—」という記事を読みました。瀧澤正さんという方の記事です。高校教師になった後、北海道大学の大学院で博士号を取得された方です。「近代的土地所有制が、それまで土地制度の確立していなかった蝦夷地=北海道において、国家権力によって施行されるプロセスと、その流れの中でアイヌ民族がどんなふうに排除され、あるいはその波の中でも生き残り得たか」をテーマに研究されています。この記事は、その研究成果をもとにしたものです。