小佐治訪問(総合地球環境学研究所)

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■15日(日)は、前日に引き続き、総合地球環境学研究所の仕事でした。総合地球環境学研究所のプロジェクト「生物多様性が駆動する栄養循環と流域圏社会─生態システムの健全性」に最近になって参加された、新たな社会科学系のメンバーの皆さんに、プロジェクトのメインフィールドである野洲川流域を視察していただきました。視察の目的は、「文理融合」型かつ「超学際」的である私たちの研究プロジェクトを深くご理解いただくことにあります。総合地球環境学研究所・PD研究員の淺野悟史さんがアレンジしてくれました。今回の視察に参加された新メンバーは、西前出さん(京都大学)、松下京平さん(滋賀大学)、竹村幸祐さん(滋賀大学)、高橋卓也さん(滋賀県立大学)の皆さんです。

■視察は、野洲川流域の中でも本流であり野洲川の支流、杣川流域にある小佐治からスタートしました。まずは、小佐治にあるコミュニティビジネスの拠点である「甲賀もちふるさと館」で、小佐治の「環境保全部会」に所属する農家の皆さんからいろいろご説明をいただきました。写真の新聞は、地元のニューズレターである「農地・水・環境保全 向上活動 小佐治だより」の最新号です。

■私たち「総合地球環境学研究所」の研究プロジェクトとの協働事業のことが、大きく取り上げられています。私たちのプロジェクトでは、今年2月にから「幸せの環境ものさしづくり」活動の一環として、隣接する里山から水田にやってきたニホンアカガエルが、産卵した卵の位置を、農家の皆さんと確認する調査を行ってきました。私がやったのは「幸せの環境ものさしづくり」の「基本設計」あたりまでで、後の「実施設計」や「施工図面」に当たる詳細な作業は全てPD研究員の淺野さんが担当してくれました。優秀な若手研究者がいてくれて、本当に助かっています。トップの写真は、淺野さんと農家の皆さんが行った調査結果を、地図に落としたものです。こうやって「生き物の賑わい」や「環境豊かさ」を「見える化」(可視化)し、農家やこの地域の皆さんと共有していくのです。

■下の写真は、写真は、「田越し灌漑」の実験をしている水田を視察しているところです。小佐治の水田は、農作業がしやすいように、用水路と排水路を分離する土木工事を済ませています。このような土木工事を行うと、1筆ごとに水の管理が可能になり農作業が便利になりますが、水田からは、代掻き等の農作業で発生した濁水が流れやすくなります。また、水田やその周囲に棲む生物たちにも大きな影響を与えます。そこで、この実験では、かつてのように1つの水田からの排水が隣の水田の用水となるように、すなわち水田の畦を超えて水が流れるように水の流れを変えました。このように「田越し灌漑」にすると、物質循環や生き物の賑わいにどのような変化が生まれるのか、これから詳しく調べていきます。視察のあとは、再び「甲賀もちふるさと館」に戻り、水田に採取したプランクトンを農家の皆さんと確認してみました。簡単な装置をiPadに装着することで、水田のプランクトンをiPadで動画を撮りながら観察できるのです。これも淺野さんが調達してくれました。早速、地域の子どもたちと行う水田の観察会で活用する相談が始まりました。

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■甲賀市甲賀町小佐治での視察を済ませた後、地域の皆さんに昼食をご馳走になりました。退職後、ご自分が暮らしてきた小佐治の環境を再評価し、農村のライフスタイルを楽しんでおられるYさんが、村の里山の薪と御釜でご飯を炊いてくださったのです。地元の皆さんが漬けられた3年ものの沢庵や、手作りのお惣菜とともに、炊きたての美味しいご飯をいただきました。屋外での昼食。最高ですね‼︎
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総合地球環境学研究所での研究会

■昨日は、朝から、京都市北区上賀茂にある総合地球環境学研究所に行きました。琵琶湖、中海・宍道湖、八郎湖、さらに印旛沼といった湖沼の環境政策や流域ガバナンスに関して比較を行う研究会が開催されたからです。参加している大きな研究プロジェクト自体は「文理融合」の研究ということになりますが、今回の研究会は、そのプロジェクトの中でも社会科学系の研究者が集まってのこじんまりした研究会になります。

■前回までの議論を、もう一度根本的に問い直すことで、研究会全体の視点の深さをより確保できるようになったのではないかと思います。比較を進めることで確認できる「差異」から、いろんな発見が生まれてくるようにも思います。まだ、あまり自信はないけれど、研究会に参加したメンバーからは賛同してもらえました。一安心。研究会では、全国レベル、各比較湖沼ごとに分担して作業を進めていきます。

■いつも総合地球環境学研究所には、JR・京都市営地下鉄・バスを使って行きますが、昨日は、初めて車で行ってみました。大津の自宅からは、まず堅田に行き、真野、途中、大原、静原、そして研究所のある上加茂に至ります。初めての道でしたが、このルートだと40分程で行くことができます。これからも、普段はやはり公共交通機関での移動が中心でしょうが、たまには良いかなと思っています。今回は、自宅から京都大原が思った以上に近いことを実感しました。

■昨日に引き続き、今日も総合地球環境学研究所の仕事です。比較的最近になって研究プロジェクトに参加したメンバーと一緒に、メインのフィールドである野洲川の調査フィールドを巡ります。甲賀市甲賀町の小佐治で、農家の皆さんと共同で取り組んでいる「田越し灌漑」の水田視察、また集落の「環境保全部会」の農家の皆さんとの「生物観察」をした後、最近、集落内で静なブームになっている「薪ストーブ」ブームやそのブームと連動している森づくりの活動ついてお話しを伺います。その後は、下流に移動し、「魚のゆりかご水田ぷロジェクト」に取り組んでおられる集落の魚道を視察させていただき、最後は内湖での「生き物の賑わい」の復活を目指す現場を確認します。

■というわけで、今週末は、老母の世話(見舞いと洗濯物の交換)に行けません。週末が仕事で埋まると、老母の世話はウイークデーに回すことになり、そうなると今度は大学の授業や仕事との調整で苦労することになります。1週間を8日にしてくれると、大学、研究プロジェクト、地域連携、そしてばーちゃんの世話、この4つがなんとか回るんですけどね〜。まあ、そんなわけにもいきませんし、頑張ります。

世界農業遺産プロジェクト推進会議

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■昨日の中日新聞の記事です。この「世界農業遺産プロジェクト推進会議」に参加しました。私は、座長に就任された農学部の竹歳一紀先生と共に、私の場合はアドバイザーとして参加しています。申請は2018年度になりますが、それまで県庁の職員の皆さん、市町の関係者の皆さんと一緒に、しっかりと準備を進めていこうと思います。

■以下は、大学のホームページに掲載された記事です。昨年度、滋賀県と龍谷大学は包括協定を締結しました。単に包括協定を締結するだけでは意味がなく、それを実質化させていく事業に協働で取り組まねばなりません。今回の世界農業遺産に向けての取り組みが、そのような実質化に向けての第1歩になればと思います。また同時に、昨年度設置された農学部が滋賀県内の地域社会とより一層連携していくためのきっかけになればとも思っています。

龍谷大学と滋賀県による第1回「世界農業遺産プロジェクト推進会議」を開催

中世びとの信仰の形態

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■部長をしている龍谷大学の研究部には、複数の研究所や研究センターが設置されています。以下は、大学のホームページの解説です。

龍谷大学では本学が有する様々な知的資源を活かし、本学ならではの分野で独創的な研究を推進し、これらの分野における学術研究の向上、交流に寄与するとともに、併せて研究成果の社会還元を図ることを目的に1961年以降「仏教文化研究所」(1961年設置)「社会科学研究所」(1969年設置)「科学技術共同研究センター」(1989年設置)「国際社会文化研究所」(1997年設置)の付置研究所を設置し、研究を展開しています。

また、第4次長期計画では全学の研究活動を総合的にカバーし「人文」「社会」「自然」の学術3分野を横断する学際的・異分野複合的な学術研究を推進することにより、世界が必要とする科学技術や文化の振興を図ることを目指し、2001年「人間・科学・宗教総合研究センター」を新たに開設しました。センターでは国の学術研究高度化推進事業をはじめとして様々なユニークな研究プロジェクトを実施しています。

■上記の龍谷大学のうち、「世界仏教文化研究センター」と「アジア仏教文化研究センター」が主催して、以下の学術講演会が開催されます。
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2016年度グループ1ユニットA(日本仏教の形成と展開)学術講演会

日 時 : 2016年5月30日(月)17:30~19:00
会 場 : 龍谷大学大宮学舎 清風館B101
講 師 : 大喜 直彦(本願寺史料研究所 上級研究員)
講 題 : 中世びとの信仰の形態
レスポンス : 杉岡 孝紀(龍谷大学 農学部教授)
主 催 : 龍谷大学世界仏教文化研究センター アジア仏教文化研究センター
共 催 : 龍谷大学仏教文化研究所
※一般来聴歓迎(無料・申込不要)
お問い合わせ先 :
龍谷大学アジア仏教文化研究センター(BARC)
大宮学舎白亜館3階  075-343-3811(内線:5831)
■私は、この学術講演会に参加してみたいなあと思っているのですが…。問題は、研究部の会議が、学術講演会までに終了するかどうかですね〜。研究部の仕事はしても、研究部が推進している研究活動事業には参加できないというのは…ね、困りました。講師の大喜さんは、『神や仏に出会う時: 中世びとの信仰と絆』 (歴史文化ライブラリー)という本も書いておられます。リンクをクリックしていただく、この本の出版社である吉川弘文堂のページに飛びます。その内容は、私にとってとても刺激的なのです。というわけで、ぜひ学術講演会にも参加したいのですが、さて、どうなるやら…です。

最澄がプロデュースした世界

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■土曜日の晩に、突然、発熱してしまいました。普段、比較的健康に暮らしているし、熱が出ることもないので、37℃を超えると辛くなり、38度を超えると相当に辛くなります。もう、ふらふらになります。38℃越えの熱はまったく下がらず、翌日はずっと布団の中で過ごさねばなりませんでした。「これはもうあかん…」と、家族に頼んで市販の解熱剤を薬局で買ってきて飲んだところ、少しずつ熱は下がってきました。しかし、「こんなに急に熱が出るって、ひょっとしてインフルエンザ」との思いが消えず、職場の皆さんにも迷惑をかけると困るし…との思いもあり、医師の診断を受けることにしました(大学も含めて学校という場所では、あっという間に病気は広がってしまいます)。幸いにも、インフルエンザではないという診断をいただきました。喉が腫れているので、喉かららウイルスが侵入し発熱をしたのではないか…とのことでした。熱は下がってきましたが、今度は喉が痛みが相当にひどくなってきました。鼻水も止まらなくなりました。せっかくの連休なのですが…。初日の土曜日は、良いスタートを切ったのですが…。

■さて、土曜日は、私にとって連休の初日でした。「天気が良いので、どこかに出かけたい」という家族の強いリクエストがあり、いろいろ考えた末に、比良山系にある「びわ湖バレイ」に出かけてみることにしました。ちょうど天気も良く、五月晴れで空も澄み渡っていたので、「びわ湖バレイ」に登ると大きな琵琶湖が良く見えるに違いないない思ったのです。奈良から大津に転居したこともあり、以前とは違い、「びわ湖バレイ」も随分近くになりました。

■ところで、私は長年にわたって琵琶湖や琵琶湖流域に関して研究をしてきましたが、これまでこの「びわ湖バレイ」に登ったことがありませんでした。これは、なかなか信じてもらえないのですが…。「関西人であれば、普通、家族の行楽でびわ湖バレイに行くもんちゃうの」というご意見もあろうかと思いますが、本当に行ったことがなかったのです。というわけで、今回、人生初の「びわ湖バレイ」。家族のリクエストという側面もありますが、私自身も素敵な経験ができました。

■「びわ湖バレイ」は、スキー場として開発されました。琵琶湖の西側、湖西地域にある比良山系にはたくさんの山々が連なっています。その中の、打見山から蓬莱山にかけての幅広い稜線上に、スキー場のゲレンデが広がっています。そこが「びわ湖バレイ」です。もちろん、スキーは冬だけです。それ以外のシーズンには、高原公園として多くのひとびとが行楽に訪れます。もともとは、産業経済新聞社が1965年に開設したスキー場です。50歳以上の年代の皆さんは、この「サンケイバレイ」という言葉に馴染みがあるのではないでしょうか。

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■それとはともかく、トッブの写真をご覧ください。これは蓬莱山から撮った風景です。空のように見えるのは琵琶湖です。琵琶湖の向こう側には、湖東の地域が広がっています。近江八幡市にある沖島も確認できますね。彦根市の荒神山もわかります。スケール感を出すため…ではないのですが、赤い服を着ているのは私です。家族が撮ってくれました。しかし、これでも実際に見た時に感じるスケール感とはかなりの落差があります。下は、iPhone6 plusのパノラマ機能で撮ったものです。この蓬莱さんの山頂に立つと、右側は大津の街が見えます。「プリンスホテル」やオペラハウスである「びわ湖ホール」が確認できます。また左側を見ると、湖北の奥琵琶湖も薄ぼんやりではありますが見えてきます。土曜日は、竹生島もわかりました。きっと、空気が澄み渡った冬期であれば、大津の街から、伊吹山や湖北の山々まではっきりと見えるのでしょうね。

■下の4枚の写真は、そのパノラマの風景を、4回に分けて撮ったものです。上段左は、打見山から湖北方面を撮ったものです。上段右は、湖東方面。下段左は、野洲や守山、そして堅田方面。下段右は、比叡山や京都方面になります(京都の街は見えませんが…)。「びわ湖バレイ」の一番南端、蓬莱山が南に緩やかに斜面になっていく直前のところに、このようにお地蔵様が並んでいました。

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■ところで、この様な風景を見ながら、家族が質問をしてきました。「琵琶湖は、なぜ琵琶湖という名前なのか」という質問です。楽器の琵琶に似ているから琵琶湖…というのは、よく知られています。南湖が左で弦を押さえる部分、一般に弦楽器では指板ないしはフレットと呼ばれる部分です。それに対して大きな北湖は、琵琶の本体、胴の部分にあたるのわけです。ちなみに、この様な名前の由来については、歴史学者の木村至宏先生のご著書『琵琶湖-その呼称の由来』が有名です。ごく簡単な説明であれば、同じく木村先生が『琵琶湖ハンドブック』の中でも「『琵琶湖』の名前」というタイトルで解説されています。以下は、引用です。

琵琶湖の名前は、湖の歴史に比べて新しく、16世紀初頭が最初で、広く知られるようになったのは今から320年前である。それまでは近淡海、淡 海、水海、湖などと呼ばれていた。名前は湖上に浮かぶ竹生島にまつられている弁才天に典拠。弁才天がもつ楽器の琵琶が湖の形状に似ていることに由来する。それと琵琶が奏でる音色と湖水のさざ波と相似していたことも密接な関係がある。

弁才天の持つ琵琶が、どうして湖の形状に似ているといわれるようになったのであろうか 。前出の『渓嵐拾葉集』の編述者は 、比叡山延暦寺の学僧光宗であるが、おそらく眼下に広がる湖を日々眺望して、楽器琵琶から湖の形状を観想をしたに違いない。上空から見ることのできない時代に、驚くべき洞察力といえるだろう。また『同書』には弁才天は湖とともに比叡山を守る神として位置付けられている。

■琵琶湖の名前の由来が、直接的に琵琶湖の形に似ていることからきているにしても、その背景には、天台宗・比叡山延暦寺、竹生島の弁財天などの宗教の存在があることがわかります。実際、2015年には、琵琶湖は、「琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産」として文化庁の「日本遺産」に選定されています。以下が、その選定理由になったストーリーの概要です。

「穢れを除き、病を癒すものとして祀られてきた水。仏教の普及とともに東方にあっては、瑠璃色に輝く「水の浄土」の教主・薬師如来が広く信仰されてきた。琵琶湖では、「水の浄土」を臨んで多くの寺社が建立され、今日も多くの人々を惹きつけている。また、くらしには、 山から水を引いた古式水道や湧き水を使いながら汚さないルールが伝わっている。湖辺の集落や湖中の島では、米と魚を活用した鮒ずしなどの独自の食文化やエリなどの漁法が育まれた。多くの生き物を育む水郷や水辺の景観は、芸術や庭園に取り上げられてきたが、近年では、水と人の営みが 調和した文化的景観として、多くの現代人をひきつけている。ここには、日本人の高度な「水の文化」の歴史が集積されている。」

■この琵琶湖、水、そして天台宗・薬師如来の関係については、長年にわたり滋賀県の文化財保護に関して活躍されてきた大沼芳幸さんが、興味深い文章を書いておられます。これは、産経新聞に掲載された「びわこの考湖学 第2部」の第25回「多数の薬師如来古仏 清らかな水の世界の盟主」です。私が興味深く思った部分を引用します。

平安時代後期の歌謡集「梁塵秘抄」には、琵琶湖を次のように表現しています。「近江湖は海ならず、天台薬師の池ぞかし」すなわち、平安時代の人々は、琵琶湖を天台宗の根本如来である、薬師如来の浄土と意識していたことがわかります。

民が栄え、国が栄えるために最も必要なことは何でしょうか?それは、豊かな実りであり、その実りをもたらすものは「水」です。そして水は、すべての命を育む神聖なものです。最澄にとって、水を祈りの対象とすることが、彼の理想を成就させるために、不可欠な要件だったのではなかったのでしょうか。

薬師如来の本当の名前は「薬師瑠璃光如来」。瑠璃の光とは「水の光」です。すなわち薬師如来は清らかな水の世界の盟主なのです。なおかつ、薬師如来が住まう浄土は「東方浄土」とされています。比叡山の東に広がるのは「琵琶湖」です。最澄にとつて、水に祈り、水の力を得るための聖地として、東方に生命あふれる琵琶湖が広がる、比叡山の地を選んだことは、いわば必然だったのかもしれません。ただ、最澄が初めて琵琶湖を「浄土」として位置付けたわけではないと思います。それ以前から近江には、琵琶湖を神の住まうところとして神聖視するアニミズム的な心象が根付いており、これを最澄が仏教の世界に再編したのでしょう。そして、琵琶湖に注ぐ水の源である山々に、次々と山寺が建立され、ここに、「水のカミ」である薬師如来が安置されたのです。このことが、近江に特異的に多く残る薬師如来古物の秘密なのです。この水のコスモスともいうべき世界をプロデュースした最澄の名に「澄」の字が含まれていることにも、深い意味があるのではないでしょうか。

■大沼さんの考えは、近江盆地と琵琶湖が生み出す水に対する土着の信仰を、仏教が取り込み(習合し)、最澄が一つの宗教的世界としてプロデュースした…というものです。近江盆地の山々から琵琶湖へと注ぐ水。水のネットワークを通して生み出される世界。これは、現在、「将来の琵琶湖のあるべき姿」として環境政策的に目指されていることの根底の考え方と重なり合っているようにも思います。非常に興味深く思いました。残念ながら、私自身は、文化史や宗教史に関する教養が乏しく、大沼さんのお考えを導きに、最低限のことをもう少し勉強しないと…と思いながら、ふとこんなことを妄想しました。もし、最澄が現在に蘇り、戦後の琵琶湖や琵琶湖の周囲で行われてきた様々な開発事業を目にした時、どのように考えるだろうな…、そのような妄想です。民が栄え、国が栄えるために行われたはずの様々な開発事業が、結果として何をもたらしたのか、おそらく最澄は鋭く批判することでしょうね。

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■話しを戻しましょう。「びわ湖バレイ」では、雄大な琵琶湖の風景を楽しむだけではなく、満開の水仙の花も楽しみました。「びわ湖バレイ」の蓬莱山の左斜面には、30万株もの水仙が植えられている「水仙の丘」があります。関西で水仙というと淡路島が有名ですが、この「びわ湖バレイ」の「水仙の丘」も本当に素晴らしいものでした。遠くから見ると、斜面に、黄色いに点々が散らばってるいようにしか見えないのですが、そばに行って「水仙の丘」を登ると、この写真のような素晴らしい風景を楽しむことができます。もちろん、人工的に植栽されたものだと思いますが、とても感動しました。水仙は、ヨーロッパの地中海沿岸が現在地との事ですが、日本には中国を経由して伝わってきたそうです。その名前も、いろいろ調べてみると、中国では、その名の通り「水の仙人」、言い換えれば「水の神の化身」や「水の精の成り代わり」に例えられていたようです。なるほど、「梁塵秘抄」で「近江湖は海ならず、天台薬師の池ぞかし」と歌われた琵琶湖にふさわしい花なのかしれません。

■体調はあまりよくないのですが、それでもこの長文をエントリーするまでには、体力は回復してきました。ひょっとすると、スケールの大きい琵琶湖の風景に圧倒されて?!、発熱したのかも…しれませんね。

琵琶湖の保全及び再生に関する基本方針

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■環境省のホームページで、「琵琶湖の保全及び再生に関する法律」(琵琶湖再生法)に関する「基本方針」が発表されました。

総務省、文部科学省、農林水産省、国土交通省及び環境省では、平成27年9月に公布・施行された琵琶湖の保全及び再生に関する法律(平成27年法律第75号)に基づき、平成28年4月21日に「琵琶湖の保全及び再生に関する基本方針」を定めました。
なお、本基本方針に係る意見募集の結果についても併せてお知らせいたします。

■以下をご覧ください。
(お知らせ)琵琶湖の保全及び再生に関する基本方針について
琵琶湖の保全及び再生に関する基本方針
「琵琶湖の保全及び再生に関する基本方針」(案)に関する意見の募集(パブリックコメント)の結果について

生物多様性のパラドクス

20160421kondo.jpg ■龍谷大学のホームページに、「さまざまな生息地がみんな違っていてしかも互いに「ほどほど」に繋がっていることが 自然のバランスを保つカギ 理工学部 近藤倫生 教授らが世界で初めて解明」という記事が掲載されました。以下は、記事のトップ部分を転載したものです。この近藤教授の研究成果は、私たちが総合地球環境学研究所で取り組んでいるプロジェクトにとっても大変重要なものかと思いました。この転載部分の最後には、「同じような均質な環境ばかりになったり、生息地の間の行き来が生物にとって困難になると、生物それ自体に人間が手をくださなくとも、それだけで自然のバランスは崩れて、生物多様性が失われてしまう」という部分を読みながら、琵琶湖総合開発によって陸と水が分断され、また圃場整備事業によって用水路と排水路の分離されることにより、水田を産卵や生育場所にできなくなった魚たちのことを連想してしまいました。また、人工造林によって単純化した森林のことなども頭にうかんできました。さらにもうひとつ、「複雑な生態系ほど安定化する」という点がとても気になりました。まだうまく言葉にできているわけではありませんが、このような主張からは、何か研究上のヒントを得られるのではないかと思っています。多様性とシステムの安定性を両立させる条件は何かという点です。友人の生態学者にも、いろいろ質問してみたいことがあります。

2016年4月13日

龍谷大学理工学部の 近藤 倫生 教授と島根大学生物資源科学部の 舞木 昭彦 准教授は、多種からなる生態系のバランスを保つために、生物の棲む生息地はどのような特徴を備えているべきかを世界で初めて理論的に突き止めました。この研究によると、①たくさんの生息地があってそれらの環境がみな異なっていること、②これらの生息地が互いにつながっていて生物が行き来できること、③しかし生息地間の行き来が生物にとって容易すぎないこと、これら3つのの条件がそろわないと、多様な生物からなる生態系は自ずと不安定になって壊れてしまう可能性があることが理論的に示されました。本研究成果は、日本時間の2016年4月13日午後18時(英国時間午前10時)発行の英国科学誌「Scientific Reports」に掲載されます。

自然界では、多種多様な生物たちが他の生物を食べるなど互いに関係しあいながら、共存しています。そこでは、一種類の生物だけが他を圧倒してしまったりすることなく、「自然のバランス」が保たれているように見えます。しかし、これは少なくとも理論的には「あたりまえのこと」ではありませんでした。1972年、理論生態学の権威ロバート・メイ博士は、単純な数理モデル(注1)に基づいて、「生物の種類が増えるほど、そして、生物間の関わり合いが複雑になるほど、生態系は不安定になり維持されにくくなる」とする理論予測を発表しました。しかし、現実には極めて複雑な生態系が維持されており、メイ博士の理論予測に反しているように見えます。これは「生物多様性のパラドクス」と呼ばれています。それから半世紀ものあいだ、この理論と現実の矛盾(パラドクス)は解消されず、自然界で生物多様性が維持される仕組みは、未解決のまま残された大きな謎でした。

本研究グループは、従来の研究では見逃されてきた「生息地の複雑性」を考慮に入れた数理モデル(注1)を世界にさきがけて開発・解析しました。これにより、「多様な生息地が存在し、かつそれらの間を多様な生物がほどほどに行き来できる」ということがあれば、メイ博士の理論予測を逆転させられる(複雑な生態系ほど安定化する)ことを理論的につきとめました。これは、裏を返せば、人間活動によって生息地の数が少なくなったり、同じような均質な環境ばかりになったり、生息地の間の行き来が生物にとって困難になると、生物それ自体に人間が手をくださなくとも、それだけで自然のバランスは崩れて、生物多様性が失われてしまう危険性を示唆しています。

『アイヌ民族の軌跡』(浪川健治・山川出版社)

20160410ainu.jpg ■先週の木曜日に、吹田にある国立民族学博物館の特別展「夷酋列像 ―蝦夷地イメージをめぐる 人・物・世界―」を駆け足で観覧しました。復習も兼ねて、『アイヌ民族の軌跡』(浪川健治・山川出版社)を読んでいます。非常にわかりやすい。自分のような初心者にはぴったりのように思いました。

■日本の学校という「制度」の中で学んできた知識(歴史や地理)をもとにすれば、北海道は国土の最北端に位置する地域のようにイメージしてしまいます。しかし、そのようなイメージは、近代国民国家という枠組みにもとづいた現在の「日本」を自明とするイメージでしかありません。この『アイヌ民族の軌跡』を読むと、そのようなイメージが吹っ飛ぶことになります。

■アイヌ民族は、北海道だけでなく、さらに北にあるサハリン、千島列島、そして現在の北東北(青森等)にまで広がる東北アジアの広大な地域に生きてきた民族なのです。この本を読み進めると、元とサハリンで交戦したという話しが出てきます。元とは、「元寇」の元のことです。そして次のように書かれています。

この時期にアイヌ社会では、土器文化から近世的なアイヌ文化へと急速な変化をとげるが、その背景には、本州の和人社会との活発な交易活動による金属器・漆器・衣類・米・酒などの多量の流入にがあり、和人社会への依存度を強めつつもニウブなど北方の周辺諸民族への経済的な優位性を高めたことが、サハリン進出可能とした要因と考えられる。

■ニウブとは、ギリヤークとも呼ばれるアイヌ民族とはまた別の北方民族のことです。和人社会との交易から得られる豊富な物質が、より北方に展開していくための経済的基盤になったようです。また、次のような記述もあります。明の時代になると、明は東北アジアの民族に、服従を強要し朝貢を義務付けました。そして、アイヌ民族を含む少数民族の首長層を衛所の官として毛皮などの「歳貢」(朝貢品)をおさめさせ、反対に、絹、錦、金糸を使った豪華な衣服(襲衣:ひとそろいの衣)を下賜したというのです。「これらの下賜品は、北東アジア諸民族との文化接触による交易品とも合わせて、環日本海地域北方の交易圏との接触の中で蝦夷島から本州へともたらされた」と書かれています。この本の表紙に描かれているのは、少し前にエントリーした民博の特別展「夷酋列像 ―蝦夷地イメージをめぐる 人・物・世界―」に展示されていた「夷酋列像」に登場した人物です。アイヌ民族の有力者のひとりです。「蝦夷錦」と呼ばれる中国からの絹織物による着物、そしておそらくはロシアから入手したと思われるコートを身につけています。東北アジアに広がる交易の中で、大量の物資が動いていたことが、この有力者の服装からわかります。

■以下は、この本の目次です。目次をご覧いただければ分かりますが、アイヌ民族が「和人」に支配され、そして明治維新以後は、日本をはじめとする近代国民国家の枠組みの中に組み込まれ、抑圧されていく…そのような歴史が垣間見えます。

アイヌ民族の今-民族と先住性
1.アイヌ文化
アイヌ文化の成立/アイヌ文化の構造

2.東北アジアのなかのアイヌ民族
十二~十五世紀の東北アジアとアイヌ民族/
十五~十六世紀のアイヌ民族と和人社会/蝦夷をみる目

3.アイヌ民族と近世日本
アムール川下流域の諸民族と二つの帝国/
近世日本国家の成立と松前・蝦夷地/松前藩と商場知行制/
商場知行制とアイヌ民族/本州のアイヌ民族

4.シャクシャインの蜂起
アイヌ集団と「無事」/「寛文蝦夷蜂起」のもたらしたもの

5.クナシリ・メナシの蜂起
場所請負制の成立/蜂起とアイヌ社会/「蝦酋列像」とアイヌ首長層

6.民族文化の否定から「臣民」化へ
「外圧」と蝦夷地の内国編入/
維新政権と「臣民」化-民族の否定と強制移住
アイヌ民族の軌跡

■しかし、筆者は、従来の「和人の横暴とアイヌ社会の破壊を全面的に明らかにしてきた」研究の問題点を指摘します。そして、「場所請負制」と呼ばれる経済支配の仕組みの中でも、それを出し抜くような「自分稼」という実践を行っていことについても説明しています。また、この本の最後のところで以下のようにも述べています。アイヌ民族を抑圧する歴史を明らかにしようとする問題意識が、ステレオタイプのアイヌ民族のイメージを作り出してしまっていること、支配や抑圧の歴史のなかで活発に交易を行っていたアイヌ民族が、狭い範囲での狩猟・漁労を生業の中心にせざるを得なかったこと等を指摘しています。以下が、その部分です。

中世から近世、そして近代にいたる歴史の中でのアイヌの人びとは、交易の担い手としてきわめて行動的なダイナミズムの中に生きた民族であったことが理解されていくる。

そうしたアイヌの人びとを国家の枠組みの中に捉え込もうとしたのが日本を含む周辺の国家群の動きであったといえよう。アイヌの人びとは、前近代においては、そうした動きに対して公然たる蜂起となし崩しの交易活動によって、みずからの主体的な活動を営み続けていたのである。しかしながら、アイヌの人びとは、その後、アムール川下流域・サハリンの先住民族と同様に、近代の足音が高まるとともに国家間の間のせめぎ合いの中でその活動を規制され、狩猟・漁撈を生業の中心とするようになった。

民族誌に記録され、現在もなお生きる「自然と共生する人びと」というイメージは、そうした段階以降に作られたものである。

■「自然と共生する人びと」というイメージは、「和人の横暴とアイヌ社会の破壊を批判しながらも、同時に、アイヌ民族を支配する側」からの歴史、「倭人の側」からの歴史を前提に生きている「私たち」の眼差しでしかないのです。筆者は、次のよう述べています。「日本史は国家の枠組みを前提とする『日本』史ではなく、列島弧における文化と社会のあり方を、時という視点から問い直すものとして再構成されなければならないのである」。

地球研で研究会議

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20160409chikyuken4.jpg■8日(金)の午後は、桜の花が咲く総合地球環境学研究所で、コアメンバーとして参加しているプロジェクト「生物多様性が駆動する栄養循環と流域圏社会―生態システムの健全性」の拡大会議が開かれました。あいにく地球研以外のメンバーの中には、本務先の用務のため参加できない人もいましたが、とにかく今年度の基本方針を決めるこの会議を、きちんと開催することができました。人事、年間スケジュール、予算等について、4時間ほど議論を行いました。基本的に事務的な内容の会議なのですが、時々、研究の中身にまで突っ込むような議論にもなりました。それが、良かったなあと思います。

■文理融合型の学際的研究、そして行政・地域住民・市民との共同の中で進める超学際的(TD : Transdisciplinary)研究プロジェクトのスリリングで興味深いところは、それぞれのディシプリンの相補的関係が見えてきた瞬間に、重要な指摘やアイデアが創発的に生まれてくることです。重要な指摘やアイデアは、ディシプリンの間に隙間に発生するのです。もっとも、そのような重要な指摘やアイデアが生まれても、会議の中だけで消えてしまっては意味がありません。それらが、プロジェクトの活動の中で活かされていかなければいけません。そこがなかなか難しいところでもあります。

■会議の後は、懇親会でした。3枚目の写真でふざけているのはPD研究員の皆さんです。テーブルの上には、美味しい料理が並びました。どうですか、立派な鯛でしょう。もったいないので、刺身をいただいた後は、あら炊きにしていただきました。春は鯛の季節です。美味しい鯛をいただきながら、春を感じました。

国立民族学博物館 特別展「夷酋列像 ―蝦夷地イメージをめぐる 人・物・世界―」

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■新年度になり週末もいろいろ用事が入り、兵庫県の介護老人保健施設に入所している母親の洗濯物の交換や見舞いに行くことができませんでした。ということで、木曜日ですが、車を飛ばして母親のところに行ってきました。授業が始まっていないので、会議が入っていなければこういうことも、まだ可能なのです。車で行くことから、吹田市にある国立民族学博物館に立ち寄ることにしました。民博で、特別展「夷酋列像 ―蝦夷地イメージをめぐる 人・物・世界―」が開催されていたからです。以下は、特別展の企画内容です。

極彩色の衣装に身を包み立ち並ぶ、12人のアイヌの有力者たち。松前藩家老をつとめた画人、蠣崎波響が寛政2年(1790)に描いた「夷酋列像」は、時の天皇や、諸藩の大名たちの称賛を受け、多くの模写を生みました。蠣崎波響筆のブザンソン美術考古博物館所蔵本と国内各地の諸本が、はじめて一堂に会します。絵をめぐって接する人、交叉する物、そして日本の内に胎動し始めた外の「世界」。18世紀から現在に続く、蝦夷地=北海道イメージを見渡します。

■展示は、4つのコーナーで構成されていましたが、私は特に、後半の「Ⅲ 夷酋列像をめぐる物」と「Ⅳ 夷酋列像をめぐる世界」を興味深く観覧することになりました。「夷酋列像」に描かれたアイヌの有力者が身につけている衣服は、「蝦夷錦」と呼ばれる絹織物の着物、おそらくはロシア人のコートや靴などを身につけています。アイヌの有力者たちは、北海道、千島、サハリン、沿海地方といった北東アジアの交流・交易によってそれら衣服を得ているのです。この特別展では、「『異人』であると同時に味方の『功臣』であるという、相反する二つの要素を持つアイヌ像」という表現をしていますが、そのような両義的な存在であるアイヌ像を媒介として、鎖国の状況の中で江戸時代の人びとは、外国をイメージしていったのですね。そのことを展示を通して実感しました。「夷酋列像」には、多くの模写が存在していますが、そのような模写を生みだした当時の状況を理解することができました。

■民博に車で出かけたのは初めてだったので、どこに車を駐車していいのかわからず、結局、日本最大級のショッピングモールと言われている「ららぽーとEXPOCITY」の駐車場にとめることになりました。この駐車場からだと、雨の中、民博まで15分ほど歩かねばなりませんでした。母の世話もあり、じっくり特別展を楽しむことはできませんでしたが、満足しました。

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