iPhone6 Plus 初めての写真
晩秋の深草
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■昨日は、午前中は老母の生活介護。昼食に梅田三番街の「インデアンカレー」でパワーを注入し、肥後橋経由・京阪で深草キャンパスへ。会議2連チャンでした。けっこう長くなりました。疲れました。物理的な時間の長さというよりも、議論の中身かな。これ以上は書きません。
■まあ、とにかくです、ちょっと気持ち的に疲れたのです。こういう時は、ぶらりとどこかに立ち寄るわけですが、そういう気持ちにもならず、まっすぐに帰宅しました。京阪深草の駅に向かう最中に撮った写真です。満月ではありませんが、月が出ていました。見慣れた風景ですが、こうやって写真に撮ると風景の奥にある姿がみえてきます。その風景に気持ちが投影されます。
■写真はiPhone5で撮ったものです。画質が荒いですが、どうかご容赦ください。上の写真は、キャンパスの門を出たところにある「大洋」という会社です。その右は、跨線橋の上から撮った京阪深草駅。左は、琵琶湖疎水でとった町家。錆びたトタンの壁に「魚治」の看板がお気に入りなのです。
再投稿・金才賢先生と堀昭一さんの出会い
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(異常が発生し、ご迷惑をおかけしております。とりあえずの対応でしのいでいます。本日投稿したエントリー「金才賢先生と堀昭一さんの出会い」ですが、私のデータ操作が悪かったためでしょうか、フリーズしてしまっています。そこで、1ページに表示できるエントリー数を減らし、問題が生じたエントリーをダミーのエントリーで次ページに移動させることにしました。このエントリーの本文、後で書きます)」
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■少し前のエントリー「金才賢先生(韓国・建国大学)の来日」にも書きましたが、これから滋賀の農産物を活かした石釜ピザの店を開店される「Ishigama」の堀昭一さんにも、金才賢先生とインタビューしていただきました。この写真は、堀さんにお許しいただき、堀さんがfacebookにアップされたものを転載させていただいています。facebookの投稿のなかで、堀さんは、次のように述べておられます。
昨日は、龍谷大学脇田先生からの、ご依頼を受けて
韓国からお越しの頂いた金教授のインタビューを受けて参りました。
『地域の中でどのような位置付けでありたいか』
『生産者との関係をどのように表現していきたいか』
普段から思い描いていることを、しっかりと言葉にすることがとても大切だと改めて気がつきました。
■「普段から思い描いていることを、しっかりと言葉にすることがとても大切だ」。私もその通りだと思います。言語化、概念化して自分たちの活動をきちんと説明できることが、「地域づくり」においてはとても大切だと思います。先日、3年生のゼミで読んでいる延藤安広先生の『まちの再生の述語集』には、冒頭の部分に、次のような4つのデザインに関する説明があります。
・状況にいかに「やたかなふくらみ」を与えるかという「戦略デザイン」
・人と人[code][code]・状況にいかに「やたかなふくらみ」を与えるかという「戦略デザイン」
・人と人のつながりをいかに仕掛けるかという「参加のデザイン」
・どんなモノを配慮しどんな親密な場所にしていくかという「空間のデザイン」
・「ヒト・モノ・コト・トキ」をいかに仕組むかの「マネジメント・デザイン」
■延藤先生が指摘されているこの4つの「デザイン」は、金才賢先生のインタビューでの堀さんに対する質問とも重なっています。ゼミの3年生にもいったのですが、自分たちがやっている「北船路米づくり研究会」の活動をこの4つのデザインの考え方に重ね合わせてみたときに、どういうふうに自己点検・評価できるのか。堀さんの言葉でいえば「しっかり言葉にする」ことをやってもらいたいと思うのです。話しを、この日のことに戻しましょう。
■金才賢先生は、堀さんにインタビューしたあと、「韓国にも、ピザ店を開店して地域の活性化の取り組む若者達がいますよ」と教えてくれました。「清風商会」というお店を古い伝統的な地域の市場のなかに開店させた若者たちの話しです。ピザ店がメインなのですが、それ以外にも、フットバスやシェアハウス・ゲストハウスの経営もされていすま。ところで、この若者たちは、ある韓国のシンクタンクで学んだ人たちです。韓国には、「希望製作所」というシンクタンクがあります。現在、ソウル特別市の市長であり、弁護士をされていた朴元淳さんが中心とり、2006年、市民が社会デザインの担い手となることを目指す市民参加型シンクタンク「希望製作所」(ヒマンチェジャクソ、The Hope Institute)を設立しました。ネーミングがいいですね。「希望製作所」です。この「希望製作所」でインターンをした若者が、自分の故郷である江華島に帰って、江華島の古い市場のなかで「清風商会」を開店したのです。「清風商会」の経営は、2人の若者がやっているわけですが、そのうちの1人、金土日さんの記事をみつけて、翻訳してみました。もちろん、「エキサイト翻訳」を駆使しての翻訳です。それを少し編集しました。ですから、必ずしも正確ではありません。しかし、大筋はわかると思います。大変興味深い活動だと私は思います。
こんにちは。 「希望製作所」뿌리センター28期インターン金土日です。「希望製作所」のインターンを修了してすでに1年が過ぎました。「希望製作所」での4ヶ月という時間は、自分自身、これから何をしていくべきかについての方向性を、はっきりと捉えることのできた非常に大切な時間でした。
私は江華島(カンファド)で幸せな学生時代を送りました。ソウルにある大学に通う間にも、常に私の胸中には、いつか自分が暮らして地域に戻って何かしてみたいという強い想いがありました。多様な活動によって地域を再生し、コミュニティを活性化していくための仕事をする、뿌리センターのお手伝いをすることになったのも、私が暮らしてきた地域で、自らの人生を育みたいという私の欲求を満足させるためでした。
江華島(カンファド)で何かをしたいという漠然とした考えだけを持っていましたが、ルーツセンターでインターン生活をして地域活動事例に接しました。実際に活動に参加して多様な経験をしました。今私たちがしていることも、このルーツセンターで研修し、研究員の方達の後を付いて回って得たアイデアを活用し、そのアイデアに接木させたのです。 それでは今からルーツセンターで学んだことを基に、私が江華島(カンファド)でどんなことをしているのか紹介し、宣伝させていただこうと思います! ^^
インターンを終えた後、 강화풍물市場に文化観光型市場育成事業団ができたことを知りました。「江華島(カンファド)で地域活性化、市場活性化活動をすることができるとは!」と、嬉しくて浮き立った気持ちになり、すぐにその事業団に参加することにしました。江華島(カンファド)を感じることができる小さい旅行を企画して、市場全体で進める面白い遊び文化を作り、地域民を伝統市場に誘導するための祭りも企画しました。
また、青年たちの活動基盤になる青年モールを作る仕事にも参加しています。 青年たちが持続的に地域で活動をするためには青年モールと同じ基盤がなければならないと考えた末に参加しました。そこで、仁川(インチョン)で文化芸術活動をしていた友達、永らく商売をしていた友達、そして私が一緒に集まって「清風(チョンプン)商会」という名前のお店をつくり、市場で商売を始めました。 「清風(チョンプン)商会」は、現在の実行している取り組みだけでなく、計画中の事業についても色々あります。まず 강화풍물市場に「かまど食堂」を開いてかまどピザを焼いて売っています。
地域の伝統的な市場にどうしてピザなのか。私たちは、伝統な地域市場にピザ屋ができれば、地域の若者たちが市場のなかを探すだろうと考えてピザ屋を開いたのでした。4名全員、料理のできる青年ではありません。市場のお母さんたちが私たちに関心をもってくださり、彼女たちがアドバイスをくださったおかげで、ピザのメニューがひとつひとつ完成していきました。まだ数は少ないけれど、来店されるお客さんのアドバイスについても、ひとつひとつに耳を傾けて味をアップグレードしています。「かまど食堂」を再訪されたお客さんは「かまど食堂」の成長を自らのことのように喜んで応援してくださいます。「かまど食堂」は、青年たちの力だけで成長するのではなく、市場の商店の皆さんと江華島(カンファド)の市民が一緒に育てる食堂になっています。「安い価格と素敵なサービスで、市場を生き残るようにしよう!」という考えで商売をしてみると、「青年たちが他の皆さんに与えるだけでは滅びてしまう…」とたいへん心配して訪ねてくる方たちもいます。
江華島(カンファド)は他の地域に比べて、地域で活動する青年がいません。 ソウルと1時間の距離にあるため距離上で首都圏ですが、江華島(カンファド)だけを切り離して見れば、首都圏のイメージは探すことが難しく、よく言われる田舎っぽい雰囲気が漂っています。そのため、青年たちは江華島(カンファド)に留まることはなく、ソウルや仁川(インチョン)に出て行って活動をするので、他の地域に比べて青年の数がさらに少ない状況にあります。このような状況のためでしょうか、私たち青年が自発的に江華島(カンファド)で住み着いて活動していることを、江華島(カンファド)年配の方は好奇心が入り交じった良い目線で眺めて下さっています。
この前は「清風(チョンプン)商会」の2番目事業である足浴カフェ(フットバス)「足漬けて」がオープンしました。足を漬けて旅行の開始と仕上げができる空間です。バスターミナルそばにあって、旅行客が行き来しやすい 강화풍물市場で、暖かい水に足を漬けて飲み物を楽しみながら旅行の始まるを楽しみ、旅行を終えて家に帰るばあいは、その前に旅行の疲労をとって旅行をふりかえるような空間になるでしょう。もちろん旅行客だけのための空間ではありません。 市場で商売をされているかたたちと江華郡(カンファグン)の人びとのための空間でもあります。市場での仕事は神経を使いとても疲れます。商売されている方たちが、一日の仕事を終えて足をお湯に漬ける、そういった一日の日課を近隣の商店の方たちと共有すると、商売をされる方たちの間の結束力を確かめることになります。江華島(カンファド)は歴史的文化的に多くの資源を有していますが、これらの資源がうまく活用されずにいます。「清風(チョンプン)商会」はこういう豊富な資源を活用できる方法を悩んでいます。
私を除いた残り三人の青年たちは、江華島(カンファド)で暮らしたことがないのですが、今は江華邑(カンファウプ)に家を得て一緒に生活しています。今後、私どもが暮らしている空間を改造してシェアハウスとゲストハウスを運営する計画です。江華島(カンファド)は、歴史のある場所だと呼ばれる程、韓国の歴史から除くことはできない重要な地域であり、そこに自然の海と山が組み合ったとても美しいところです。
江華島(カンファド)はソウル近郊に位置しているため、観客数が多いわけですが、観光客の大部分はペンション旅行や観光地だけさっとみて戻る場合が多いのです。それで私たちは、江華島(カンファド)に住んでいる青年と観光客が交流して、地域に関して話しを交わすことができるゲストハウスを運営することにしました。ペンションが並んでいる江華島(カンファド)には、外国人が一日二日泊まって旅行しにくるでしょう?このゲストハウスを活用した外国人観光客誘致は、地域に風変わりさを提供しますし、ごちゃごちゃした町商圏を活性化させる役割をはたすでしょう。ゲストハウスは朝鮮末期の哲宗が過ごしたヨンフングンがある路地にあります。ここは、江華島(カンファド)に住んでいる学生たちもしばしばやってくる路地です。今後は、ゲストハウスの周辺路地を中心に、地域内文化芸術家らと交流して文化芸術を共有することができるような場所にしていくつもりです。
私はこの頃本当に楽しいです! 正直にいって、まだ「清風(チョンプン)商会」の私たちは余裕があるような生活をするほどの金を儲けられていませんが、楽しく生きているということが私たちにとって最も重要なことなのです。私が育った江華島(カンファド)で、楽しい仕事できることを、本当に幸せなことだと思っています。
by뿌리センター28期インターン研究員・金土日
■できれば、堀さんたちと、ぜひこの韓国の「清風商会」を訪ねてみたいものです。以下の動画は、金土日さんと一緒に「清風商会」を経営されているCho Sunghyuさんです。少し、彼らの活動が理解できるかと思います。
白鬚神社
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■昨日は、滋賀県庁の「つながり再生モデル事業」(琵琶湖環境部・琵琶湖政策課)の関係で、琵琶湖政策課や滋賀県立琵琶湖環境科学研究センターの皆さんと一緒に、高島市にある松の木内湖まででかけました。滋賀県庁の公用車ででかけたのですが、途中、白鬚神社で少しだけ時間をとっていただき、この写真を撮りました。
■iPhone5で撮ったわけですが、なかなか満足のいく出来に仕上がりました。写真を撮っているとき、とても清々しい気持ちになりました。最近は、いわゆるパワースポットとしても有名らしいのですが、なるほど…と思います。
京阪・浜大津駅の絵
■京阪浜大津駅の改札口を抜けたところに、このような絵が飾ってありました。寄贈されたもののようです。場所は、京津線の「大谷駅」とのことです。絵画のことはよくわかませんが、なにか惹かれるものがあり、iPhone5で写真を撮ってみました。なにか、寂しい雰囲気の女性らしき方がホームのベンチに座っておられます。電車が来ているのに、どうしたのでしょうね。疲れて立ち上がれないのかも…なんて想像をしてしまいました(ちょっと写真のピントもボケていますね、すみません)。
■列車ですが、京都市営地下鉄まで乗り入れている800系ですね。京津線は、地下鉄区間と併用軌道(路面電車)区間を直通する車両です。日本でここだけです。しかも、急勾配、急カーブも多いことから、かなりの費用と技術を投入されている列車なのだそうです。
第6回「大津ジャズフェスティバル」
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■昨日は、第6回「大津ジャズフェスティバル」(OJF)でした。実行委員のMさんから、緊急にボランティアをしてもらえないかとの打診があり、土曜日だけボランティアをさせていただきました。私の担当場所は「大津祭曳山展示館前」でした。ひさしぶりの会場担当でしたが、なんとか無事にボランティアを終えることができました。ありがとうございました。第6回をむかえた「大津ジャズフェスティバル」、じつに立派に運営をされています。安定感がありますね。「大津祭曳山展示館前」の受付をしながら、昔のことを思い出しました。
■10月15日の京都新聞の1面のコラム「凡語」に、小山さんの事が書かれていました。
青い琵琶湖と秋空を背景にしたステージで、プロやアマチュアのミュージシャンが演奏し、多くのジャズファンが音楽を楽しむ。「世界一美しい」をうたい文句とする大津ジャズフェスティバルが18、19の両日、大津市の浜大津など湖岸一帯で開かれる▼市民の自主的な活動として2009年に始まり、今年で6回目となる。開催を言い出したのは、第3回まで実行委員長を務めた故小山清治さんだ▼大津市の市街地を歩き、シャッターが下りた商店の多さに驚いたのがきっかけだった。「好きなジャズでまちなかを盛り上げたい」と、仲間と立ち上がった▼数人しかスタッフが集まらない会議もあったが地道に賛同者を増やし、強いリーダーシップで初回を成功に導いた。その後、がんが見つかり、闘病の中で第3回を開いたが、一昨年春に54歳で亡くなった▼遺志を継いだスタッフたちの奮闘で、その後もイベントは盛大に続き、今年は約160組1100人が32会場で演奏する。プロも含めて全て無料で聴けるのが魅力の一つだ▼小山さんは運営を始めたころ、「とりあえず、第5回までは何とか続けたい」と話していた。今回、もうその回数を超える。故人が当初想像した以上に育ったフェス。今年は、どんな音色をまちなかに響かせてくれるのだろうか。 [京都新聞 2014年10月15日掲載]
■第1回の2009年の7月に、父親が1年間の闘病の末に亡くなりました。私はずっと看病等で週末は父のところにいっていたので、「大津ジャズフェスティバル」の実行委員会立ち上げには参加できましたが、その後、実行委員としては実質的に参加できないでいました(実行委員会が週末に開催されたため…)。ボランティアかなにかでお手伝いをしようと思っていましたが、小山さんは、わざわざ私に声をかけてくださいました。開催近くになって、再び実行委員になってほしいと呼んでくださったのでした。しかし、実際に実行委員会に参加してみるときちんと機能しているようにはとても思えませんでした。人はそれなりに集まっていましたが、必要な知恵をだし、きちんと動ける人があまりにも少なすぎました。人を動かす仕組みもありませんでした。また、私が知る限りですが、MCなどをしたいという人はいても、汗をかいて舞台裏の仕事等をする覚悟のある人が少なすぎました。上記のコラムのなかには、「初回を成功に導いた」とありますが、それは天国の小山さんも「ちょっと違うよ、それは…」とおっしゃるかもしれません。実際、第1回の運営は惨憺たるものがありました(あくまで個人的な見解ですが)。個人的な知り合いの街の皆さん、そして市役所の職員の方からも、厳しい評価をいただきました。
■しかし、このときの失敗を乗り越え、きちんと実行委員会を再構成し、準備をしっかりした第2回目以降からは、「大津ジャズフェスティバル」は軌道に乗り始めしまた。社会経験豊富な社会人の実行委員の方が増えて、実行委員会の組織を機動力をもたせるた形に再構成したことが大きかったと思います。ジャズフェスティパルの目指す方向性や運営の仕組みをめぐっては様々な議論(激論)が交わされましたが、結果として、現在のジャズフェスの原型ができあがったのが、この第2回目なのではないかと思います。そして私が参加できたのも、この第2回目までです。というのも、1人暮らしを始めた老母の生活介護や大学の地域連携事業等で忙しくなり、ジャズフェスティバルにエネルギーを注ぐだけの余裕が無くなってしまったからです。第6回「大津ジャズフェスティバル」は、冒頭にもかきましたが、第2回目以降の経験知やノウハウが蓄積され、多くの実行委員やボランティアの参加もあり、大変安定した運営のように思えました。素晴らしいですね。
■以下は、塩漬け状態になっている個人プログのなかの「大津ジャズフェスティバル」のエントリーです。忘れていたことを、いろいろ思い出します。この他にも、「ジャズフェスティバル」で検索すると、たくさんの記事がまだ出てくると思います。ジャズフェスの前史のような感じになりますが、私と小山さんとの出会いは、2008年でした。当時、大津市が主催していた地域SNSを通して出会いがありました。そして、6月には、龍谷大学社会学部で実施している地域連携型教育プログラム「大津エンパワねっと」と、中心市街地で地域づくりに取り組んでいる「大津まちなか元気回復委員会・企画部会」とのコラボレーションによる「町歩き」に、小山さんは参加されました。大津中心市街地の寂しい様子を目の当たりにし、「大津ジャズフェスティバル」の実施を決意されました。そのような話しも、以下のエントリーのなかに出てくるかもしれません。
2009/5/14「大津ジャズフェスティバル(その1)」
2009/5/14「大津ジャズフェスティバル(その2)」
2009/5/14「大津ジャズフェスティバル(その3)」
2009/5/14「大津ジャズフェスティバル(その4)」
■ところで、写真の説明をしていませんでしたね。ステージの背景は、「大津祭曳山展示資料館」です。ガラスを通して、なかに曳山の原寸大レプリカが置かれていることがわかります。「西王母山」です。この展示館がある丸屋町の曳山です。
■トップの写真は、「ORB」というバンドです。パンフレットには、「同じ会社で働いていた仲間が集まり、スタンダード・ジャズなどの演奏を楽しんでいる『おやじバンド』です」と自己紹介されています。定年退職をされた中までジャズを楽しまれているのですね。演奏ですが、これがまた素晴らしいのです。多くの人びとが会場の前で足を止めて、その演奏を楽しまれていました。
■3枚目の写真は、「幸バンド」です。男女のボーカルが印象的です。最後のステージということもあり、ベテラン…の風格が漂っています。迫力ありました。私の仕事は、会場の設営と撤収に加えて、パンフレット等の配布とともに、ステージが終わるたびに、募金をお願いすることでした。300円以上の募金をしていただくと、様々な種類が用意されたOJF特製のカンバッジを差し上げる仕組みになっています。たくさんの方達が募金をしてくださいました。市民の実行委員とボランティアが開催して、多くの市民が応援する…そして街に音楽と賑わいを生み出す、素敵だと思います。
第3回「おおつ未来まちづくり学生会議」
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■17日(金)、瀬田キャンパスのREC棟の部屋に瀬田キャンパス「おおつ未来まちづくり学生会議」の面々が集まって、午前中からグループワークを実施しました。第1回目はテーマ設定とグループ分け。第2回は細長い大津市を分担して「まち歩き」、そして「まち歩き」で発見したことの整理。第3回は、次回の市役所での発表を前に、パワーポイントの作成…。タイトなスケジュールの中で、自分たちの気付きがうまく伝えられるよう「あーでもない、こーでもない」と頑張っています。
■私も作業の途中を時々のぞきにいきましたが、なかなか大変ですね〜。この日だけでは完成できず、あとは第4回まで各グループで作業を継続してもらうことになりました。頑張れ、学生諸君。
電気鉄道事業発祥地
■京都駅は、私にとって通勤のときに通過する場所です。自宅のある奈良から近鉄で京都駅まで行き、そこからJR京都駅まで歩き、こんど琵琶湖線に乗り換え瀬田駅までいく。京都駅は、そのようなルートの通過地点でしかありません。そのようなこともあり、駅構内の外に出ることはあまりありません。駅の周辺にある書店や居酒屋(ないしはパブ)に行くとき、あるいは近くにあるショッピングモールに買い物をしにいくとき以外は、駅の建物から外に出ることはありません。まして、京都駅から地下鉄に乗って繁華街である四条のあたりまでいくなんてもことも、県人会や同窓会等の特別な用事がない限りありません。つまり、京都駅は通過はしていますが、京都の街のことはあまり知らないのです。
■先日のことになります。駅から少し離れたところにあるラーメン店に昼食をとりにいきました。京都駅ビル内の伊勢丹にも拉麺小路という場所があり、全国の有名店が出店されています。まあ、そこでも良かったのですが、その日は京都駅近くにある「本家 第一旭」に行きたくなり、テクテク歩いていたのです。すると、駅のすぐそばにこの写真の石碑がたっていることに気がつきました。何度も通っているはずなのですが、今回、このような石碑が建っていることに初めて気がつきました。「電気鉄道事業発祥の地」と書いてあります。帰宅してからも調べてみて、いろいろわかりました。京都市役所のホームページでは、この日本発の電機鉄道に関して詳しく解説していました。以下は、そこからの引用です。
日本初の市街路面電車
明治28(1895)年2月1日から昭和53(1978)年9月30日までの83年間,路面電車が京都市内を縦横に走っていました。明治28(1895)年,民営の京都電気鉄道会社(京電<きょうでん>)が東洞院(ひがしのとういん)塩小路(しおこうじ)下るの七条停車場(しちじょうていしゃじょう,京都駅)と伏見町(ふしみちょう)下油掛(しもあぶらかけ)間の営業を開始。京都に日本初の路面電車が誕生しました。明治45(1912)年6月,京都市営電車の営業が開始され,京電との激しい客取り合戦が繰り広げられましたが,大正7(1918)年7月,京都市が京電を買収し,競合区間の路線が統一されました。大正中期から昭和初期までは,市電の黄金時代が続きました。
昭和30年代の後半(1959~1964)から,市電と競合する市バスや会社バスが増加し,更に自動車も多く走りはじめ,路線の自由がきかない市電経営は行き詰まりを見せました。
昭和45(1970)年3月31日,日本最古の路面電車路線だった伏見線(塩小路高倉<しおこうじたかくら>と中書島<ちゅうしょじま>間)と稲荷線(勧進橋<かんじんばし>と稲荷間)が廃止されたのを皮切りに,路線が次々と廃止され,昭和53(1978)年9月30日,残る外郭線(北大路・西大路・九条・東山・七条・河原町の各線)すべてが廃止され,京都の路面電車の歴史に終止符が打たれました。先走りの少年
京電開業の6か月後の明治28(1895)年8月,雑踏や街角,橋上では電車の先五間(約9メートル)以内を先行し,昼は旗,夜は提灯をもち「電車がきまっせえ。あぶのおっせえ」と叫びながら線路を走る告知人がいました。告知人は,12歳から15歳の少年で構成されていて,先走りと呼ばれました。告知人制度は,府令第六十七号電気鉄道取締規制によるもので,仕事は危険な上に汗とほこりにまみれての重労働で,少年が電車にひかれる事故が相次いだため,告知人制度は廃止されました。疏水止まれば電車も止まる
京電は琵琶湖疏水(びわこそすい)による水力発電によって電力が供給されたため,疏水の流れが止まると,京電も休業となりました。京電の定期休業日は,元旦,毎月1日と15日の疏水藻刈日。その他,水利事務所の機械故障や琵琶湖の増水などによって,たびたび電車の走行が止まりました。明治32(1899)年,東九条村(ひがしくじょうむら,現南区東九条東山王町)に石炭による火力発電所が開設され,その発電により輸送能力が一気に向上しました。
■素朴に「電車に乗るのが楽しい…」と思うだけの幼稚な鉄道愛好家なので、こういう歴史的な事実関係についてはまったく知りませんでした。京都の路面電車と琵琶湖疎水の関係については受験勉強のときに得た知識として知っていましたが、「先走りの少年」がいたなんてことも…知りませんでした。しかも、「電車がきまっせえ。あぶのおっせえ」と叫びながらというのが、京都らしい。ただし、少年が電車にひかれる事故が相次いだため…というのは、悲惨というか、なんとも言いようがありません…。解説では、路面電車が全面的に廃止になったのが昭和53(1978)年だといいます。私が二十歳のときです。当時、神戸に住んでいましたが、廃止寸前の頃に、一度だけ乗ったような記憶があります。今から思えば、市電を無くしてしまうなんて…もったいない話しですね。電車、自転車、人の歩行を優先るす街になっていれば…と思わずにはいられません。
■ところで、「電気鉄道事業発祥の地」の石碑の碑文ですが、以下の通りです。
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電気鉄道事業発祥の地
日本最初の電気鉄道はこの地に発祥した。即ち明治二十八年二月一日 京都電気鉄道 株式会社は 東洞院通り七条下る鉄道踏切 南側から伏見下油掛通りまで 六キロの間 に軌道を敷き 電車の運転を始めた。この成功を機として 我が国電気鉄道事業 は漸次全国に広がり 今日の新幹線電車にまで発展することになったのである。よってその八十周年にあたり 先人の偉業 を讃えてこの記念碑を建てる。 昭和五十年二月一日
日本国有鉄道
京都市交通局
関西電力株式会社
阪急電鉄株式会社
京阪電気鉄道株式会社
近畿日本鉄道株式会社
阪神電気鉄道株式会社
南海電気鉄道株式会社
京福電気鉄道株式会社
鉄道友の会京都支部
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■関西の鉄道関係の企業がずらりとならんでいますね。阪神、南海なんて鉄道会社は京都とは関係ないはずですが、鉄道会社のとっては重要な「発祥の地」ということで、ここに名前があがっているのでしょう。ちなみに最後の「鉄道友の会」ですが、1953年(昭和28年)11月14日に創立された全国規模の鉄道愛好者団体です。広く鉄道知識を普及し、鉄道趣味を通じて会員相互の親睦を深め、鉄道を愛護し、その発展に寄与することを目的として設立されています。この「発祥の地」の石碑は、伏見区にも建てられているのだそうです。こちらも、チャンスがあれば見学したいと思っています。
戦後史証言アーカイブス「津波研究50年」首藤伸夫先生のこと
■まず、最近facebookにアップした記事を、加筆修正の上で転載します。
首藤伸夫先生は、津波研究の第一人者だ。
私は、1998年4月から2004年3月まで、6年間、岩手県立大学総合政策学部に勤務していた。所属は、地域政策講座だった。首藤先生には、そのとき同じ地域政策講座でお世話になった。東北大学を定年で退職されたあと、岩手県立大学に勤務されていた。
教員住宅もお隣同士だった。私は単身赴任だったが、インフルエンザにかかってしまったとき、正月、関西に帰省していて、岩手に戻ったら水道管がカチンコチンに凍っていたとき…、私生活の面でもいろいろ助けていただいた。
もちろん、首藤先生には、津波のことについても、教えていただいた。5〜6年前だろうか、東京で偶然にお会いした。そのとき、日本大学に勤務されていた。そして、今日は、首藤先生にネットでお会いすることになった。NHKの「戦後史証言アーカイブス」のなかで証言しておられた。あのとき、もっと先生からいろいろお話しを伺っておけばよかったと思う。まあ、人生とは、そういう後悔の連続だからと、最近は開き直ってしまうけど。先生の証言を聞きながら、昔の教わったことや、首藤ゼミの学生たちの研究内容についても思い出してきた。
「津波研究50年」(「番組名 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか」 2013年度「地方から見た戦後」第6回 三陸・田老 大津波と“万里の長城”)。
■さて、インターネットに「戦後史詳言アーカイブス」を開設した目的を、NHKは次のように説明しています。
NHKでは、戦後の歩美の中で日本人が経験したことを、未来に伝えるため『戦後史詳言アーカイブス』を開設しました。『日本人は何をめざしていたのか』などの番組で取材した政財界人から一般市民にいたる幅広い証言を、未放送の部分も含めてインターネット上で公開していきます。
■首藤先生の証言。2013年度「地方から見た戦後」の第6回「三陸・田老 大津波と”万里の頂上”」に登場する8人のなかのお1人として証言されています。
大津波を二度体験した/三陸・宮古市田老住民/赤沼ヨシさん「96歳 巨大防潮堤の町に生きた」
大津波を二度体験した/三陸・宮古市田老住民/荒谷アイさん/「悲劇を忘れない 昭和8年大津波で家族7人失う」
元 運輸省防災課/久田安夫さん「津波対策に取り組んで いま思う「悔しさ」」
元 建設省土木研究所研究員 東北大学名誉教授/首藤伸夫さん「津波研究50年」
大津波を二度体験した/三陸・宮古市田老住民(現 青森在住)/田畑 ヨシさん「二度の大津波体験を紙芝居で伝える」
田老診療所 医師(東日本大震災当時)/黒田仁さん「津波の町で医療を守る」
岩手県釜石市唐丹町 花露辺町内会長/下村恵寿さん/「”防潮堤はいらない”」
元 田老町漁業協同組合/梶山亨治郎さん「田老のシンボルだった巨大 防潮堤建設の経緯」
三陸・宮古市田老住民 漁師/扇田文雄さん/「将来に抱く不安 それでも海を離れたくない」
宮古市危機管理課 元 田老町職員/山崎正幸さん/「心の中に防潮堤を『津波防災の町 宣言』」
■首藤先生の証言全体は、4つのチャプターから構成されています。各チャプターごとに、語りが「再生テキスト」として文字化されています。
[1]おばあさんに教わった
[2]「津波研究などムダ」と言われた
[3]津波対策のこれから(一)
[4]津波対策のこれから(二)
【[1]おばあさんに教わった】
■このチャプターでは、1960年のチリ津波の調査に入ったときのことが証言されています。先生が津波研究に入られた動機が語られています。東大工学部を卒業されて当時の建設省に入省されます。1957年のことです。まだ高度経済成長の入り口に日本がいた時代です。私自身は、そのときにまだ生まれていません。日本はまだ貧しく堤防や防潮堤をつくる…という発想はまだなかったようです。
始まりはね、やっぱりチリ津波なんですよ。釜石のすぐ近くに両石っていうところがあって。そこでね、2階屋の1階がめちゃくちゃになって、2階はちゃんと残っている。後片付けに忙しいおばあさんのところに近寄って行ってね、「おばあさん大変ですね」って言ったらね、そのおばあさんがまたね、にこっと笑ってね、こんなに被害にあっているのにあんなきれいな笑顔ができるのかっていうぐらいににこっと笑ってね。「あんたね、こんなものは津波じゃないよ、昭和や明治の津波に比べたら」と、こうおっしゃったのね。(中略)昭和や明治の津波に比べたらこんなもの津波じゃないよと言ったので。それで昭和や明治の津波っていうのがどんなものだったのかという事を一生懸命文献を探しては読んでいた。そうしたらだんだんね、そのものすごさが分かってきた。
■社会学をやっていると、「おばあさん」のきれいな笑顔の意味、「昭和や明治の津波」の経験が、「おばあさん」の人生のなかでどのように位置づけられていたのか、突然不幸を受け止める力、それは何にもとづいているのか…そのようなことも気になってきますが、それはともかく。先生の関心は、「こんなものは津波じゃないよ、昭和や明治の津波に比べたら」という、そのものすごい津波の実態を知ろうというところから始まります。そして、それをどう防げばよいのかということにつながっていきます。
【[2]「津波研究などムダ」と言われた】
■このチャプターでは、「津波は防潮堤で防げる」という「過信」がひろがっていく時代について証言されています。「チリ津波特別措置法」により、「津波対策」=「構造物をつくること」…という社会的な発想が社会に定着していくのです。「こんなものは津波じゃないよ、昭和や明治の津波に比べたら」という古老の経験は活かされることはありません。あちこちに防潮堤が建設されました。1968年の十勝沖地震津波が、チリ津波よりほんのわずかだけど小さかったことが、かえって「過信」を生み出すことになりました。1980年代に入り建設省の河川局と水産庁が津波対策の再検討を始めたとき、先生は幹事長を務められたようですが、そのとき「予報」、「避難」、「構造物」の3本立てで津波対策を進めようとされました。ハードだけでなく、ソフトも含めて総合的な政策を進めなければならないという立場ですね。しかし、このような考え方に対しては、縦割り行政組織のなかにいる官僚たちから強い反発があったというのです。「津波は防潮堤で防げる」という「過信」がひろがっていく時代に、ソフト対策に対する抵抗は相当根強いものだったのです。古老の経験に耳を傾けることはありませんでした。
【[3]津波対策のこれから(一)】
■「チュウボー」という言葉が出てきます。「中防」=「中央防災会議」です。その「中防」が津波に関して提示した方針、「千年に一回程度襲ってくる最大級のレベル2の津波は、防潮堤を越えることを想定、手段を尽くした総合的な対策を立て」、「百年に1回程度のレベル1の津波は、基本的に防潮堤で防ぐ」という方針についても、それはすでに1993年の北海道南西沖地震の頃には、「頻度の高い津波は構造物で、それ以外はソフト対策とかね、町を津波に強いものにするという思想はずっとあった」というのです。先生は、こうも語っておられます。「とにかく人間はね、地球の事を何も知らないんですよ。だから今だってL2だほら何だとかって言って、1000年に1回なんて言っていますけどね、明日もっと大きいのが来てあとで調べたら1万5000年に1回のだったなんて事になっちゃ、ね。そういう事ってあり得るっていう事を考えて対策をするという、それが根本の考え方にないとダメですね」。ここには、限定された時空間の、限られた経験にもとづいて社会的に「わかったこと」にしてしまう傾向、別の言い方をすれば「蓋をしてしまう」傾向が垣間みえます。
■「津波対策っていうのは結局発生する頻度がそんなにないものだから、やっぱりいろんな部署ででも住民の間ででもとにかく忘れられてしまうっていう事がね。いちばんの難問題なんですよ。これをどうして繋いでいくかね」ということもおっしゃっています。世代を超えて「社会的な負の記憶」をどのように継承していくのかと言い換えることができるのかもしれません。もうひとつ、巨大な防潮堤のような構造物をつくっても、それらが劣化していく問題が視野に入っていないことも指摘されています。巨大な構造物を維持していくのには相当な社会的費用が必要です。そのような費用が担保できないのであれば、かえって巨大な構造物は危ないかもしれないというのです。「昔に比べてね、何かこう、行政がやってくれるからそれに従っていれば大丈夫だっていう気持ちがちょっと強くなりすぎているんじゃないんですかね」という指摘も、大切なご指摘だと思いました。
【[4]津波対策のこれから(二)】
■どのような津波の防災が必要なのか。たとえば巨大な防潮堤を拒否する地域がありますが、先生ははっきりこう言っておられます。「住民が責任を持っていろいろな情報を元にね、住民が責任を持ってそういう選択をするっていうのがね。それがいちばんいいことです。住民がそれを自分の責任で自分の子どもや孫にきちんと繋いでいくね、そうなきゃいかんと思います」。少し長くなりますが、以下をご覧ください。
守られた場所で本当に生活が成り立っていくという事とね、兼ね合わせですね。それを選ばにゃいかん。それはそれの最終決断は住民しかできないでしょう。だからその大きな構造物をつくる、いや、それはちょっと小さくしておいて、その代わりの手立てとして例えば高地移転するとかね、いろんなものの組み合わせがそこの集落の生活をつなぐという事との兼ね合わせでね。だから生活ができて、しかも安全であるという組み合わせ。どういう組み合わせを住民がよしとして取るかね。それをやってないと結局は大きいものをつくってあげたから大丈夫だろう、安全だろうって言って、つくってあげた方は俺はできる限りの事をしたと思っていても、そこで生活が成り立たなきゃみんなどこかに行っちゃいますよね。そうしたらせっかくつくったものが結局は役立たずになりますわな。だから最終的には住民がきちんとした情報のもとに判断をして、それを行政が助けてあげるという姿勢じゃないとね。防災対策なんて長続きしませんね。
■行政によるパターナリズムを批判し(同時に公共事業のあり方についても)、地域住民による自治を強調されています。そのうえで、やはり「いちばん難しいのがそういうものを何十年もそういう知恵をつないでいくっていう事ですね。これが難しい」と語っておられます。ここでも、世代を超えた「社会的な負の記憶」の継承していくことの困難性を語っておられるのです。「社会的な負の記憶」が忘却されていくとき、津波の被害にあいやすい場所に老人福祉施設や病院等が建設されるようになる…これは、私が岩手県立大学に勤務していたときに、首藤ゼミの学生の調査から学んだことです。今回も、先生は、以下のように語っておられます。「事あるごとに重要施設とか弱者施設っていうのは、安全な方に安全な方に持って行くっていうのが原則だけど、それをやっぱり長い時間たつとね、忘れてしまうんですよ。それがいちばん問題。だから皮肉な事を言うと、あなた方は今一生懸命こうやっているけど、同じ熱意で15年後ね、これから15年何もないときに同じ熱意でやれますかっていう事」。
■首藤先生の津波研究の始まりは、チリ津波で被害を受けた釜石の「おばあさん」との出会いでした。大学を卒業して建設省に入省した青年官僚だった先生も、80歳になっておられますが、とてもそのようにはみえません。じつに矍鑠(かくしゃく)とされています。ひょっとすると、釜石の「おばあさん」よりも年上になられたのかもしれません。社会的忘却にどのように抗して、「社会的な負の記憶」を継承していくのか。「おばあさん」から受け継いだ教訓を、NHKの若い取材スタッフに、そしてアーカイブスを視る人たちに、世代を超えて継承しようと、語っておられるように思えました。
【追記】首藤伸夫先生のご講演。2011/09/25 首藤伸夫東北大名誉教授 講演『津波とともに50年』。一般の人びとにもわかりやすく、ご自身のこれまでの研究経緯を説明されています。ぜひ、ご覧いただければと思います。