『ソシオロジ』編集委員会
■『ソシオロジ』という社会学の学術雑誌の編集委員をしています。年に3回、京都市内で編集委員会を開催します。委員は、それぞれ1人あたり4~6本の投稿論文を読み込んで、コメントをきちんと準備し、編集委員会に参加します。そして掲載できるかどうか委員会のなかで議論をします。昨日は、今年2回目の編集委員会でした。けっこうエネルギーを消耗する仕事なので、編集委員会のあとは、慰労会をもつことになっています。
■昨日の慰労会の場所は、先斗町にあるお店でした。暑い季節ですが、昨日は湿度はそれほどでもなく、鴨川を臨む「床」を楽しみました。人生で初めての「床」でした。これまでは、橋の上から、鴨川沿いにズラリとならぶ「床」を眺めるばかりでしたが、この年になって初めて経験できました。なかなか良いものですね~。編集委員会のあとは、旧知のOくん(奈良女子大学教員)と一緒に、二次会へ。祇園の日本酒バーに。
■右の写真は、祇園に歩いていく途中にある「東華菜館」です。この建物は、有名な建築家・ヴォーリズの設計によるものです。一粒社ヴォーリズ建築事務所の公式サイトによれば、以下のように説明されています。
旧矢尾政レストランは明治の頃より京都市民に親しまれていた西洋料理店であった。
現在の建物は昭和2年に開店し、スパニッシュの中でもスペインバロックと呼ばれる過剰な装飾を特徴とする様式をとる。
しかもその装飾はホタテやタコ、魚に野菜とユーモラスなモチーフで彩られている。
戦後、建物は店主の友人であった中国人へ託され、東華菜館へと生まれ変わる。インテリアは改修を繰り返しているが、その趣は当時とかわらず、鴨川と南座を望む多くの個性的な個室、広間、そして屋上や、川床のビヤガーデンは今でも京都市民に親しまれている。
感謝、11,000アクセス!
■6月29日に、アクセスカウンターが10,000を超えました。そして、21日後の昨日、カウンターの数字が11,000になりました。いつもは、1,000増えるのに約1ヶ月かかりましたが、今回は、少し、いつもよりもたくさんの皆さんにアクセスいただいたせいか、3週間程で数字を1,000だけ伸ばすことができました。皆さん、ありがとうございました。
丸屋町商店街の夜市に!
■ゼミでおこなっている「北船路米づくり研究会」では、毎月第三土曜日、大津市の丸屋町商店街にある大津百町館前で「北船路野菜市」を開催しています(ただし、野菜生産の端境期である4月と9月は、出荷する農産物が少なく、開催していません)。今月も、7月20日に開催しますが、その翌週、7月27日にも丸屋町商店街で「野菜市」を開催させていただきます。ただし、こちらはの方は、丸屋町商店振興組合主催の「ナカマチ夜市」への出店です。すでに商店街には看板が立てられています。そこには、「北船路野菜市」とあります。昨年に引き続き、今年で2回目になります。継続的に活動しているからこそ、商店街との関係が太くなり、このようなお申し出をいただけることができるのだと思います。
■この「ナカマチ夜市」、龍谷大学のたくさんの学生が応援しています。「NPOボランティアセンター」の皆さん。「ナカマチ夜市」の運営をサポートされます。それから、ヨサコイサークル「華舞龍」と手話サークル「DAY」が踊りや歌を披露されます。そして、私たちの「北船路米づくり研究会」。龍谷大学瀬田キャンバス、頑張っています!!
大津エンパワねっと・チーム「わわわ」
昔の石場駅の写真
■大津の街中で用事があり、JR瀬田から1駅、石山駅まで行き、連絡している京阪・石山坂本線に乗り換え、石場駅までいったときのことです。石場駅のプラットフォームに、かなり昔の石場駅の写真が飾ってありました。プラットフォームには屋根はありません。出札口のある駅舎も、かなり懐かしい雰囲気です。そして、石場駅の向かって右側、広々としています。おそらくは、まだ埋め立てられていないのではないかと思います。
■ここで少し古い時代の写真を確認してみましょう。大津市歴史博物館では、博物館で収蔵されている古写真をネット上で公開されています。その古写真のなかから「町並み・遠望」のリストにある「浜大津所上空より市街地を望む(昭和31年)」をクリックしてみましょう。以下のような説明があります。
昭和31年(1956)版『大津の展望』に掲載された写真。写真左手に、大正初期に埋め立てられた紺屋ケ関の出張り部分が見え、湖岸道路の敷地も一部しかまだ埋め立てられていない。手前がNTTの旧建物で、その向こうが橋本町時代の市役所。右手に縦(東西)に伸びるのが浜通りで、朝日生命、第一勧業銀行、滋賀銀行の旧建物が写っている。
■昭和30年代、浜大津から膳所方面にかけての湖岸埋め立てが進んでいきました。おそらく、トップの写真は、昭和30年代前半ではないかと思います。かつて京阪・石坂坂本線は、琵琶湖の湖岸を走っていたのです。強い風が吹いて琵琶湖に高い波がたったときは、波のしぶきが電車にかかったという話しも聞きます。なんだか、湘南地方の「江の電」みたいですね。もし、今も湖岸を走っていたら、すごい人気なのではないかと思います。
■さて、さらに写真を注意深く見てみると…。レールが3本あります。三線軌条と呼ばれるものです。京阪の石山・坂本線は、現在のJR石山駅だけでなく、膳所駅とも連絡をしています。かつては、JRの前身である国鉄の機関車が貨物を引いて、東海道線(琵琶湖線)からこの石山・坂本線に乗り入れていたのです。京阪と国鉄で列車のレールの幅が違います。国鉄のレール幅は狭軌(軌間1067mm)と呼ばれるのに対して、京阪の前身である大津電軌は国際標準軌(軌間1435mm)だったからです。こうやって3本レールを引いて京阪の線路に、国鉄の貨物列車が乗り入れたのです。といいますか、もともとはここは国鉄の線路でした。そのあたりの詳しいことは、以下のサイトをご覧ください。