Hoping invites | Tsutomu Uematsu | TEDxSapporo
This talk was given at a local TEDx event, produced independently of the TED Conferences. At this talk Camui rocket scientist , Tsutomu Uematsu entices a bold talk of journey to his accomplishments. Full of emotions , laugh and cries he has a humanly way to exploring science.
Tsutomu Uematsu has been fascinated by space since his childhood. He learned fluid mechanics in the university and joined a company designing aircraft in Nagoya. In 1994, he came back to Hokkaido and joined Uematsu Elecetoric Co, managed by his father, Kiyoshi Uematsu. He developed and produced electric magnet used for removing and selecting iron from industrial waste.
Ten years later, his encounter with Prof. Nagata, a researcher of Camui Rocket in Graduate School of Hokkaido University, promised him to give a full support to the rocket research with his love of space. Since then, he has been contributed to four research projects: ‘rocket developments,’ ‘experiments on microgravity,’ which creates the zero-gravity environment like space, ‘developments of a miniaturized satellite,’ and ‘cooperative projects with American private space development corporations.’
His main accomplishments are the research and the launch of the artificial satellite “HIT-SAT,” experimental launch of Camui Rocket (reaching 3,500 meter altitude), the cooperative experimental launch with JAXA (Japan Aerospace Exploration Agency), a start-up of ARC project, and etc. In 2012, he achieved to reach 7,400 meter altitude on the experimental launch of Camui Rocket 500p.
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漫画『カレチ』
■facebookで教えていただいた漫画『カレチ』。昭和40年代後半を舞台に、当時の国鉄大阪車掌区に勤務する新米「カレチ(長距離列車に乗務する客扱専務車掌)」の日常を描いた素敵な漫画です。とても内容の濃い漫画です。時々、ウルウル…ってなります。鉄道という合理的な技術システムとそれを動かす独特の仕事感・職業間をもった職員、そしてそこに交叉するのは登場する人びとの多様な人生。そこにドラマが生まれるって感じなんですね。取材も丹念にされているのかな…と思います。
■今の若い人たちには伝わらないかもしれませんが、「仕事ってどういうことなのか」(人は何故に仕事をするのか、人生にとって仕事とは何か…)、「人を鍛える」ってどういうことなのか、「人が成長する」ってどういうことなのか…いろいろ考えさせられます。同年代の皆さん、ぜひお読みください。もし、主人公の荻野カレチが実際に生きておられるとすると、おそらくはもう70歳ぐらいになっておられるのかな…。まだ、第2巻の途中までしか読んでいませんが、第3巻の帯の言葉が気になりますね。「いずれ国鉄のみならず この国全体がこうなっていくんだろうな」。重いです。
■こちらは、漫画雑誌『モーニング』の公式ページです。ここで、「カレチ」の第一話を楽しむことができます。
【追記1】■「いずれ国鉄のみならず この国全体がこうなっていくんだろうな」と本文の最後に書きました。これは、また改めてエントリーする必要があるのかもしれません。3巻は「昭和50年代前半」の国鉄です。合理化、民営化へと進んで行く時代です。読み進むうちに頭に浮かんできたのは、「JR福知山線脱線事故」のことでした。
【追記2】■この漫画に関連するブログ記事。
理想の鉄道マン、理想の日本人描いた「カレチ」最終章、ついにタブーの<国鉄組合不正>に踏み込む。
第6回「大津ジャズフェスティバル」
■昨日は、第6回「大津ジャズフェスティバル」(OJF)でした。実行委員のMさんから、緊急にボランティアをしてもらえないかとの打診があり、土曜日だけボランティアをさせていただきました。私の担当場所は「大津祭曳山展示館前」でした。ひさしぶりの会場担当でしたが、なんとか無事にボランティアを終えることができました。ありがとうございました。第6回をむかえた「大津ジャズフェスティバル」、じつに立派に運営をされています。安定感がありますね。「大津祭曳山展示館前」の受付をしながら、昔のことを思い出しました。
■10月15日の京都新聞の1面のコラム「凡語」に、小山さんの事が書かれていました。
青い琵琶湖と秋空を背景にしたステージで、プロやアマチュアのミュージシャンが演奏し、多くのジャズファンが音楽を楽しむ。「世界一美しい」をうたい文句とする大津ジャズフェスティバルが18、19の両日、大津市の浜大津など湖岸一帯で開かれる▼市民の自主的な活動として2009年に始まり、今年で6回目となる。開催を言い出したのは、第3回まで実行委員長を務めた故小山清治さんだ▼大津市の市街地を歩き、シャッターが下りた商店の多さに驚いたのがきっかけだった。「好きなジャズでまちなかを盛り上げたい」と、仲間と立ち上がった▼数人しかスタッフが集まらない会議もあったが地道に賛同者を増やし、強いリーダーシップで初回を成功に導いた。その後、がんが見つかり、闘病の中で第3回を開いたが、一昨年春に54歳で亡くなった▼遺志を継いだスタッフたちの奮闘で、その後もイベントは盛大に続き、今年は約160組1100人が32会場で演奏する。プロも含めて全て無料で聴けるのが魅力の一つだ▼小山さんは運営を始めたころ、「とりあえず、第5回までは何とか続けたい」と話していた。今回、もうその回数を超える。故人が当初想像した以上に育ったフェス。今年は、どんな音色をまちなかに響かせてくれるのだろうか。 [京都新聞 2014年10月15日掲載]
■第1回の2009年の7月に、父親が1年間の闘病の末に亡くなりました。私はずっと看病等で週末は父のところにいっていたので、「大津ジャズフェスティバル」の実行委員会立ち上げには参加できましたが、その後、実行委員としては実質的に参加できないでいました(実行委員会が週末に開催されたため…)。ボランティアかなにかでお手伝いをしようと思っていましたが、小山さんは、わざわざ私に声をかけてくださいました。開催近くになって、再び実行委員になってほしいと呼んでくださったのでした。しかし、実際に実行委員会に参加してみるときちんと機能しているようにはとても思えませんでした。人はそれなりに集まっていましたが、必要な知恵をだし、きちんと動ける人があまりにも少なすぎました。人を動かす仕組みもありませんでした。また、私が知る限りですが、MCなどをしたいという人はいても、汗をかいて舞台裏の仕事等をする覚悟のある人が少なすぎました。上記のコラムのなかには、「初回を成功に導いた」とありますが、それは天国の小山さんも「ちょっと違うよ、それは…」とおっしゃるかもしれません。実際、第1回の運営は惨憺たるものがありました(あくまで個人的な見解ですが)。個人的な知り合いの街の皆さん、そして市役所の職員の方からも、厳しい評価をいただきました。
■しかし、このときの失敗を乗り越え、きちんと実行委員会を再構成し、準備をしっかりした第2回目以降からは、「大津ジャズフェスティバル」は軌道に乗り始めしまた。社会経験豊富な社会人の実行委員の方が増えて、実行委員会の組織を機動力をもたせるた形に再構成したことが大きかったと思います。ジャズフェスティパルの目指す方向性や運営の仕組みをめぐっては様々な議論(激論)が交わされましたが、結果として、現在のジャズフェスの原型ができあがったのが、この第2回目なのではないかと思います。そして私が参加できたのも、この第2回目までです。というのも、1人暮らしを始めた老母の生活介護や大学の地域連携事業等で忙しくなり、ジャズフェスティバルにエネルギーを注ぐだけの余裕が無くなってしまったからです。第6回「大津ジャズフェスティバル」は、冒頭にもかきましたが、第2回目以降の経験知やノウハウが蓄積され、多くの実行委員やボランティアの参加もあり、大変安定した運営のように思えました。素晴らしいですね。
■以下は、塩漬け状態になっている個人プログのなかの「大津ジャズフェスティバル」のエントリーです。忘れていたことを、いろいろ思い出します。この他にも、「ジャズフェスティバル」で検索すると、たくさんの記事がまだ出てくると思います。ジャズフェスの前史のような感じになりますが、私と小山さんとの出会いは、2008年でした。当時、大津市が主催していた地域SNSを通して出会いがありました。そして、6月には、龍谷大学社会学部で実施している地域連携型教育プログラム「大津エンパワねっと」と、中心市街地で地域づくりに取り組んでいる「大津まちなか元気回復委員会・企画部会」とのコラボレーションによる「町歩き」に、小山さんは参加されました。大津中心市街地の寂しい様子を目の当たりにし、「大津ジャズフェスティバル」の実施を決意されました。そのような話しも、以下のエントリーのなかに出てくるかもしれません。
2009/5/14「大津ジャズフェスティバル(その1)」
2009/5/14「大津ジャズフェスティバル(その2)」
2009/5/14「大津ジャズフェスティバル(その3)」
2009/5/14「大津ジャズフェスティバル(その4)」
■ところで、写真の説明をしていませんでしたね。ステージの背景は、「大津祭曳山展示資料館」です。ガラスを通して、なかに曳山の原寸大レプリカが置かれていることがわかります。「西王母山」です。この展示館がある丸屋町の曳山です。
■トップの写真は、「ORB」というバンドです。パンフレットには、「同じ会社で働いていた仲間が集まり、スタンダード・ジャズなどの演奏を楽しんでいる『おやじバンド』です」と自己紹介されています。定年退職をされた中までジャズを楽しまれているのですね。演奏ですが、これがまた素晴らしいのです。多くの人びとが会場の前で足を止めて、その演奏を楽しまれていました。
■3枚目の写真は、「幸バンド」です。男女のボーカルが印象的です。最後のステージということもあり、ベテラン…の風格が漂っています。迫力ありました。私の仕事は、会場の設営と撤収に加えて、パンフレット等の配布とともに、ステージが終わるたびに、募金をお願いすることでした。300円以上の募金をしていただくと、様々な種類が用意されたOJF特製のカンバッジを差し上げる仕組みになっています。たくさんの方達が募金をしてくださいました。市民の実行委員とボランティアが開催して、多くの市民が応援する…そして街に音楽と賑わいを生み出す、素敵だと思います。
第3回「おおつ未来まちづくり学生会議」
■17日(金)、瀬田キャンパスのREC棟の部屋に瀬田キャンパス「おおつ未来まちづくり学生会議」の面々が集まって、午前中からグループワークを実施しました。第1回目はテーマ設定とグループ分け。第2回は細長い大津市を分担して「まち歩き」、そして「まち歩き」で発見したことの整理。第3回は、次回の市役所での発表を前に、パワーポイントの作成…。タイトなスケジュールの中で、自分たちの気付きがうまく伝えられるよう「あーでもない、こーでもない」と頑張っています。
■私も作業の途中を時々のぞきにいきましたが、なかなか大変ですね〜。この日だけでは完成できず、あとは第4回まで各グループで作業を継続してもらうことになりました。頑張れ、学生諸君。
瀬田の紅葉
■今日の午前中(1・2限)、「大津エンパワねっと」コースの「地域エンパワねっとⅠ」の全体授業でした。場所は、1号館6階の会議室です。普段、理工学部の教授会が開催されている部屋です。今日の全体授業のことは、以下をご覧いただきたいと思います。で、今日のエントリーは、瀬田キャンパスで一番高い建物からみえる風景について。
■過去の紅葉関係エントリー。
晩秋の瀬田キャンパス
紅葉の瀬田キャンパス
瀬田キャンパスの紅葉
■紅葉をとった瀬田キャンパス1号館の会議しから、琵琶湖が見えました!! 龍谷大学に11年間勤務して、そのことを初めてしりました。左が会議室からの風景ですが、右はその琵琶湖のみえる一部を拡大したものです。
【追記】■facebookで、同じ写真を投稿したところ、親しくしていただいている事務職員の方から、以下のようなご説明をいただきました。「 瀬田開学当初に日建設計の方にききましたが設計において外部からは一切キャパスが見えない事を条件にされて中からは琵琶湖が見えて外からは見えないように唯一一号館からのみ琵琶湖が見えるよう工夫して設計されたとのことです」。
プロジェクション・マッピング@龍谷大学
■昨日の瀬田キャンパス、もう夕方で薄暗くなっていましたが、樹心館で「プロジェクション・マッピング」の調整をやっていました。
■まず、樹心館から説明しますが、この建物は1885(明治18)年に建築されたもので、もともとは大阪南警察署庁舎だった建物です。その建物が1908(明治41年)年、民間に払い下げられ購入した門徒の方が龍谷大に寄付し、大宮キャンパスに移築され、図書館、学友会事務所、宗務所として使われてきました。そして、1994年には瀬田キャンパスに移築されました。現在は、朝の勤行等のさいに礼拝堂として使われています。
■次に「プロジェクション・マッピング」ですが、「壁面や建物、家具などに映像を投影し、スクリーンとなる立体の凸凹と映像の融合で奥行きのあるアートを見せる技術」なのだそうです。この技術を使って、樹心館の歴史をみせようとする企画のようです。大学の広報の記事を引用します。
8月30日(土)、瀬田キャンパス(滋賀県大津市)の礼拝堂「樹心館」にて、本学では初となるプロジェクション・マッピングが実施され、多くの方がその美しさに魅了されました。
今回のプロジェクション・マッピングは理工学部情報メディア学科3年生の倉地優輝さんと大塚健司さんの2名(指導教員:岡田至弘教授)が、多くの人にプロジェクション・マッピングの素晴らしさや驚き、そして感動を伝えたいという思いから自ら企画・制作し、実施したイベントとなります。当日は1885(明治18)年に建てられた擬洋風建築物である「樹心館」の様々な歴史がプロジェクション・マッピングで描写されました。
2人がプロジェクション・マッピング制作を始めたのは、実際にプロジェクション・マッピングを見て、その芸術性に驚き、魅了され、またその予備知識である動画編集やカメラが好きであったことがきっかけとなります。これまでは室内で、紙模型や立方体のオブジェクトを用いたプロジェクション・マッピングを行ってきましたが、今回の様な大規模なプロジェクション・マッピング制作は2人にとっては初めての試みであり、多くの時間を費やし試行錯誤の上、完成させた内容です。
今後2人は、今回の経験を活かし、人の動きに反応して映像が変化するなどのインタラクティブ(双方向)性のあるプロジェクション・マッピングや、プロジェクションなどの分野の研究に取り組んでいく予定です。
<参考>
樹心館の歴史
今から129年前の1885(明治18)年に、大阪南警察署庁舎として建築。それから23年後の1908(明治41)年3月、大阪南警察署の改築に伴って民間へ払い下げされ、龍谷大学大宮キャンパスの図書館として生まれ変わる。1936(昭和11)年、学友会事務所に用途を転換。1948(昭和23)年、宗務所(通称:グリーンハウス)として西本願寺へ移築。その後、1994(平成6)年に瀬田キャンパスの礼拝堂として移築し、名前を「樹心館」と改め現在に至る。
■冒頭に、昨日の夕方、樹心館で「プロジェクション・マッピング」の調整をやっていました…と書きましたが、今月末に行われる「龍谷祭」で実演されるのかもしれませんね。とろこで、こういう「プロジェクト・マッピング」の技術は、どの程度、まちづくり等のイベントに活用されているのでしょうね〜。すごく気になります。それぞれのまちの「履歴」を映像として映し出すこと、まちのなかのそれぞれの場所の「地霊」(ゲニウス・ロキ)を映像を通して浮かび上がらせることができるのではないか…と思うからです。アートという枠を超えて、もっといろんな展開ができるのではないかと思いました。おそらく、すでにいろんな試みが行われていると思うのですが、まだきちんと調べることかができていません。
龍大「SEAHORSE」の活躍
■ここ数年のことになりますが、龍谷大学のアメリカンフットボール部「SEAHORSE」が、活躍しています。Div2に低迷した時期もありましたが、Div1に復活し、昨年はDiv1では3勝4杯の成績を残しました。なかでも、京都大学にもう少しで勝てるところまでいったことは確かな手応えとなったはずです(残り11秒で逆転されました)。そして今年は、とうとうその京大に14-9で勝利しました!! これは龍大「SEAHORSE」にとっては、創部以来の歴史的な快挙になります。龍大には、「RYUKOKU SPORTS+」というサイトがありますが、そこにはこのような記事が掲載されました。
8月31日、EXPO FLASH FIELDにおいて関西学生アメリカンフットボールリーグDiv.1第1節京都大学戦が行われ、14―9と勝利を収めた。
試合は序盤、思うように敵陣へ攻め込めない時間が続く。そんな流れを断ち切るように藤本(法2)が抜け出し、独走。待望の先制TD(タッチダウン)を決める。一時は逆転を許したが、竹内(社4)から野間(営2)へパスがつながり、TD。再度リードを奪う。村田ヘッドコーチが「練習のときよりもはるかに良いパフォーマンスができたんじゃないかというくらい素晴らしかった」と称えたディフェンス陣が奮闘する。相手に許したTDは前半の1本だけ。粘り強く守り続ける。インターセプトをして攻撃権を奪い返す場面も数回見られた。
昨年は残り11秒で逆転され敗戦した相手。その悔しい経験から最後まで集中力を高め戦い続け、見事勝利を掴んだ。持田主将(文4)は「最高です。去年の雪辱を果たせました」と振り返った。創部以降初めて京大から白星を挙げ、新たな歴史を刻んだ龍大。リーグ初戦は最高の試合となった。
<村田ヘッドコーチのコメント>
「8月いっぱい京大のことだけを考えて練習してきました。これまで苦しいシーズンを続けてきたのですが、やっとここで努力の方向が試合の現場で発揮され、結果となってつながったことでチームとして達成感というものがあります。これを自信につけてさらにどん欲に勝利に向けて取り組んでもらいたいです」
■村田ヘッドコーチも指摘されているように、努力→成功体験(勝利)→工夫をして努力をして練習→レベルアップという良いスパイラルが生まれてきているように思います。さて、京都大学との試合は第1節でしたが、その後の第2節以降は強豪校が続きます。第2節が関大戦、第3節が立命館戦、ともに敗戦となりました。やはり上位3位の常連校は強いですね。敗戦であっても、そこから何かを集団として学び取ってほしいと思います。そのあたり、どうだったんでしょうね〜。私のような素人にはよくわかりません。そして、いよいよ第4節の関学戦です。関学は母校です。しかも、甲子園ボウルに連続出場している段違いに強いチームです。試合結果は…これが、凄い結果になりました。関学は、これまで同志社、神戸、近代を0点に完封してきました。その関学から、龍大は2TD(タッチダウン)奪うことになりました!!「RYUKOKU SPORTS+」の記事です。
10月11日、神戸市立王子スタジアムにおいて関西学生アメリカンフットボールリーグDiv.1第4節関学戦が行われ、14-42で敗戦した。
前半残り3分、上田(済1)から井貝(法2)へのパスが繋がりTDを決める。今季無失点の関学から得点を奪ったことでチームも観客も湧き上がる。この勢いのまま追加点が欲しい龍大だったが、前半だけで関学に4TDも決められ7-28で後半へ。しかし龍大は諦めない。第4Q、徐々に敵陣に攻め込み得点のチャンスをうかがう龍大。エンドゾーン間際、竹内(社4)から田村(国4)へのパスでTDを決め、王者関学から2TD目を奪うことに成功した。結果は14-42で負けてはしまったものの、龍大SEAHORSEに確実に力がついてきていることを印象づけた試合であった。
リーグ戦も後半にさしかかり、選手たちにも徐々に疲れが出始める頃。しかし、Aクラス入りを果たすためには残りの3試合絶対に負けるわけにはいかない。関大、立命館大、関学という並みいる強豪たちから得点を奪ったということを自信に、まずは25日の同大戦で今季2勝目を挙げてもらいたい。
〈村田ヘッドコーチのコメント〉
「厳しい戦いになることは予想していたが、関学から2TDを奪った選手たちの頑張りを褒めてやりたいです。だんだんと疲れが出始める頃だが、気を引き締め残り3試合は絶対に勝ちたいと思います。」
■龍大は負けたわけですが、それでも、関学から2TDを奪ったということがどれだけ凄いことなのか、村田ヘッドコーチの「関学から2TDを奪った選手たちの頑張りを褒めてやりたい」というコメントからもわかります。残り3試合、近大、同志社、神戸との戦いをすべて勝利して、Div1のなかで安定した存在感を示せるようになってもらいたいと思います。「私が退職するまでには、甲子園ボウル出場をかけて関学と最終にもつれ込むようになるまでになってほしい…」これは私の夢です。
■【2014関西学生アメフトハイライト】龍谷大vs京都大
早朝の出勤と下弦の月
■水曜日1限は、「地域社会論」の授業があります。授業の準備や資料の印刷等のため、早めに出勤します。とはいっても、始発で出勤というわけではありません。自宅を6時10分に出て、近鉄で京都まで行き、京都では7時10分の電車に乗るというパターンです。このパターンだと、7時50分までには大学に到着します。この時間帯ですと、さすがに学生の姿をキャンパスではみかけることはありません。授業開始が9時20分ですので、余裕をもって印刷等の準備ができます。とても気持ちの良いものですね。
■「台風一過」。今朝の空は、その言葉に相応しいスッキリとした秋らしい青空でした。写真は、瀬田キャンパス1号館を撮ったものです。建物の左上に、半月が見えました。月例表を見てみました。下弦の月の一日前でした。今晩の半月が下弦の月ということになります。この上弦、下弦、意外に難しいですね。上弦の月は満月に向かう時の半月で、下弦の月は満月が欠けてきて新月に向かう時の半月です。ということで、月はこれからどんどん新月に向かって細くなっていきます。まあ、早朝出勤すると、こういう写真も撮るだけの余裕があるというわけですね。
■もっとも、がっかりするというか、シュン…とすることもありました。出勤の途中、バッテリーほぼ死にかけのiPhone5を外付けバッテリーにつないだ状態で、よくニュースを読みます。今日、気になったのは「大学進学率の地域差、20年で2倍 大都市集中で二極化」という記事でした。朝日新聞の記事です。以下は抜き書きです。
大都市と地方で高校生の大学進学率の差が広がっている。今春の文部科学省の調査から朝日新聞が算出すると、都道府県別で最上位と最下位の差は40ポイント。20年で2倍になった。家計状況と大学の都市集中が主因とみられる。住む場所の違いで高校生の進路が狭まりかねず、経済支援の充実などを求める意見がある。
都道府県別では東京の72・5%が最高で、次いで京都(65・4%)、神奈川(64・3%)、兵庫(61・7%)など。最低は鹿児島の32・1%で、低い順に岩手(38・4%)、青森(38・6%)など。40%未満は5県だった
「大学進学の機会」の著書がある小林雅之・東京大教授(教育社会学)は「選択は個人の自由だが、能力や意欲のある若者の進路が居住地の環境で限られるのは社会的損失だ。大学整備は専ら私学に依拠し、大都市集中につながった。その結果、私学の半数近くが定員割れで苦しむ一方、地方では多くの高校生が望んでも進学できないという矛盾も生じている。家計負担軽減には給付型奨学金の充実が急務。地方の短大や専門学校の活用も有効だ」と話す。
■これはかなり深刻な状況ですね。県民所得の低い地域は進学率も低い傾向にあります。私が以前勤務していた岩手県立大学です。岩手県の公立大学です。今から、10数年前のことですが、学生がこのようにいったことを記事を読みながら思い出しました。「私の親が、『とても仙台や東京の大学にやるだけの余裕は我が家にはない。県立大学に通学するのだったら許そう』といってくれたので、なんとか県立大学に入学できました。ありがたいです」。そのとき、公立大学の存在意義を強く感じました。しかし、東日本大震災に被災されたたことなども、進学にどのように影響しているのでしょうね。今日の朝日新聞の記事を読む限り、当時よりも状況はより深刻になっているのかなと思います。
京都のラーメン(3)本家 第一旭 たかばし本店
■ひとつ前のエントリーで、「京都駅近くにある『本家 第一旭』に行きたくなり」と書きましたが、実際にも行ってきました。「本家 第一旭 たかばし本店」です。しっかり豚の旨味が主張しているスープに、中太のストレートの麺。普通でよかったと思いますが、まわりの人たちがみんな「特製ラーメン」を注文されていたので、私も「特製ラーメン」を注文しました。しかし、「通常ラーメンの2倍のチャーシューと麺が大盛りのがっつり系」なのだそうです。私のような胃袋の人間が注文するべきではありませんでした。味が特製なのかと思ったら、量が特製でした…。最後は、ちょっと辛くなりましたが、とりあえず完食しました。若いときのようにはいきませんね。
■この「本家 第一旭 たかばし本店」のお隣は、やはり有名な「新福菜館」です。こちらについては、「京都のラーメン(2)新福菜館」に書きました。いつもは、「新福菜館」の方に行列が多いように思いますが、今回は圧倒的に「第一旭」の方が長い行列でした。同じラーメンとはいっても、簡単比較できるものではありません。コンセプトといいますか、前提になっている考え方が違うんだろう…たぶん、そう思います。
【追記】■こういう、「しっかり」・「がっつり」系のラーメンは、だんだん身体が受付けにくくなってきました。残念ですけど…。
電気鉄道事業発祥地
■京都駅は、私にとって通勤のときに通過する場所です。自宅のある奈良から近鉄で京都駅まで行き、そこからJR京都駅まで歩き、こんど琵琶湖線に乗り換え瀬田駅までいく。京都駅は、そのようなルートの通過地点でしかありません。そのようなこともあり、駅構内の外に出ることはあまりありません。駅の周辺にある書店や居酒屋(ないしはパブ)に行くとき、あるいは近くにあるショッピングモールに買い物をしにいくとき以外は、駅の建物から外に出ることはありません。まして、京都駅から地下鉄に乗って繁華街である四条のあたりまでいくなんてもことも、県人会や同窓会等の特別な用事がない限りありません。つまり、京都駅は通過はしていますが、京都の街のことはあまり知らないのです。
■先日のことになります。駅から少し離れたところにあるラーメン店に昼食をとりにいきました。京都駅ビル内の伊勢丹にも拉麺小路という場所があり、全国の有名店が出店されています。まあ、そこでも良かったのですが、その日は京都駅近くにある「本家 第一旭」に行きたくなり、テクテク歩いていたのです。すると、駅のすぐそばにこの写真の石碑がたっていることに気がつきました。何度も通っているはずなのですが、今回、このような石碑が建っていることに初めて気がつきました。「電気鉄道事業発祥の地」と書いてあります。帰宅してからも調べてみて、いろいろわかりました。京都市役所のホームページでは、この日本発の電機鉄道に関して詳しく解説していました。以下は、そこからの引用です。
日本初の市街路面電車
明治28(1895)年2月1日から昭和53(1978)年9月30日までの83年間,路面電車が京都市内を縦横に走っていました。明治28(1895)年,民営の京都電気鉄道会社(京電<きょうでん>)が東洞院(ひがしのとういん)塩小路(しおこうじ)下るの七条停車場(しちじょうていしゃじょう,京都駅)と伏見町(ふしみちょう)下油掛(しもあぶらかけ)間の営業を開始。京都に日本初の路面電車が誕生しました。明治45(1912)年6月,京都市営電車の営業が開始され,京電との激しい客取り合戦が繰り広げられましたが,大正7(1918)年7月,京都市が京電を買収し,競合区間の路線が統一されました。大正中期から昭和初期までは,市電の黄金時代が続きました。
昭和30年代の後半(1959~1964)から,市電と競合する市バスや会社バスが増加し,更に自動車も多く走りはじめ,路線の自由がきかない市電経営は行き詰まりを見せました。
昭和45(1970)年3月31日,日本最古の路面電車路線だった伏見線(塩小路高倉<しおこうじたかくら>と中書島<ちゅうしょじま>間)と稲荷線(勧進橋<かんじんばし>と稲荷間)が廃止されたのを皮切りに,路線が次々と廃止され,昭和53(1978)年9月30日,残る外郭線(北大路・西大路・九条・東山・七条・河原町の各線)すべてが廃止され,京都の路面電車の歴史に終止符が打たれました。先走りの少年
京電開業の6か月後の明治28(1895)年8月,雑踏や街角,橋上では電車の先五間(約9メートル)以内を先行し,昼は旗,夜は提灯をもち「電車がきまっせえ。あぶのおっせえ」と叫びながら線路を走る告知人がいました。告知人は,12歳から15歳の少年で構成されていて,先走りと呼ばれました。告知人制度は,府令第六十七号電気鉄道取締規制によるもので,仕事は危険な上に汗とほこりにまみれての重労働で,少年が電車にひかれる事故が相次いだため,告知人制度は廃止されました。疏水止まれば電車も止まる
京電は琵琶湖疏水(びわこそすい)による水力発電によって電力が供給されたため,疏水の流れが止まると,京電も休業となりました。京電の定期休業日は,元旦,毎月1日と15日の疏水藻刈日。その他,水利事務所の機械故障や琵琶湖の増水などによって,たびたび電車の走行が止まりました。明治32(1899)年,東九条村(ひがしくじょうむら,現南区東九条東山王町)に石炭による火力発電所が開設され,その発電により輸送能力が一気に向上しました。
■素朴に「電車に乗るのが楽しい…」と思うだけの幼稚な鉄道愛好家なので、こういう歴史的な事実関係についてはまったく知りませんでした。京都の路面電車と琵琶湖疎水の関係については受験勉強のときに得た知識として知っていましたが、「先走りの少年」がいたなんてことも…知りませんでした。しかも、「電車がきまっせえ。あぶのおっせえ」と叫びながらというのが、京都らしい。ただし、少年が電車にひかれる事故が相次いだため…というのは、悲惨というか、なんとも言いようがありません…。解説では、路面電車が全面的に廃止になったのが昭和53(1978)年だといいます。私が二十歳のときです。当時、神戸に住んでいましたが、廃止寸前の頃に、一度だけ乗ったような記憶があります。今から思えば、市電を無くしてしまうなんて…もったいない話しですね。電車、自転車、人の歩行を優先るす街になっていれば…と思わずにはいられません。
■ところで、「電気鉄道事業発祥の地」の石碑の碑文ですが、以下の通りです。
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電気鉄道事業発祥の地
日本最初の電気鉄道はこの地に発祥した。即ち明治二十八年二月一日 京都電気鉄道 株式会社は 東洞院通り七条下る鉄道踏切 南側から伏見下油掛通りまで 六キロの間 に軌道を敷き 電車の運転を始めた。この成功を機として 我が国電気鉄道事業 は漸次全国に広がり 今日の新幹線電車にまで発展することになったのである。よってその八十周年にあたり 先人の偉業 を讃えてこの記念碑を建てる。 昭和五十年二月一日
日本国有鉄道
京都市交通局
関西電力株式会社
阪急電鉄株式会社
京阪電気鉄道株式会社
近畿日本鉄道株式会社
阪神電気鉄道株式会社
南海電気鉄道株式会社
京福電気鉄道株式会社
鉄道友の会京都支部
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■関西の鉄道関係の企業がずらりとならんでいますね。阪神、南海なんて鉄道会社は京都とは関係ないはずですが、鉄道会社のとっては重要な「発祥の地」ということで、ここに名前があがっているのでしょう。ちなみに最後の「鉄道友の会」ですが、1953年(昭和28年)11月14日に創立された全国規模の鉄道愛好者団体です。広く鉄道知識を普及し、鉄道趣味を通じて会員相互の親睦を深め、鉄道を愛護し、その発展に寄与することを目的として設立されています。この「発祥の地」の石碑は、伏見区にも建てられているのだそうです。こちらも、チャンスがあれば見学したいと思っています。