小さな森のなかのピザレストラン
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■元旦は母親の介護で慌ただしい1日になりましたが、お正月の2日目は、ゆっくりと自宅で過ごし身体を休めることができました。帰省している息子と一緒に、自宅の近くにある神社に初詣をしに行った後、いろいろ散歩をしてみることにしました。トップの写真は、その散歩の途中で歩いた道です。森の中の道です。このような森が住宅地の中に残っているのです。2枚目の写真は、GoogleEarthで見たものです。中央にあるのはため池です。どこまで史実なのか、私にはよくわからないのですが、推古天皇の時代に作られた4つのため池のうちの1つだという説があるそうです。「日本最古のため池の一つ」という説です。この地域のデコボコした微地形を見てみるともっとよくわかるのですが、この地域は丘陵地(西の京丘陵)で、ここから東側に少し離れたところにあった農村の里山でした。丘陵地は、全体として東に向かってなだらかに低くなっていきます。しかし、このため池の右側のあたりは堤になっており、そこからは急に地形は低くなります。落差があります。おそらく、その里山の中に雨水が流れてくる場所をうまく堰き止めて、このため池が作られたものなのではないかと思います。
■ため池の北側には近鉄が走っています。そのため、1950年頃から近鉄が住宅地としての開発を始めました。びっしりと戸建ての住宅が建ち、たくさんのマンションも建設されています。しかし、ため池の周りには、森が2つあります。北側は、1946年に当時の近鉄の社長が設立した美術館「大和文華館」の敷地の森です。大きな建物が確認できますね。トップの写真にある道は、そこではなく、南側の方の森になります。この森のため池側沿いに道が通っているのです。これらの森は、おそらくは(私の推測ですが)住宅地として近鉄が開発する以前にあった里山の雰囲気を残していると思います。
■この南側の森に隣接して、うちの子どもたちが卒業した小学校があります。GoogleEarthの画像でも、小学校の校庭が確認できますね。この校庭に隣接する森の中には、ポーイスカウトの活動基地があります。ドングリの実がなる樹が生い茂るとても素敵な森です。うちの子どもたちが小学校に通っている頃から、この森のことが気に入っていました。また同時に、どうしてこのような森が開発されずに残っているのかも気になっていました。ため池の北側の森は「大和文華館」の敷地なのですが、この南側の森はどなたの所有地なのか、どのような所有関係になっているのかが気になっていたのです。そのお気に入りの森の中に、数年前、ピザレストランができたという話しを小耳に挟みました。近くにあるのに、まだ一度も訪ねたことがありませんでした。そのようなことから、今日は息子と一緒にピザレストランを訪ねてみたのでした。
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■とても素敵な雰囲気でしょう。周囲の住宅地の雰囲気がこの森の中には伝わってきません。今回は、私と息子はすでに昼食をとっていました。お腹がいっぱいでした。ということで、2人でピザを1枚とデキャンタで赤ワインを注文することにしました。ピザは、カラスミとゴルゴンゾーラ(青カビのチーズ)のピザでした。とても美味しくいただきました。これは、また来ないといけないなと思いました。このピザレストランは、「642PIZZA」といいます。「642」と書いて、「ロッシーニ」と読むのだそうです。ロッシーニとは、オペラ「セビリアの理髪師」や「ウィリアム・テル」の作曲家として有名です。人気作家である村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』の中に登場する「泥棒かささぎ」の作曲者もロッシーニです。そのような話しはともかく、「ロッシーニ」と読むまではお聞きしたのですが、なぜ「ロッシーニ」なのかを聞き忘れてしまいました。
■私たち親子がテーブルに着いた頃から、次々にお客さんが入ってこられ、女性の店主さんが忙しく調理されるようになったことから、元々の関心であった「どうしてこのような森が開発されずに残っているのか」についてもお聞きすることができませんでした。このような住宅地の中に、これだけの森を開発せずに保全することは、大きな困難が伴っていると思います。あるいは、森に対する所有者の強い思いが存在しているのではないかなどとも勝手に推察しました。しかし、すでに書きましたが、ボーイスカウトの基地になっていますし、この森に隣接する幼稚園では、この森を教育に積極的に利用されているようです。とても素敵なことです。また、レストランでは様々なイベントも開催されているようです。外部の方たちとの連携もあるようです。このような開発の圧力が高い地域で、森の所有者と森の利用者が、どのような連携を行っているのか。また、外部との連携が(結果としてかもしれませんが)、この森の保全にどのようにつながっているのか。その辺りのところに私の関心はあるのですが、それは次回、この「642PIZZA」を訪れた時にチャンスがあればお聞きしてみようと思います。
【追記】公式サイト「642PIZZA」
■いろいろご苦労されて、開店されたご様子。公式サイトの「歴史」からわかりました。「642」についても、そこに説明がありました。
鯨のベーコン
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■おひさしぶりです。ひさしぶりに、このブログを更新をします。大学の研究部の仕事、老母の介護、総合地球環境学研究所のプロジェクトの推進…いろんな「縛り」のなかでストレスをため込み、時間もつくれず、精神的な余裕もなく…なかなか更新をすることができませんでした。みなさんに、お伝えしたい話題は山ほどあるのですが…。このままだと、このブログは更新されないまま「塩漬け状態」になってしまうので、取り急ぎ、更新をしておくことにします。鯨のベーコンの話しです。
■昨日、水曜日は、学科会議、教授会、社会学研究科委員会、研究科専攻会議と、ずらずらっ…と会議が続きました。いささか疲れたこともあり、年上の同僚のHさんと共に、いつもの大津駅前の居酒屋「利やん」へいくことになりました。カウンターの席につくと、お店のマスターが、「ワッキーの顔を頭に浮かべながら市場で仕入れてきた」という鯨のベーコン、それをぜひ食べろと言ってきました。そう言われると、注文をせざるをえませんね。
■ここで、ちょっと昔話しになります。 私の父親は船舶の内燃機関関連の仕事をしていました(2009年に亡くなりました)。そのような仕事の関係からでしょうか、南氷洋から帰ってきた捕鯨船がドックで修理をするさい、父は捕鯨会社にしばしば出向いていました。そして捕鯨会社から帰るとき、新聞紙に包まれた鯨肉のブロックをお土産によく貰ってきていました。そのような日の晩の夕食は、鯨のステーキでした。幼いころの私は、ステーキといえば鯨の肉のことだと思っていました。この鯨のステーキ、当時の冷凍技術のレベルが低かったせいか、子どもにはとても臭かったように記憶しています(生姜を効かせた醤油ダレにつけこんで焼いてはいましたが…)。また、鯨肉の繊維が、乳歯の隙間によく挟まったのです。嫌いでした。ということで、「ステーキ」は嫌いな食べ物だったのです。もちろん、ビーフステーキの存在を知らなかっただけなのですが。
■ところで、幼いころの私は鯨肉は嫌いでしたが、鯨のベーコンには大いに関心がありました。市場で売られている鯨のベーコンは、周りの赤い色も含めて妖しい魅力を放っていました。しかし、我が家では、この鯨のベーコンが食事に出ることはありませんでした。「ベーコンとは豚肉から作ったものなのだ。鯨のベーコンは代用品、偽物、紛い物だ」と食べさせてもらえなかったのです。鯨のベーコンは、レベルの低い食べ物…という扱いだったようにも記憶しています。鯨のステーキを、ステーキの代表みたいに言って子どもに信じさせていたくせにね…。まあ、そんなことも思い出しながら、昨晩は鯨のベーコンをいただきました。今や、ちょっとした高級品なんですけどね。
【追記】▪︎写真の鯨のベーコンですが、全体に赤っぽいものと、白っぽいものとがあります。赤いのは、着色してあります。鯨は脂分が多いので、見た目を鮮やかにして、食欲が増すようにと、昔から着色をしてきたようです。一方で、白いものは着色をしていないものです。こうやってお皿に「紅白」でベーコンを並べていただくと、めでたい感じになりますね。実際、様々なお祝いの場でも喜ばれてきたそうです。
差し入れ
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▪︎写真は、昨晩の小佐治(滋賀県甲賀市甲賀町)でのフィールドステーションの開所式に、地元の農家のYさんが持参してくださったものです。左がドジョウの卵とじ(柳川風)、右はボテジャコ等の小魚を醤油で炊いたものです。どちらも、ぜんぜん泥臭くなく、非常に美味しかった。
▪︎小佐治は、丘陵地にある農村。たくさんの谷筋に水田が並んでいます。関東地域でいうところの谷地田です。かつて、そのような谷筋のいずれにも、その一番奥には溜池がありました。そのような溜池は大きなものは5つ、小さなものまで含めると100以上存在していました。無数の溜池に天水を確保して、用水として利用していのです。そのような溜池は、ちょっとした養魚の場として活用されることもありました。とても養殖とは呼べません。市場に出荷することを目的としたものでも、もちろんありません。植物学の世界では「半栽培」(中尾佐助)ということが言われるようですが、それと似ている。自分の溜池につかまえてきた魚をほうりこんでおいて、時々、餌をやる程度の世話をするだけなのです。粗放的管理という言い方もできるのでしょうが、そのような硬い言い方よりも、もっとストレートに「楽しみ」でもあったといったほうがピッタリきます。
▪︎昭和20年代から30年代前半にかけての時期を少年として過ごした人たちは、そのような養魚はしないにしても、多かれ少なかれ集落を流れる小さな河川で魚を獲って食べた経験をもっている。この「食べた」という点が、非常に重要だと思っています。繰り返しますが、「楽しみ」なのです。そのような経験は、若い年代になる従い聞かれなくなります。高度経済成長とともに小佐治のような山里の食生活もどんどん変化していく。それに加えて、河川改修が人びとと河川との関係を絶ってしまったからです。かつて、谷筋を流れる水田の用排水路と河川はつながっていました。段差がなく、魚たちが行き来できたのでは…と私たちの研究プロジェクトの生態学者は推測しています。現在は、河川改修が行われており、流量を確保するために川床が深くなり、用排水路とのあいだには段差が生まれてしまっています。これでは、魚は行き来できません。
▪︎昨晩の開所式は、非常に盛り上がった。集落の皆さんは、公民館から机や椅子を、そして隣組からバーベキューの道具を借りてきてくださいました。私は、焼きそば担当になり、熱い鉄板と格闘しました。燃料は薪です。谷筋の水田の奥にある森林にいくらでもこのような薪があります。小佐治の森林は民有林なのですが、間伐したあとの木材の切れ端が、たくさん転がっているのだそうです。もちろん、全国の山里と同様に、この小佐治でも森林の維持管理には苦労されています。もっとも、そのような苦労だけでなく「楽しみ」として森林と関わる人たちが生まれています。集落のなかでは少しずつ薪ストープを楽しむ人たちが増えているのです。そういう方たちがグループをつくり、薪割り機を使って、自分たちに必要な薪を毎年用意しています。ちなみに、私たちがフィールドステーションとしてお借りしている住宅にも、薪ストーブが設置されています。冬になる前に、地域の皆さんと一緒に薪を用意することになるのではないかと思います。
▪︎これから、開所したフィルードステーションを基地として、この小佐治の暮らしに関していろいろお話しを伺っていく予定になっています。
meijiの「カルミン」
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▪︎昨日、母のために買い物に出かけたとき、スーパーでmeijiの「カルミン」をみつけました。「カルミン」は、1921年から製造販売されているお菓子です。硬い言い方をすると、炭酸カルシウムが配合された白色のミント錠菓…ということになるようです。この「カルミン」、私のような年代の人たちにとっては、懐かしいお菓子です。遠足やピクニックのお供といえば、この「カルミン」でした。
▪︎じつは、このお菓子、今年度末で生産が中止されます。ロングセラーではありますが、さすがに時代にあわなくなってきたのか、売れ行きがかなり低迷しているようです。このことがニュースになるや、あちこちで「カルミン」が飛ぶように売れていると聞いています。きっと大人の方たちが「大人買い」しておられるのでしょう。昨日、スーパーでみたときも、棚におかれた「カルミン」の数は、左右の他のお菓子に比べてかなり数が少ない状況でした。
▪︎買ったあと、一粒食べてみました。以前食べたのは…、記憶がありません。おそらく30年以上は経過していると思います。炭酸カルシウムが配合されているので、スーッとするのかなと思っていましたが、かなり穏やかな感じでした。現在、他社の人気のある商品、たとえば「FRISK」なんかだと、かなり強いミントの刺激があります。また、その清涼感も長持ちします。このような味の違いにも、時代の移り変わりを感じます。
▪︎私のような年代の人たちにとってみれば、「カルミン」以外では、中野の「都こんぶ」も懐かしいものです。しかし、「都こんぶ」は現在でも現役です。あと「ボンタンアメ」とか…。こうやって昔を懐かしむことが多くなるって、自分自身がけっこう歳をとり、人生そのものがどんどんセピア色になり、歴史家している…ということなのでしょうね。
チキンラーメン
▪︎ひとつ前のエントリーにも書きましたが、昨日は、1日会議の日でした。午前中は深草キャンパスで研究部の執行部会議、午後は大宮キャンパスで「世界仏教文化研究センター」の会議。再び、深草キャンパスに戻って別の会議。そのあいだに、別の案件も発生してその対処…。もう、完全に「お仕事モード」に復帰しております。というわけで、キャンパス移動に時間がかかってしまい昼食をゆっくりと摂っている余裕がありませんでした。仕方がないので、大宮キャンパスの生協でカップラーメンを購入し、それですませました。たまたま手に取ったものは、チキンラーメンでした。蓋をあけると、そこには「57回目の誕生日」とあります。チキンラーメンは、同級生だったんですね。まあ、そういうわけでちょっと「小汚いもの」写真をお見せしましたが、ご容赦ください。
▪︎ついでにちょっと気になって、その他の「同級生」も調べてみました。簡単なんです。wikipeddiaで「1958年」と入力して調べただけです。スバル360(富士重工の軽自動車)、東京タワー、ファンタ(ジュースの…)、近鉄のビスターカー( 2階建て電車)、スーパーカブ、缶入りビール(アサヒの…)、三菱鉛筆ユニ、聖徳太子の一万円札、特急こだま(国鉄…)。スバル360、聖徳太子の一万円札、特急こだま…以外は、同級生、頑張っていますね。しかし、こうやって「同級生」を振り返ると、「思えば遠くへ来たものだ」(海援隊の楽曲)という気持ちになりますね〜。
第3回「龍谷大学餃子研究会」
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▪︎昨晩は、第3回「龍谷大学餃子研究会」でした。餃子が好きで、龍谷大学の未来に関して熱く語り合える方達が集まっています。第1回が「ミスターギョウザ」。そして、第2回が「チャイナキッチン餃子王」です。以下は、関連エントリーです。
▪︎第3回は「鉄鍋ぎょうざ 杏っ子」になりました。会場の決定は、研究会の副会長であるN部長が長年の研究により作成された「リスト」のなかから決定されます。餃子といえば、大衆的な料理で、ちょっと薄汚れているぐらいの食堂が美味しかったりするわけですが、今回は、なかなか洒落たお店でした。場所は、京阪三条から少し歩いていったところにあります。「餃子バー」という感じでもありますね。さて、トップの写真は、お店の名物である鉄鍋餃子です。口の中でパリパリと音がした後、香辛料(おそらくは五香粉か)を少し効かせた美味しい餡が味わえます。特徴のある餃子だと思います。酒の方は、最初はビールでしたが、途中から副会長N部長がお好みの赤ワインに。どんどん赤ワインのペースがあがっていくので、大丈夫かな…と思っていたら、二次会のバールでN部長は途中リタイア。まあ、それぐらい研究会は盛り上がったわけです。
▪︎ところで、今回は新入会員の参加があり、会員数はとうとう5名になりました。もっとも昨晩は、お1人の都合が悪くなり、参加者は4名。次回は、さらに4名の新入会員が増える予定。これまでは、餃子好きのオジさん教職員ばかりだったのですが、若い女性の皆さんも加わってくれることになりますね。研究会の雰囲気が華やかになります。
【追記】▪︎私はこの研究会以外に、職場の奈良県人会や兵庫県人会にも参加しています。また、職場の仲間でマラソンや駅伝の大会などにも参加します。さらには、ゼミでおこなっている「北船路米づくり研究会」で日本酒をプロデュースし、職場の皆さんにも楽しんでいただいています。こういう仕事を離れた大学教職員の親睦・交流の場なんて面倒臭いという人がいるかと思います。また、なんで仕事が終わったあとも、付き合いをしなくてはいけないのか…という人もいるかと思います。といいますか、むしろそちらの方が若い世代の方達では多いのかなとも思います。また、大学教員のなかにもそのような考えの方が多いかと思います。ですから、自分の考えを押し付ける気は毛頭ありません。しかし、私自身は、こういった職場の親睦・交流をとても大切にしています。相談したり・相談されたりすることができる関係、頼んだり・頼まれたりすることができる関係、助けたり・助けられたりすることができる関係…、信頼・協働・互酬性のネットワーク(社会関係資本)が組織内に豊かにあることは、とても大切なことだと考えるからです。おそらく、こういう関係が豊かにあると組織の仕事はうまく進みます。しかし、私が言いたいことは、単に仕事の効率などという話しではないのです。それだけではなく、仕事に関する「夢を」共有できるからです。そして、組織内の「幸せ」を増幅していくことにつながるからです。以下は、関連するエントリーです。
「揚子江」本店
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▪︎昨日は、週1回の老母の生活介護でした。老母宅にいく途中、大阪梅田で、遅めの昼食をとりました。こういう時は、よくいくのは梅田三番街の「インデアンカレー」なのですが、この日の晩御飯はカレーになることが予想されていたので、ラーメンにすることにしました。考えてみれば、カレーもラーメンも日本の国民食ですね。特に深く考えることもなかったのですが。結果としてそういう選択をしていました。
▪︎さて、ラーメンを選ぶにしてもどこのラーメンにするのかが問題になります。あまり、梅田界隈でラーメンを食べることもありませんし…。と、そのとき、かつて行ったことのある「揚子江」というラーメン店を思い出しました。少し前に移転されようで、スマートフォンのナビで、なんとか梅田駅から少し離れたビルの地下1階にあるお店にとだりつきました。この日注文したのは「ワンタン麺」です。このお店の特徴はスープです。とても澄んだ、さっぱりしたスープのラーメンです。しかし、しっかりとした旨味があります。具のチャーシューも薄切り。適度な硬さが残っています。私は、トロトロの厚切りのチャーシューがあまり得意ではありません。あとは、もやしに水菜。以前は、春菊だったように思いますが、この日は水菜でした。麺ですが、さっぴりしたスープにあう細麺です。写真の右のほうに写っているのは、玉ねぎを揚げたものです。スープの風味が増した…かな。おそらくは、「適量」とされる分だけ別の小皿で出てきました。ひさしぶりの「揚子江」に満足しました。
第2回「龍谷大学餃子研究会」
「玄鹿」の鴨汁蕎麦(滋賀県甲賀市土山町)
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▪︎とても美味しい蕎麦でした。私は、寒いこともあり、鴨汁蕎麦にしました。少しお値段は高いのですが、それだけの価値は十分すぎるぐらいにあります。
手打ち蕎麦 玄鹿