「アカエリトリバネアゲハ」の標本

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■元旦は、母を、母の自宅に日帰りで連れて帰りました。その際、たまたま蝶の標本を見つけました。記憶がよみがえってきました。小6だった1970年に大阪万国博覧会が開催されました。我が家も夏休みの旅行で、この大阪万博に遊びに行きました。蝶の標本は、その時にお土産として買ったものです。記憶が定かではないのですが、「マレーシア館」で買ったものだと思います。おそらくは、小学生がお年玉やお小遣いを貯めた程度のお金でも買えたのでしょう。

■1970年の大阪万博では、「アメリカ館」や「ソビエト館」の人気が高かったように記憶しています。当時は、まだ冷戦構造(アメリカ合衆国を中心とした資本主義・自由主義陣営と、ソビエト社会主義共和国連邦を中心とした共産主義・社会主義陣営の間の対立構造)が存在していました。世界を二分する両大国のパピリオン(万博の展示用に一時的に建てられた建物)は大変人気があり、入館するまでに何時間もかかる状態が続いていました。たとえば「アメリカ館」の場合は、目玉の展示が「月の石」でした。1969年7月、アポロ11号が人類最初の月面着陸を成功させ、11月にはアポロ12号が引き続き月面着陸を果たしました。そのようなアポロ計画が地球に持ち帰ってきた「月の石」を一目見ようと、多くの人びとは、長蛇の列に我慢して並んだのです。

■ところが、私の両親は、このような長蛇の列に並ぶことを嫌いました。アメリカやソビエトのような、人気があり何時間も並ばなければならない超大国のパビリオンには行かずに、並ばなくても入館できる小国のパビリオンばかりに行きました。もちろん小6の私は内心不満でしたが、まだ小さな妹がいたこともあり、両親は、炎天下、長蛇の列に並ぶことを嫌ったのでしょう。もっとも、そのようなこともあって、蝶の標本を手に入れることができたのかもしれません。蝶の標本に関係のない話しを長々と書いてしまいました。現在とは違って、世界はますます発展していく、暮らしも良くなっていくということを自明として生きることができた時代でした。大阪万博のテーマは、「人類の進歩と調和」(Progress and Harmony for Mankind)でした。

■さて、蝶の標本の話しに戻ります。私自身、蝶も含めて昆虫一般に詳しいわけではありません(ただし、小6の頃は、まだ昆虫に関心を持っていたと思います…)。調べてみたところ「アカエリトリバネアゲハ」という和名でした。標本箱の中には、「Rajah Brooke」とラベルが貼ってあります。マレーシアのサラワク島の初代首長ラジャ・ブルックにちなんで名付けられた英名です。ラジャ・ブルックは、イギリス人です。ブルネイのスルタンから正式にラジャ(藩王)に任じられ「白人王 」として知られているようです(こういう本も出版されています。『ボルネオの白きラジャ ジェームズ・ブルックの生涯』)。その背景の事情はともかく、この美しさからだと思いますが、マレーシアの国蝶になっています(ちなみに日本の国蝶は「オオムラサキ」です)。写真少し色を補正してあります。買った時のイメージに近づけました。しかし、本当はもっと色がくすんでいます。額自体も、かなり古ぼけています。45年前のものですから、仕方がありませんね。

■この「アカエリトリバネアゲハ」を含めたトリバネアゲハは、「ワシントン条約」(絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約)「附属書II」に記載されている危急種・希少種に認定されおり、標本等の商取引きは規制されているようです。規制のもとで、標本等の商取引きも行われているようです。ちなみに、ワシントン条約が採択されたのは1973年です。大阪万国博覧会が開催された2年後のことでした。

■蝶の標本ですが、母の家のリビングに書架の上で、埃まみれになっていました。どうも、亡くなった父や、現在介護をしている母からは「邪魔者扱い」されていたようですね。昆虫に関心のない人からすれば、単なる「死んだ虫」ですから…。ちょっと心が痛んだので、誇りを払ってきれいして、私の自宅に連れ戻しました。これからは、再び、本来の持ち主である私の元で大切に保管していこうと思います。

近鉄と生駒山

20160103kintetsu.jpg ■昨日は、息子と一緒に初詣を済ませ、ピザレストラン「642PIZZA」に行った後、郵便局に寄ったりしながら、少し遠回りをして帰宅しました。早春には、職場に近い滋賀県の大津市に転居する予定なので、もう一度、長年暮らしてきたこの地域の風景を散歩をしながらしっかり眺めておきたかったのです。普段は車で通過することが多く、あまりゆっくり眺めることがありません。ランニングの練習で走ることもありましたが、走ることに必死で風景眺める余裕などあまりありません。昨日は、30年近く暮らしてきた街の風景をゆっくり堪能しました。歩いて細かなところを観察していると、いろいろ発見がありますね。他所の街ではいろいろ「まち歩き」をしてきましたが、自分の住んでいる街を、ゆっくり歩くことはほとんどありませんでした。

■写真は、近鉄学園前駅と菖蒲池駅の間にかかっている橋から撮ったものです。車がすれ違うときに注意しないといけないほど、幅の狭い小さな橋です。その橋から、大阪方面に向かって写真を撮りました。夕日の中にシルエットを見せているのは、生駒山です。頂上には、テレビ局のアンテナがたくさん確認できるのではないかと思います。この生駒山の向こうには、大阪平野が広がっています。手前に写っているのは、近鉄の大阪難波行き準急です。生駒山のトンネルを抜けて大阪難波までは、近鉄を利用すると35分程度です。この地域は、大阪に勤める方たちの住宅地として開発され、高度経済成長期とともにその住宅地も拡大していきました。典型的な大阪郊外の住宅地の一つかもしれません。そのような意味で、どこにでもある風景なのかも知れません。しかし、もうこの地域にあとわずかの期間しか住むことができまないと思うと、どこにでもある風景がとても愛おしく思えてきました。本当は、ここに暮らしている間に、戦前から戦後、そして現代に至るまでの開発の歴史について、もっといろいろ探索してみたかったのですが、その時間はもうありません。

小さな森のなかのピザレストラン

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■元旦は母親の介護で慌ただしい1日になりましたが、お正月の2日目は、ゆっくりと自宅で過ごし身体を休めることができました。帰省している息子と一緒に、自宅の近くにある神社に初詣をしに行った後、いろいろ散歩をしてみることにしました。トップの写真は、その散歩の途中で歩いた道です。森の中の道です。このような森が住宅地の中に残っているのです。2枚目の写真は、GoogleEarthで見たものです。中央にあるのはため池です。どこまで史実なのか、私にはよくわからないのですが、推古天皇の時代に作られた4つのため池のうちの1つだという説があるそうです。「日本最古のため池の一つ」という説です。この地域のデコボコした微地形を見てみるともっとよくわかるのですが、この地域は丘陵地(西の京丘陵)で、ここから東側に少し離れたところにあった農村の里山でした。丘陵地は、全体として東に向かってなだらかに低くなっていきます。しかし、このため池の右側のあたりは堤になっており、そこからは急に地形は低くなります。落差があります。おそらく、その里山の中に雨水が流れてくる場所をうまく堰き止めて、このため池が作られたものなのではないかと思います。

■ため池の北側には近鉄が走っています。そのため、1950年頃から近鉄が住宅地としての開発を始めました。びっしりと戸建ての住宅が建ち、たくさんのマンションも建設されています。しかし、ため池の周りには、森が2つあります。北側は、1946年に当時の近鉄の社長が設立した美術館「大和文華館」の敷地の森です。大きな建物が確認できますね。トップの写真にある道は、そこではなく、南側の方の森になります。この森のため池側沿いに道が通っているのです。これらの森は、おそらくは(私の推測ですが)住宅地として近鉄が開発する以前にあった里山の雰囲気を残していると思います。

■この南側の森に隣接して、うちの子どもたちが卒業した小学校があります。GoogleEarthの画像でも、小学校の校庭が確認できますね。この校庭に隣接する森の中には、ポーイスカウトの活動基地があります。ドングリの実がなる樹が生い茂るとても素敵な森です。うちの子どもたちが小学校に通っている頃から、この森のことが気に入っていました。また同時に、どうしてこのような森が開発されずに残っているのかも気になっていました。ため池の北側の森は「大和文華館」の敷地なのですが、この南側の森はどなたの所有地なのか、どのような所有関係になっているのかが気になっていたのです。そのお気に入りの森の中に、数年前、ピザレストランができたという話しを小耳に挟みました。近くにあるのに、まだ一度も訪ねたことがありませんでした。そのようなことから、今日は息子と一緒にピザレストランを訪ねてみたのでした。

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■とても素敵な雰囲気でしょう。周囲の住宅地の雰囲気がこの森の中には伝わってきません。今回は、私と息子はすでに昼食をとっていました。お腹がいっぱいでした。ということで、2人でピザを1枚とデキャンタで赤ワインを注文することにしました。ピザは、カラスミとゴルゴンゾーラ(青カビのチーズ)のピザでした。とても美味しくいただきました。これは、また来ないといけないなと思いました。このピザレストランは、「642PIZZA」といいます。「642」と書いて、「ロッシーニ」と読むのだそうです。ロッシーニとは、オペラ「セビリアの理髪師」や「ウィリアム・テル」の作曲家として有名です。人気作家である村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』の中に登場する「泥棒かささぎ」の作曲者もロッシーニです。そのような話しはともかく、「ロッシーニ」と読むまではお聞きしたのですが、なぜ「ロッシーニ」なのかを聞き忘れてしまいました。

20160103pizza7.jpg■私たち親子がテーブルに着いた頃から、次々にお客さんが入ってこられ、女性の店主さんが忙しく調理されるようになったことから、元々の関心であった「どうしてこのような森が開発されずに残っているのか」についてもお聞きすることができませんでした。このような住宅地の中に、これだけの森を開発せずに保全することは、大きな困難が伴っていると思います。あるいは、森に対する所有者の強い思いが存在しているのではないかなどとも勝手に推察しました。しかし、すでに書きましたが、ボーイスカウトの基地になっていますし、この森に隣接する幼稚園では、この森を教育に積極的に利用されているようです。とても素敵なことです。また、レストランでは様々なイベントも開催されているようです。外部の方たちとの連携もあるようです。このような開発の圧力が高い地域で、森の所有者と森の利用者が、どのような連携を行っているのか。また、外部との連携が(結果としてかもしれませんが)、この森の保全にどのようにつながっているのか。その辺りのところに私の関心はあるのですが、それは次回、この「642PIZZA」を訪れた時にチャンスがあればお聞きしてみようと思います。

【追記】公式サイト「642PIZZA」
■いろいろご苦労されて、開店されたご様子。公式サイトの「歴史」からわかりました。「642」についても、そこに説明がありました。

元旦の介護

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20160102fugu3.jpg■昨日は元旦でした。私の母は介護老人保健施設に入所していますが、施設に外出許可をもらって、母を、母自身の自宅まで連れて帰りました。車で10分程度の距離です。私たち夫婦に加えて、妹やうちの息子(孫)も集まりました。優しい孫も来てくれてよほど嬉しかったのか、いつもならうたた寝をするところが、ひたすらしゃべり続けていました。その母の勢いに圧倒されつつ、昼食はお雑煮とお節料理、夕食はてっちりを楽しみました。

■外出許可ということで日帰りでしたが、母も気持ちが少し落ち着いたようでした。安心しました。施設はバリアフリーですが、自宅はそうではありません。手すりが付いていますが、介助なしでは、やはり厳しいものがありました。亡くなった父も、母も、この家を建てる時に、自分たちが老いた時のことは、とても想像できなかったのでしょうね。それはともかく、とりあえず、今日は無事に一日が終わりました。少し気持ちが楽になりました。

■ところで、夕食は「正月だから」と気張って、てっちりにしました。久しぶりのおうちでの河豚でした。やはり美味しいですね〜。皮の湯引きも作りました。身はもちろん美味しいのですが、河豚のアラも非常に美味しいです。運転をしなくてはいけないので、妹と息子が日本酒(今日は高知の「土佐鶴」)を楽しんでいるのを横目で見ながら我慢しなければなりませんでしたが、それでもとても満足しました。。母は介護老人保健施設に入所していますが、施設に外出許可をもらって、母を、母自身の自宅まで連れて帰りました。車で10分程度の距離です。

■私たち夫婦に加えて、妹やうちの息子(孫)も集まりました。優しい孫も来てくれてよほど嬉しかったのか、いつもならうたた寝をするところが、ひたすらしゃべり続けていました。その母の勢いに圧倒されつつ、昼食はお雑煮とお節料理、夕食はてっちりを楽しみました。外出許可ということで日帰りでしたが、母も気持ちが少し落ち着いたようでした。安心しました。施設はバリアフリーですが、自宅はそうではありません。手すりが付いていますが、介助なしでは、やはり厳しいものがありました。亡くなった父も、母も、この家を建てる時に、自分たちが老いた時のことは、とても想像できなかったのでしょうね。それはともかく、とりあえず、今日は無事に一日が終わりました。少し気持ちが楽になりました。

■ところで、夕食は「正月だから」と気張って、てっちりにしました。久しぶりのおうちでの河豚でした。やはり美味しいですね〜。皮の湯引きも作りました。身はもちろん美味しいのですが、河豚のアラも非常に美味しいです。運転をしなくてはいけないので、妹と息子が日本酒(今日は高知の「土佐鶴」)を楽しんでいるのを横目で見ながら我慢しなければなりませんでしたが、それでもとても満足しました。良い正月だと思いました。もっとも、帰省した息子は、自分の祖母の介護を手伝いながら、「自分たちが老人になった時は、どうなっているんだろう」と少し不安そうに話しました。確かに、息子の世代のみならず、自分たちの世代の20年後もなかかな予想が困難ですから。超高齢社会を、どう最後まで、いや最期までどのように生きていくのか、不透明ですね。厳しい時代です。

2016年 あけましておめでとうございます

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▪︎2016年 新年あけましておめでとうございます!皆さま、どうぞ今年もよろしくお願いいたします。

▪︎写真はモルジブです。今、私はモルジブにいます!…と言えればよいのですが、この写真は、娘が新婚旅行のさいに撮ったものです。この風景のように、スカッと気持ちよく1年を過ごしたいものですが、さてさて、どうなるでしょうね(゚o゚;;。

地球がもし小さなビー玉だったなら、琵琶湖の深さが1cmだったなら


■「太陽系」という言葉で、どのようなイメージを頭に描くでしょうか。太陽が中心にあって、その周りを惑星がぐるぐる回っているというイメージでしょう。しかし、実際はそのようなイメージとは大きくかけ離れたものです。この動画でをご覧いただければおわかりいただけると思います。地球をビー玉の大きさと仮定すると、実際の太陽系はどのような大きさになるのか、その「縮尺模型」をアメリカのネヴァダ州の干あがった湖底に作ってしまったのです。理屈で考えれば当然なのですが、何か「あっ!!」と驚いてしまうわけです。理屈と感覚との間に大きな隔たりがあるからです。

■この発想で琵琶湖の模型を作るとどうなるのでしょうか。琵琶湖は深い湖だと言われています。一番深いところは、103.58 mあります。模型で表すとどうなるでしょうか。琵琶湖の南北の延長は、63.49kmです。メートルに換算すると、63,490mです。一番深いところを、仮に1cmにすると、南北の延長はだいたい613cmということになります。琵琶湖は構造湖で深い湖なのですが、深いといっても、実際の感覚に置き換えてみると、頭の中にあるイメージとは異なり、かなり薄い薄い存在であることがわかります。そのようなことを体感できる模型が、滋賀県立琵琶湖博物館の「C展示室」の中にありました。琵琶湖博物館は現在、展示替えの真っ最中です。よく知らないのですが、この琵琶湖の模型もなくなってしまうのかもしれません。そうであれば、ちょっと残念です。

■このような模型をなぜ作る必要があるのか、動画をご覧いただければわかるとは思いますが、なかには、例えば「Googl Earth」のような最近のネットの技術、それからGIS(地理情報システム)なんかを用いれば必要ない…と思う方たちもいるでしょうね。もちろん、そのような技術で理解できることもあるでしょうが、この動画の中で描かれているのは、頭の中、脳の中で処理されたイメージではなくて、自分の「身体」という制約条件を媒介としてやっと実感できるイメージなのです。この動画が面白いというか、興味深いのは、脳の中で処理されたイメージと、「身体」を媒介として実感できるイメージとの間に、大きなギャップが存在しているからです。私たちは、その落差に驚くのです。おそらくは、環境問題を考える場合に、同様に問題が存在しています。私は、それを「鳥の目・虫の目問題」と呼んでいます。

年末といえば

20151230otsu.jpg ▪︎年末といえば大掃除。しかし、研究室の大掃除、ついにできませんでした。母親の介護の問題であたふたしているうちに時間がなくなってしまいました。今年は、4月から研究部の会議等で深草キャンパスにいることが多く、研究室で仕事をしている余裕がほとんどありませんでした。そのため、研究室は、いわば書籍と書類の倉庫になってしまっています。新年は、1月4日が個人的な仕事始めになりますが、新年早々に大掃除をやる羽目になりそうです。ということで、明日は自宅の大掃除(大方は妻が済ませてくれていますが…)に取り組むことにします。

▪︎年末といえば卒業論文。毎年、年末と正月は、ゼミ生の卒業論文の添削に追われてきました。「今年こそは、冬休み前に、卒論指導を済ませるぞ!!」と固く決意をしたはずなのですが、私に厳しさが足らないせいか、結局、今年も例年と同じくズルズルと指導をすることになってしまいました。もちろん、早い段階で仕上げてきた学生もいますが、残念なことに、ほとんどの学生がそうではありません。来年こそはと思い、現在、3年生には、卒論の調査に取り掛かれとハッパをかけています。

▪︎年末といえば年賀状。まだ1枚もかけていません。今は、パソコンで一気に印刷できるものですから…。油断しています。あまり学生の卒論のことは言えないかな。年賀状については、30日中に印刷したいと思っています。写真は、一昨日の晩、大津駅で撮ったものです。大津駅前のいつもの居酒屋「利やん」に年末の挨拶に行ってきました。帰る頃には22時を過ぎていました。気温は3℃。寒いわけですね。しかし、その寒さのぶんだけ月もより一層輝いていました。

1人への支援が、社会のためになる・山仲善彰市長インタビュー

20151229yamanaka2.jpg ▪︎「滞納取り立てよりも支援」という山仲善彰・野洲市長のインタビュー記事(朝日)を読みました。野洲市は、全国に先駆け、「生活困窮者自立促進支援モデル事業」に取り組んきたました。山仲さんのインタビュー記事は、そのような取り組みの成果や実績に基づくものです。

▪︎山仲さんとは、滋賀県庁におられる時から少しお付き合いがあります。琵琶湖環境部長をされていた時に、琵琶湖の環境問題関連の仕事では、いろいろお世話になりました。今も、滋賀県の「ヨシ群落保全審議会」ではご一緒させていただいています。しかし、よくよく考えてみれば、山仲さんと環境以外のことでお話しをさせていただいたことはなかったように思います。私は、右の朝日の記事を読んで、多くの点でなるほどと納得しました。

▪︎この記事に刺激を受けて、さらに野洲市の政策に関してネットで関連記事を探してみました。すると、『日経ビジネス』の記事がみつかりました。『日経ビジネス』の「2000万人の貧困』というシリーズ記事の中のひとつのようです。「1人への支援が、社会のためになる『困窮者自立支援法』モデル都市の市長の提言」(2015年9月1日(火))というタイトルが付いていました。貧困に苦しむ人びと、高齢者、障害者といった社会的弱者を、行政としてどのように包摂していくのか、また、そのためにはどのような行政組織の経営が必要なのか…といった内容でした。以下は、インタビューの冒頭に山仲さんが語っていることです。基本的な考え方が示されています。続きについては、ぜひ直接お読みいただければと思います。
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行政の基本は、市民の方がそれぞれ健康で幸せで自己実現でき、人生を楽しめるための公共サービスを提供することだと思っています。

伸びようとする人がより伸びられるように、困難な状況にある人はきちっと自立できるようにということです。困窮者や弱者から発想が始まっているのではありません。弱者も、そうでない人も、それぞれの人生がいいものになることが大事だと思います。

ただ、伸びる人の場合はある程度、自分で資源調達ができたり、支援が見つけられます。けれど弱者の場合、そうはいかないことがある。ですから、どちらかと言えばそこを手厚くすることによって、全体が良くなるという視点に立っています。

もう一つは、やっぱり「1人を救えない制度は制度じゃない」ということです。役所へ行くと「この制度はあなたのためではないのでお引き取りください」とか、「いや、うまく合わないんですよ」と言われて追い返される。生活保護のいわゆる「水際作戦」(注:生活保護の受給申請者に対して、費用を抑えるなどの目的で、自治体ができるだけ受給できない理由を見つけようとすること)なんていい例ですよね。

制度というのはそれではいけません。そこにニーズがあるのだから、何とか解決するための手段でなくてはいけない。公序良俗に反することはいけませんが、その人の人生にかかわることや地域のためにというニーズなのであれば、課題を最終的にクリアできるようにするのが務めです。

20151229hinkon.jpg ▪︎なお、この山仲さんのインタビューは、日経BP社から発行されている『ニッポンの貧困 必要なのは「慈善」より「投 資」』の中にも収録されているようです。以下は、amazonに掲載された内容紹介です。

日本の相対的貧困は、およそ2000万人――。75歳以上の後期高齢者よりも多いこの国の貧困層は、この先3000万人まで増えるとも言われています。そしてこの病巣は静かに、けれども急速に、日本に暮らすあらゆる人々の生活を蝕み始めています。

ひとり親、女性、子供…。これまで貧困は、社会的弱者の課題として語られることが多かったはずです。
けれど貧困は今や「一部の弱者の問題」として片付けられる存在ではなくなっています。

困窮者の増加が消費を減退させ、人材不足を進め、ひいては国力を衰退させる――。

経済記者が正面から取り組んで見えてきたのは、貧困問題が日本経済や日本社会に及ぼす影響の大きさでした。
「かわいそう論」はもう通用しません。求められるのは、貧困を「慈善」でなく「投資」ととらえ直す視点の転換です。企業やビジネスパーソンにできることは何か。
貧困を巡る日本の現状と課題、そして解決の糸口を「経済的観点」から分析した初のルポルタージュ。

▪︎この本の紹介にある「貧困は今や「一部の弱者の問題」として片付けられる存在ではなくなっています」や、「貧困問題が日本経済や日本社会に及ぼす影響の大きさでした」という指摘は、山仲さんの「1人への支援が、社会のためになる」という考え方と、どこかで繋がり合うような気がします。現在、貧困ではない人でも(貧困は自分には関係ないと思っている人でも)、より大きな視点に立てば、貧困問題は自分自身の問題でもあるわけです。自己責任という言葉は、時として、このような現実を隠蔽することになります。また、社会が成立するために必要な共同性をも蝕んでしまうことになります。

2016年のカレンダー

20151228calendar.jpg ▪︎来年のカレンダーを注文しました。滋賀県の風景のカレンダーです。「しがトコSTORE」は、「”滋賀を自慢したくなる”を切り口に、新しい滋賀を伝えるローカルメディアです」。その「しがトコSTORE」が、カレンダーを発売しています。「琵琶湖、白鬚神社、メタセコイア並木など、滋賀ならではの絶景が12か月を彩るカレンダー」です。上の「白髭神社と琵琶湖」は、カレンダーの表紙です。この表紙の写真は、「しがトコ」のファン投票で決定しました。3万人の滋賀ファンが選んだ「白鬚神社の朝日」が表紙になりました。

浪曲師・国本武春さんのこと


▪︎クリスマスイブの日、浪曲師の国本武春さんが亡くなられたとのニュースが流れました。55歳でした。私がこのニュースに気がついたのは、27日のことでした。私自身、浪曲のことをよく知っているわけでも、よく聞いて楽しんできたわけでもありません。どちらかといえば、自分にはあまり関係のないジャンルだと思っていました。私が国本さんのことに注目するようになったのは、NHKの子ども向けの「にほんごであそぼ」という番組に「うなりやベンベン」という役で出演されていたからです。この番組には、狂言師の野村萬斎さん、歌舞伎湯役者の中村勘九郎さん、人形浄瑠璃文楽の皆さんも出演されていました。面白い企画だなと思いました。日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につけてもらうことをねらいとした番組です。そこに、国本武春さんは、国本武春さんの一番弟子「うなりやベンベン」という設定で登場されていたのです。この「にほんごであそぼ」の公式サイトでは、以下のようなコメントを発表しています。

うなりやベベンさんについて
うなりやベベンさんは、ご自身が
国本武春さんの一番弟子だとおっしゃっていました
浪曲師としての活動と一線を画し
子ども達に日本語を楽しく伝えることを望んでいらっしゃいましたので
ご本人とご遺族の意向を尊重して
「にほんごであそぼ」では、うなりやベベンは生き続けます
国本武春さんのご冥福をお祈りいたします

▪︎国本さんの浪曲のスタイルは大変ユニークなものでした。皆さんよくご存知のことと思いますが、通常、浪曲は声を出して演じる「浪曲師」と、三味線で伴奏や効果音をつける「曲師」のペアで行われます。それに対して国本さんは、三味線を弾きながら語る新しい浪曲のスタイルを確立したと言われています。また、ロックやブルースなどの洋楽を浪曲のなかに取り込むなど、浪曲の伝統を守りつつも新しい境地を開拓しようとされてきました。上の動画をご覧いだたければわかると思いますが、素人目では、ギターと三味線とが融合したテクニックを駆使されているように思います。素晴らしいというか、すごいですね。下の動画は、「忠臣蔵」ですね。浪曲とロックを融合したすごく面白い演出です。浪曲のことをよく知らない人でも、自然に関心をもってしまうのではないでしょうか。

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