武陽人100年のあゆみ
■父の転勤の関係で、5歳から16歳の夏まであいだに、山口県の下関市、福岡県の北九州市小倉区や福岡市、そしてそのあとは広島県の広島市に引っ越すことになりました。引っ越しのたびに、幼稚園や学校を転校することになりました。結局、3つの幼稚園、3つの小学校、そして2つの高校に通うとことになりました。ですから、一応は神戸出身ということになるのですが、少年時代のほとんどは、神戸以外のところで過ごしている…ということになります。
■高校に限定していえば、私は高1の2学期に、広島市内にある広島県立皆実高等学校から神戸市長田区にある兵庫県立兵庫高等学校に転校しました。そして、1977年3月に卒業しました。卒業後、同窓会にきちんと転居先等をお知らせしていなかったこともあり、高校とのつながりはほとんど切れてしまっていました。その母校・兵庫高等学校が創立100周年を迎え、立派な記念式典が開催されたことをfacebookで知りました。上の動画は、そのさいに上映されたもので、兵庫高校の100年の歴史を説明したものです。タイトルに「武陽」とありますが、これは近くを流れる湊川の河原をさします。同窓会の名前は、その地名にちなんで「武陽会」といいます。そして「質素・剛健・自重・自治」の四綱領(しこうりょう)と呼び、校訓として大切にしています。
■この動画「武陽人100年のあゆみ」、お気づきかとは思いますが、コアラが並んでいます。なぜコアラなのか。それは、「校樹」が存在し、ユーカリの樹だからです。ユーカリの葉っぱはコアラの餌ですよね(ちなみに、コアラには「ユカリちゃん」という名前がついています)。並んでいるコアラの頭の上をみると、ユーカリの葉っぱがのっかっています。兵庫高校の校章は、ユーカリの若葉と実をもとにデザインされているからです。「質素・剛健・自重・自治」という四綱領を軸に生徒たちが集う…そのようなイメージにもとづいて校章はデザインされているのです。
■動画を拝見すると、兵庫高校は戦前の旧制・第二中学校からの歴史をもつことがわかります。長い歴史をもつせいもあり、全国的にもよく知られる方達が卒業されています。たとえば、小説家の横溝正史、画家の小磯良平、同じく画家の東山魁夷、建築家の清家清、舞台美術家の妹尾河童といった方たちです。私の先輩ということになります。また、第二次世界大戦の沖縄戦当時、沖縄県知事であった島田叡(あきら)さんも先輩のお1人です。島田さんは、1945年1月、第27第沖縄県知事に就任した後、沖縄戦の激戦のなかで消息を絶ったといわれています。高校の敷地には、島田さんのことを偲んだメモリアル「合掌の碑」も建てられています。また、これもfacebookで知ったのですが、OBらが中心となって遺骨の捜索も行われています(右は、神戸新聞記事です。)
■卒業後は、つながりが切れてしまったと書きました。しかし、卒業後に、母校に行ったことがあるのです。阪神淡路大震災のときのことです。当時、兵庫県教育委員会に勤務していたこともあり、県職員の仕事として被災地・神戸に派遣された。派遣された先が、なんと母校・兵庫高等学校だった。母校は避難場所でした。今でも、晩、図書室で毛布にくるまって眠ったことを思い出します。
父の好きだった蔓薔薇
■老いた母の生活介護のために、週1回、母の家に通っています。「子守り」ならぬ「親守り」です。介護保険で毎日ヘルパーさんが来てくださっているので、とりあえず週1回でなんとかなっています。ご近所の皆さんのお心遣いもにも感謝です。とはいえ、身の回りの世話や買い物に加えて、春になると庭に雑草が生い茂るので、たびたび除草作業が必要になります。これは私がしなければなりません。ひどい庭なんです…。ひどい庭なんですが、この季節は、庭の蔓薔薇が満開になります。
■この蔓薔薇、4年前に亡くなった父が好きでした。ただし、父も含めて両親はこの蔓薔薇や、庭の手入れをしていなかったですね~。庭というものは、丁寧に世話をしてなんぼのものですが、うちの両親は世話をしていなかった。無秩序に樹が植わっています。その剪定と消毒は業者さんにお任せしていますが、庭の除草は私がしなくてはいけません。今日は、その除草作業の日でした。以前は、手作業でやっていたのですが、最近は、家庭用の電動草刈機を使っています。ずいぶん楽になりました。とりあえず、なんとかご近所にご迷惑をおかけしない程度には除草をしました。とはいえ、1ヶ月しないうちに、また庭は雑草でいっぱいになります・・・。仕方ありませんね~。
誕生日
■1970年頃、普通の会社員の定年退職は、55歳だったように思います。55歳で定年というと、退職後の残りの人生はずいぶん長いように思えますが、調べてみると当時の平均寿命は69.31歳でした。今よりも、10歳程短いわけですね(ちなみに1970年で55歳というと、大正4年生まれということになります)。さて、単純には比較できないわけですが、本日、私もとうとうその年齢になりました。昔であれば、今日が退職日ということになります…。そのように考えると、少し感慨深いものがあります(…ような気がする)。とはいえ、私が若い頃の55歳のイメージとは異なり、どう考えても「成熟した…」という感覚はありません。もっとも若い頃は、55歳の男性を勝手にそう見えていただけ…なのかもしれませんね。
■「初老」という言葉を聞いたときに、何歳ぐらいから「初老」というかご存知でしょうか。じつは40歳です。現代社会であれば、40歳といっても、まだ青年の延長線上の気持ちなのではないかと思います。しかし、本来的な意味でいえば、40歳からが初老なのです。昔は、栄養状態が悪く、医療も貧弱、若くして多くの皆さんが病気で亡くなりました。おまけにたびたび飢饉等に苦しめられました。おそらくは死が日常生活のなかに、当たり前のように存在していたのだと思います。そのような時代であれば、40歳が老いの入り口「初老」というのは、なるほどな〜と納得できるわけです。現在、還暦を迎えた方に老人という叱られてしまいます。おそらく「初老」にしても、50歳代後半をイメージする人が多いのではないかと思います。東アジア全般にあった「老の文化」は、どうなってしまったんでしょうね〜…。かつては、老いた人には、老いた人なりの役割と存在感がコミュニティの中に存在していたのですが。
■50歳を超えてからも以前と同じように、あるいは以前よりもさらに仕事に励んできました。体力はあるほうだとは思いますが、それを良いことに健康管理を怠ってきました。いけません。ということで、55歳の誓いです。
・酒量を減らす。
・ランニングに励む。
・良く睡眠を取る。
・プライベートの時間も大切にする。
■この誓いをどこまで守れるのか、私にもよくわかりませんが、少し生活のあり方自体を考え直してみようと思います。
■ところで、トップの写真について説明します。晩に、研究室にいると、お隣の学科の同僚と学生が夕食を誘いにきてくれました。仕事を終えた妻が夕飯の買い物をする前だったので、合流させていただきました。そして、教員2人、学生2人、あわせて4人の皆さんから、誕生日を祝っていただきました。みなさんには、感謝です!家族でのお祝いは、同じく4月生まれの長男と一緒に…かな。連休中、長女と長男、子どもたちが帰省したときになると思います。