ありがとうございます。10万に到達しました。
■アクセスカウンターが、とうとう「100,000」を超えました。皆様、ありがとうございます。
■このブログは、多くの皆さんにはどうでもよい私の「身辺雑記」、人生の「ささやかな記録」…でしかないのですが、それでもお読みくださる方たちがいるということを励みにこれまで継続してきました。2012年の7月25日からこのブログを始めました。アクセスカウンターの設置は、その42日後です。開設してからは、本日で1,661日目になります。これぐらいですかね、きちんと継続できているのは。このブログぐらい。
■ここのところずっと「たいした記事」を投稿していないので、だいたい60/日のアクセス数になっていたのですが、いくつかのエントリーで多数の方たちにお読みいただいた結果、予定よりも早めに「100,000」に到達しまた。カウンターの数字の桁がひとつ違うって、なんとなく気持ちが良いものですね。いつも言っていますが、もっとホームページのタイトルに相応しい内容のエントリーを…と思ってはいるのですが、身辺雑記のレベルを超えないように思います。とはいえ、「大学教員が、日々、どういう仕事や活動をしているかがわかる」と評価してくださる人もいます。励みになります。どうか、これからもよろしくお願いいたします。
■写真は、このエントリーとは何も関係ありません。浜大津からみた雪の比良山系です。
2012/9/5:アクセスカウンター設置。
2013/2/21 :5,000アクセス:期間169日: 30アクセス/日
2013/6/29 :10,000アクセス。期間128日: 39アクセス/日
2013/10/30 :15,000アクセス。期間123日: 40アクセス/日
2014/2/6 :20,000アクセス。期間99 日:51アクセス/日
2014/5/6 : 25,000アクセス。期間89日: 56アクセス/日
2014/8/5 :30,000アクセス。期間91日: 55アクセス/日
2014/10/21: 35,000アクセス。期間77日: 65アクセス/日
2014/12/8 :40,000アクセス。期間48日: 104アクセス/日
2015/1/27 :45,000アクセス。期間50日: 100アクセス/日
2015/3/25 :50,000アクセス。期間56日: 90アクセス/日
2015/5/19 :55,000アクセス。期間55日: 91アクセス/日
2015/7/22 : 60,000アクセス。期間64日: 78アクセス/日
2015/9/27 : 65,000アクセス。期間67日: 75アクセス/日
2015/11/23 : 70,000アクセス。期間57日: 88アクセス/日
2016/1/26 : 75,000アクセス。期間64日 : 78アクセス/日
2016/4/7 : 80,000アクセス。期間72日 : 70アクセス/日
2016/6/18 : 85,000アクセス。期間72日 : 70アクセス/日
2016/9/9 : 90,000アクセス。期間83日 : 60アクセス/日
2016/11/30 : 95,000アクセス。期間83日 : 60アクセス/日
2017/2/9 : 100,000アクセス。期間71日 : 70日アクセス/日
「街が背負う悲しみ」とそこで暮らす私たちの心~「脱線事故があった街・尼崎」にいるということ~
■2月5日のエントリーは「ちょっとお寺で新年会」 でした。尼崎の塚口にある西正寺で開催されたイベントを報告しました。西正寺の副住職である中平了悟さんにfacebookで、このブログのエントリーのことをご紹介いただき、私のブログとしては画期的なことなのですが、100名を超える皆さんにお読みいただけました。ありがとうございました。さて、今日のエントリーも、西正寺関連のものです。中平さんが企画されている「テラからはじまるこれからのハナシ。」vol.04です。今回のテーマは、「街が背負う悲しみ」とそこで暮らす私たちの心~・・・」です。以下、中平さんのfacebookからの引用です。
次回のテラハについて、すこしお話をしたいと思います。
テラハでは、「JRの脱線事故」という出来事そのものよりも、
「あの現場という場所」そして、そこに関わる私たち自身の心や、「尼崎」という街について、考えたいと思っています。
それは、すこし、複雑な話かもしれません。それは、主催者の私自身の思いを語るとすこしご理解いただけるかも知れません。私自身は、あの事故で被害を受けた知人がいるわけではありません。あの現場に、足繁く追悼に足を運んでいるわけでもありません。しかし、平日の通勤や、檀家さんのおうちへのお参りの際など、日常的にあの踏切をとおり、あのマンション(だった場所)の前を通過しています。そのたびに、あの事故のことを思い出し、あそこへ足を運ばれている方、人生が変わった方がいたことを思わずにはいられません。24時間、絶え間なく交代して警備を続けている人の姿にも、考えさせられるものがあります。
4月25日には、尼崎駅で、たくさんの黒い服を着た方、花を持たれた方と出会います。あるいは、その頃には、一列になってその事故の現場へ足を運ばれる方たちを見かけることがあります。
「あの事故の関係者ですか?」と問われれば、私は「いえ、そうではありません」と答えます。ただ、「近所に住んでいる者」に過ぎません。しかし、近所に住んでいるという点において、事故の現場、人が追悼に訪れる場所と共に暮らしているという点において、さまざまな思いをかかえて生活し、あの場所を目にしてきました。その意味で、「当事者ではないけれども、影響を受けているという意味においては、当事者ならざるをえない」という曖昧な立場にあるのではないかと思います。すこし、話が変わりますが、22年前の「阪神淡路大震災」における、私の立場にもかさなる点があります。京都などの神戸からすこし離れた地に行き、「尼崎出身です」というと、「地震大丈夫だった?」と聞かれますが、「たいしたことありませんよ」と答えていました。長田をはじめとした神戸、あるいは尼崎でも武庫川にちかい西側に比べて、比較的被害は軽いものでした。しかしそれでも、家はかなり傷み、本堂はすこし傾き、鐘楼と敷地の壁は倒壊して、結構な被害がありました。しかし、「地震でかなり大きな被害があった」ということは、なにか心にひっかかるものがあって「神戸ほどではないんです」等といっていたように思います。「阪神大震災」というと、神戸の街のイメージがどうしてもあり、私の住む地域は、震災被害の「周辺」に位置していたといえるのかもしれません。それ故に、典型的な「震災」という言葉でくくってしまうことについての違和感、あるいは、より甚大な被害のある方に対する「申し訳なさ」みたいなものがあったのかもしれません。
つまりJRの脱線事故にしても、阪神大震災にしても、テレビや、メディアで提示されるような、その中心にいるような「当事者性」(あるいはそのイメージ)と隔たりがあるがゆえに、かえってそのものとの距離を私たちは正しく捉えていなかったのではないか、「わたしたちなりの関わり」ということについて、言葉をもたずにここまで来てしまったのではないか、という思いがしてならないのです。その意味で、地域にあるあの事故現場は、わたしたちにとっては、いったいなんで、どのような関わり方ができるのだろうか。(あるいは震災を初めとして「当事者」として関わることをすこしさけていたような、曖昧な関わりをしてきた事柄もふくめて)、そのような曖昧な関わりについて目を向けてみたいと思うのです。
「尼崎」という街が抱える「悲しみ」の場所を通じて、私たちなりの関わりのあり方を、私たち自身の言葉で語り、考える、そんな時間が持てたらとおもっています。
■黒字で太くしたところがポイントかなと思います。たまたま、私が昨年度から指導していた社会人大学院生の方の修士論文は、阪神淡路大震災による家族との死別を経験した遺族へのインタビューをもとにしていました。その修士論文のなかに記述された「当事者」の方達の苦悩や悲しみの問題が、西正寺でのこのイベントとも関連してくるかなと思っています。誤解を受けるかもしれませんが、「当事者」の方達の苦悩や悲しみを理解することは困難です。「理解しました」といった途端に「当事者」の方から「そうではない。わかっていない」と否定されることになるからです。「理解しました」という発言自体が「当事者」を苦しめてしまうことにもなります。
◼︎指導した社会人院生の方の修士論文に記述された「当事者」の語りを読みながら、いろいろ考えました。被災者とそうでない人たちとの間にある絶望的なまでの溝や断絶、そしてそのような溝や断絶に取り囲まれながらも、震災後の20年という時間のなかで、どのように苦悩や悲しみを受容し、家族の死と共生していったのか、そのあたりの記述は読み応えがありました。その上で、今回の西正寺のイベントは、「当事者」の存在を気にかけながらも、「当事者」とは自分ではいえない人たちは、その苦悩や悲しみにどう向き合えばよいのか…ということになります。現代社会は、家族を失う苦悩や悲しみを、個人で背負わざるを得ないような社会になってしまいました(死の「私化」)。「他者」にたいして、その苦悩や悲しみを「開いて」いくことは可能なのでしょうか。可能とすれば、それはどういうことなのでしょうか。あるいは、「他者」と「当事者」は、どのような形で共に生きることができるのでしょうか。そのあたりが、私には気になるわけです。
■今回はグリーフケアの専門家である山本佳世子さん(人と防災未来嘱託研究員)がゲスト=「Teller」です。中平さんは聞き役=「Tera」の人。最後の「Tera」の人は洒落ですね!!
【追記】■このイベントは夕方から始まりますが、その前に「龍谷大学アジア仏教文化研究センター」(BARC)が主催する「玄奘三蔵の説話と美術」という学術講演会に参加しようと思っています。こちらも、また別途紹介したいと思います。たぶん、「BARC」の学術講演会を途中で抜けさせていただき、尼崎に移動することになろうかと思います。先日、尼崎のまちづくりに関わっておられる皆さんと知り合いになりましたが、また再会できるといいなあと思っています。
浄土真宗・キリスト教・イスラームにおける比較神学的対話
■龍谷大学世界仏教文化研究センターとアジア仏教文化研究センターが主催する2016年度 国際シンポジウム「浄土真宗・キリスト教・イスラームにおける比較神学的対話」 が2月15日から17日にかけて開催されます。共催は、ミュンスター大学(ドイツ)、ジョージタウン大学(アメリカ)です。詳しくは、こちらをご覧ください。
今回の国際シンポジウムは、龍谷大学世界仏教文化研究センター、龍谷大学アジア仏教文化研究センター、ミュンスター大学(ドイツ)、ジョージタウン大学(アメリカ)の 共催によりおこなわれるものです。“浄土真宗・キリスト教・イスラームにおける比較神学的対話”という統一テーマで、真宗学、キリスト教、イスラームの神学的な課題に ついて、少人数のグループで比較の観点に立ってお互いに議論しようとするものです。とりわけ、浄土真宗の思想が提起する問題について比較神学的な視点から検討してい きます。 西洋の研究者たちは、大乗仏教の一つの伝統である浄土真宗が、思想的にも構造的にもキリスト教と多くの共通点をもっていることに気づいてきました。その意味で、浄土真 宗は宗教間の相互理解を求める相手としてもっとも相応しい宗教だと見なされています。この研究プロジェクトでは、浄土真宗の思想をキリスト教と仏教、イスラームと仏教、 あるいはキリスト教とイスラーム間で対話をおこなってきた、さまざまな国の研究者たちとの継続的な対話の場にあげる機会をもち、そのことにより主要な宗教間の対話に新た な視角を開こうとするものです。すなわち、仏教における宗教間対話を拡大し深め、さらにはグローバルで多元的な脈絡の中で、現代における真宗思想の展開に新たな方向 性を示そうとするものです。
■このようなテーマのシンポジウムは、一般の方の中でもご関心をお持ちの方たちが多数おられると思います。15日の公開講演会は、基本的に英語の講演会で、一部通訳有でしかありませんが、申し込みがいりません。ぜひ、ご来場ください。
■ここから話しは少し変わりますが、我が大学は、もっと研究広報や研究ブランディングに力を入れて行かねばならないと思っています。外部資金を獲得して研究を行うだけでなく、これからはその成果を広く社会に情報発信しながら、自らの研究力をブランディングしていくことが必要になってきています。今年度、龍谷大学の「新時代の犯罪学創生プロジェクト~犯罪をめぐる「知」の融合とその体系化~」が、文部科学省の「私立大学研究ブランディング事業」の支援対象校の選定されました。厳しい倍率の中で採択されました。ところで、私立大学研究ブランディング事業委員会の委員長は次のような所見を発表しています。ここで問われていることは、研究成果を戦略的に発信する全学的な事業推進・支援体制の整備です。大学の研究者は、それぞれ自分の専門領域を持っており、その専門領域の中で自分がどう評価されているのかが気になるわけですが、ここで問われているのはそのような個々の研究者の能力の問題ではないのです。そこが科研などとは違うところです。
大学を研究でブランディングする、とはどういうことか。
それは、研究を研究者個人の学術的な側面だけに留まらせず、大学の組織的な取組へと昇華させ、全学的な看板となる研究を推進し、その成果をもって、大学の目指す将来展望に向けて独自色や魅力を発信する取組である。個々の研究者あるいは個々の研究組織での取組だけでは到底なし得ず、大学を取り巻く現状と課題を適切に分析し、大学全体としての目指すビジョンに向け、研究成果を戦略的に発信する全学的な事業推進・支援体制の整備が前提となる。
今年度から新たに実施する本事業は、個別の研究プロジェクトへの支援ではなく、学長のリーダーシップの下で推進される全学的な取組として支援することを特徴とする。各大学での将来性の検討を行う全学的体制を充実させる機会となるとともに、18歳人口の急激な減少や地域社会の衰退への懸念が高まる中、私立大学が持つ強み・独自性をより一層強化し、私立大学全体としての多様性を発揮させることで、グローバル社会において我が国が持続的に発展していくための一助となるものとして、本事業は評価できるであろう。
■黒字で強調している部分が、大学としてどれだけ達成できているかというと、採択はされていますが、研究部長の立場からはまだまだと不十分と言わざるを得ません。研究部が頑張らねばならないことはもちろんなのですが、研究部だけで取り組めることではありません。大学としての研究戦略を今一度きちんと立て直さなければなりません。また、大学等における研究マネジメント人材(URA)の雇用はこれからの時代不可欠ですが、研究者と研究者をつなぎ、大学として研究事業をプロデュースしていくことも必要でしょう。これから、そのような人材を雇用できるでしょうか。研究広報においては、研究成果を「こんな面白い/興味深い研究の取り組んでいる教員がいるんだ」と社会一般にも理解できるような情報に加工して発信していく必要があります。短い動画などの多様なメディアを使っていくことが必要です。研究広報は、大学の入試とも関連していますし、また社会連携(龍谷大学ではREC)の部署とも繋がっていなければなりません。研究部が中心になってやるにしても部署間連携が重要なってきます。このようなことを、2年前からずっと考えていますが、マンパワーが足りず、なかなか取り組めていません。悔しいですが、研究部長も3月末までなので、次の研究部長に引き継ぐしかありません。
10万アクセス間近
■本日は、知人がfacebookでこのホームページにあるブログのエントリーを取り上げくださいました。そのため、一時的にアクセス数が100を超えています。あと3日ほどで、おそらくアクセスカウンターは「100,000」を超えることになろうかと思います。特に、超えたからといって何も変化はないのですが、一つの節目に到達する…そんな感じです。
映画「ぼくと駄菓子のいえ」
■この映画、なんだかよそげな感じです。以下が、公式サイトです。
■以下は、この公式サイトからの引用です。困難を抱えた子どもたちの「居場所」の問題ですね。どうやって社会的に包摂し受容していくのか。「子どもの居場所」を意図していたわけではないけれど、結果として、そこにいる人たちの相互作用の中で、「こどもの居場所」が街の中に編み出されて行くことが私には興味深く感じられます。
「人間が生きている意味は人間関係の中にある」精神科医のハリー・スタック・サリヴァンはそう言いました。不登校、ひきこもり、イジメなど、昨今の子供たちを取り巻く環境は厳しさを増している。それらの問題の背景には地域社会、学校、そして家族の崩壊がある。そんな社会の歪みを一身に背負う子供達。そんな彼らと向き合うのは、親でも、先生でもない。駄菓子屋のおばちゃん。この映画は一種の駆け込み寺となった「風和里(ふわり)」で明美さんたちが通ってくる子供たちを、まるで自分の息子のように接し、懸命に向きあう姿と、決して順調とは言えなくても、必死に前を向いて歩もうと、もがく子供たちの姿があります。
今の社会は何か大事なものを捨て去ろうとしているのではないか?風和里での日常はやさしく観るものに問いかける。
大阪府富田林市。学校終わりの子供たちの元気な声が溢れる、小さな駄菓子屋「風和里(ふわり)」。そこは松本明美さんとその娘よしえさんが営んでいる。
そんな「風和里」に通う子供たちの中には親の離婚やネグレクトなどの家族の問題や学校でのイジメなどに悩み、居場所を求めてやってくる子供たちが少なくない。
そんな子供たちを時に厳しく叱り、また時にはまるでお母さんのように優しく接する明美さんとよしえさん。
そんな明美さんたちと子供たちとの涙あり、笑いありの交流と成長を描いたドキュメンタリー。
兵庫県人会
■昨晩は、「兵庫県人会」でした。何回目になるのでしょうか…ちょっと忘れてしまいました。今度確認をしておきます。回数はともかく、研究部での会議を終えて、瀬田キャンバスから京都の深草キャンパスの近くにある中華料理店「味苑」に急いで移動しました。ギリギリ間に合いました。この中華料理店は、四川料理のお店とのこと。美味しくいただきました〜。予想通り、汗が出まくり…で困りましたが。
■今回も、「来年度こそは、冬に日本海の蟹を食べに行こう!!」と、盛り上がりました。県人会のプチ慰安旅行です。もちろん、場所は兵庫県。これは県人会の中では重要企画になっています。昨年、私は行けませんでしたが、兵庫県人会の有志で丹波篠山にイノシシ鍋=牡丹鍋を食べに行きました。本当には蟹のはずだったのですが、諸般の事情から牡丹鍋になりました。兵庫県は日本海から淡路島まで、美味しいものがいっぱい。美味しい県人会なのです。それから、半袖を着るようになった頃、次の県人会を開催しようということになりました。次回の幹事も、酔っ払った勢いで決まりました。どうも候補地は、甲子園球場らしいです。甲子園は食べられません?!が、兵庫県の誇りですからね。ビールを飲みながらデイゲームを楽しみ、その後はビアガーデンかな。今回は、新しく2名の方が会員になってくださいました。龍谷大学の教職員の皆さんの中で、兵庫県出身者と居住経験者の皆さんがいらっしゃいましたら、ぜひこの県人会にご参加ください。
Satoyama Japan | The Secret Watergarden | Discovery English Subtitles
■BBCが製作した作品のようです。滋賀県高島市新旭町針江の水辺環境や、その水辺環境と一体化した針江の暮らしが取り上げられています。ステレオタイプというと言い過ぎかもしれませんが、ちょっとBGMが…、日本人の私にはちょっとだけですが違和感がありますが…。素敵な作品です。
岩手県宮古市重茂の早採若芽
■岩手県の三陸海岸、宮古市の重茂から「早採若芽」が送られてきました。軽く水洗いをして、湯通しすると実に鮮やかな緑色になりました。春を感じさせますね。早速、ポン酢をかけていただきました。重茂には、確か今から18年前の夏、岩手県立大学の1期生の諸君と三陸海岸をバスで回った時に、立ち寄った記憶があります。
■重茂の皆さんは、海の環境保全に積極的に取り組まれています。今回の「早採若芽」は、「東北食べる通信」から送られてきたものです。「東北食べる通信」は、毎月、東北の情報誌と旬の食べものを送ってくれます。情報誌を読むでみて、18年前に重茂で伺ったお話しのことを思い出しました。送られてきた若布は養殖されたものです。しかし、元々、若布の養殖をしていたわけではありません。重茂の初代の組合長が、「天恵戒驕(てんけいかいきょう)」というビジョンを提示されたことから始まったのだそうです。
私たちのふるさと重茂は天然資源からの恵みが豊富であり、今は何ら不自由はないが、天然資源は有限であり、無計画に採取していると近い将来枯渇することは間違いない。天然資源の採取を控えめに、不足するところは自らの研鑽により、新たな資源を産み補う。これが自然との共存共栄を可能とする最良の手段である。
■このビジョンのもとで、おもえでは1960年代からワカメ養殖に取り組まれてきました。また、輸送にコストがかかるため、そのコストを下げるために、乾燥・塩蔵・ボイル塩蔵と加工技術を進化させていきました。また1970年代には海の環境を守るために合成洗剤追放運動にも取り組みました。そのような努力が高い年収が確保されていることから、後継者率も他の地域と比較して群を抜いて高いとのことです。
■重茂は三陸海岸にありますから、東北大震災でも大きな被害を受けました。(本文続きます。)
農村・農業振興に関する相談
■昨日は、尼崎市の塚口でしたが、今日は滋賀県の大津です。旧志賀町の農村・農業振興に関する相談会みたいな出会いを作りました。私は、2つの農事組合法人の関係者と6次産業化のプロとの出会いの場を作っただけですが、横でやりとりを聞きながらいろいろ勉強させていただきました。縛りとなる制約条件、そして限られた地域資源の中で、農村の暮らしをどう維持していのくかという課題と、農業に付加価値をつけてどのように産業化させていくという課題との間で、いろいろ考えなくてはいけない。けっこう、複雑な「連立方程式」です。この2つの課題は、簡単には両立しません。
■ここに住み続けること。農地を守っていくこと。この2つがまずは基本になると思いますが、その目的のために、どこまで自分たちの農業に付加価値をつけていく取り組みをしていく必要があるのか。前者は「守り」の方策ということになりますし、後者は「攻め」の方策ということになります。この「守り」と「攻め」のバランスや判断が重要になってきます。私の個人的な意見ですが、現金収入の魅力は大きいけれど、それだけで地域の将来像を描いてしまうとうまくいかないように思います。現金収入は意欲を喚起するためには役立ちますが、そこが最終ゴールではありませんから。この辺りが、難しいところです。
「ちょっとお寺で新年会」
■昨晩は、尼崎市の塚口まで出かけました。尼崎にある浄土真宗本願寺派の西正寺で開催された「【どなたでも参加歓迎!】ちょっとお寺で新年会〜尼崎を楽しみたい人たちの年初めの寄り合い〜」というイベントに参加するためです。私は、若い頃は阪神間で暮らし、学び、遊び、アルバイトをしていました。ですから、尼崎についても、それなりの土地勘があるはずと思っていたわけですが、実際にJR塚口駅に降り立った途端、記憶している街のイメージとは随分違っていることに気がつきました。駅前が再開発されていたからです。再開発された土地は、以前、森永製菓の工場があったところだそうです。まあ、そのように街の変化に驚きながら、Googleマップを頼りに西正寺に向かいました。地図を見ると、道路に微妙な「揺れ」があります。まっすぐではありません。尼崎は工業都市というイメージですが、それ以前の、元々農村だった時代の土地利用のあり方(集落、農道、農地…)が、道路の様子から垣間見えるのです。再開発された新しい街、工業都市、農村…街の中に尼崎の歴史の地層(レイアー)が積み重なっていることがわかります。
■さて、なぜ西正寺のイベントに参加したのかというと、このお寺の副住職をされている中平了悟さんと知り合いになったからです。中平さんは、現在、龍谷大学の実践真宗学研究科の実習助手として勤務されていることもあり、ちょっとした「ご縁」で一緒に呑む機会がありました。普段であれば、私のような社会学部の教員だとなかなか出会えない方かと思いますが、「呑み」はそのような組織の中の見えない壁を突破させてくれます。その時は、中平さんがお住いの尼崎で取り組まれている活動について、いろいろお話しをお聞かせいただきました。とても興味深い活お話しでた。そして、実際にちょっと活動をのぞいてみたくなったのです。どなたでも参加歓迎ですしね。
■昨晩は、まず中平さんを導師に礼拝が行われました。皆さんと一緒にお経を唱えました。きちんとお念珠を用意していました。半分以上の方が、お経を唱えるのは初めとのことでした。お経をたくさんの人と一緒に唱えると、皆の気持ちが一体化するような感じもあります(ある方は、「グルーヴ感」が生まれると表現していました)。中平さんは、「お寺を町に返していく」ことを念頭に活動されています。お寺を町に開いていくといいますか、お寺と町との間にある「線」を相対化して、両義的な空間を創出していくことを考えておられるのだと思います。私としては、お寺の本堂をそのような両義的な空間として地域づくりに使わせていただくことの感謝の気持ちとともに、お経を唱えました。礼拝の後は、3〜4人のグループに分かれて自己紹介をしました。私のグループは、まだ20歳代の若い男性と女性と一緒になりました。男性は岐阜県、女性は富山県のご出身でした。この辺りから、場の空気も随分ほぐれてきました。ほぐれたところで、今度は鼎談です。「尼崎ENGAWA化計画」でコミュニティエディターをされている藤本遼さん、中平さん、そして重症心身しょうがい者の地域生活(入浴・外出)を支える活動をされているNPO法人「月と風と」の清田仁之さんの3人で鼎談が行われました。
■お3人が自らの経験をもとにいろんな話しをされましたが、ポイントをまとめると以下のようになります。制度化され固定化された社会の仕組み、線引きによって白黒をはっきりさせようとするものの見方や考え方、さらにこれが正解と決めつけた(権威主義的な/パターナリスティックな)言説、それらは人と人の間を分断してしまう。そのような弊害を、日々の実践の中でどのように相対化、無化していくのか。人と人の関係。今生きている人と死者との関係。しょうがい者と健常者との関係。それらの関係が生み出す潜在的な可能性を大切にする。そのような関係が創発的に生まれる仕掛けをみんなで楽しみながら作っていく…そのようなお話しだったように思います。こんなに単純にまとめてしまっていいのか…という不安もありますが、私にはこのように理解できました。
■尼崎という地域を、暮らしている方達自身、「あま」と呼びます。「あま」の持っている地域の特性、「人と人の間のハードルが低い」地域であるということも、重要な地域要因としてお3人の活動の背景に存在しているように思いました。これは藤本さんからお聞きしたことですが、土地の有力者や地付層の方達のネットワークとは別のレイヤーで動いているというのです。よくある上の年齢層が結果として若い年齢層の動きにブレーキをかけるようなことも少なそうです。
■清田さんが紹介してくださった、「重度しょうがいしゃの方とヘルパーさんが、他所の家のお風呂を借りる」という話し…、私は非常に興味深く拝聴しました。中平さんと藤本さんは西正寺でカレーを食べるイベント?!「カリー寺」を開催されました。お風呂にしてもカレーにしても、しょうがいしゃと健常者や地域社会との関係、お寺と地域社会との関係の間にある見えない壁を相対化していこうとする試みだと思います。以下は、私のメモです。
・清田さん: 自閉症のNくんが、周りを変化させていく話し。しょうがいしゃを軸にすると社会が変わる。
・中平さん:こたえがない、その方が良い。与えられると、生き辛くなる。
・藤本さん:自分の中に他人を持つ。自分の中の他者性。
・清田さん:良い場所とは、圧倒的なプロがいない場所のことだ。プロがいない方が良い。
・中平さん:「曖昧さ」の中に、身を置けるような感覚が大事。答えがあることの違和感。
・藤本さん:お金にならないことをやらない人は、面白くない。それ以外のこと想定していない。それ以外のことが関係性を作る。
・藤本さん:成果がなくても、プロセスを面白がる。プロセスを味わえる。
■鼎談の後は、みんなで持ち寄った食べ物と飲み物を楽しみながら、フリーに懇談ということになりました。非常に盛り上がりました。尼崎、元気があります〜。もともと、地域づくり・まちづくり、地域福祉に関心がある方達だとは思いますが、後で中平さん教えてもらったところでは、僧侶、NPO職員、保険屋さん、居酒屋さん、不動産屋さん、ライターさん、歌手、パフォーマー、看護師、医師、隣保館の職員、介護と保育の施設の運営者、市役所の職員、県の職員、銀行員、住みびらきしている人、学生(間もなく終わる人)、そして私のような大学教員と、実に様々な方達が参加されていました。ということで、最後は記念の集合写真を撮りました。
■藤本さんが代表をされている「尼崎ENGAWA化計画」につきましては、『ソトコト』3月号にその活動内容が紹介されています。こんなタイトルの記事です。「まちづくりではなく、『遊び』だ! 『尼崎ENGAWA化計画』がつくる、まちの縁側。」(「まち縁側」といえば、建築家の延藤安弘さんのことを思い出します)。縁側という人と人が交流する内でない外でもない曖昧な空間、そのような曖昧さを街のあちこちに作り出していこうということでしょう。そして、何かの理念のために「ねばならない」「耐え難きを耐え忍び難きを忍び」ではなく、「遊び」で活動するというのです。楽しいことは主体的にやる…その通りだと思います。私も常々、同様の指摘をしてきました。私が流域ガバナンスの問題の中で、「楽しみ」や「しあわせ」という言葉をあえて使うのも、ステークホルダーの主体性の問題と関連しています。また、尼崎を訪ねることができればと思います。面白いです、尼崎。
【追記】■本文に書いた「清田さん:良い場所とは、圧倒的なプロがいない場所のことだ。プロがいない方が良い。」というメモに関して、また「遊び」という楽しみを重視する活動に関して、思い出したことがあります。
■今から10年前の話しになりますが、私が環境社会学会の学会誌『環境社会学研究』の編集委員長をしている時に、学会誌の特集として「市民調査の可能性と課題」を組みました。その特集の中では、林学の蔵治光一郎さんに「参加者の楽しみを優先する市民調査-矢作川森の健康診断の実践から見えてきたもの-」をご執筆いただきました。私は、この特集の解説をした短い文章の中で、蔵治さんの論文を次のように紹介しました。
一般に、市民調査の成果をもとに政策提言していくためには、科学的厳密性やデータの信頼性が求められる。そのような市民調査は、目的志向的ないし手段的(instrumental)と言える性格を強く持つことになるが、そのことは、市民調査という活動自体のなかに何らかの楽しみや充足感を見出そうとする多くの市民の思考とはしばしば矛盾することになる。しかし、この「矢作川森の健康診断」では、そのような問題を、現場での工夫のなかから乗り越えようとしてきた。蔵治は、「矢作川森の健康診断」の特徴を、「効率を追わない」「市民と専門家が対等な立場でかかわる」「科学的精度よりも参加者の楽しみを重視」「参加費を取って運営する」という4つの特徴にまとめている。最初の3つの特徴は、楽しみを媒介に参加する市民の主体性を鼓舞するための工夫であるし、4つめの特徴は、行政に依存するのではなく参加する市民の自立性を育む工夫であろう。また、このような活動に参加する専門家の条件が、「専門分野のずれ」「分野外への踏み出し」「社会提言」の意思があることだという発見も興味深い。