田中拓弥くんとの再会

20170112tanaka.jpg ■昨晩、偶然ですが、大津駅前で田中拓弥くんと出逢いました。駅前の広場でスマホでメールを送っていると、携帯電話でにこやかに話しをしながら通り過ぎていく人がいました。チラリとみると、むこうもこちらをチラリ。お互いにびっくりしました。田中くんは、以前、総合地球環境学研究所のプロジェクト「琵琶湖-淀川水系における流域管理モデルの構築」で、プロジェクト研究員として獅子奮迅の活躍をしてくれました。プロジェクトの成果は、『流域環境学 流域ガバナンスの理論と実践』(京大学術出版会)にまとめることができました。

■このプロジェクトのなかで、私は「階層化された流域管理」という考え方を提案し、「階層間のコミュニケーション」に焦点をあてたプロジェクトのプラットホームづくりに努めました。田中くんは、一般社団法人「コミュニケーションデザイン機構」の職員で、現在は、「近畿環境パートナーシップオフィス」で、「コミュニケーションディレクター・科学コミュニケーター」として活躍されています。以下は、その「近畿環境パートナーシップオフィス」のスタッフ紹介欄にある田中くんの自己紹介です。

これまでは、大学・研究機関で、河川や湖沼の環境についての調査やその支援・推進の仕 事に携わってきました。 その経験を生かして、環境の研究者と実践家・市民の皆さんを橋渡しするお手伝いをした いとおもいます。 環境についての情報や科学知識は日進月歩です。楽しく学べるような場やそれが持続する ための仕組みを皆さんとつくりたいと考えています。

■現在のお仕事では、以前のプロジェクトのなかでいっていた「階層間のコミュニケーション」を実際に取り組まれているわけです。今回は、お仕事の打ち合わせで急いでおられましたが、近いうちに連絡をとりあって、いろいろ話しをしようということになりました。いろいろ出会いがありますね。

総合地球環境学研究所「食文化から見た琵琶湖流域の人と自然のつながり」もちつきワークショップ

The First Lady Honors the 2017 School Counselor of the Year


■いよいよアメリカの大統領がかわります。このことにより、アメリカのみならず世界はどう変わっていくか…不安です。ホワイトハウスで、ミシェル・オバマ大統領夫人の最後のスピーチが行われました。1月6日にホワイトハウスで開催された「2017 全米スクールカウンセラー・オブ・ザ・イヤー」の授賞式でのスピーチです。ネット上ではすごく話題になっていますね。英語全文は、facebookのホワイトハウスのページで読むことができます。
ミシェル・オバマ大統領夫人の最後のスピーチ

■スピーチの後半部分、特に”And as I end my time in the White House, I can think of no better message to send our young people in my last official remarks as First Lady. “のところからですが、アメリカの若者に対するメッセージです。ミッシェル大統領夫人は、アメリカドリームといわれるアメリカの可能性は、様々な多様性が生み出したものであり、全ての人々に開かれており、全ての人々に獲得する権利があることを強調します。これは、アメリカ建国の基盤となる考え方ですね。しかし、このようにもいっています。

“But I also want to be very clear: This right isn’t just handed to you. No, this right has to be earned every single day. You cannot take your freedoms for granted. Just like generations who have come before you, you have to do your part to preserve and protect those freedoms. And that starts right now, when you’re young. “

■「何もしなくてもその権利が手渡されるわけではありません」というのです。では、どうすれば良いのか。「この権利は毎日その日ごとに獲得していかなければなりません。自由を当然のものと思ってはいけません。あなたたちが生まれる以前の上の世代の人たちと同じように、人々の自由を守るための自分の役割を果たさなければいけません。そして、それはまさに今、あなたが若いうちから始まるのです」といっています。ここで、オバマ大統領と同じ民主党のジョン・F・ケネディ大統領が、かつて大統領就任演説の中でいったあの有名な一節「同胞であるアメリカ市民の皆さん、国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えようではありませんか」をふと連想しました。このあたりにも、アメリカらしさを感じます。

■さらに、このスピーチが「2017 全米スクールカウンセラー・オブ・ザ・イヤー」の授賞式の場で行われていることもあると思いますが、ミッシェル大統領夫人は、アメリカの可能性や価値を守っていくために「市民として知識をもち関与できるように準備」していくこと、すなわち教育の意味や価値を強調します。そして希望を失わないように呼びかけます。希望の力が、国を分断するような声を乗り換え、怒りや恐怖の声を乗り越えるのだと言います。直接的には語っていませんが、次期大統領のトランプ氏を批判していると私は思います。

“And that means getting the best education possible so you can think critically, so you can express yourself clearly, so you can get a good job and support yourself and your family, so you can be a positive force in your communities. “

“It is our fundamental belief in the power of hope that has allowed us to rise above the voices of doubt and division, of anger and fear that we have faced in our own lives and in the life of this country. “

■ところで、トランプ氏が大統領になった時には、このようなオバマ大統領の時代のスピーチなどは、ホワイトハウスのfacebookページからは消えてしまうのかな。たぶんそうでしょうね。

カテゴリーの復旧

■ブログの管理上のミスから、カテゴリーを全て消去してしまいました。そのため、改めてカテゴリーを設定して、最初のエントリーからカテゴリーをタグ付けしていくという作業を少しずつ進めています。やっと、2014年の4月まで復旧作業を完了しました。2014年5月から現在まで作業はこれからになります。まだまだ復旧作業に時間がかかります。ご迷惑をおかけすることがあるかもしれませんが、どうかご容赦ください。現在、仕事が多忙なため、作業は予想以上に遅れています。

2017 新年会

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■少し前のことになりますが、母校・関西学院大学の大学オーケストラ「関西学院交響楽団」のOBOGで新年会を開催しました。じつは、私と同学年で学生指揮者だったMくんから、「一時帰国するので、ぜひみんなと会いたい」と連絡が入りました。Mくんは現在中国で働いています。ということで、近い学年のなかでも、普段から連絡を取り合っている人たちに呼びかけ、大阪で新年会を開催することにしました。最初は、小さな宴会のつもりだったのですが、後輩(私たちが4回生の時に1回生)の皆さんの全面的なサポートのおかげで、会場もすぐに決まり、いつのまにやら17名もの方達が集まってくださることになりました。今回はサプライズがありました。私たちがオーケストラで頑張っていた頃、トレーナーをしてくださっていた元・大阪フィルハーモニー管弦楽団のファゴット奏者・宇治原明先生も参加してくださいました。いや〜これはすごいぞ。先生、ありがとうございました。

■この17名の皆さんのうち、宇治原先生とあと2人の後輩たちは、卒業して以来の再会となりました。私自身もそうですが、皆さん白髪が増え、人によって髪も薄くなり、皺も増え…と。学生時代から35年を過ぎていますのでね。近況を報告しあいながらも、その中には、もう少し先にある自分の退職、親の介護、孫の世話…と行った話題が混じってきます。そういう年代なんですね。

■この新年会の翌朝になりますが、今度は、フランスにいるSくんからメールが届いていました。彼は、年末から新年にかけてのこの時期、毎年のように帰国していましたが、今年は甥御さんと姪御さんが大学受験で、ご実家からは「帰国厳禁令」が出ているらしく、帰国は3月になるとのメールでした。3月には、また集まることになろうかと思います。私の学年に近いOBOGのうちおつきあいのある皆さんには、海外にいるMくんとSくんが帰国するたびに、こんな感じで呼びかけています。そして、同窓会を開いています。でも、これだけ回数が多いと同窓会とは言えないかもしれませんね。ただの飲み会かな…。

【追記】■昨年の今日(1月10日)に、「卒業アルバムから」というエントリーをしました。下の写真は、そのエントリーに掲載したものです。この写真の中のうち7人が、同窓会にも参加していました。私は、前列左から3人目です。

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第6回「龍谷大学餃子研究会」

20170109gyouza.jpg■少し前のことになりますが、会長をしている「龍谷大学餃子研究会」の第6回研究会が、四条烏丸にある「タイガー餃子」で開催されました。この研究会、2014年10月に始まりましたが、今回でやっと6回目になりました。幸いなことに、メンバーも増えてきました。きちんと研究会が継続していることに、会長として安堵しています。

■ところで、餃子という食品は完全栄養食品だといわれています。あの一包みの餃子に、人間が生きていく上で必要な様々な栄養素が入っているというのです。細かな栄養学的なことはわかりませんが、いろんな食材からできています。それが美味しいハーモニーを奏でているわけです。餡の中の、豚肉の旨味、野菜の甘み、そしてそれらの味を引き立てるニラ、そして香辛料のニンニクやショウガ。その餡を包む皮は小麦粉から作られていますが、この皮が、餡の美味しさを包み込んでくれます。どれかひとつでも欠けてしまうと、餃子の美味しさは消えてしまいます。

■会長として簡単な挨拶をしました。「私たちの職場も、餃子のように様々な能力を持った人の持ち味が生かされて、最高の味にまとまっていくといいな〜!」、まあそのような内容の挨拶です。そうすると、研究会のO会員が「私は、皮を閉じる時の片栗粉がええです」とおっしゃったのです。おお!!、皮を閉じる時に糊の役目を果たす、あの片栗粉ですか!! これはすごい発言ですね。片栗粉は餃子を食べる時に気にしません。自らの存在感を完全に消してしまっています。しかし、片栗粉がなければ、餃子を焼いている間に、餡の複雑な美味しさは全て外に流れていってしまいます。徹底した「黒子」の役割を果たしています。豚肉や野菜、そして皮のように存在感はありませんが、片栗粉があってこその餃子なのです。いい話しを聞かせてもらいました。

■さてさて、第6回研究会ですが、メニューに掲載されている全ての餃子を注文しました。私は、卒論の指導等があり、少し遅れての到着となりましたが、N副会長が気を利かせて注文をしてくださっていました。ありがとうございます。ぷっくり餃子、ジャンジャン餃子、黒スパイシー餃子、青菜水餃子、香菜餃子、エビ餃子、ベジタブル餃子、やぶれかぶれ餃子、茹で焼き餃子、チーズグラタン餃子、坦々黒胡麻だれ餃子、豆トラ餃子、島唐辛子餃子、柚子ポン葱餃子、チリマヨ揚げ餃子。お腹一杯になりました。もちろん、餃子を食べるだけではなく、いつも研究会では、わが職場の課題や将来の展望について語り合うわけです。部署を超えたこういったつながりの中から、次の職場の展望、そのきっかけとなる出来事が生まれてきたらいいなと思っています。例えば、縦割りの組織の中で、もっと部署間連携を強化していくこと。その連携が機動力を持てるような制度的保障をしていくこと…いろんなことを考えています。が、今の所は、話しのレベルで終わっています。まあ、いつか!!…ですね。といっているうちに、定年退職かな。

映画「沈黙-サイレンス-」


20160106chinmoku.jpg ■この映画「沈黙-サイレンス-」、何としても観たいのですが、さてどうなるでしょうかね〜。私が暮らしている大津では、浜大津にある「大津アレックスシネマ」と膳所にある「ユナイテッド・シネマ大津」で、今月の21日から上映が始まります。

■昨年末のことになりますが、文学部の真宗学科や大学院実践真宗学科の若手教員の皆さんと、懇談するチャンスがありました。その時も、この「沈黙」のことがすごく話題になりました。呑みながらのディスカッションだったので、なんだか記憶が曖昧になっていますが、「信仰する」とはどういうことなのか…そのような議論の文脈上でこの映画の話題も出てきたように思います。

■この映画の原作である遠藤周作の『沈黙』(1966年)を、私自身は、いつ読んだのかはっきり思い出せません。自宅の書架にきちんと配架してありますが、記憶が曖昧です。おそらくですが、予備校生から大学生のときに、自宅の書架にあったものを読んだのではないかと思います。本を購入したのは私ではありません。両親のどちらかが読んだものだと思います。だから読み方も、自宅の書架にある本を「なんとなく…」読んでいたのだと思います。あの頃の私で理解できたのか、甚だ怪しいところがあります。同じく遠藤周作の『イエスの生涯』(1973年)を読んだときはもう30歳を超えていました。こちらは、友人の勧めもあり「しっかり」読みました。ただし、こちらも自分で購入したわけではありません。大学時代のサークルの先輩からいただいたものでした。先輩が就職のため下宿から引越しをする際に、引越しの荷造りを手伝ったお礼にいただいたものです。今も手元にありますが、裏表紙には先輩の名前と買った日付と書店名(1977.1.22 梅田、旭屋)が書かれています。とても几帳面な字です。ああ、話しがずれてしまいました…。というわけで、「なんとなく…」読んだ『沈黙』の方を、58歳になった今、もう一度読んでみたいと思っています。もちろん、映画を観る前にです。

■小説の最後には、作者である遠藤周作の「あとがき」があります。そこには、この小説でキリスト教を棄教するカトリックの司祭ロドリゴに関して、次のように書いています。少し気になるところです。

ロドリゴの最後の信仰はプロテスタンティズムに近いと思われるが、しかしこれは私の今の立場である。それによって受ける神学的な批判ももちろん承知しているが、どうにも仕方がない。

■ロドリゴの最後の信仰とはどのようなものでしょうか。『沈黙』の中で、棄教したロドリゴに対して、奉行・筑後守は次のように言っています。

「かつて余はそこもとと同じ切支丹パードレに訊ねたことがある。仏の慈悲と切支丹デウスの慈悲とはいかに違うのかと。どうにもならぬ己の弱さに、衆生がすがる仏の慈悲、これを救いと日本では教えておる。だがそのパードレは、はっきりと申した。切支丹の申す救いとは、それは違うとな。切支丹の救いとはデウスにすがるだけのものではなく、信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬと。してみるとそこもと、やはり切支丹の教えを、この日本と申す泥沼の中でいつしか曲げてしまったのであろう」

基督教とはあなたの言うようなものではない、と司祭は叫ぼうとした。

■「基督教とはあなたの言うようなものではない」。ここに遠藤周作自身のキリスト教に対する考えが示されているように思います。ということで、『沈黙』を再読し、映画を観たあとに、また昨年末のように仏教の研究をされている若手教員の皆さんと、この映画について語り合いたものです。人間の弱さと、信仰の問題について。

【追記1】■『沈黙』の登場人物である司祭ロドリゴには、実在のモデルがあります。ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッチです。キリシタン禁制下にあった江戸中期(1708年)に潜入するもすぐに捕らえられ、長崎を経由して江戸に送られました。新井白石の『西洋記聞』は、このシドッチからの話しに基づいて書かれたものです。彼は、茗荷谷にある切支丹屋敷に軟禁されました。以下は、切支丹屋敷跡から、シドッチと見られるイタリア人男性の人骨が見つかったという記事です。

キリシタン屋敷跡から出土した人骨が語る、宣教師シドッチの信仰

【追記2】■『沈黙』に関する評論文を見つけました。文学を専門にしているわけではないので、この評論文をどう評価して良いのかはわかりませんが、参考になりました。 遠藤周作・「沈黙」について

新年法要

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■本日から、仕事が始まりました。多くの民間企業では、昨日に「仕事始めの行事」が行われていると思いますが、龍谷大学では、本日、「新年法要」が行われました。場所は、大学の本部のある深草キャンバスの顕真館というホールです。法要では、「正信偈」と「念仏・和讃」を出席者で唱和しました。私は真宗の家で育った訳ではないので、この「正信偈」が身についているわけではありません。ですから、付け焼き刃の知識でしかありませんが、「正信偈」とは「正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)」のことで、親鸞の著書である『教行信証』の「行巻」の終わりにある七言百二十句の偈文です。偈とは、仏の徳をたたえ、教理を説く詩のことです。今日は現代語訳を読んで意味を噛み締めながら、唱和させていただきました。

■写真は、今日の「新年法要」が行われた顕真館です。入口の石段は、京都の市電の軌道石を再利用しているといいます。入口の上にあるのは、平山郁夫画伯の陶板画「祇園精舎」です。龍谷ミュージアムの初代館長である宮治昭先生は、以下のように解説されています

『祇園精舎』
 平山郁夫画伯は広島での原爆の被爆体験を原点にして、仏教に平和と心の支えを見出し、シルクロードの仏教を生涯のテーマとして、毎年現地に取材し、それをもとに多くの作品を描き続けました。第4回院展に出品した、玄奘三蔵の求法を主題にした「仏教伝来」は、三蔵法師の強靭な精神が周囲に幻想的な光を醸し出している作品で、高い評価を得ました。それ以降、釈尊の悟りと足跡を追って、その体験に迫ろうとした「出山釈迦」や「建立金剛心図」など名作をいくつも残しています。

 龍谷大学深草学舎の顕真館に陶板画として飾られている「祇園精舎」は、そうした平山画伯の力作の原画をもとに制作されたものです。釈尊の説法を聞いて感激した給孤独長者が、園林一面に金貨を敷きつめて土地を祇陀太子より購入し、釈尊に寄進する話に由来するものですが、画伯の関心はその説話自体ではなく、説法する釈尊と従う弟子達、それを聴いて帰依する人々の、自然のなかでの荘厳な雰囲気に焦点が絞られています。画伯自身、「祇園精舎を何度か訪れるうちに、生い茂る大樹の葉陰からこぼれる光が、微妙な色彩と雰囲気を出していて、とても美しく感じた時があった。それは自然でありながら崇高さがあり、宗教的な雰囲気に通じていた。そうした光をバックに、『祇園精舎』と題して説法する釈迦と弟子を描いた」と述べています。

 平山画伯は仏教に関わる画業だけでなく、文化財の保護、修復活動にも多大な役割を果たされました。シルクロードの地、仏教伝来の道筋に数多くの貴重な遺跡と美術品があり、戦乱や自然による文化財の破壊、崩壊に心を痛められ、文化財赤十字という構想のもとに、ユネスコや日本政府に働きかけ、バーミヤーン、敦煌、ボドブドゥールなどの遺跡保護にも大きな足跡を残しました。

黒田一樹さんのこと

20160523kuroda1.jpg ■昨年の5月に、「黒田一樹さんの講演会」をエントリーしました。そこでは、末期癌から復活し『すごいぞ! 私鉄王国・関西』を出版された黒田一樹さんの講演会のことを書きました。その黒田さんが、本日の0時34分にご逝去されました。末期癌と闘いながら、最後まで目標と夢を失うことはありませんでした。多くの方達がそのような黒田さんから勇気付けられました。また同時に、多くの方達が、直接何もできないにしろ、facebookを通して癌と闘う黒田さんを応援し続けました。昨年末のfacebookへの黒田さんの投稿では少し弱音を吐かれているかのようでしたので、心配をしていました。本日、早朝4時頃に目を覚まし、iPadeでfacebookを確認したところ一番最初に黒田さんのご家族からの投稿があり、ご逝去されたことを知りました。

■黒田さんに初めてお会いしたのは、滋賀県大津市の中心市街地にある「パーンの笛」というジャズバーです。おそらく7〜8年前のことでしょうか。お仕事の関係で、京阪電車の社員の方と来店されていました。その時、黒田さんのとてもチャーミングなお話しぶりに魅了されてしまいました。一昨年の1月には、上京の折にお会いするチャンスもいただきましたが、残念ながら私の都合がつきませんでした。とはいえ、facebookを介してお付き合いをいただき、fb上のある鉄道ファンのグループにお誘いすると、快くご参加くださいました。そして鉄道に対する深い愛と知識と体験を元に、みるみるこのグループの主力メンバーとなって活躍されました。2度目にお目にかかったのは、冒頭に書いた大阪で開催された出版記念講演会とパーティの場でした。あの時のご様子から、また関西にもお越し頂けるものと固く信じておりましたが、本日の悲報に接し、本当に悲しくて悲しくて、残念でなりません。私のささやかな夢は、黒田さんと一緒に大阪近郊区間を1日で回ることでした。それも叶わないことになってしまいました。

■黒田さんとの最後のやり取りは、大晦日の日になりました。前述した鉄道ファンのグループへの投稿の最後に「黒田 一樹さん、応援しています!また、講演会に伺いますから」と呼びかけたことに「いいね!」をくださったのが最後になりました。1年間近くの闘病で苦しまれながらも、最後の最後まで黒田流の美意識とダンディズムを貫き通されたことに敬服しております。このような方は、なかなかいらっしゃらない。しかし今は、唯々、安らかにお体を休めて頂きたいと念じるばかりです。このように美意識とダンディズムを貫き通せたのも、奥様やご家族の皆様の支えがあったからこそと思っております。

謹んでお悔やみ申し上げます。

【追記】■昨日から、このブログへのアクセス数が伸びています。おそらく、多くの皆さんは、亡くなった黒田一樹さんに関する情報を検索されているうちに、ここに辿りつかれたのかなと思います。Googleの検索順位も5位となっています。本当に申し訳ないのですが、ここに書いてあることは、ささやかな私の思い出でしかありません。facebookでは、黒田さんと昔からのお友達である皆さんが、黒田さんとの思い出を続々と投稿されています。ぜひ、そちらをお読みください。私も、皆さんの思い出を読ませていただきながら、黒田さんのお人柄に感動しています。

■私は、根っからの鉄道ファンではありません。鉄道好きなおじさんではありますが、鉄道に関する知識や経験がほとんどありません。そのような本物の鉄道ファン皆さんの前では何もいえなくなってしまうのです。しかし黒田さんは、「鉄道は知識ではなく、センスなんだ」と言って、色々、鉄道の楽しみ方を教えてくださいました。マニアの世界にある単純に知識の量を競うようなことを、少し軽蔑されていたようにも思います。私のようなちょっとだけ「鉄道好きのおじさん」は、そのような黒田さんに、ある種の「優しさ」のようなものも感じていました。

■普段、私は大学教員をして若い学生の皆さんと接しており、学生の教育のあり方について色々悩んでいるわけですが、そのような学生の教育という点についても、黒田さんとやり取りをした記憶があります。黒田さんも、専門学校で学生の皆さんを指導されていたからです。もう少し、この辺りについても議論をしたかったところです。

お正月の介護

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■元旦。滋賀の老人ホームに入所している老母が、日帰りで我が家にやってきました。もちろん、一人ではやってくることはできませんので、車で迎えに行くのです。我家の車はトヨタのSpadeという車種で、オプションで助手席を介護仕様にしてもらっています。電動で助手席が回転し、車外へスライドダウンするようになっているのです。簡単に言えば、電動で補助席が外にグイーンと出てくるようになっているのです。高齢者や障害者の方達にも乗車が楽なようになっています。うちの母親の場合は、目も足も不自由になっています。しかし、この車だと車椅子からでも比較的楽に助手席に座ることができます。夫婦で介護世代であることから、親の世話をすることを考えてこの車を選びました。

■さて、我が家までの移動はこれでOKなんですが、問題があります。我が家には道路から玄関まで10数段の階段があるのです。ここがネックになります。大晦日から息子が帰省していたことから、2人で母親の両脇を抱えてなんとか登りきることができました。こうやって母親の世話をしながら、自分が年老いた時はどうなるのか…と想像するようにしています。目の前の老婆は、自分の老いのレッスンの先生でもある。老いを学ばさせていただいている…と思うようにしています。

■母は目が悪く、ほとんど視力がありません。そのようなわけで、食事も結構大変です。自分で食べることはできますが、ひとつひとつお節料理の中身を説明して、注文に応じて皿に取ることをしなければなりません。これから生まれてくるであろう自分の孫の世話と老人の世話とは、このような世話という点では同じようなものなのでしょうが、修行が足らないせいか、なかなかそのような気持ちにはなれません。修行が足りません。このように目と足は不自由なのですが、頭と口はまだ比較的しっかりしており、よく喋ること…。孫である息子は疲れて昼寝体制に入ってしまいました。私は書斎から学生の卒論を持ち出し、よく喋る母親の横で卒論の原稿に赤ペンを入れることにしました。適当に相槌をうちながらも、母親の話しは右の耳から左の耳へ…。私にはなかなか傾聴ボランティアの方達のようにはできません。あのような傾聴は、血が繋がっていないからできることなのだと思います。

■ここに1枚の写真があります。右側の方です。着物を着ている女性が母親です。今から53年前の写真です。たぶん31歳だと思います。その横は、亡くなった父。この時は36歳です。そして千歳飴を持っているのが私になります。写真を撮影したのは昭和38年。1963年です。七五三であることから11月だと思います。しかし、こうやって写真眺めてみると、「人生は一瞬の出来事」のように感じられてなりません。親に育てられ、大人になれば今度は自分の子供を育て、子育てを終えてしまった後は、親の介護がやってくる。そして介護が終わると自分の老後です。それで人生は終わりです。当たり前のことですが、本当に上手くできているな〜とつくづく思うわけです。

■ところで、若い頃にバイオリンを弾いていたことは、このブログのエントリーでも何度か書いたように思います。写真の中の私は5歳ですが、この歳からバイオリンを習わされることになりました。ピアノかバイオリンか。拒否する選択肢はありませんでした。両親がクラシック音楽が好きで強い関心があれば別なのでしょうが、そうではありませんでした。我が家にあった重いレコードは、誰の指揮で、どこのオーケストラが演奏しているのかわかりませんが、「運命」、「新世界」、「未完成」…だけだったように記憶しています。あとは、「グレンミラーオーケストラ」と「ナット キング コール」だったかな。戦争で青春を奪われた世代が、自分たちが憧れた文化を子どもに押し付けてきた…というと言い過ぎかもしれませんが、そう思わずにはいられません。

■今もしっかり記憶しているのは、辛い辛い自宅での練習です。音楽のことなどわからない母親ですが、きちんと弾けないと手が飛んでくる…そのような時代でした。教育ママのスパルタ教育の走りなのかもしれません。大人になって思いますが、子どもはもっと緩やかにのびのびと育てなければなりません。困ったものです…と言って、もうその子どもも「アラ還」ですから、もう遅すぎますね。まあ、そのように若い頃はそのように気性の激しかった女性も、84歳になり、以前とは比べ物にならないほど穏やかになってしまいました。辛い思いをした子どもはしっかりそのことを記憶していますが、辛いことをしたご本人は、そのことをすっかり忘れてしまっているのでしょうね。こういう話しをすると、年代の近い方達は、けっこう似たような経験をされているようです。そういう時代なのかもしれません。

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