西前研究室の新歓コンパ

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■先週の木曜日の晩(4月13日)のことになりますが、京都大学大学院・地球環境学堂・学舎・三才学林の西前出(さいぜん・いずる)先生の研究室の新歓コンパにご招待いただきました。私は龍谷大学に勤務していますし、出身も関西学院大学ですが、どういうわけかこちらの研究室の「飲み会」に、よくお誘いいただきます。昨年から、新歓コンパ忘年会にご招待いただいています。この研究室出身の淺野悟史さんが、私が参加している総合地球環境学研究所のプロジェクトで研究員をしていることから、西前研究室とのおつきあいが始まりました。

■西前研究室には、ベトナム、インド、インドネシア、サモア、カンボジアから留学生がやってきています。確か、イギリスからの留学生もいたように思います。日本人の院生も、必ずアジアの農村地域の調査に出かけて行きます。地域資源計画論がご専門の西前先生は、まだ40歳代前半かと思います。お若いのですが、外部から研究費をきちんと確保して、院生たちをフィールドに送り出す研究室の運営手腕、いつも凄いな〜と感心しています。

■この日は、ベトナムから留学されている女性の4歳のお嬢さんとも仲良くなりました。日本の保育園に通っているので、関西弁がペラペラです。調子に乗って悪ふざけをしたいたら、泣いちゃいました。お店のサービスでリンゴ飴をもらって、食べようとされたので、「おじさんも欲しいな〜」と言うと、隠して、代わりに別の煎餅をくれるのです。優しいのですが、煎餅で誤魔化しておこうという作戦です。お母さんの影に隠れてリンゴ飴を食べているのを見つけて、「あっ!! おじさんも欲しいな〜」と繰り返しつつ、一段声のトーンを落として「お腹の中のリンゴ飴を食べてしまおう」と、「赤ずきんちゃん」の狼のようにいうと、しっかりしているようでもまだ4歳、びっくりされて泣き始めてしまったというわけです。ごめんなさいね。

春がやってきました。(その4)

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■朝から出かける用事がない限り、できる限り毎朝庭の世話をするようにしています。「孫の守り」と「庭の守り」は、おじいさんの仕事ですからね。「守り」とはいっても、ひとつひとつの作業自体は大したことがありません。小さな雑草の芽をひたすら抜く。枯れたものを取り除く。落ち葉も取り除く。たったそれだけのことなのです。しかし、単純な作業でもけっこう時間が取られます。でも嫌ではありません。日々、庭が変化していくことを楽しめるからです。

■今日は、嬉しいことがありました。昨年、2種類のミントをプランターに植えました。ひとつは生き残っていますが、もうひとつは完全に枯れてしまった思っていました。ところが、小さな芽がたくさん出てきているではありませんか。やった!枯れたように見えて、土の中の根っこはきちんと生きていたのですね。この暖かさの中で芽を出してくれたのでしょう。本当に、嬉しいです。これからの季節、我が家の庭はとても賑やかになります。いろんな種類の草花が花を咲かせるからです。少しだけ写真でおすそ分けです。

■ところで、まだ新芽が出る前の庭の木に、不思議なものを見つけました。何かの昆虫の死骸ようです。「モズの速贄(はやにえ)」…かな?「速贄」とは、神様への初物のお供え物のことです。もちろん、モズが神様に供物を捧げることはありませんが、捕獲した昆虫や小動物等の餌を小枝などに突き刺しておく習性があります。なぜこのような習性をもっているのかということに関しては、まだ定説がないようです。備蓄説、食べ残しを一時的に保存しておくという説、殺戮の本能によるという説、嘴のわりに肢が弱いので串ざしにしておいてからむしり食うという説、単なる本能という見方…こちらの記事で知りました。
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珉珉の餃子

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■昨日は、京都の山科駅近辺で用事を済ませて、昼飯かな…ということで、「珉珉京都山科店」へ行きました。ここは、けっこう古いお店です。昼飯時ということもあり、1階のカウンター席はすでにいっぱいでした。ということで、案内されて、梯子のような階段を登って2階にあがりました。そして、日替わり定食が、この日は、こちらのお店の名物であるジンギスカンと餃子だったということで、注目は日替わり定食に決定です。昼食のお供は、昨日届いたパラダイス山元さんの『読む餃子』。これは、かなり面白いです。またいつか、きちんと紹介したいと思います。

■さて、ここのお店の餃子の特徴は、ソフト、柔らかいということです。行くことの多い「餃子の王将」であれば、いつもは、しっかり焼いてもらう「よく焼き」で注文するのですが、こちらのお店ではそれはできません。皮が薄いのです。乱暴に餃子を箸でとろうとすると、隣の餃子がひっついてしまい、破れてしまいます。そこで、新しいティッシュペーパーの箱から、1枚目を取り出す時のように、慎重に、あくまでもゆっくりとゆっくりと剥がしていきます。ここがポイントです。子どもの時に転けて膝にできたカサブタを剥がすときのあの感覚にも似ています。乱暴に剥がすと血は出ないけど、隣の餃子の餡が出てしまいます。というわけで、時間をかけて剥がしていただきます。

■昼食のお供であった『読む餃子』の中にあるタモリさんのシンプルなレシピを読んで、俄然、自分でも餃子を作りたくなってきました。「龍谷大学・餃子研究会」の皆さん、会長は日々研鑽につとめておりますよ。近々、次の研究会を開催致しましょう。

庭のミント

20170413mint.jpg■我が家の庭は、様々な草花が芽吹き花を咲かせています。全部で何種類の草花があるのか、私もよくわかりません。特別珍しい品種は植えていないはずですが、それでも毎朝庭の手入れをして、草花の成長や変化を楽しんで観察しています。ほとんどは観賞用のものですが、プランターにはハーブの類を植えています。写真は、ミントです。うまく育てられているかといえば…、ミントに申し訳ないような気持ちになるわけなんですが、それでも枯れることなく葉をつけてくれています。暖かくなり、元気になってきました。今朝は、このミントの葉を2枚取ってきました。ティーサーバーにティーバッグとちぎったミントの葉を入れ、沸騰したお湯を注ぎました。お茶っ葉はどこでも売っている安物のティーバッグ何ですが、とても爽やかなハーブティーになりました。何といいますか、このようなことに「小さな幸せ」を感じました。こういうことが大切なのかなと思います。

異常なアクセス数のその後

■少し前のエントリーに、次のように書きました。「火曜日に集中的にアクセスされています。大学の情報システムの担当部署にも報告していますが、それに対する職員さんからの回答やアドバイスは今の所ありません。大丈夫なのかな…」。火曜日に1400を超えるアクセスがある件です。このことに関して、担当の職員の方から連絡がありました。

■とりあえず、心配しなくても大丈夫だとのことでした。もし内容を改ざんするためにアクセスが集中した場合は、1400というアクセス数では少なすぎるという意見も担当されている部署であったそうです。では、このアクセス数は何なんでしょうか…。大丈夫と言われても、ますます不安になってきますね。来週の火曜日、アクセス数がどのようなるのか、改めてチェックすすることにします。

ペギー葉山さん


■昨日のニュースで、ペキー葉山さんがお亡くなりになったことを知りました。享年83歳。今でもメディアに登場されるお姿を拝見しつつ、「いつまでもお若いなあ」と思っていました。私の年代の人たちの中には、ペギー葉山さんのファンという方は少ないのではないかと思います。私たちの年代よりも、1世代上の方たちが、ペキー葉山さんが歌う「学生時代」等に夢中になったのではないでしょうか。私たちの世代からすると、やはり「ドレミの歌」になります。

■ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」の中の「Do Re Mi」がオリジナルです。家庭教師役のジュリー・アンドリュースが次のように歌っています(私は、映画「サウンド・オブ・ミュージック」の大ファン、ジュリー・アンドリュースの大ファンでもあります)。

Doe, a deer, a female deer
Ray, a drop of golden sun
Me, a name I call myself
Far, a long, long way to run
Sew, a needle pulling thread
La, a note to follow Sew
Tea, a drink with jam and bread
That will bring us back to Do

■私たちが歌ってきた歌詞とは全く違います。多くの日本人が知っているには「ドはドーナツのド…」の歌詞は、ペギー葉山さんがアメリカを訪問したおり、ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」をご覧になり、感銘を受けて、帰国後、自ら日本語で作詞されたものだと聞いています。音楽の教科書にも乗るほどの名曲となりました。すごいことですよね。

■ペギー葉山さんは、ブログを書いておられました。その最後のエントリーがこちらになります。3月29日に、越路吹雪さんの37回忌を記念したイベントが東京の日生劇場で開催され、ペギー葉山さんも出演されていたのです。ということは、つい最近までお元気だったわけですね。とても残念です。

春がやってきました(その3)。

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■我が家の庭に咲いた花たち。

瀬田キャンパスの桜

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■先週末はとても暖かかったのに、カレンダーが逆戻りをしたように肌寒い日が続いています。雨が振り、風も強く吹きました。そのため、せっかく満開になっていた桜も早く、花びらを散らしてしまったのではないかと思います。しかし、瀬田キャンパスは瀬田丘陵の上にあるため、市内の平地よりも高く、桜の開花も例年遅めになります。よくわからないのですが、悪天候の時期を避けて満開を迎えているのではないかと思います。美しい。

■今日は水曜日で、昼からは、学科会議、教授会、研究科委員会が開催されます。私はといえば、国内長期研究員のため、今年度はそれらの会議一切を免除されています。そのため、現在は研究室にいます。たまりにたまった書類の整理、書籍の整理の最中です。

105,000アクセス感謝…ただし

■アクセスカウンターが、「105,000」を超えました。皆様、ありがとうございます。ただし、心配なことがあります。先週の火曜日、そして今週の火曜日、つまり昨日のことですが、通常では考えられないアクセスがありました。半日で1400を超えるものです。あくまで推測ですが、何か外部から機械的にアクセスしようとしているのではないかと思っています。以前、コメントをつけることができるようにしていましたが、海外からたくさんのスバムコメントが送られてくるので、コメントをつけられないように設定しなおしました。コメントをつけられなくする設定は、それぞれのエントリーごとに行なっているので、そのような設定をし忘れてしまったエントリーには、その後もスパムコメントが送られてきました。一応、そのような攻撃?!も無くなったと思っていたら、火曜日に集中的にアクセスされています。大学の情報システムの担当部署にも報告していますが、それに対する職員さんからの回答やアドバイスは今の所ありません。大丈夫なのかな…。

■さて、相変わらず、多くの皆さんにはどうでもよい私の「身辺雑記」、人生の「ささやかな記録」…でしかないのですが、それでもお読みくださる方たちがいるということを励みに継続しています。2012年の7月25日からこのブログを始めました。アクセスカウンターの設置は、その42日後です。開設してからは、本日で1,723日目になります。

■今回は、先週の火曜日は昼間に1400を超えるアクセスがありましたが、今日の異常なアクセスは、深夜からのものです。このような数字は記録から排除したいのですが、どこまでが普通にアクセスしていただいたものなのか、よくわかりません。曖昧になっています。昨日の深夜12時の時点で10,5000を超えたものとして計算しています。

2012/9/5:アクセスカウンター設置。
2013/2/21 :5,000アクセス:期間169日: 30アクセス/日
2013/6/29 :10,000アクセス。期間128日: 39アクセス/日
2013/10/30 :15,000アクセス。期間123日: 40アクセス/日
2014/2/6 :20,000アクセス。期間99 日:51アクセス/日
2014/5/6 : 25,000アクセス。期間89日: 56アクセス/日
2014/8/5 :30,000アクセス。期間91日: 55アクセス/日
2014/10/21: 35,000アクセス。期間77日: 65アクセス/日
2014/12/8 :40,000アクセス。期間48日: 104アクセス/日
2015/1/27 :45,000アクセス。期間50日: 100アクセス/日
2015/3/25 :50,000アクセス。期間56日: 90アクセス/日
2015/5/19 :55,000アクセス。期間55日: 91アクセス/日
2015/7/22 : 60,000アクセス。期間64日: 78アクセス/日
2015/9/27 : 65,000アクセス。期間67日: 75アクセス/日
2015/11/23 : 70,000アクセス。期間57日: 88アクセス/日
2016/1/26 : 75,000アクセス。期間64日 : 78アクセス/日
2016/4/7 : 80,000アクセス。期間72日 : 70アクセス/日
2016/6/18 : 85,000アクセス。期間72日 : 70アクセス/日
2016/9/9 : 90,000アクセス。期間83日 : 60アクセス/日
2016/11/30 : 95,000アクセス。期間83日 : 60アクセス/日
2017/2/9 : 100,000アクセス。期間71日 : 70アクセス/日
2017/4/11 : 105,000アクセス。期間61日 : 82アクセス/日

琵琶湖の鴨猟と朽木の木地師

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■過去2年間、私の研究室は物置のようになっていました。研究部にいることが多く、研究室の椅子に腰を押し付けて仕事をすることがほとんどありませんでした。ということで、ひさしぶりに、研究室で「断捨離」を断行しつつ、徹底的に整理整頓を進めています。なかなか作業は進みません。というのも、ついつい「発掘」した資料や書籍に目を通してしまうからです。そうしていると、ずいぶん昔に、ある方から頂いた新聞記事を書架から取り出すことになりました。ある方とはどなたなのか…。私も記憶がはっきりしません。

■ひとつは、昭和35年(1960年)12月28日の京都新聞の夕刊です。今は禁猟になっている琵琶湖の「モチ網猟」の記事。記事によれば、この当時は、すでに「モチ網猟」は琵琶湖だけしか許可されていませんでした。しかも、猟銃ブームのあおりを受けて、伝統的なこのモチ網を使った猟もこの時点でかなり衰退していたようです。当時の琵琶湖の漁師の皆さんの服装が興味深いですね。普段は漁師ですが、鴨猟の時は猟師かもしれません(この「「モチ網猟」については、後で補筆します)。

■「モチ網猟」の記事はもちろんなのですが、下の広告の類もとても興味深いなと思いました。「急告」いうものが掲載されています。「急告 トモオちゃん帰ってちょうだい死なないでください みわこ」。なんだか内容は切実ですね。果たして「みわこ」さんの思いが「トモオちゃん」に伝わるのか…心配になりますよね。しかし、昔の新聞には、こういうのがよくありました。そえいえば、ずいぶん昔のことになりますが、駅の改札口の横には、チョークで書く伝言板がありましたよね。スマホとアプリを使って簡単に連絡がとりあえることが当たり前になっている学生の皆さんには理解できないでしょう。

■旅館やホテルの広告も興味深いですね。宿泊と休憩の料金設定は、当時の時代状況、住宅事情を反映しているのです。詳しくは、こちらの記事に詳しいのでご覧いただければと思います。それから「とんかつとテキ 羅生門」。テキとは、ステーキのテキ、ビーフステーキ=ビフテキのテキのことだと思います。この店は、有名だったようです。そして藤井大丸の広告。「インスタントの時代!」。現在とは、インスタントという言葉の使い方が少し違いますよね。まあ、古い新聞の広告を見ているだけで次々と面白い「発見」があります。

■鴨の話しに戻ります。私は、堅田にある「魚清楼」という料亭に2回ほど行ったことがあります。いずれも、3月です。「ホンモロコの炭火焼」と「鴨すき」をいただきました。とても美味しかったわけですが、鴨は琵琶湖産ではありませんでした。琵琶湖を泳いでいる鴨については、現在では、禁猟で食べることができません。1964年(昭和39年)から禁止になっています。中居さんのお話しでは、このお店の鴨は北陸の方から仕入れているとの話しでした。

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■琵琶湖の鴨猟の記事は1960年(昭和35年)でしたが、こちらは記事は1978年(昭和53年)です。しかし、活字が小さいです…。昔は、こんな小さい字をみんな読んでいたのです…すっかり忘れてしますが。それはともかく、です。こちらは、琵琶湖ではなく朽木村の木地山と福井県の小浜を結ぶ木地山峠の話しです。木地山の木地師は、昔から全国的に知られていました。私はよく知らないのですが、少し調べてみると、山の高いところの樹の伐採を保証する「朱雀天皇の綸旨」の写しを所持し、諸国の山々を漂白しながら生活していたようです。この辺りは、曖昧です。もっと勉強しなければなりません。しかし、明治時代になると、地租改正が行われ土地所有のあり方が大きく変化する中で、土地の所有者の許可がなければ樹を伐採することができなくなりました。

■木地山の人々は、このような社会の変化の中で、なんとか地元の住民としての森林を所有する権利を獲得することになります。しかし待望の山林を手に入れても木地師たちは、結局、木地山からいなくなってしまいました。記事には、こう書いてあります。「待望の山林を手に入れたが、明治に入って売り物の菊の御紋入り作品が不敬罪でつくれなくなり、目に見えてさびれ、木地師たちは急速に姿を消した」のだそうです。かつて、惟喬親王を祖とする木地師たちは、黒地の盆や膳に朱色で皇室と同じ16べんの菊紋を用い、全国的に知られていました。木地師の中でも、付加価値のついた木工品を生産していたのです。ところが菊紋が使えなくなり、そのような付加価値は失われてしまいます。一部の木地師は炭焼きに転向したようです。かつて木地師が通った峠の道は、炭の道になっていきました。

■木地師や木地山ではないけれど、昨年の夏、朽木で林業に従事していた方達と出会いました。日本の林業不況で山を降りたご家族です。そのご家族にお話しを伺いたいと思っているのです。近々、ご家族の息子さんやお孫さんとお会いする予定になっています。何か、不思議なタイミングで、この記事を再度読むことになりました。

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