105,000アクセス感謝…ただし
■アクセスカウンターが、「105,000」を超えました。皆様、ありがとうございます。ただし、心配なことがあります。先週の火曜日、そして今週の火曜日、つまり昨日のことですが、通常では考えられないアクセスがありました。半日で1400を超えるものです。あくまで推測ですが、何か外部から機械的にアクセスしようとしているのではないかと思っています。以前、コメントをつけることができるようにしていましたが、海外からたくさんのスバムコメントが送られてくるので、コメントをつけられないように設定しなおしました。コメントをつけられなくする設定は、それぞれのエントリーごとに行なっているので、そのような設定をし忘れてしまったエントリーには、その後もスパムコメントが送られてきました。一応、そのような攻撃?!も無くなったと思っていたら、火曜日に集中的にアクセスされています。大学の情報システムの担当部署にも報告していますが、それに対する職員さんからの回答やアドバイスは今の所ありません。大丈夫なのかな…。
■さて、相変わらず、多くの皆さんにはどうでもよい私の「身辺雑記」、人生の「ささやかな記録」…でしかないのですが、それでもお読みくださる方たちがいるということを励みに継続しています。2012年の7月25日からこのブログを始めました。アクセスカウンターの設置は、その42日後です。開設してからは、本日で1,723日目になります。
■今回は、先週の火曜日は昼間に1400を超えるアクセスがありましたが、今日の異常なアクセスは、深夜からのものです。このような数字は記録から排除したいのですが、どこまでが普通にアクセスしていただいたものなのか、よくわかりません。曖昧になっています。昨日の深夜12時の時点で10,5000を超えたものとして計算しています。
2012/9/5:アクセスカウンター設置。
2013/2/21 :5,000アクセス:期間169日: 30アクセス/日
2013/6/29 :10,000アクセス。期間128日: 39アクセス/日
2013/10/30 :15,000アクセス。期間123日: 40アクセス/日
2014/2/6 :20,000アクセス。期間99 日:51アクセス/日
2014/5/6 : 25,000アクセス。期間89日: 56アクセス/日
2014/8/5 :30,000アクセス。期間91日: 55アクセス/日
2014/10/21: 35,000アクセス。期間77日: 65アクセス/日
2014/12/8 :40,000アクセス。期間48日: 104アクセス/日
2015/1/27 :45,000アクセス。期間50日: 100アクセス/日
2015/3/25 :50,000アクセス。期間56日: 90アクセス/日
2015/5/19 :55,000アクセス。期間55日: 91アクセス/日
2015/7/22 : 60,000アクセス。期間64日: 78アクセス/日
2015/9/27 : 65,000アクセス。期間67日: 75アクセス/日
2015/11/23 : 70,000アクセス。期間57日: 88アクセス/日
2016/1/26 : 75,000アクセス。期間64日 : 78アクセス/日
2016/4/7 : 80,000アクセス。期間72日 : 70アクセス/日
2016/6/18 : 85,000アクセス。期間72日 : 70アクセス/日
2016/9/9 : 90,000アクセス。期間83日 : 60アクセス/日
2016/11/30 : 95,000アクセス。期間83日 : 60アクセス/日
2017/2/9 : 100,000アクセス。期間71日 : 70アクセス/日
2017/4/11 : 105,000アクセス。期間61日 : 82アクセス/日
琵琶湖の鴨猟と朽木の木地師
■過去2年間、私の研究室は物置のようになっていました。研究部にいることが多く、研究室の椅子に腰を押し付けて仕事をすることがほとんどありませんでした。ということで、ひさしぶりに、研究室で「断捨離」を断行しつつ、徹底的に整理整頓を進めています。なかなか作業は進みません。というのも、ついつい「発掘」した資料や書籍に目を通してしまうからです。そうしていると、ずいぶん昔に、ある方から頂いた新聞記事を書架から取り出すことになりました。ある方とはどなたなのか…。私も記憶がはっきりしません。
■ひとつは、昭和35年(1960年)12月28日の京都新聞の夕刊です。今は禁猟になっている琵琶湖の「モチ網猟」の記事。記事によれば、この当時は、すでに「モチ網猟」は琵琶湖だけしか許可されていませんでした。しかも、猟銃ブームのあおりを受けて、伝統的なこのモチ網を使った猟もこの時点でかなり衰退していたようです。当時の琵琶湖の漁師の皆さんの服装が興味深いですね。普段は漁師ですが、鴨猟の時は猟師かもしれません(この「「モチ網猟」については、後で補筆します)。
■「モチ網猟」の記事はもちろんなのですが、下の広告の類もとても興味深いなと思いました。「急告」いうものが掲載されています。「急告 トモオちゃん帰ってちょうだい死なないでください みわこ」。なんだか内容は切実ですね。果たして「みわこ」さんの思いが「トモオちゃん」に伝わるのか…心配になりますよね。しかし、昔の新聞には、こういうのがよくありました。そえいえば、ずいぶん昔のことになりますが、駅の改札口の横には、チョークで書く伝言板がありましたよね。スマホとアプリを使って簡単に連絡がとりあえることが当たり前になっている学生の皆さんには理解できないでしょう。
■旅館やホテルの広告も興味深いですね。宿泊と休憩の料金設定は、当時の時代状況、住宅事情を反映しているのです。詳しくは、こちらの記事に詳しいのでご覧いただければと思います。それから「とんかつとテキ 羅生門」。テキとは、ステーキのテキ、ビーフステーキ=ビフテキのテキのことだと思います。この店は、有名だったようです。そして藤井大丸の広告。「インスタントの時代!」。現在とは、インスタントという言葉の使い方が少し違いますよね。まあ、古い新聞の広告を見ているだけで次々と面白い「発見」があります。
■鴨の話しに戻ります。私は、堅田にある「魚清楼」という料亭に2回ほど行ったことがあります。いずれも、3月です。「ホンモロコの炭火焼」と「鴨すき」をいただきました。とても美味しかったわけですが、鴨は琵琶湖産ではありませんでした。琵琶湖を泳いでいる鴨については、現在では、禁猟で食べることができません。1964年(昭和39年)から禁止になっています。中居さんのお話しでは、このお店の鴨は北陸の方から仕入れているとの話しでした。
■琵琶湖の鴨猟の記事は1960年(昭和35年)でしたが、こちらは記事は1978年(昭和53年)です。しかし、活字が小さいです…。昔は、こんな小さい字をみんな読んでいたのです…すっかり忘れてしますが。それはともかく、です。こちらは、琵琶湖ではなく朽木村の木地山と福井県の小浜を結ぶ木地山峠の話しです。木地山の木地師は、昔から全国的に知られていました。私はよく知らないのですが、少し調べてみると、山の高いところの樹の伐採を保証する「朱雀天皇の綸旨」の写しを所持し、諸国の山々を漂白しながら生活していたようです。この辺りは、曖昧です。もっと勉強しなければなりません。しかし、明治時代になると、地租改正が行われ土地所有のあり方が大きく変化する中で、土地の所有者の許可がなければ樹を伐採することができなくなりました。
■木地山の人々は、このような社会の変化の中で、なんとか地元の住民としての森林を所有する権利を獲得することになります。しかし待望の山林を手に入れても木地師たちは、結局、木地山からいなくなってしまいました。記事には、こう書いてあります。「待望の山林を手に入れたが、明治に入って売り物の菊の御紋入り作品が不敬罪でつくれなくなり、目に見えてさびれ、木地師たちは急速に姿を消した」のだそうです。かつて、惟喬親王を祖とする木地師たちは、黒地の盆や膳に朱色で皇室と同じ16べんの菊紋を用い、全国的に知られていました。木地師の中でも、付加価値のついた木工品を生産していたのです。ところが菊紋が使えなくなり、そのような付加価値は失われてしまいます。一部の木地師は炭焼きに転向したようです。かつて木地師が通った峠の道は、炭の道になっていきました。
■木地師や木地山ではないけれど、昨年の夏、朽木で林業に従事していた方達と出会いました。日本の林業不況で山を降りたご家族です。そのご家族にお話しを伺いたいと思っているのです。近々、ご家族の息子さんやお孫さんとお会いする予定になっています。何か、不思議なタイミングで、この記事を再度読むことになりました。
地球研プロジェクトのコアメンバー会議
■先週の金曜日ですが、京都の上賀茂にある総合地球環境学研究所で会議でした。参加しているプロジェクトのプロジェクトのマネージメントに関して議論を行いました。今回は、急遽、副リーダーからの召集がかかりました。趣旨は、年度が変わったこの時点で、研究プロジェクトの課題をチェックするというものです。言い換えれば、プロジェクトの「棚卸し作業」のようなものでしょうか。
■総合地球環境学研究所の研究プロジェクトは、3つの実践的プログラムの元で実施されています。「実践プログラム1:環境変動に柔軟に対処しうる社会への転換」、「実践プログラム2:多様な資源の公正な利用と管理」、「実践プログラム3:豊かさの向上を実現する生活圏の構築」です。私たちの研究プロジエクト「生物多様性が駆動する栄養循環と流域圏社会-生態システムの健全性」は、「実践プログラム2」の中でプロジェクトになります。詳しくは、「プログラム-プロジェクト制」についての説明、そしてプログラム・ディレクターである中静透さんの「ミッション・ステートメント」をお読みください。このプログラム-プロジェクト制が動き始める前から、私たちのプロジェクトはすでに研究を始めていたので、私個人は、自分たちの研究プジェクトがこの「実践プログラム2」に含まれていることに、少し居心地の悪さを感じないわけではありませんが、研究所全体の研究推進体制の再構築のためには仕方がありません。
プログラム-プロジェクト制
ミッション・ステートメント 「実践プログラム2:多様な資源の公正な利用と管理」
■さて、金曜日のコアメンバー会議ですが、この「実践プログラム2」のディレクターである中静さんも出席しての会議になりました。会議で議論した内容は3つありました。1つは、研究プロジェクトの核となるアイデア・考え方の再度の共有です。研究プジェクトには多くの研究者が参加し、それぞれ細かな作業をしているわけですから、時間の経過とともに、その細かな作業自体が知らないうちに目的化していくと、全体を統括する枠組みに対する理解が曖昧になっていきます。自分がやっていることが、全体の中ではどのような意味を持っているのか。そのことに自覚的でなければなりません。その自覚なしに、勝手な理解で作業を進めると、プロジェクトに貢献することはできないどころか、プロジェクトにブレーキをかけてしまうことになりかねません。この日は、再度、研究プロジェクトの核となるアイデア・考え方を再確認しました。2つめは、海外の研究カウンターパートとの調査や連携の進め方に関する再確認。そして3つめが、プロジェクトに雇用されている研究員の方たちの負担の問題。結果として負担が大きくなりすぎてしまっている状況をどのように改善していくのか。これもきちんと考えなくてはいけないことです。研究員の皆さんは、期間限定という大変不安定な雇用の状況のもとで、プロジェクトに貢献しつつ、個人としても研究業績を上げていかなければなりません。なかなか難しい問題です。コアメンバーの多くは研究所に雇用されているわけではありません(私が龍谷大学に勤務しているように、みなさん所属は別になります)。しかし、プロジェクトの運営の責任上、このようなことも理解しておかなければならないのです。こうやって書いてみると、研究プロジェクトのことなんですが、議題の1つめと3つめは、大学の運営でも共通する問題ですね。
孫が帰っていきました
■3週間ほど我が家に滞在していた初孫のひなちゃんが、昨日、お父さんお母さん(娘夫婦)と一緒に、大阪の自宅に帰って行きました。初孫ということもあってか、祖父母の私たちも何か生活の中にハリ?!のようなものを感じながら暮らすことができました。ここ4年ほどは年寄りだけの生活でしたので、小さな命を中心に暮らしが動いていくことがとても「ありがたい経験」にもなりました。義理の息子である娘の連れ合いも、育児休暇をきちんと取って、懸命に育児に関わり、妻である娘を支えていました。立派な父であり夫だなあと感心しました。昨日の夕方から、親子3人で頑張っています。
■ひなちゃんとお別れした昨日、庭のチューリップがきれいに咲いてくれました。ということで、チューリップと一緒に記念写真を撮りました。ひなちゃんは、順調に体重も増えて、頰が膨らんできました。孫が帰ってしまったので、おじいさんである私は、ちょっとさびしいわけなんですが、2週間後には、お宮参りでまたひなちゃんに再会することができます。そのときには、また少し違う表情を見せてくれるでしょうね〜。しばらくの辛抱です。
■生まれたばかりの赤ちゃんは、日々、表情が少しずつ変化していくように思います。娘に似ている時もありましたが、今は少し違います。個人的には、私の妹が赤ちゃんの時にも似ているように思うことがあります。また、その時のひなちゃんの気分によっては、どこかのおじさんのような?!顔にもなります。不思議ですね〜。これは、ひなちゃんを見つめる大人の側が近親者や知人の顔の表情のパターンのようなものを読み取っているからなのでしょうが。現在、ひなちゃんは、父方のお祖父さんに似ている感じです。
■小さなお子さんをお持ちの知り合いの方からは、「写真を撮りすぎると赤ちゃんにとってストレスになりますよ」と注意を受けていましたが、結構な数の写真や動画を撮ってしまいました…。家族や自分が撮った画像や動画をiPadの中に貯めて、それらを元に幾つかのアルバムを作りました。ひなちゃんが生まれて、やっともうじき1ヶ月…にもかかわらずです。そのアルバムを何度も眺めています。また、wellnoteという家族限定のSNSにも画像や動画をアップして、ひなちゃんの曽祖父母(娘の祖父母、妻の両親)にも、ひなちゃんの日々成長を見守ってもらっています。
■今朝は、大阪に帰った娘夫婦が、LINEやwelnoteに「今日のひなちゃん」をアップしてくれました。便利な世の中になりました。離れていても、一緒にいるような気持ちになります(もちろん、錯覚ですが)。今後は、iPadやiPhoneを使った「FaceTime」やLINEのテレビ電話も使って、ひなちゃんと話しができるようになればなと思っています(まだ話せないし、目もきちんと大人のようには見えていないのに…)。
龍谷大学世界仏教文化研究センター2016年度研究活動報告書
■3月末までの龍谷大学研究部長在任中では、第5期長期計画第2中期計画の研究部の大きな課題となっていた、世界仏教文化研究センターの研究推進に力を注いできました。個人的に、この研究センターに関して印象に残っているのは、2017年1月29日(日)に、龍谷大学深草学舎顕真館で開催された特別講演会でしょうか。もちろん、その企画そのものについてはセンターの教員の方達のご努力によるところが大きいわけですが、開催に向けての学内の事務的な調整の段階では、それなりの役割を果たすことができました。2015年度、2016年度と、研究センターの研究推進にも勢いが出てきました。
■昨日は、研究センターの事務職員の方から、「2016年度研究活動報告書」がウエッブサイトに掲載されました。以下から、ご覧いただくことができます。以下の年次報告書の「2016年度」の所をご覧ください。
年次報告書
■また、世界仏教文化研究センターのニューズレターもあわせてご覧いただければと思います。特別講演会、そして個人としても強い関心を持った華厳経に関する中沢新一さんの講演会は、「2016年度の第2号」 に掲載されています。
ニューズレター
満月ポン
■「満月ポン」というお菓子、いや駄菓子をご存知でしょうか。関西で育った方であれば、かなりの方達がこの駄菓子をご存知かと思います。松岡製菓という食品メーカー製造販売している駄菓子です。基本、昔ながらのポンセンと言ってしまえばそれまで何ですが(若い学生の皆さんは、ポンセン、正確には「ポンせんべ」だと思いますが、なんのことかわかりませんよね…)、私は、この「満月ポン」が大好きなのです。しかし、近所のスーパーではなかなか売っていません。以前、奈良に住んでいる時は、近くの近鉄系のスーパーマーケットに売っていました。ところが、滋賀に転居してからは、近所のスーパーではまったく見かけなくなりました(たまたま、私が見つけることができなかっただけかもしれませんが…)。ひょっとすると、大阪の駄菓子なので滋賀ではあまり知られていないのかも知れない…。それはともかく、この「満月ポン」が大好きおじさん(おじーさん)である私にとって、このような滋賀の状況は、ちょっと困ったことなのです。
■ということで、調べてみました。松岡製菓のサイトがちゃんとあるではありませんか。そこからネットで注文できるのです!ということで、松岡製菓の「お試しセット」を購入することにしました。昨日、そのセットが届きました。便利な世の中になりました。詰め合わせですので、全部で6種類のポンセンが入っていました。それぞれに味が微妙に違うようです。なんとも、小さな話しですが、ちょっと日々の楽しみが増えました。アホみたいなことですが、こうやって、日々の生活の中に「ささやかな楽しみ」をみつけることは、大切なことなんじゃないかと思っています。
■いろいろ調べてみると、ポンセンの「ポン」はポン菓子の「ポン」のようです。ポン菓子、これも若い学生の皆さんはご存知ないでしょうね。wikipediaによる説明ではありますが、以下のようなものです。私が子どもの頃の記憶と合致しています。
穀類膨張機と呼ばれる製造機械を使用し、その回転式筒状の圧力釜に生の米などを入れ蓋をして密閉し、釜ごと回転させながら加熱する。釜の中が十分加圧(10気圧程度)されたら、圧力釜のバルブをハンマーで叩いて蓋を解放し、一気に減圧する。この時、原料内部の水分が急激に膨張し、激しい爆裂音を伴いながら釜から内容物が勢い良くはじけ出る。このため、専用の工場以外では、機械に受け用の網籠を取り付けてから蓋を解放する必要がある。この際に発生する音から「ポン菓子」または「ドン菓子」と呼ばれるようになった。
この膨化と称される過程で、米の場合には元の10倍程度にまで体積が膨らみ、サクサクと軽い食感の菓子になる。形状は原料をそのまま大きくした形で、味や食感はシリアル食品に近似している。通常はこれに煮立てた砂糖蜜を絡めたり、粉砂糖などをまぶして甘味をつけて食べる。あらかじめ米に食紅をつけておくことにより、赤いポン菓子を作ることもできる。
■「圧力をかけて加熱し、開放する」というところが、ポイントのようです。この原理を、ポンセンの場合も使っているようです。原料である小麦粉を水で練って型に入れ、密閉して加熱をし圧力を高めて、一気に開放して膨らませるのです。関連動画をみると、「ポン菓子」のように、「ポ〜〜ンっ!!」という爆発音はしませんが、原理は同じだということがわかります。また、ポン菓子やポンセンを製作する機械も販売されていることも知りました。
■ポン菓子は懐かしですね。懐かしいというよりも、寂しい思い出があります。私が子どもの頃は、業者さんが自転車に道具を積んでやってこられました。道具とは上のwitkipediaの説明の通りです。ところが、我が家は、このポン菓子が非衛生的であるとの理由で、絶対に食べさせてくれませんでした。他所の子どもたちが、コメと砂糖を持参し、次々と作ってもらっているのを横からじっと眺めていました。すると、業者のおじさんが気の毒がって、網籠の中に極わずか少しだけ残っているもの分けてくれたのです。なんとも、寂しい話しですね。昭和30年代末の話しです。
ブラームスの弦楽6重奏
■大学時代のサークル、関西学院交響楽団の先輩から譜面が送られてきました。2つ上の学年の女性の先輩です。現役時代、随分、親しくさせていただきました。その先輩と、最近、facebookでつながることになりました。そして、いろいろやり取りとをしているうちに、「ブラームス(Johannes Brahms)が作曲した弦楽六重奏曲を一緒に弾きましょう」と提案されました。もじもじしている間に、我が家に譜面が送られてきました。ブラームスの弦楽六重奏は、バイオリン、ビオラ、チェロがそれぞれ2つずつで演奏する曲です。特に、ブラームスの好みだと思いますが、ビオラとチェロが活躍する曲です。先輩からは、「2ndバイオリンを弾くように」との指示がありました。卒業しても先輩は先輩。先輩が決定されたことなので、「もう30年ほど弾いていません」と断るわけにはいきません。夏頃、8月上旬に、先輩達とこの曲を演奏することになりました。はたして、30年ぶりに楽器を再開することができるでしょうか。
■バイオリンについては、「ひさしぶりに…」を、今年の1月23日にエントリーしました。その中で、「知り合いの方たちからは、『できるだけ頻繁に、数日おきに10分でも良いから、楽器を弾く習慣をつけるように』と言われています。頑張ってみます」と書いていますが、その習慣はまだできていません。全然頑張っていません。これではダメですね〜。早く、コツコツ、練習を積み重ねて行かねばなりません。
■ブラームスの弦楽六重奏はとても有名な曲で、特に第2楽章の主旋律はよく知られています。そのような主旋律は、主に、1stバイオリン、1stビオラ、1stチェロが弾き、私が担当する2ndバイオリンは伴奏に徹する感じでしょうか。他のパートを支える黒子の役割が多くなるわけです。ということもあり、スコアを注文しました。自分が弾くパートと他のパートとの関係をよく理解するためです。こんなふうに勉強するのは久しぶりのことです。それから、あとは、弓の毛替えをしなくてはいけません。浜大津にある楽器修理屋さんに行かねば…。と練習に取り掛かる前に、いろいろ言い訳をしているような気もしないでもありません…が、今度は、頑張ります。マラソン、ランニング、バイオリン…なかなか長突きしませんね〜。性格でしょうかね〜。
■以下は、YouTubeで見つけた、お気に入りのブラームスの「弦楽六重奏」です。イスラエル・チャンバー・プロジェクトの皆さんによる演奏です。
蓮如上人の犬塚の欅、そしてパン屋さん
■蓮如上人は、浄土真宗本願寺派第8世宗主であり、「本願寺中興の祖」と呼ばれています。その蓮如上人ゆかりの場所が、大津駅の近くにあります。駅から少し北西に行ったところに、大きな病院があります。大津赤十字病院です。その向かいに、大きな欅の老巨木があります。樹齢600年以上、樹高20m、幹周8.3m。大津市指定の天然記念物です。この欅の樹には、以下のように伝承があります。
■室町時代、衰退していた浄土真宗を蓮如上人は教団として発展させましたが、そのことをよく思わない仏教勢力から命を狙われるようになります。京都から難を逃れて大津の地に入ったときにも、殺されそうになりました。蓮如上人が食事をとろうとした時、可愛がっていた愛犬がその食事を食べてしまいます。しかし、その食事には毒が入っていたのです。愛犬は、蓮如上人の身代りとなって死んでしまいました。蓮如上人は、愛犬の亡骸を埋め、そこに欅の樹を植えて弔ったというのです。その欅が、現在の老巨木なのです。「犬塚」の石碑も建てられています。
■4月1日のことですが、この犬塚の欅の老巨木の横にあるパン屋さんにいってきました。「ドライリバー」さんです。これまでも家族が買ってきたものを食べわたことがありますが、今回は甘いパンではなく、いわゆる調理パンと食パンを購入しました。噂通りの美味しさでした。今回いただいたのは、ハムとチーズを挟んて焼いたものと食パン。特に食パンは、パンの耳のあたりがめちゃくちゃ美味しくて、また購入したくなりました。ところで、レジで「どうしてドライリバーという店名なのか」と素朴な疑問からお尋ねしたところ、レジ担当の女性が大笑いをされました。店主さんのお名前が、干川さんだから…なのだそうです。今まで、何度も同じことをお客さんから尋ねられたことでしょうね。ドライリバーの袋には、お店と、お店の横にある蓮如上人の犬塚の欅が描かれています。とてもお洒落です。浄土真宗の宗門校である龍谷大学に勤務していることから、なんとなく嬉しくなりました。
李広志先生(寧波大学外語学院日本語学科)のブログ
■先月、中国浙江省寧波市にある寧波大学外語学院日本語学科を訪問しました。その時のことは、「寧波大学外語学院(中国・浙江省・寧波市」(3月27日)として投稿しました。そのエントリーにも書きましたが、急遽、日本語学科の教員で友人でもある李広志先生の授業で講演をすることになりました。その時のことを、李先生ご自身も中国のミニブログに投稿されており、先日、メールでお知らせくださいました。李先生が使っておられるのは、中国最大のSNSであるWeibo(微博)です。
■私は中国語ができませんが、ネットの翻訳機能を使って理解すると、およそ次のような内容のようです。
龍谷大学の脇田健一教授が来訪されました。そして、学生達のために一回だけですが、すばらしい講義をしてくれました。彼自身は社会学の教授です。高齢社会、老人の貧困の問題、子供、医療、女性、精神の幸福などの問題を講座の中で取り上げました。10年前に、私たちは、脇田教授と力を合わせて東アジアと寧波地区の葬儀と埋葬の風習に関して研究したことがあります。彼は学生に対して、言語を一つの道具であり、その道具を活かして専門性を身につけてはどうかと勧めました。言い換えれば、言語は包丁であり、専門性は食材です。
■やはりネットの翻訳機能だとわかりにくいですね。最後のところですが、日本語を勉強している学生たちに、その語学力を活かして、日本に留学して語学とは別の専門性を身につけるようにしてはどうか…ということを勧めたのです。その際、語学=道具=包丁と、専門性=食材という比喩を使ったので、その時のことを説明されているのだと思います。よく切れる包丁を持つことを最終的な目標にするのではなくて、そのよく切れる包丁を使って食材を切ったり刻んだりする事ができるようになることが大切なのでは…ということでしょうか。
異常なアクセス数
■アクセス数が異常に伸びてしまいました。普通は、多くの方達がご覧くださっているのですから、喜ぶべきことなのですが、その数字が半端ではありません。最近は、せいぜい1日に70人程の方達がご覧くださる程度なのです。特に、今は休暇明けなので、アクセス数は少なめです。にもかかわらず、急に、17時現在で1435になっています。これまでは、多くても500を超えることはありませんでした。ですから、1435というのは驚くというよりも、なんだか恐ろしいな…と思ってしまうのです。なにか、多くの人たちの関心が、このホームページの中にあるブログの記事とキーワード的に重なってしまった…と考えるのが普通なのでしょうが。とにかく、もう少し様子を伺うことにします。少しアクセス数の伸びも止まってきたようです。
■私のブログは、基本的に日記、備忘録の類ですから、多くの皆さんに注目していただけるような記事はないですよ。
【追記】
■昨日のアクセス数は、結局、1447でした。異常な状況も終息しました。