バリ島の思い出
▪️忙しくなると、現実逃避をしたいのかもしれませんが、「ああ、旅に出たいな〜」と思うようになります。今も、少しそのような気持ちがあります。とはいえ、旅に出るわけにもいかず、昔、インドネシアを旅行した時の写真で気持ちを紛らわしています。写真はほとんどがバリ島のものです。ろうけつ染(バティック)だけはジャワ島のものかもしれません。何も考えずに、ゆったりしたいです。
▪️バリ島には、ウブドと呼ばれる村があります。音楽、舞踏、絵画が盛んで、芸術の村として観光ガイドブック等では有名です。ただ、芸術というか地場産業のようでもあります。このような芸術の村の誕生は、20世紀になって、ヨーロッパとの交流の中でイメージが形作られてきたようです。
▪️ゆったりと時間が流れていました。この男性は、田んぼの真ん中にずっとしゃがんでおられましたね。
▪️おそらく、これはジャワ島で撮った写真かと思います。
▪️ウブドの有名なテガガランの棚田。
京阪電鉄「湖都から古都への鉄の路」
▪️普段はJRの利用者ですが、たまに京阪電車を利用します。しかし、京阪のホームページを丹念に見たことがありませんでした。たまたまなんですが、今頃になってこういうのがあるのを知りました。これはなかなか楽しいし、勉強になります。素敵な写真が満載です。「湖都から古都への鉄の路」というページです。画像は、そのトップを切り取った者です。国鉄の蒸気機関車と京阪電車の電車と江若鉄道の気動車が一緒に写っています。鉄道ファンでないとわからないかもしれませんが、なんだか平和だな〜と思います。
▪️実際に、皆さんにもお読みいただきたいのですが、少しだけ中の記事を引用しておきます。このエントリーのトップの画像と関連しています。
明治時代から交通の要衝として栄えた大津には、数多くの鉄道が走っていました。その中心である馬場(現・京阪膳所)・大津(現・膳所)—浜大津(現・びわ湖浜大津)には大正時代、大津電車軌道(現・石山坂本線)、官設鉄道が乗り入れていました。しかし、レール幅が大津電車軌道は標準軌(幅1,435mm)であるのに対し、官設鉄道は狭軌(幅1,067mm)のため、同じ線路を使うことができません。そこで用いられたのが三線軌条です(現在三線軌条は残っていません)。3本のレールのうち1本を共有し、他の2本の幅で狭軌・標準軌に幅を合わせる手法で、京都市電と京都電気鉄道の共用区間で用いられたのが日本で初めてとされています。大津では1969(昭和44)年まで続き、一時は江若鉄道も乗り入れ、3路線で同じレールを共有していました。
昨日の日めくり
◾️我が家のトイレには、日めくりがかけてあります。「詩画 かわいい仏さまの日めくり」といいます。関西花の寺第一番札所・丹洲観音寺住職・詩人で詩画作家でもある小藪実英さんの作品です。私はよく知らないのですが、有名な方のようですね。日めくりですから、全部で31枚あります。31日分ですね。昨日は、9月30日。ですから日めくりの数字は30になります。
あわてても いきつくところは みな同じ のんびり ゆこう
◾️「いきつくところ」とは、「死ぬ」ときのことですね。きっと。どんな人生を歩んできても、最後は、誰しもが同じように平等に必ず「死ぬ」のですから、一喜一憂せずに生きていきましょう。まあ、そのような意味でしょうか。もう少し自分なりの考えをもとに解釈すれば、「死ぬ」瞬間を無事に「通過」するために、今をしっかり「生きる」ようにしましょう…という意味にも解釈することができるのかもしれません。「死ぬ」瞬間を「通過」するめに、いまをしっかり「生きる」。こういう考え方をすることで、迷いは少なくなります。ただ、今をしっかり「生きる」とは、とても難しいことですよね。
◾️というのも、「人生は 七味とうがらし」だからです。以前に、投稿した「人類進化と『嫉妬』の発生」に、この「人生は しちみとうがらし」の説明をしていますので、お読みいただければと思います。「他人と較(くら)べる中でしか自己を見ることのできない人の宿痾(しゅくあ)であり業」であるということは、「他人との比較の中でしか自分を考えられない」ということです。年を取ると、長年この「人生は しちみとうがらし」と向き合ってたわけですから、少しはそれらを相対化して生きていくこともできます。そうすると、自ずから、自分が「生きる」べき道筋も見えてきます(見えてくるような気になる…かも)。「生きる」べきと書きましたが、もっと正確には「生かされる」べきかもしれません。そのような「自分が生かされた」「世の中に生かしていただいた」たくさんの経験とつながりを実感できてこそ、「死ぬ」瞬間を無事に「通過」することができるのです。真宗的には、阿弥陀如来により「死ぬ」瞬間を無事に「通過」することが決まっているからこそ、そのことに感謝して、自分のような者でも「世の中に生かしていただける」ことに感謝し、日々を大切に過ごしていく…ということになるのかな。
台風24号と防災意識の変化
◾️2018年、今年は台風に怯えています。この前、台風21号チェービー(8月28日〜9月5日)で近畿地方は大変な被害にあいました。私もその風の強さに驚きました。と言いますか、自宅にいて恐怖を感じました。幸いにも、自分自身には被害はありませんでたが、あちこちで傷跡を残しました。台風21号の被害をテレビニュースで見ましたが、「本当にこれは現実のことなのか、ハリウッドの映画の中のシーンのようだ」と思うほどでした。そのような傷跡がまだ癒えていないにも関わらず、次の台風24号チャーミー(9月21日〜)が本日(9月30日)から明日にかけて、今度は近畿地方だけでなく南から順番に、日本列島全体に襲いかかっています。画像は、「Yahoo Japan! 天気・災害」のものです。
◾️予報によると、21号もそうでしたが、今回の24号も琵琶湖を通過していきます。私は、琵琶湖が見えるところに住んでいるので、非常に心配しています。私の住んでいるところは、いわゆる新興住宅地と呼ばれところですが、さらに山沿いの方にある中山間地域の農村地域では、避難が始まっています。土砂崩れが心配されるからだと思います。台風はその東側の地域で強い風が吹くと言われています。今回の台風24号のコースでは、東側の中に伊勢湾や東海地域が入っています。ニュースに寄れば、伊勢湾台風(1959年)に匹敵する記録的な高潮になる恐れもあり厳重な警戒が必要だとのことです。大丈夫でしょうか。
◾️明日は、私は担当する授業はありませんが、3年生のゼミ生の18名うち、まずは4名の皆さんと卒論の調査・研究に関して面談をすることになっています。面談は11時から始まるのですが、さてどうなるでしょうね。心配だな…。明日、10月1日(月)の授業については、当日午前6時30分を目処に「授業休止の取扱基準」に基づき判断し、大学ホームページで連絡されることになっています。無理のないようにしたいと思います。
◾️ところで、前回の台風21号がやってきたときに、facebookで知り合いの方たちとコメント欄で以下のようなやり取りをしました。
Aさん : 21号は本当に窓ガラスにガムテープでも張った方が良いかもと真剣に考えました。子ども時分は窓や玄関扉に板を釘で打ち付けていましたからね。
脇田 : そうです、そうです!!昔は、そうしていましたよね。台風に対する緊張感がありましたよね。
Bさん : 父親が早く帰宅して異様に張り切ってました。雨戸閉めて釘で打ち付けて、ロウソクをアチコチに用意して、お握り準備して。。。台風襲来ってなんかドキドキワクワクするような変な気分でした。
Aさん : そうそうちょっと興奮気味でした。
◾️確かに、昔はそうでした。私が子どもの頃、昭和30年代の頃の話しです。社会のインフラも、住宅も、災害に対して脆弱でした。ですから、自分たちで守っていくしかありませんでした。台風に対して「敏感」でした。窓や雨戸に板を釘で打ち付けるとかしていました。当時は、ガラス窓のガラスも脆かったですし。床上浸水しそうだと予想すると、畳を2階に上げておくなど、そういう自助努力をしていました。また、あらかじめ土嚢を積むなどの地域の共助による対策もしていたように思います。台風を「受け止める」ことを前提にしていたのですね。その時には、みんなが力を合わせて頑張ることになります。家族や地域の団結力がより高まります。そのような時、子どもからすると、何か特別な時のように感じられたのではないかと思います。ところが、社会のインフラが強化されると、台風に対して「敏感」ではなくなってしまいます。堤防やポンプや排水路などで水害の発生を防ぐことができるようになります。建築物も強化されます。しかし近年のように、気候変動を背景として気候が極端になってくると、「敏感」ではなくなる=「鈍感」になったところに災害が襲いかかってきます。今年は、社会全体が台風の恐ろしさを実感して、少し「敏感」さが取り戻せたような気がします。あくまで印象でしかありませんが。
龍谷大学の歴史 -Discovery Channel制作
◾️YouTubeにアップされている、龍谷大学動画です。龍谷大学の歴史が1分45秒で紹介されています。
龍谷大学の歴史は1639年に西本願寺に設けられた「学寮」にはじまります。以来370年にわたって、本学は最高の教学環境を提供することをめざし、先進的な取り組みを続けてきました。進取の気風は今も昔も脈々と受け継がれ、インターンシップ制度の拡充やカリキュラム改革など、教育体制の充実に力を注いでいます。また本学には長い歴史を通じて貴重な文献や資料が広く社会から寄せられており、それらの多くは大宮キャンパスをはじめとする各キャンパスの図書館に所蔵され、高度な教育・研究に活用されています。
◾️その他にも、YouTubeには、様々な動画がアップされています。こちらをご覧ください。
月餅
◾️今日は、職場で大学院・博士後期課程の院生やオーバードクターの皆さんの「中間報告会」が行われました。長らく指導してきた中国からの留学生(とはいっても、中国の大学で教員をされていますが)、お土産に月餅を持参してくれました。ありがとう。「杏花楼」というのは、上海の老舗の月餅のメーカーのようです。中国では、中秋節の頃に月餅を知り合いに送り合う、そういう習慣があります。中秋節は、旧暦の8月15日のようですが、新暦にナルト9月から10月のあたりとのこと。今年は、9月24日だったようです。食べるのは昔からのように思いますが、送り合うのは比較的最近のことかな…。なんだか日本のバレンタインのチョコレートのようですね。もし、そうならば、日本のように義理チョコのようなものがあるのでしょうか。義理月餅だな。
お知らせ 3つの新しい取り組み
▪️今、わくわくしながら取り組んでいるプロジェクトがあります。ひとつは、市民グループ「水草は宝の山」(「水宝山」)のプロジェクトです。水草の有効利用に関する社会的仕組みを構築することが、このグループの目的です。大津市や滋賀県庁の関係部局の皆さんにも応援していただいていますし、また、グループの中には企業の経営者の皆さんにもご参加いただいています。いろいろ、思わぬハードルが突然現れたりしますが、それを乗り越えてこそのプロジェクトです。頑張ります。
▪️それから、まだきちんと公表できませんが、新しい取り組みをこれから始めようとしています。環境調査の最新の技術をもちいて、滋賀県内の生物多様性の状況を多くの皆さんとの連携の中で明らかにし、社会的にオープンデータとして共有し蓄積していく取り組みです。こちらは、まず発起人会を立ち上げることになっています。今年の冬の間にいろいろ準備をして、来年の夏には、面白い展開になってくるのではないかと思っています。
▪️もうひとつは、大津市と地域コミュニティと龍谷大学が連携をして地域の課題解決を目指すオープンガバナンスに関する取り組みです。REC(龍谷大学エクステンションセンター)がこの事業の窓口になっていますが、そこにも参加・参画しています。学部横断型で、これからの時代の大学の地域連携のあり方を探る取り組みでもあります。こちらについては、近いうちに詳しいことを公表できるのではないかと思っています。
50年ぶり
▪️この写真は、小学校4年生の時の集合写真です。当時、私は、福岡県北九州市戸畑区にあるカトリック系の私立の小学校、明治学園小学校に通っていました。といいますか、両親の方針で通わされていた…というのが正しいのかなと思います(特に、両親がカトリックを信仰していたわけではありませんが)。この小学校、元々は現在の九州工業大学の前身である専門学校が、教職員の子弟のために1910年(明治43年)に設立したのが始まりです。第二次世界大戦後は、カナダ系のカトリック修道会に経営が引き継がれました。そのような学校の歴史はともかく、自宅は、小倉区(現在の小倉北区)にあった日本住宅公団が建設した団地でしたから、その団地から1時間以上バスに乗って通学していました。
▪️この写真は1968年の4月に撮ったものです。私「4年2組」でした。集合写真の先生。左が1組の担任のM先生。ベテランの先生ですね、たぶん。次がA校長先生。その次が担任のI先生。山口県のご出身でした。ご健在ならば、今は73歳かな。そして、その隣は3組の先生。お名前は忘れました。私は前から3列目の、右から7番目です。10歳です。じつは、この中に写っている同級生と、もうじき会えることになりました。50年ぶりです。記憶も、もう曖昧なんですが。
▪️母親が暮らしていた家の荷物を整理する時、アルバムや写真を「救出」しました。そのようなアルバムの中の1冊を眺めながら、かすかに覚えている同級生の名前を思い出していきました。その中のお一人。Hくん。ネットで検索すると、たまたま動画を拝見することができたのです。普通、なかなかネットで検索しても手掛かりはなかなかありませんが、彼の場合はお仕事の関係でそのような動画がネット上に存在して、たまたま拝見することができたのです。女性だと名字がご結婚されて変わっている場合が多いですし、まず手がかりはありません。そのようなことはともかく、動画の男性の面影は、私の記憶のなかにある同級生でした。間違いありません。気分が高まり、会いたくなりました。
▪️うまい具合に、人のつながりの中で連絡先もすぐにわかり、メールを送ってみることにしました。すると、驚いたことに、今朝ほど、メールを送ったHくんから返信がありました。仕事の関係で、今は関西におられるようです。彼に、会いに行ってこようと思います。子どもの頃、父親の転勤により私は転校が続きました。昔の友だちとのつながりは、切れてしまっています。そのため、私にはいわゆる「地元」がありません。ただ、還暦を迎えた今年から、チャンスがあれば昔の友だちと再会しようと少しだけではありますが努力?!をしています。その努力が少し実ったのかもしれません。
【追記】▪️関連するエントリーです。「小倉時代」。
真野浜のサンライズ(大津市堅田)
▪️水草の有効利用を目指す市民グループ「水草は宝の山」に参加しています。このグループ、略して「水宝山」の代表・山田英二さんが、facebookに真野浜の日の出の風景を度々アップされています。YouTubeにアップされた動画です。とても素敵な動画なので、このブログでもご紹介したいと思います。コマ落としですので、雲の動き等は早くなっています。早くなっているからでしょうか、いつもとは違う琵琶湖を感じ取ることができます。