稲刈り

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◾️このプログでは、あまりにも個人的過ぎるかなと、あまり触れないようにしていますが、facebookでは週1回、孫の成長の様子を投稿しています。娘が孫の成長の記録を写真や動画に撮って送ってくれるからです。普段なかなか会えませんが、娘のおかげで孫の成長を見守りつつ楽しむことができています。ありがたいことです。スマホで簡単に写真や動画を撮ることができない時代、遠く離れた祖父母の皆さんは、孫の成長をどのように見守っていたのでしょうね。

◾️普段は写真や動画でしか孫の成長を見守ることができませんが、一昨日は、大阪で孫と遊んできました。祖父である私にとって、孫と接することは心の栄養をもらえるかのようです。これまでは、たまにしか会うことができないので人見知りをされていましたが、一昨日は、私に抱っこされても普通にしていました。やっと、慣れてくれたんでしょうかね。祖父とは自分にとってどういう人物なのか、まだ理解はできていないと思いますが、少なくとも危険な人物ではない、抱っこされても問題ないと思ってくれているのかなと思います。。

◾️昨日は孫の父方の親戚のお家で稲刈り作業があり、家族で手伝いに出かけていったたようです。去年も来ていますが、まだなんのことやらわからなかったでしょうね。今年は少しはわかるようになったかもしれません。親戚のお姉ちゃんにも、しっかり遊んでもらいましたし、おとうさんには、コンバインに乗せてもららいました。「せっかくだから、将来は、田植え機やコンバインも操作できる『農ガール』になっておくれ」と、おじいさんである私は思っています。

◾️写真は、娘が送ってくれたものです。facebookにも投稿しましたが、なかなか評判がよかったので、このブログにも掲載させてもらうことにしました。親戚のお姉ちゃんに手をつないでもらって、黄金色に染まった水田の中の一本道を歩いています。空の雲のコントラストや、一本道に伸びる親戚のお姉ちゃんと孫の影が、写真を印象深いものにしています。

50年ぶりの再会

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◾️昨日は、人生の中でもたぶん記憶に残り続けるんじゃないのかな…と思うような「再会」がありました。半世紀ぶりの再会でした。半世紀、50年ですよ。その方に、半世紀ぶりに会うために大阪に行ってきました。今回「再会」したのは、小学校3年生から4年生にかけてクラスメイトだったHくんです。私は、小1から小4まで、福岡県北九州市戸畑区にあるカトリック系ミッションスクールである「明治学園小学校」に通学していました。Hくんは、小3になった時に転校してきました。いろんな事情があると思いますが、お兄さんがこの学園の中学校に進学されたことから、兄弟で同じ学園に通うこととなり、小3の時に転校されてきたのです。私の記憶の中でのHくんは、このような人でした。皆んなが「Aだろう」という時に「Bだよ」というような人でした。だから印象に残っているのだと思います。いろんなエピソード、記憶があります。記憶の中では、親しくさせていただいていました。

◾️それはともかく、私の方からお願いをして、Hくんと会っていただきました。しつこいですが、半世紀ぶりの再会でした。もっとも、私がHくんのことを記憶しているほど、Hくんは私のことを記憶されてはいませんでした…(Hくんは小学校時代の記憶があまりないとのこと)。まあ、それはそれで普通だと思います。私とHくんとの共有した時間はたった2年間ですから。9歳・10歳の時です。Hくんとは、大阪駅の改札口で再会する約束でした。約束の時間よりも20分も早く到着したのですが、すでにHくんは改札口に立っていました。随分早くにやってきて、待っていてくれたのですね。一目会っときに、Hくんだとすぐにわかりました。昔と同じ面影でしたから。その後、大阪梅田のビル地下街にあるお店で呑みながら一緒に夕食を摂りました。半世紀ぶりでしたが、「明治学園小学校」関連のいろんなことをお聞かせいただけました。Hくん、ありがとうございました。Hくんの話しを通じて、当時仲良くしていただいていた他の皆さんの近況も知ることができました。

◾️次回は、大津駅前のいつもの居酒屋「利やん」で、Hくんが目をかけておられる後輩の方とも一緒に、お会いすることになりました。楽しみです。いろいろあるな。そして人生は続く…かな😅。Hくんとどうして再会できるようになったのか、このブログに「50年ぶり」とのタイトルで投稿しています。ご覧いただければと思います。

50年ぶり

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▪️この写真は、小学校4年生の時の集合写真です。当時、私は、福岡県北九州市戸畑区にあるカトリック系の私立の小学校、明治学園小学校に通っていました。といいますか、両親の方針で通わされていた…というのが正しいのかなと思います(特に、両親がカトリックを信仰していたわけではありませんが)。この小学校、元々は現在の九州工業大学の前身である専門学校が、教職員の子弟のために1910年(明治43年)に設立したのが始まりです。第二次世界大戦後は、カナダ系のカトリック修道会に経営が引き継がれました。そのような学校の歴史はともかく、自宅は、小倉区(現在の小倉北区)にあった日本住宅公団が建設した団地でしたから、その団地から1時間以上バスに乗って通学していました。

▪️この写真は1968年の4月に撮ったものです。私「4年2組」でした。集合写真の先生。左が1組の担任のM先生。ベテランの先生ですね、たぶん。次がA校長先生。その次が担任のI先生。山口県のご出身でした。ご健在ならば、今は73歳かな。そして、その隣は3組の先生。お名前は忘れました。私は前から3列目の、右から7番目です。10歳です。じつは、この中に写っている同級生と、もうじき会えることになりました。50年ぶりです。記憶も、もう曖昧なんですが。

▪️母親が暮らしていた家の荷物を整理する時、アルバムや写真を「救出」しました。そのようなアルバムの中の1冊を眺めながら、かすかに覚えている同級生の名前を思い出していきました。その中のお一人。Hくん。ネットで検索すると、たまたま動画を拝見することができたのです。普通、なかなかネットで検索しても手掛かりはなかなかありませんが、彼の場合はお仕事の関係でそのような動画がネット上に存在して、たまたま拝見することができたのです。女性だと名字がご結婚されて変わっている場合が多いですし、まず手がかりはありません。そのようなことはともかく、動画の男性の面影は、私の記憶のなかにある同級生でした。間違いありません。気分が高まり、会いたくなりました。

▪️うまい具合に、人のつながりの中で連絡先もすぐにわかり、メールを送ってみることにしました。すると、驚いたことに、今朝ほど、メールを送ったHくんから返信がありました。仕事の関係で、今は関西におられるようです。彼に、会いに行ってこようと思います。子どもの頃、父親の転勤により私は転校が続きました。昔の友だちとのつながりは、切れてしまっています。そのため、私にはいわゆる「地元」がありません。ただ、還暦を迎えた今年から、チャンスがあれば昔の友だちと再会しようと少しだけではありますが努力?!をしています。その努力が少し実ったのかもしれません。

【追記】▪️関連するエントリーです。「小倉時代」

義父の米寿の祝い

▪️昨日は、義父の米寿の祝いが奈良の「あやめ館」というお店でおこなわれました。以前暮らしていたマンションのすぐそばにあるお店です。長年連れ添ってこられた義母。義父と義母の2人の娘。その連れ合い2人(そのうちの1人は私です)。そして社会人となってそれぞれの職場で頑張っている2組の娘夫婦の子どもたち、つまり孫が4人。孫の連れ合いも1人。そしてそして1歳半になったひ孫もみんな揃い、11人でお祝いをしました。食事の後は、花束と、お祝いしたみんなからのメッセージを書いた色紙を贈りました。

▪️普段、義父は家族専用のSNSを通して、ひ孫である ひなちゃん の日々の成長や、孫たちの頑張っている様子を楽しみにしているようです。SNSを使って、孫やひ孫の様子を知ることができるように、iPadをプレゼントされているのです。昨日、義父は、ひさしぶりに孫とひ孫全員に会えました。人生の幸せは人それぞれですが、孫やひ孫に囲まれるというのは、そのような幸せの1つなんじゃないでしょうか。大切だと思います。思い起こせば、すでに社会人になった孫4人がまだ3人の頃、みんなで還暦のお祝いをしました。ついこの間のような気がします。あっという間ですね。

▪️還暦の頃、義父は、米寿になる頃のことを想像していたでしょうか。昨日は、そのことを聞きそびれました。私自身は、今還暦ですが、とても米寿まで長生きできる自信はありません。でも、孫のひなちゃんが成人した時に、一緒に飲みに行ける程度には体力と健康を残しておきたいなと思っています。でも、どうなるでしょうね。それは19年後です。これも、あっという間でしょうね。楽しみです。こうやって世代を超えて集まることは、その機会に、人生についていろいろ考え学ぶことになります。大切なことだと思いました。

▪️昨日は、老人ホームに入所している母の見舞いにも行きました。昨日は、老人ホームの「秋祭り」でした。ホームの中では、職員さんたちも着物に着替えるなどして、いろんなゲームや催しを楽しんでおられました。私の母親は、すでに寝たきりの状態ですが、リクライニングの車椅子で居室から出て少し「秋祭り」を楽しんでいたようでした。母は食欲はあるようで、寝たきりの状態ではありますが、身体の方はなんとかなっています。ただ認知的な部分では、どんどん曖昧になってきているような気がします。息子の私と、ひ孫のひなちゃんのことはなんとかわかるようです。

▪️亡くなった父の看病と看取りから始まり、そのあとは母の世話で10年たちました。実際に、ご自宅で介護された方たちのような大変な苦労はありませんでしたが、それでもいろいろありました。こちらも、今となれば、その過程でいろいろ学んできたんじゃないか、これからも学び続けるんじゃないのか、そのように思うわけです。

『わが街 わがふるさと 高倉台 高倉台団地15周年記念誌」

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◾️亡くなった父が最初に建てた戸建住宅は、神戸市須磨区にあった高倉山を切り崩して作った新興住宅地(住宅団地)、高倉台にありました。海と山に挟まれた神戸市では、山を切り崩して住宅地を建設し、切り崩した土砂で埋立地を造成してきました。国の補助金なしにこれらの事業を展開したことで、当時は「株式会社神戸市」と呼ばれるほど評価されました。もちろん、そのような評価は当時のものですが…。高倉台も含めて、須磨区には次々といわゆるニュータウンが建設されていきました。そのことについては、市役所のホームページで「須磨ニュータウンの歴史」として説明されています。その一部を引用してみます。

埋立用土砂は六甲山系の山から採取されることになり、昭和35年には鶴甲山、昭和37年には渦が森で工事が開始されていましたが、鶴甲と渦が森の土砂採取量だけでは、東部の臨海工業地帯を全て埋め立てる事は不可能であったことと、並行して西部の臨海工業地帯の造成も進めていたことから、高尾山と高倉山からも採取することになりました。

高倉山から東部工区への陸上輸送は、安全面からもコスト面からも不可能であるため、海上輸送に着目し、ベルトコンベヤとプッシャーパージ方式を、全国で始めての試みとして採用することになりました。このベルトコンベヤは平成17年9月に稼働が停止するまで、西神ニュータウンの造成や六甲アイランドの埋め立てにも利用されました。

◾️造成工事が終わり、高倉台が誕生したのは昭和46年(1971年)頃でしょうか。集合住宅と戸建住宅からなる住宅団地でした。宅地分譲は昭和47年から始まっています。我が家は、昭和49年の第4次宅地分譲に応募して高倉台に家を建てることになりました。私は、ここに9年ほど暮らしました(高校の途中から、大学院の途中まで)。我が家の工事が終わった時、まだ周囲には住宅があまり建っておらず、造成された土地と道路があるだけでした。今でも、ポツンと我が家が建っている風景を思い出すことがあります。

◾️ところで、最近、母が暮らしていた家の荷物を整理しましたが、その際に、写真のような「記念誌」を回収しました。これは、資料として貴重だなと思っています。この「記念誌」は、高倉台が生まれて15周年を記念して作成されたものです。タイトルは『わが街 わがふるさと 高倉台 高倉台団地15周年記念誌』。発行は、昭和61年(1986年)。ちょうど、私が結婚した年になります。表紙を見るとわかる人にはわかりますが、「昭和の香り」満載です。表紙の写真からは、コミュニティ活動として様々な行事が行われていたことが示されています。また、なんとなくですが、原武史の『滝山コミューン一九七四』なんかも連想してしまいます。日本の高度経済成長期以降の地域社会の変化を考える際に、役に立ちそうです。担当している授業でも活用できるかもしれません。

◾️高倉台は、当時としては活発にコミュニティ活動に取り組むユニークな住宅団地でした。母校・関西学院大学社会学部で都市社会学を教えておられた倉田和四生先生が、高倉台を調査して論文を書いておられます。「日本のニュ-タウン(近隣住区)とコミュニティ活動–千里と高倉台」(関西学院大学社会学部紀要 (42), p37-59, 1981-02)です。パラパラページをめくっていると、「関西学院大学の交換留学生、ロナルド・グル君(20歳)ら4人が、指導の海野道郎教授に率いられ、ニュータウンにおけるコミュニティー活動の実態を研究するために高倉台を訪れた」、との記述がありました。この交換留学生は、高倉台の活発なコミュニティ活動やコミュニティに対して学校の施設や運動場が開放されていることに驚いています。昭和58年11月11日のことです。ちなみに、海野先生は、数理社会学や合理的選択理論がご専門でした。私とは同じ社会学とはいっても、その細かな専門分野はかなり違うわけですが、それでもいろいろお世話になりました(ちなみに、海野先生は、その後、東北大学に異動された)。

◾️この高倉台を3年前に訪ねてみました。当時は今のような「超高齢社会」(あるいは「超超高齢社会」)のことなど、誰も考えていなかった。須磨のニュータウンのことについても調べてみました。全国のニュータウンと同じく、厳しい状況にあるようです。3年前に訪問したときのことは、このブログに「神戸・須磨ニュータウン」としてエントリーしています。そのうちに、この記念誌をきちんと読んでみようと思います。

実家の荷物の処分

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◾️86歳の母は、身体が弱り、滋賀県の老人ホームに入所しています。母が住んでいた家を、このまま放置しておくわけにもいかず、処分することにしました。まずは、家の中の「物の処分」です。当初は、自分の力でやろうと思っていましたが、時間ばかり経過し、精神的にも重荷になってきたことから、先週の木曜日、母が住んでいた家の「物の処分」を業者さんにお願いしました。昨日は、この「家の処分」に先立って、諸々の手続きが必要になることがわかり、最寄りの役所に出かけました。そのついでに母の家を見に行くと、家の中はすっからかん。後は掃除だけの状態になっていました。4tトラック3台弱の物があるとの見積もりでしたが、すべて運び出されていました。呆気なくというか…さすがプロですね。あまりの量に途方に暮れていたのですが…。プロはすごいなと思います。
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◾️この家は、私が結婚してから建てられた家なので、私自身は特別な思い入れはありません。私からすると、亡くなった父の看病や介護、父が亡くなった後は、母の生活介護や入院のために通った家であり、どちらかといえば「しんどい思い出」ばかりしかありません。庭の草刈りも大変だったな…。とはいえ、気持ちは、少しずつ肩の荷が軽くなりつつある…という感じでしょうか。家の中はすっからかんと書きましたが、業者さんに買い取ってもらえるものは、残されていました。テレビ、カメラ、時計、それからどういうわけかゲームボーイ…。これ、売れるんですね。後は掃除をして、家の処分に取り掛かります。知り合いの行政書士さんと、親戚の不動産屋さんにお願いします。溜まっている仕事に、早く戻らなくてはいけませんので。

◾️これからの時代、子ども達に、私が経験したような苦労はかけられません。そういう時代になってきたと思います。「終活」と「引き継ぎ」をしっかりしなければと、改めて思っています。あっ!忘れていたことがあります。庭木の剪定も業者さんに頼まないと…。いろんなプロにお願いしています。

三ツ矢サイダー発祥の地

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20180823mitsuya2.jpg◾️母の家の中の「物の処分」、今日から始まりました。私は庭の草刈りをしました。汗びしょびしょ。その後は、役所に行って家を処分するための諸々の相談。で、台風が来ていることから、「物の処分」作業は業者さんにお任せして、昼過ぎに帰宅することにしました。帰宅途中、遅い昼食(トンカツ)を食べたのですが、その近くに「三ツ矢サイダー発祥の地」があったな〜と思い出し、近くまで行ってみることにしました。能勢電鉄「平野駅」のすぐそばです。

◾️以下は、ウィキペディアの説明です。

三ツ矢サイダーは、明治時代に宮内省が兵庫県多田村平野(現在の川西市平野3-23-1)の平野鉱泉を用い、炭酸水の御料工場[1]を建造して始まった。後に工場は三菱に払い下げられ、権利は明治屋が得て、1884年に「三ツ矢平野水(みつやひらのすい)」として販売した。平野水は夏目漱石の『行人』、『思い出す事など』にも登場し、1897年に大正天皇の皇太子時代に御料品として採用された。1907年に「帝国礦泉株式会社」[2]が設立され、従来の平野水を元に、砂糖を煮詰めたカラメルやイギリスから輸入したサイダーフレーバーを加えた「三ツ矢印 平野シャンペンサイダー」を発売し[3]、1909年に「三ツ矢シャンペンサイダー」に改称した。

◾️夏目漱石の作品にも登場しますが、宮沢賢治も行きつけの蕎麦屋で、天ぷら蕎麦とこの「三ツ矢サイダー」を注文していたこともよく知られています。今の価格に換算すれば、天ぷら蕎麦が1000円とすれば「三ツ矢サイダー」は1500円だったようです。「シャンペンサイダー」ですしね、高級品ですよね。かつてここにあった工場で生産された「三ツ矢サイダー」は、能勢電鉄で運ばれていました。

◾️この「三ツ矢サイダー発祥の地」のこと、9年前に亡くなった父を病院に連れて行ったり、看病したりしている頃から気になっていました。父が亡くなったあとは、毎週、母の世話をしに行きながらも、ただ眺めるだけでした。余裕がなかったんですね。今日は、昼食に「トンカツ」を食べて、ふと、「もうじき、ここに来ることもなくなるなぁ〜」と思った時に、この「三ツ矢サイダー発祥の地」のことを思い出し、訪れてみることにしたのでした。
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子どもの頃のこと

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◾️母親が住んでいた家を処分することになり島田。まず最初にやることは、家の中の物を処分することです。手をつけてはいたのですが、とても自分で処分の作業をすることは無理だと観念し、業者さんに頼むことにしました。9年前に亡くなった父親が自宅で小さな小さな会社を経営していたので、その関係の物や書類も多数あり、4トントラックで3台弱の荷物と見積もってもらいました。もちろん、丁寧に仕分けをしてくださるし、処理もしてくださるのですが、それなりにお代金の方も…ということになりました。とはいえ、私の方は、心身的にも物理的な時間についても余裕がなく、作業をお願いするしかありません。

◾️今日から来週にかけて作業が始まり、私も立ち会います。今日ともう1日だけですが…。今日の私はといえば、まず庭の草刈りで汗ピショビショになった後、役所に行って家を処分するにあたっていろいろ諸手続きの相談をしました。大変丁寧に対応していただき、助かりました。世の中はでは、世代替わりの時に、多くの皆さんがこのような煩雑な経験をされているのでしょうね。私は、こいう作業をさっさとできるタイプではないので、心の中ではベソをかきながらやっています。そうそう、夏休みの宿題をたくさん残した子どものような心境です。とはいえ、処分にあたっては、いろんな方に支えていただいており、ベソをかいているわけにもいきません。昨日は、長い間乗らないままになっていた軽自動車の廃車を、車検等でお世話になってきた会社にお願いをしてきました。こんな状況なんですが、週末は学生を引率して湖北の農村に調査に出かけます。「社会調査実習」という授業の調査です。それから、締め切りのある原稿にも取り組まねばなりません。綱渡り状態です。

◾️今日、庭の作業をしている間に、同行した家族は色々大切なものがないか探してくれていました。細かいものがいろいろ発見されます。これは、私と妹が使っていたバッジです。右上は、私が6歳の頃(1964年、昭和39年)通っていた、現在の北九州市小倉北区にある幼稚園のバッヂ。その下は、5歳の頃に通っていた下関市にある幼稚園のバッジ(私、幼稚園は3つ、小学校も3つ、高校は2つ通いました。転園転校の子ども時代でした。父の転勤のためです)。左は妹の物ですね。左上は、音楽教室のバッジで、下は現在の広島市東区にある幼稚園のバッジ。こういうのを捨てずに、大切に記念として保管していたんですね。たぶん、亡くなった父親が保管していたんでしょう。父は、そういう性格だったな〜。

孫と過ごしながら考えたこと

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◾️一昨日と昨日、娘夫婦と孫娘のひなちゃんが、滋賀の我が家にやってきました。孫は1歳5ヶ月になり、いろんなことができるようになってきました。言葉も少しだけですが、話せるようになってきました。大人の言っていることも、ある程度わかっているようです。昼から保育園に通っていますが、保育園に通い、近い年齢の園児さんたちと一緒に過ごすことで、成長に加速度がついてきたように思います。単なる「ジジ馬鹿」と笑われるかもしれませんが。

◾️普段、大阪に暮らしている孫とは、たまにしか会うことができません。ということで、会うと必ずと言って良いほど、孫は人見知りをして泣くのでした。加えて、私は年寄りの男性で、眼鏡をかけて、しかも髭を生やして髪の毛も長い…。小さな子どもからすると「異形の人」なのかもしれません。今回も、また泣かれるのかな…と用心をしながら、少しずつ距離を縮めていきました。そのことが良かったのか、少しずつ慣れてきてくれました。写真のように一緒に歩くことも許してくれるようになりました(^^;;。こうやって孫と過ごしていると、本当に心が癒されますね。孫のことをとても愛おしく思います。自分の子どもを育てているときとは、やはりどこか気持ちのあり方に違いがある様に思います。自分の子どものときは、育てることに必死でした。自分自身のことについても必死でした。若い頃は、あまり余裕がありませんでした。

◾️孫たちが滋賀に滞在している間に、滋賀の老人ホームに入所している老母のところにも連れて行きました。母は寝たきりの状態で、認知的にも問題を抱えていますが、曽孫がやってきたことはわかる様でした。韓国の映画に、『祝祭』という映画があります(この映画のストーリーを紹介することはしませんが)>
この映画の中に、心身ともに弱り「小さく」なっていく祖母のことを心配する孫娘に、「それはおばあちゃんが、あなたに歳と知恵を分かち与えているからなのよ」と両親が説明するシーンがあります。私の目の前でも、曽孫は少しずついろんなことができる様になり、曽祖母は弱っていっています。母は、自分の曽孫に歳と知恵を少しずつ分かち与えているのでしょうかね。この映画「祝祭」のことは、韓国社会を研究されている方に教えていただきました。素敵な話しですね。では、祖父である私は、孫に何をわかち与えることができるのでしょうか。

◾️自分が子どもを育てている時には、心配しなかったことがあります。それは、「孫が大人になった時、どんな社会になっているのだろうか。その時、日本の環境は、地球の環境どんな状況になっているのだろうか」ということです。もちろん、私はもうこの世には存在していません。そういう点では、この様な心配については、「世代間倫理」という言葉とも関連しているのかもしれません。「世代間倫理」とは、子孫(将来世代も含む)の利益を保護するために現世代が一方的に負うべき義務について論じる倫理」のことで、特に環境問題との関連で使われる言葉です。孫が大人になった時のために、私たちはどの様な義務を背負っているのか。孫の時代のために、自分は何ができるのか。孫と楽しい時間を過ごすと同時に、その様なことを考えることが増えてきました。ただし、「世代間倫理」で言われるところの「現世代が一方的に負うべき義務」という表現よりも、「将来世代のために、何を贈ることができるのか」といったほうが適切かもしません。「義務」ではなく「贈与」です。世代を超えた義務関係に現世代が縛られるのではなく、将来世代のためにポジティブに何ができるのかという点に両者の違いがある様に思います。義務ではなく、贈与に基づく世代間倫理を構想することは可能でしょうか。私は、可能だと思います。

父の日

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■先日の日曜日は父の日でした。父の日の前に、大阪に暮らしている娘から「太陽のタマゴ」が届きました。高級なマンゴです。この「太陽のタマゴ」が届いたことで、「あっ、そうや父の日なんや」と気がつきました。娘も息子も、社会人になってからは、毎年、何か父の日にプレゼンをしてくれます。もちろん、誕生日や還暦のお祝いもしてもらいました。本当に、ありがたいですね。

■さて、今年のプレゼントである「太陽のタマゴ」、高級品であることはわかっているのですが、どんな風に生産しているのか、そのことを一度も考えずにパクパクと食べてしまっていました。生産地は宮崎県。宮崎県の「みやざきブランド推進本部」のホームページを覗いてみました。次のように説明してあります。

宮崎のマンゴーは、「完熟」にこだわり、樹上で熟し自然に落果したものだけをネット袋でキャッチし収穫します。一度食べたら忘れられない、トロピカルで濃厚な甘みが多くのファンを魅了しています。

どんな果物でも、母なる樹の栄養をたくさんもらっておいしくなるため、樹から離れるときが一番おいしいのです。完熟マンゴーは、その瞬間を逃さないように一つひとつの果実をネットで包み、果実がネットに自然に落果するのを待って収穫します。産地では、この方法により、マンゴー本来のおいしさ、香りを十分に蓄えた果実を消費者の皆様に安定的にお届けできるように、計画的な生産出荷に努めています。

■なるほど、手間暇をかけて生産されているのですね。ネットで包んで、自然に落果したものをキャッチするのか。そうやって完熟させるんですね。どうりで美味しいはずです。ただし、この美味しいマンゴ、人によってはかぶれるらしいですね。というのも、マンゴはウルシ科の仲間だからだそうです。

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