「社会学演習IA」で「まわしよみ新聞」(2)
■火曜日の4限は「社会学演習IA」です。先週に続き「まわしよみ新聞」でグループワークを行いました。それぞれが切り抜いた新聞記事について、説明して、語り合う…ということをやってもらっています。毎年、3年生から始まる「社会学演習」で、この「まわしよみ新聞」を活用させてもらっています。「まわしよみ新聞」の「効能」についてですが、一番思うことは、知り合いがほとんどいない新しいゼミで、お互いに親しくなることができるということです。今年度は、ゼミ生の人数が少ないので、全員がお互いに話をすることができます。コロナ禍でゼミの親睦を深めるコンパや飲み会等ができなくなってから、とうとう3年目に突入することになりました。随分前のことですが、東北の岩手県にグリーンツーリズムの勉強と称してゼミ旅行をしたこともありましたが、そのようなゼミ旅行も、もちろんできません。ですから、ゼミの活動の中に、親睦を深くめるための機会を設ける必要があるわけです。
■もうひとつの「効能」ですが、じっくり読んでみる体験そのものということになります。学生の皆さんは、自宅で新聞をとっていても、普段は全く読むことがない人がほとんどです。以前の投稿にも引用しましたが、「まわしよみ新聞」の発案者である陸奥賢さんは、次のように説明されています。
新聞は「ガチャ」なところがあって。紙面を開くまで、どんな記事が掲載されているのか?よくわからない…という「福袋型メディア」です。
「知りたいことを知る」には非効率的ですが(それは検索型メディアのネットなどで調べたらいい)「ガチャ」「福袋」だからでこそ「予想外の記事」「想定外のニュース」「未知の世界観」に出会う可能性がでてくる。新聞の可能性と面白さはそこでしょう。セレンディップなメディアであるということ。
ネットにはネットの良さ(ダメなとこ)があり、新聞には新聞の良さ(ダメなとこ)がある。そういうメディア特性を知ることは情報化社会、情報文明の時代には非常に重要かつ必須のスキルではないかと思います。
■「セレンディップ」とは、素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見することと言われています。「ガチャ」なメディアである新聞を読むと、予想もしない素敵な出会いや発見があるわけです。スマホやパソコンを使った検索型メディアでは、そのような出会いはあまりありません。自分の関心のある情報についてはそれでも良いのですが、それはたまたまその時の自分が関心を持っているだけで、もっと意識の深いところでは、別のところに関心を持っているのかもしれません。でも、それは自分自身ではわかりません。でも、「まわしよみ新聞」では、「これは面白い(興味深い)記事だな」と思って記事を切り抜き、ゼミの仲間に「この記事のどこが面白いのか(興味深いのか)」ということをしっかり説明します。言語化することで、自分の中に眠っていた問題関心の傾向を自覚することができるのではないかということです。「自分はいったいどういう事柄に関心があるのか」、「自分はどういう問題や現象がとても気になるのか」、あらためてじっくり自分自身と向き合うきっかけを「まわしよみ新聞」が与えてくれるように思うのです。
■このような「まわしよみ新聞」での体験の後に、私のゼミでは自分の問題関心をさらに絞り込んでいく作業をしてもらいます。「まわしよみ新聞」で切り抜いた記事に関係しても関係しなくても良いのですが、自ら調査をしていくためにテーマの絞り込みをしていきます。卒業論文の執筆に資する書籍を2冊選んでもらい、その本をお互いに紹介し合うグループワーク、そして書評を執筆することに取り組んでもらいます。ただし、ゼミの時間は限られています。現在のカリキュラムでは、卒業までに2年間しかありません。本当は、大学に入学した初年次の段階から、学生が自らの学びを構築していくために、「まわしよみ新聞」のようなやり方も含めて、「自分の心の井戸を深く掘り下げていく」ような作業をしなくてはいけないと思うのです。
図書館の利用方法を学ぶ。
■今日の2限は「社会学入門演習」。1回生の演習です。今日はいつもと違う情報処理実習の部屋に教室変更。図書館の職員さんが講師になり、図書館の利用方法について教えてくださっています。今日の教室からは、樹心館と新緑のキャンパスがよく見えます。
■授業中は、図書館の文献の検索やデータベースの使い方についてでした。なんというか、図書館の「取扱説明書」のような感じですかね。丁寧に説明されていると思います。ただ、学生さんたちの側は、高校までの授業のように受動的な姿勢から抜けきれていないので、いまいち、図書館を利用する動機付けが不十分かも知れまん。職員さんの言われるままにマウスを使って検索しているだけで、どこまで理解できたかな。
■ちょっとハードルの高いレポート(感想文ではなく)や、自分自身の研究に取り組むようになれば、図書館を「使い倒す」ことができるようになるのかもしれませんね。大学の施設は、学生の皆さんが納付された授業料で運営されているのですから、図書館を使い倒さない手はないと思います
猪瀬ゼミの「まわしよみ新聞」
■瀬田キャンパスの6号館の壁に「まわしよみ新聞」に掲示されました。私のゼミでも「まわしよみ新聞」を取り組んでいますが、社会学部社会学科の猪瀬ゼミでも毎年取り組まれています。そして、こうやって6号館の壁に、「壁新聞」のように掲示されています。これから4回に分けて順番に掲示していかれるようです。どれだけの人が足を止めて眺めているのかわかりませんが、私はじっくり拝見させていただいています。
■もうひとつは、何の授業でしょうか。やはり壁新聞ですが、タイトルは「理想の宗教施設」になっています。猪瀬優理先生のご専門は宗教社会学なのです。ひとつひとつ拝見していくと、学生の皆さんの宗教観や死生観がうっすら見えてくるような気がします。おそらく、猪瀬先生のご研究にも、ヒントを提供しているのでしょうね。
■こちらは、7年前の脇田ゼミでの「まわしよみ新聞」です。この学年は、2017年の春に卒業されています。社会人になって5年目ですか。頑張って働いているかな。
■ところで、ゼミで今年も「まわしよみ新聞」を実施していることを投稿したところ、「まわしよみ新聞」の発案者である陸奥賢さんからコメントをいただくことができました。以下は、そのコメントです。
新聞は「ガチャ」なところがあって。紙面を開くまで、どんな記事が掲載されているのか?よくわからない…という「福袋型メディア」です。
「知りたいことを知る」には非効率的ですが(それは検索型メディアのネットなどで調べたらいい)「ガチャ」「福袋」だからでこそ「予想外の記事」「想定外のニュース」「未知の世界観」に出会う可能性がでてくる。新聞の可能性と面白さはそこでしょう。セレンディップなメディアであるということ。
ネットにはネットの良さ(ダメなとこ)があり、新聞には新聞の良さ(ダメなとこ)がある。そういうメディア特性を知ることは情報化社会、情報文明の時代には非常に重要かつ必須のスキルではないかと思います。
■「ガチャ」って、カプセルトイのことですね。wikipediaの説明ですが、「小型自動販売機の一種で、硬貨を入れ回転式レバーを回すとカプセル入りの玩具などが出てくるもの、またその取り出した玩具」のことになります。開けてみるまでは、何があるのかわからないわけです。陸奥さんは、そのガチャと呼ばれるカプセルトイと新聞は似ていると言っておられます。なるほど。確かに、ネットの検索型メディアとは違って、「予想外の記事」「想定外のニュース」「未知の世界観」に出会うことになります。そこに魅力があります。そこに価値があります。これまで自分が知らなかった世界が目の前に広がっているような感じがするのです。
■新聞だけでなく、大学での「学び」についても、このような広がりがあります。陸奥さんの表現で言えば、「セレンディップ」ということになります。「セレンディップ」とは、素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見することと言われています。大学に入る前には考えていなかった、新しい知の世界に出会う、予想外の知の世界に出会う、そのことにこそ大学での「学び」の魅力があるのだと思います。それは、自動車の免許を所得するために自動車学校で勉強したり実技を身につけたりするのとは違っています。自動車学校のゴールは、免許を取得して安全運転ができるようになることの1点にありますが、大学の「学び」はその人ごとに違う「学び」があるはずです。その「学び」を積み上げていくのは、知の世界を広げていくのは自分自身でなければなりません。大学の教員は、その積み上げていくことを手助けはしてくれますが、あくまで積み上げるのは自分自身なのです。そうでないといけないと思っています。
「社会学演習IA」で「まわしよみ新聞」(1)
■今年も「まわしよみ新聞」の季節がやってきました。今日と来週、この「まわしよみ新聞」に取り組みます。
■取り組んでいるのは3回生の「社会学演習IA」の皆さんです。普段、新聞を読むことないそうですが、興味深そうに新聞を読んで、切り抜きしています。そうです、新聞って面白いんです。
■この作業の後に、なぜこの記事を切り抜いたのか、グループごとに語り合ってもらいます。なぜ切り抜いたのか、個々人のセンスが問われることになります。また、この4月から新しくゼミの仲間になったわけですが、この「まわしよみ新聞」でお互いを知ることになります。そして、それぞれの社会への関心の持ち方を語ることが、結果として、お互いにとっての良い知的に刺激にもなります。
■「まわしよみ新聞」の発案者は陸奥 賢さんです。今年も、お世話になっています。ありがとうござます。
「社会学入門演習」で農学部を訪問。
■写真の学生たちは、私が担当している1回生の「社会学入門演習」の皆さんです。そして、緑のカゴを持って指導されているのは、農学部の古本強先生です。で、写真を撮っているのが私です。古本先生とは、龍谷大学が農学部を設置する準備の段階で一緒に仕事をしていました。出身地も同じ神戸。今住んでいるのは同じ大津市。というわけで、龍谷大学の教職員の親睦団体である「兵庫県人会」や「滋賀県人会」の会員でもあります。他学部の先生ですが、仲良しなんです。
■その古本先生に、キャンパスの植栽のことでお尋ねしたことがあります。瀬田キャンパスにはヤマモモが植えてあるのですが、古本先生は、そのヤマモモの実で学生と一緒にジャムを作っておられました。そのことを思い出して、少し詳しいことをお尋ねしたのです。そこからスタートして、ジャムに加えて古本先生が養蜂をされていることから蜂蜜の話にも広がっていきました。古本先生のご専門は、トウモロコシのゲノム解析なのですが、そのような研究上の仕事以外に、学生とジャムを作ったり、蜂蜜を採取したりと、地域社会で興味深い活動をされているのです。
■というわけで、「農学部と社会学部の教員と学生で、ジャムと蜂蜜を使って、何か素敵なことができたらいいね〜」、「今年の春から使えるようになった『STEAMコモンズ』はキッチンもついているし、あそこでオープンなイベントができたらいいね」という話しになっていきました。そんなわけで、まずは古本先生と学生の皆さんに出会ってもらうために、今日の見学会を開催しました。どんな展開になるのか、まだはっきりしていませんが、この「社会学入門演習」の学生のうちで関心を持った人たちは、イベントの企画の内容を一緒に考えてくれるのではないかと思っています。
■今日は、古本先生が採取された蜂蜜の試食させていただきました。桜の花の蜂蜜と、いろんな花が集まった蜂蜜の2種類です。古本先生には、フランスパンまで用意していただきました。桜の蜂蜜ですが、喉の奥を甘みが通過するときに、独特の香りが花に抜けていきます。美味しい。
■社会学部の学生は、おそらく自分の学部に関係のある校舎にしか行かないと思います。今日は、「自分達のキャンパスのことをもっとよく知ろう」ということで、農学部の入っている9号館を古本先生に案内していただきました。私は、1回生の入門演習の担任ですのでこれは仕事なんですが、古本先生の場合は完全にボランティアです。今回の農学部見学会なんですが、古本先生とのfacebookでのやり取りから始まりました。先生、ありがとうございました。
オンラインへの従属
■昨日は、朝9時半からオンラインで世界仏教文化研究センターの会議がありました。今日は進行役でした。早めに会議が終わったので、その後は、高島市から龍谷大学に委託される「中山間地域(棚田地域)に関する調査」の契約のことで、REC(龍谷大学エクステンションセンター)と研究部を訪問、担当の職員さんたちと打ち合わせをしました。
■この委託調査は昨年度に続く2年目で、社会学部、農学部、経済学部に所属する7人の教員で調査に取り組みます。昨年度は、コロナや幾つかのアクシデントにより、委託調査に十分な期間を確保して調査に取り組むことができなかったのですが、それでも頑張って報告書等の成果物を提出しました。そのことに、研究部の職員さんが驚いて感心しておられました。ちょっと嬉しかったかな。自己満足。
■2限は「社会共生実習」の「地域エンパワねっと・大津中央」。授業の冒頭、来月開催される子ども向けアートイベントのことで、大津市役所の広報課の職員さんとzoomで打ち合わせ。このイベントのことについて説明を受けました。「地域エンパワねっと・大津中央」を履修している学生の皆さんは、まちづくりの活動を体感するために、このイベントのお手伝いをいたします。昨年履修していた学生の皆さんの一部、そして私もお手伝いで参加します。
■3限はオフィスアワーで4限が4回生のゼミ。就活で4人が欠席していましたが、きちんとゼミは行いました。脇田ゼミの先輩が執筆した優秀論文をみんなで読みました。来週から、卒論に向けての研究の進捗状況を、毎回2人ずつ報告してもらいます。この連休の辺りまでは、4回生のゼミ生とzoomで個別面談も行います。
■そして、夕方、大津駅のカフェのWi-Fiでこの文章をfacebookに投稿しました。来週の火曜日の夕方、teamsを使ったオンラインの会議があるのですが、その後の用事との関係で、どうしても自宅や研究室から会議に参加することができません。今日は、カフェからteamsが繋がるかどうかチェックも兼ねてやってきました。つながりました。
■こうやってみると、すっかりコロナのせいでオンラインに適応した働き方をしています。適応と書きましたが、こういうオンラインを当たり前のように使用するシステムに従属させられているようにも思います。便利になっているのか、慌ただしくなっているのか…。たぶん、後者ですね。写真は、朝、RECに向かう際に撮った瀬田キャンパスのシャクナゲです。美しく元気に咲いているねと、心の中から語りかけました。
総合的な探究の時間
■高等学校の「総合的な学習の時間」という授業があるのだそうです。呆れられるかもしれませんが、高校にもあったことを知りませんでした。その授業が学習指導要領の改訂によって、2022年度から「総合的な探究の時間」に変更されたのだそうです。この「総合的な探究の時間」では、生徒が自ら課題を設定して、情報の収集や整理・分析をして、まとめる…そのようなことに取り組むのだそうです。ということで、この分野に強い若い同僚が、社会学部の「社会共生実習支援室」(6号館)の図書にも、「探究」関連の本を加えてくれました。写真が、その本の表紙と目次になります。比喩的な言い方になりますが、パソコンのOSにあたる部分、日本の教育システムのOSの部分が少しずつ変化しているように思います。急には大転換はしないでしょうが…。
■全国の大学で、アクションラーニング、PBL(Problem-based Learning)、CBL(community-based Learning)…といろいろ取り組まれています。私も現在の職場で「大津エンパワねっと」や「社会共生実習」、ゼミでは「北船路米づくり研究会」を指導してきました。高校でのこの「探究」の時間が、もし「本気」で取り組まれて、充実してくると、大学でのこれまでの取り組みは相対的に陳腐化していくような気がしています。大学に進学した学生からは、「高校までの方が、もっとすごかったよ」と言われてしまうような気もします。
■大学も時代の変化に合わせて自ら変わっていかなくてはいけないのですが(教員本位から学生本位へ、学生が自らの学びを獲得するための支援へ)、基本のOSのところは、私が学生の頃とあまり変化していないようにも思います。それで何がいかんのや…という教員もけっこうおられるでしょうね。大学の学問は、そんなことに振り回されてはいかん…という教員もおられることでしょう。もちろん、私は違いますけど。
■このことをfacebookに投稿したところ、次のようなコメントをいただきました。「数年前に、新しい学習指導要領が発表されたとき、入試を含め、大学が動きださなければ、高校教育改革の目論見もうまくいかなくなるだろうなと感じていました」。なるほど、大学が本気にならないと、高校の先生も「探究」の授業はやりにくくなるとのご意見です。「『探究』なんて勉強しても進学には関係ない」ということになると、形だけのものになってしまいます。大学に入学するために「探究」の勉強に取り組むというのは、なんだかおかしな話ですが、「高校で取り組んだ探究の勉強を、さらに大学に進学して本格的に深めていきたい、より実践に近い勉強がしたい」という高校生が生まれてくれば、ぜひ龍谷大学社会学部に入学していただきたいと思います。もちろん、今の入試制度だと不完全になりますね。総合的な力を判断する学力テストとか、あるいはAO入試で、高校時代の「探究」での取り組みを評価するなど、新しい試みが必要になってきます。そして、現在のアクションラーニング、PBL(Problem-based Learning)、CBL(community-based Learning)を、FD活動を通じて、さらに進化・深化させていく必要あるのではないかと思います。大学側も相当の努力が必要になります。
■なぜ「探究」という授業が必要だと考えられてきたのか、それは、これからの時代、先行きの見えない状況の中で生きていかねばならないからです。不勉強で知りませんでしたが、「VUCA(ブーカ)の時代」というのだそうですね。Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の頭文字をとったものです。このようなこれから到来する時代には、異質な集団で交流する、自律的に活動する、相互作用的に道具(言語、知識、技術等)を用いる、以上3つを統合した能力=思慮深さ(Reflectiveness)が必要とされるというのです。詳しくは、「探究」関連の図書をお読みいただきたいと思います。定年まで残り5年を切りましたが、もう少し私も勉強しなくてはいけないと思っています。もし、「探究」的学習を経験した高校生を大学が本格的に受け入れるのならば、専門分化した学部ごとに入試を行い、合格したら、一般教養から専門過程へと進んでいくような、現在の教育の仕組みでは非常に不十分なのではないかなと思います。今のように、最終的に教員の専門分野に囲い込んでいく教育から、学生の探究を支援する教育へとシフトしていかなければならないはずです。
■もうひとつ、蛇足のようなことを…。まだ、どこかに、高度経済成長期の「良い企業」に就職すれば人生は安泰…のようなイメージの「残滓」があって、「より偏差値の高い高校、そして偏差値の高い大学に入学することが、人生の安泰につながるのだ」というような「幻想」に、どこかでまだ縛られているようにも思います。現実は違っているのに。どうすれば、このような「残滓」や「幻想」の縛りから自由になれるのでしょうか。