64歳の誕生日プレゼント
■15日が誕生日でした。誕生日の2日前に、娘から誕生日プレゼントが届きました。 娘に「何か欲しいものはある?」と聞かれて、パッと欲しいものが頭に浮かびませんでした。歳をとって欲望がだんだん無くなっていて…。よくよく考えてお願いしたのが「ホットサンドメーカー」でした。そういえば、欲しかったんです、娘夫婦と孫たちがやってきたら、これで一緒にホットサンドを作ります。
■昨日は、息子から誕生日プレゼントが届きました。最近、コーヒーの豆を自分で挽いて点てていますが、日本茶も楽しんでいます。煎茶は70℃のお湯が適温なので(熱いと渋みが出てしまう)、これまではいつも温度計でお湯の温度を測っていました。その様子をみた息子が、「いつも温度計で測ってるそうで、それはそれで楽しそうですが、温度調節できるケトルがあったら便利だと思います」と、こういう電気ケトルをプレゼントしてくれました。お湯の温度を調整できるようです。ありがとう。息子は、連休中に帰省するようです。楽しみにしています。
64歳になりました。
■4月15日は私の誕生日です。64歳になりました。来年は、いよいよ前期高齢者の仲間入りをすることになります。15日には、facebookでたくさんのお祝いのメッセージをいただきました。中には写真付きでメッセージをくださる方もいらっしゃいました。その写真付きのメッセージのひとつ、我が家の庭の世話をしてくださっている庭師さんからのものでした。この写真がそうです。
■写真に写っているのは、我が家のイカリソウです。庭には様々な草木を植えてありますが、その中でもイカリソウはかなり気に入っています。イカリソウという名前からもわかるように、特異な形をしています。この花の形が船のイカリのようだというのでしょうね。ピンクで小さくて、可愛らしい花です。しかも、葉っぱもハート型で素敵です。
■庭師さんのメッセージによれば、イカリソウの花言葉は、「新たな人生」、「人生の出発」、「旅立ち」なのだそうです。この花言葉の通り、今年は「新たな人生の出発」になるんでしょうか。4月から世界仏教文化研究センターのセンター長になりました。仏教の専門家でもないのに…です。まあ、私が研究するわけではなく、私は、研究センターの運営が仕事になります。加えて、部長職ということもあり、いろんな会議に出なければならないようです。それが、ちょっと憂鬱なのですが、仕事だから仕方がありませんね。世界仏教文化研究センターの仕事は、いわゆる学内行政の仕事になります。「新たな人生」は、ここから始まるのかな…。研究の分野でも農学部の皆さんからお誘いを受けています。まだ一緒に研究に取り組ませていただけるかどうかはわかりませんが、私自身は前向きに考えています。ひょっとすると、「人生の出発」はこちらかな。まあ、今年度もいろんな皆さんとの出会いがありそうです。
中之島香雪美術館・企画展「来迎 たいせつな人との別れのために」
■5月22日まで。企画展「来迎―たいせつな人との別れのために―」中之島香雪美術館企画展「来迎 たいせつな人との別れのために」。これはぜひ行かないといけません。以下は概要。
「死後、人はどこに行くのだろうか?」
人間誰しもが抱く根源的な問いです。それに出された仏教的な答えの一つが、阿弥陀如来のいる極楽ごくらく浄土に往生おうじょうする、というものでした。遥か西方のきらびやかな極楽世界に生まれる自分、あるいはたいせつな人を思い描くことは、死という恐怖に向き合う人々に晴れやかな希望を与えたことでしょう。こうした心情に基づく浄土信仰の高まりの中で、阿弥陀如来が多くの聖衆しょうじゅを率いてお迎えに来るのを描いた「来迎図」も、死後に向かう極楽のありさまを描く「浄土図」も、数多の作品が生み出されてきました。抗いがたい別れの痛みは、今も昔も変わりません。その心情に寄り添いつつ、浄土信仰の美術を眺めてみましょう。
■この概要を読むと、この世に残された側の方達が、亡くなった方のことを偲んで…という前提になっているような気がします。これは残された人たちの立場と言い換えることができるかもしれません。ただ、私が知りたいなと思うことは、亡くなる人の立場…になるのでしょうか。死んでしまったら、立場も何も無いじゃないか…とのご意見もあるでしょうね。でも、自分が死んだらどうなるのかを、生きている間に先取りして強いイメージを抱き、何かの実感を持つこと。死を先取りして生きるための作法。うまくいえませんが、この企画展で展示される絵画を通して、人びとは何を考え行動したのか、その辺りのことなのかな。
雛人形
■我が家に雛人形が飾られました。ひとつは60年前のもの、もうひとつは35年前のものです。60年前のものは人形ケースに飾られていたのですが、ケースの寿命が先に尽きてしまったようで、仕方がないのでこうやって飾ってあります。まあ、人形たちからすれば、広々として良いのかも。35年前のものは、娘(ひなちゃん&ななちゃんのおかあさん)の雛人形なのですが、こちらは大きいです。我が家の床の間がいっぱいに。娘の家には、孫たちにプレゼントした雛人形があります。
■こうやって女三世代の雛人形を比べると、その背後にある日本の経済成長や、ライフスタイルの変化を感じずにはいられません。今は、大掛かりな雛人形だけでなく、収納飾り雛人形というのもあるようです。収納するケースが人形を飾る台になるようです。マンション等で暮らしていると、大きな雛人形を飾る場所も仕舞う場所も確保しにくいですからね。
■ところで、人形業界は、古くなった雛人形は、娘さんが成長して役目を終えたら供養してください、引き継ぐのはダメですよと言いますが。でも、こうやって飾られる間は、飾ってもらおうと思います(私は飾りませんが…)。私の両親の家にも押し入れに入ったままの雛人形がありましたが、両親が共に亡くなり、家を売却するために、業者さんにお願いして家の中の家財道具を全て処分してもらったのですが、その時に一緒に引き取ってもらいました。あっ、そうそう、私の五月人形も処分されたな。人形たちには、気の毒なことをしました。
【追記】■この写真をfbにもアップしましたが、それをご覧になった京都の方から、「御代理様とお雛様の並べ方は『関東風』ですね」とコメントをいただきました。関西というか京都以外の地域では、向かって左側に御代理様、右にお雛様、女雛を飾ります。そのことはなんとなく知っていましたが、どうしてこのような差が生まれたのかについて知りません。少し調べてみました。元々は、関東風も女雛が向かって左、御代理様が向かって右だったようです。こちらの記事では、次のように説明しています。
日本には古くから「左方上位(左側の方が位が高い)」という考え方がありました。ですから左大臣と右大臣では、左大臣の方が格上になります。神社で手水を使うときに左手から清めるのも同じ理由です。雛人形は平安貴族の姿をしていますが、平安時代の帝は、妃の左側(向かって右)へ座っていました。京都と関西の一部では、そのしきたりに従って、内裏雛を並べているのです。
一方現在の皇室では、天皇は必ず皇后の右側(向かって左側)に立たれます。座られる場合も右側です。この位置の取り方は、西洋式のルールにのっとっています。明治時代の終わり頃から日本でも西洋に準じて、このルールが取り入れられました。
■もうひとつ興味深いことを知りました。右大臣と左大臣の位置関係です。髭を生やした老人が左大臣です。ですから、向かって右側が左大臣になります。その反対側、向かって左側は若い右大臣になります。このお二人は随身と呼ばれる御代理様の警護の役目をする人たちです。左の方が格が上なのですが、この場合の左とは御代理様からみた左側になります。この左大臣と右大臣の位置は、関東風の場合でも変わりません。
この随身の右・左は内裏雛から見た位置になります。したがって向かって右が左大臣、左が右大臣になります。左大臣の方が格上なので老人の姿をしており、右大臣は若者の姿です。随身は左手に弓、右手に矢を持ち、矢を入れた胡簶(やなぐい)を背負います。
facebookの中の母
■SNSのfacebookは、毎日、過去の同じ日に何があったのかを、記憶の中から呼び起こしてくれます(それが良いことなのか、どうなのか…よくわかりませんが)。今日、facebookが示してくれたのは、上のような写真でした。4年前の今日、母は脳内出血で滋賀医大に入院していました。孫のひなちゃんが両親(娘と娘婿)と一緒にお見舞いに来てくれたのです。母からすると、ひなちゃんはひ孫になります。さて、脳内出血した母ですが、その後、回復して退院はしたものの、身体の機能をかなり落としてしまい、再び老人ホームに戻りました。夏以降は、次第に反応も悪くなり、晩秋までは見舞いに来た私のことだけは識別できたようですが、次の年の正月に亡くなりました。母は糖尿病でした。糖尿病は血管の病気ですから、身体のあちこちに問題が出ていました。眼底出血で失明、脳内出血で入院、腎臓の調子も悪かったし…。でも、翌年の正月まで頑張ってなんとか生き抜きました。86歳。父の看病のことも含めると、両親の看病や介護は11年続きました。父は1年の看病でしたが、母の介護は10年続来ました。その11年の看病や介護で学べたこともずいぶんあるので、両親への文句は心の中にしまってあります。学べたこととは、人が亡くなっていく過程に寄り添う経験ができたということです。おそらく将来の自分のことでもあるわけですから。
■4年前のfacebookの写真には、次のような文章を添えて投稿していました。
2018年2月10日 ·
今日は、大阪に暮らしている娘夫婦とひなちゃんが、ばーちゃんのお見舞いに来てくれた。ありがとうね!
ひなちゃんは、慣れない場所に最初は緊張していたが、そのうちに元気な声を出し始めた。ひなちゃんの声が、寝たきりのばーちゃんの気持ちに少し力をあたえたのかもしない。ばーちゃんは、今日はまともな事をしゃべっている。目は見えないけれど、ひなちゃんのことも、よくわかっている。今日は童謡も歌ってくれたようだ。
補助監督と孫
■昨日は、定期試験の補助監督の仕事がありました。必修等の授業は人数が多いのですが、人数が多い授業には他の教員が補助監督でサポートを行うのです。昨日は、「社会福祉調査論」の補助監督でした。昨年度、ご退職になった安西将也先生が非常勤講師としてご担当になっている授業(2年次〜4年次)です。
■この日の仕事は、補助監督の仕事だけでした。仕事が終わったら、車で一路奈良に向かいました。向かったのは、娘の家です。コロナでなかなか会うことのできない、孫たちに会いに行ってきました。3月で5歳にになるひなちゃん(ひな子)には、じっくり遊んでもらいました。ひなちゃんが遊びを仕切ってくれるので、おじいさんの私は一生懸命その仕切りについていくので精一杯。ひなちゃんとは、ゲームやトランプのババ抜きもやりました。いろんなことができるようになっています。1歳半のななちゃん(なな望)は、最初はちょっと人見知りでしたが、おじいさん(私)が姉のひなちゃんの指示で、一緒にバレイ風に?!踊っていると(ひなちゃんは保育園でバレイを習っています)、面白がって笑い始めて、しだいに人見知りも無くなっていきました。よかった、よかった。今日は、おじいさんのことをジジと呼んでくれましたよ(写真は、左から、ななちゃん、ひなちゃん、おじいちゃん)。
■孫が誕生したことは、自分自身にとって大きな出来事でした。孫の誕生を契機として、意識の中では、「人生のステージが次の段階」に移行したように思っています。その次のステージにあった生き方をしていく必要があるようにも思っています。私は40歳から大学の教員になりました。そして、その大学教員もあと残すところ5年ほどになりました。5年たって退職した後も、それなりに健康であれば自分の人生はもう少し続いていくことになります。その場合、むしろ退職後の人生を視野に入れて残りの5年を働かねばならないのかなと思うのです。知り合いの方たちとともにNPOを新たに設立し、理事長として仕事に取り組んでいますが、そのことも「人生のステージが次の段階」に入っていると思っているからです。残りが5年というと、「まだ5年あるじゃないですか」とよく言われるのですが、私の認識はその逆で「もう5年しかない」です。5年では、何か新しいことに取り組んだとして、そのことの結果や責任を自分自身で取ることができなくなりますから。そのあたり、よく考えて残りの5年を過ごしたいと思っています。
■「人生の次の段階」で大切なことのひとつは、孫たちとのふれあいかなと思っています。とはいえ、孫にとっては、おかあさん、おとうさん、おばあさん…そしておじいさんのような序列があるような気がしています。仕方ないですね。でも、孫に遊んでもらうと幸せな気持ちになれます。これ、大切なことだと思います。ふと思いましたが、「ちびまる子ちゃん」のおじいさん、さくら友蔵さんのようになれたらいいなと思います。さくら友蔵さんは、完全に「脱力系」です。ちびまる子ちゃんに、ちょっと馬鹿にされながらも、彼女と一緒に遊ぶ良き理解者。私の理想ですね。
写真の変更
■龍谷大学に勤務するようになったのは18年前の4月のことです。その時に、職員証を渡されました。そこに載っている写真は、その前の年に撮ったものです。確か、公募情報をみて、履歴書を送る際に撮ったものかと思います。年齢は、45歳です。とっても若いのです。現在に至るまでの間に、本人は相当「経年劣化」(老化)してしまっています。にもかかわらず、職員証の写真は変わることがありません。
■この職員証、大学図書館で図書を借りる時に利用します。また、大学生協の組合員証やプリペイドカードとしても利用されています。ということで、この職員証を利用すことでけっこうな頻度で若い頃の自分を見てしまうことになります。最近は「経年劣化」に相当加速度がついてきたせいか、本人と職員証との間に大きなギャップが生まれてしまっています。本人は、強く違和感を感じています。でも、退職するまでずっとこのままだと思います。
■ネット上にも自分の写真があります。例えば、SNS。最近、facebookの写真を交換しました。これまでは孫と一緒に写っている写真でしたが、気分転換もかねてその写真を交換することにしました。職員証よりは比較的最近のものになります。比良山の「びわ湖テラス」で撮ったものです。背景は、琵琶湖の北湖です。ちなみにかぶっているキャップは、「Ryukoku」と書いてあります。龍谷大学硬式野球部が練習用に使っているキャップのはずです。何代か前の監督の時に、その監督にお願いして購入させてもらったものです。これを被って硬式野球部の応援をするために購入しましたが、個人的にも使わせてもらっています。
■facebookだけでなく、このブログの写真も交換しました。「ABOUT ME(SideA)」の写真です。今は真冬ですが、真夏の写真に交換しました。
2022年の初詣
■今年のお正月、終わりました。2日に娘の家族が、一泊二日で我が家やってきました。2人の孫たちと楽しい時間を過ごすことができました。娘の家族は、奈良に暮らしているので、孫たちも雪のことがよくわかりません。というとで、大津市でも雪が積もっている鯖街道沿いの葛川まで出かけて、雪遊びをしました。とても喜んでいました。4日には、我が家に帰省していた息子も大阪の自宅に帰るとのことになりました。ということで、親子3人で地元の氏神様へ初詣に行くことにしました。
■私が暮らしているところはいわゆる新興住宅地で、近くにあるどの神社が氏神様になるのかよくわかっていませんが、勝手にこちらの神社だろうというところに毎年初詣しています。写真の神社は、少し坂を登った森の中にあります。森とはいっても、それほど大きい森ではありません。神社のお社を中心とした境内の三方が森に囲まれています。囲まれてはいますが、空に向かって空間が抜けています。この日は雲ひとつない快晴で、空と神社がつながっているように思えました。たくさんの小鳥の泣き声が聞こえました。おそらく、小鳥たちにとって居心地の良い場所なのでしょう。三方を森に囲まれていますが、神社に至る坂道は琵琶湖の方に広がっています。琵琶湖の南湖、そして有名三上山や遠くには鈴鹿の山々が見えます。ここにいると、大変清々しい気持ちになります。
■初詣を終えた後は、奈良に暮らす義父母のところへ新年の挨拶に出かけました。義理の妹にも会うことができました。今年も良いお正月だったと思います。今日は、zoomを使って朝から卒論の面談を行いました。明日6日からは授業も始まります。
穏やかなお正月
■買い物にも行きました。娘の家族がやってくるということになり、夕食の買い物をしに近くの大きなスーパーまで出かけたのです。最近は元旦から開いているようですね。まあ、そんなことはともかく、天気が良かったので、スーパーの屋上駐車場まであがって、周りの風景を眺めてみることにしました。1枚目、雪で山頂が白くなった比良山系です。手前はJRの勝ち越し堅田駅です。2枚目は、自宅近くの公園から撮った伊吹山です。手前には、琵琶湖大橋や沖島が見えます。いつも見慣れた風景ですが、今日はお正月らしい雰囲気を感じます。
■幼い頃から、父の転勤に伴い、神戸、下関、小倉、博多、広島、そして再び神戸へと12年ほどかけて西日本の港町を転々と移り住んできました。そのような西日本の気候にも関係しているのでしょう。私にとってのお正月といえば、今日のような穏やかなお天気のイメージなのです。雪が降るとちょっと困るのです。そのあたりが、雪国の皆さんとは、全く違う感覚かと思います。
■普段は、還暦を超えた夫婦で静かに暮らしていますが、昨日は、孫たちがやってきたことで大変賑やかになりました。幸せなお正月です。
2022年 新年のご挨拶
■あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。旧年中は、大変お世話になりました。
■昨日、大晦日の夕方に息子が帰省しました。帰省とはいっても、今暮らしている大津市内の家は5年前から暮し始めた家なので、息子が成長した家でもなく、実家というよりも親の家…という感じなのかもしれません。
■夕食時には、年越しそばを作りました。昆布とうるめ節で美味しいつゆを作りました。いつもは、市販の出汁の元や麺つゆを使ってしまうのですが、昨日は、大晦日ぐらいはと思い丁寧に作りました。昆布のグルタミン酸と花鰹のイノシン酸、自然の旨みを楽しむことができました。食後はNHKの「紅白」を視ていましたが、「知らない若い人たちがたくさん歌っているな〜…」と、ちょっとアウェイな感じがして(年寄りだから仕方がないのですが)、しかも年末の整理整頓や大掃除で身体が疲れてしまったせいか、眠くて仕方なくなり、22時過ぎには就寝してしまいました。
■元旦の朝。私が住んでいるあたりでは雪が降っていたので初日の出を拝むこともなく、ゆっくり起床した後は、利尻昆布と花鰹で丁寧に出汁をとり、水菜と鶏肉の雑煮を作りました。関西ですが、どういうわけか我が家は元旦だけはすまし雑煮です。お節料理も、イクラやカズノコ以外は、我が家で作った(作ってもらった)ものです。それでなくても、世の中から正月らしさが無くなってしまい、毎年、正月を迎えるという循環的な時間が感じられなくなってきています。直線的に時間が過ぎ去ってしまっているのです。せめて、ちゃんとしたお雑煮やお節料理がないと、正月を迎えた気持ちにならないのです。子どもの頃は、つまり50年ほど前までは、年が明けると、世の中全体も新しくなる(更新される)ような気持ちになりました。ある意味厳粛な気持ちで新年を迎えたものです。しかし、しだいにそのような感覚も希薄になっていきました。いつからでしょうね。
■そんなことを考えると、元旦早々、なんとなく寂しい気持ちからのスタートになります。しかし、新年を迎えて、やるべきこと、やりたいことはたくさんあるので、今年も頑張って取り組んでいきたいと思います。自分の仕事や吹奏楽部の仕事はもちろんですが、もう一度ヴァイオリンを弾いてみようかなという気持ちにも少しずつなってきました。幼い頃から学生時代まで弾いてヴォインリンですが、28歳の頃には楽器から離れてしまいました。昨年、何人もの人から「脇田さんは、もうヴァイオリン弾かないんですか」と言われ続けてきたので、そのことが少し良い刺激になっているのかもしれませんね。いろいろ言ってくださった皆様、ありがとうございます。
■そういえば、年末は龍谷大学吹奏楽部の定期演奏会の後、N響主席の辻本玲さんも参加されているチェロのアンサンブルコンサート、加えて反田恭平さんの凱旋コンサートと音楽づいてきて、ついヴァイオリンケースを開けてしまいました。大変ひさしぶりに音を出してみましたが、きちんと鳴ってくれたので安心しました。
■ということで、今年もよろしくお願いいたします。写真のお重の中身ですが、栗きんとん、牛蒡のきんぴら、ごまめ、いくら、かずの子、黒豆、五色なます、牛肉の八幡巻、伊達巻、かまぼこ、酢蓮、菊花蕪、スモークサーモンの砧巻き、庭の南天も飾ってあります。これ以外に、筑前煮も。