建築家・秋山東一さんのこと

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▪️建築家の秋山 東一さんから、メッセンジャーで「ちょっと冊子をお送りしたいので、ご住所を教えてください」とメッセージをいただきました。「はて?どのような冊子だろう」と思っていたら、写真のような「スタンダード住宅を目指して」という冊子でした。これは、住宅業界紙「新建ハウジング+1」に連載されたものをまとめたものです。「秋山東一のSTOCKTAIKING スタンダード住宅を目指して」というタイトルで、2008年の10月から2010年の10月まで、10回にわたって連載されました。

▪️秋山さんは、住宅設計でとても有名な建築家です。設計のことは何もわかっていないので、どこまで理解できているのか不安なわけですが、この冊子の中の記事を拝読すると、秋山さんの「住宅をつくりだすシステム」、そしてそのことに伴う「思想/哲学」が、OMソーラーハウス→フォルクスハウス→be-h@usと、進化/深化して来たことがわかります。冊子の中に次のような秋山さんの問題意識が書かれていました。記事のリード文です。

かつて日本の家は社会全体で共有する家づくりのスタンダードがあった。職人は同じ工程わに何度も繰り返すことで腕を磨き、腕の良い職人は全国どこでも活躍できた。住まい手が職人と対等に家を語り、職人の腕を批評することができた。200年、300年と世代を超えて現代に残される建築が生まれたのはまとさにそんな時代だった。これに対して今はどうか。住まい手が家づくりから閉め出され、果てには住まい手を無視してつくり手本位の家づくりが横行する。ここ数十年間の日本の住宅の実際ではなかったか。今日本の住宅に必要なことは家づくりのスタンダードをもう一度取り戻すことにある。

▪️お知り合いになった頃ですから、もう20年近く前のことになると思いますが、このリード文を読んで、秋山さんが「家は買うものではく、建てるものなんですよ」とおっしゃったことを思い出しました(なぜ秋山さんと知り合いになったのか。それは、ブログを通じてなんですが、ここでは省略します)。

▪️さて、このようなスタンダード、「住宅をつくりだすシステム」、「思想/哲学」が縦糸だとすれば、横糸にあたるものは、Macやインターネットの登場、全国の地方工務店の皆さんとの設計道場の取り組み、おもちゃのLEGO、ブリキの模型、大きな鉄道模型、『WHOLW EARTH CATALOG』、定常型社会……なんだと思います。現在は、さらにbe-h@us はBEAHAUSに進化/深化されているようです。秋山さんのインタビュー動画を拝見しました。とても興味深いです。「美しいバラック」。こちらもご覧ください。BEAHAUSについて詳しく説明されています。そして、なぜおもちゃなのかが理解できます。ところで、私が今暮らしている家。住宅メーカーのものです。その中古の家をリフォームして暮らしているので、秋山さんの「教え」はいかされていません。

ひさしぶりの京阪京津線

▪️前の投稿にもあるように、今日は浜大津で「新年会」がありました。「新年会」がお開きになった後、帰宅は、通常は京阪の「びわ湖浜大津駅」から「京阪大津京」まで行って、JR湖西線に乗り換えて帰宅するのですが、今日はひさしぶり京阪の京津線に乗りたくなり、「京阪山科駅」まで行ってJR湖西線に乗り換えました。

▪️個人的には、「びわ湖浜大津駅」から出るところと、「上栄町駅」に近づいたあたりが好きです。また、そのあとの、「大谷駅」に向かう途中のカーブのあたりのレールから聞こえてくる、あのキリキリキリっていう音が好きです。知識も経験も無い、たいしたことのない鉄道ファンなのですが、それでも身近なところで鉄道を楽しんでいます。

「こだわり大津百町市運営委員会」の新年会

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20250120asaichi_shinnenkai.jpg ▪️今日は、「浜大津ごたわり朝市」の皆さんとの新年会でした(こだわり大津百町市運営委員会委員)。この朝市、大津祭の開催に関わっておられる皆さんが、街に賑わいを生み出そうと、長年にわたって、月1回開催されてきました。私は名前ばかりの実行委員でして、きちんと参加できていないことをいつも申し訳なく思っています。今日の新年会は、浜大津の「あたか飯店」。中華料理をいただきながら、いろいろ現場の課題をご教示いただきました。

・朝市を運営されている皆さんが高齢化しており、若い世代の担い手の確保をどうすれば良いのか。
・マンション建設で増えた、若い家族世帯にとって魅力的なイベントにするためには、朝市をどうしていけば良いのか。
・生鮮食料品、特に野菜をどういう仕組みで売ることができるのか。生産、仕入れ、販売の仕組み。
・実演販売。お酒の試飲、湖魚の天ぷら等が人気。もっとこの手のものを増やせないか。
・食以外の物販、人との交流を目的とした出店の可能性はあるのか。

▪️いろいろ、意見交換できました。ありがたかったです。写真は新年会の後、浜大津港の近くから撮ったものです。今日は、過ごしやすい日でした。

直売所のホウレンソウ

▪️大津市の仰木の農家と、隣接地域の住民とが協働することで、耕作放棄地を農地に復活させ、そこで農家の指導のもと有機農業に取り組んでいくプロジェクトに取り組みます。理事長を務めている特定非営利活動法人「琵琶故知新」からも理事を出して「(仮称)仰木地区地域共生協議会準備委員会」が立ち上げられる予定です。その前に、耕作放棄地の草刈りをして、畑を復活させ、野菜の種や苗を植えて野菜作りを始めています。

▪️この仰木には「わさいな」という直売所があります。今日は、生産のお手伝いをしたホウレンソウが、直売所で販売されました。テスト販売のようですね。昨日、指導してくださっている農家の方から、「明日『わさいな』で販売します」との連絡をいただいていました。柔らかくて、美味しいホウレンソウです。ということで、一緒にプロジェクトに取り組んでいる桂さんの投稿をシェアさせていただきます。

30年前の記憶

▪️30年前、1月17日に阪神淡路大震災が発生しました。その時のことを、文字にしておこうと、このブログへの2017年1月17日投稿に、震災時の自分の記憶にあることをメモにしておきました。メモだったので、それをもう一度読みなおして、もう少しはまともな文章にしてみました。

▪️後に「阪神淡路大震災」と命名された巨大地震の大きな揺れに驚き、ベッドから飛び起きました。2段ベッドに寝ていた子どもたちのところに飛んで行きました。姉は小学校2年生、弟は幼稚園だったと思います。当時は、奈良市に暮らしていました。幸いなことに、少し食器が壊れるぐらいの被害ですみました。いったい何が起こったのか、これまでに経験したことのない巨大地震であることはわかりました。状況がよくわかりません。テレビをつけてみました。すぐに「マンションが倒壊しているらしい」といった情報が耳に届きました。「鉄筋コンクリートの建物が倒壊するって…」、すぐには信じられませんでした。交通機関が麻痺している中、当時、大津市の膳所にあった職場(琵琶湖博物館開設準備室)まで、奈良から頑張って通勤しました。なんとか到着できましたが、午後の2時頃になっていました。職場にあったテレビでの報道を視て、非常に驚きました。今だと、スマートフォンを通して、すぐにいろいろな情報を知ることができるのでしょうが、もちろん当時はそのようなものはありません。私は、携帯電話も持っていませんでした。

▪️翌日、西宮市の知人の皆さんのことが気になり、上ヶ原にある母校・関西学院まで、西宮北口から歩いて行きました。梅田でお寿司と水を購入して、阪急電車に乗りました。阪急電車は、西宮北口までは動いていたのです。電車の中は、私と同じように飲み水や食料の入った袋をさげている人ばかりでした。車窓から見える沿線の風景もどんどん変化していきました。梅田の街の被害はよくわかりませんでした。ビルの上の看板が外れていたことは記憶しています。ただ、尼崎のあたりから車窓からも被害を確認できるようになりました。そして、西宮に入ると、途端に被害が増えていることがわかりました。これは、あくまで私の記憶の中にある印象にしかすぎないのですが。

▪️西宮北口から歩き始めました。重い瓦を載せた古い立派なお屋敷は潰れていました。その一方でハウスメーカーの住宅だけはしっかり建っていたことに驚きました。重い瓦は、台風で屋根が飛ばされないようにということなのだと思いますが、その重みが直下型地震では耐えられなかったのでしょうか。街の中が大変な状況になっているのを見ながら、母校のある上ヶ原方面に進んでいきました。すると、学生時代、フランス語の文法の再履修でお世話になったKo先生にお会いしました。少し、放心されたような表情をされていました。心配になりキャンパスに様子を見に行かれたのではないかと思います。

▪️関西学院大学の正門まで到着したら、キャンパスの中には入らず、当時、文学研究科の博士課程にいた後輩のアパートを訪ねました。2階建ての古いアパートでしたが、潰れていました。とても心配になりました。近くの学校の体育館を訪ねました。亡くなった方たちのご遺体が毛布に包まれて安置されていました。その中に、後輩がもしいたらと…心配したわけです。あとでわかったことですが、後輩は、伊丹に暮らす親切な友人のところに避難していました。後輩のアパートがあったあたりをウロウロしていると、都市社会学のKu先生がバイクに乗って地域の様子を確認されていました。当時は、仁川にお住まいだったように記憶しています。

▪️そのあとは、論文指導でお世話になっていたT先生のご自宅に向かいました。震災が発生した日の晩、つまり前日のことになりますが、西宮市の仁川にお住まいだったT先生のことを気遣う学会関係者から、奈良の自宅の方に「何かわからないか」と問い合わせの電話がいくつもかかってきていました。仁川は地震で土砂崩れが起き、たくさんの方たちが亡くなっていたいました。そのことが報道されていたのです。T先生の当時のご自宅は土砂崩れの反対側の場所にありました。ご本人ともお会いすることができました。ご家族ともにご無事でした。T先生は副学長だったということもあり、そのあとは地震への対応に先頭に立って取り組まれました。そのことは、関西学院の記録にもきちんと残っています。

▪️T先生から、お世話になっていた事務職員のAさんが土砂崩れで亡くなられたことをお聞きしました。ショックでした。Aさんは、私が大学の合格発表の後、入学手続きに必要な書類を手渡してくださった方でした。学部生時代、大学院生時代、いろいろお世話になった方でした。ゼミの先生と深酒をして、翌日、酒の臭いがすることに気が付かれたAさんから叱られたこともあります。Aさんが亡くなったことをお聞きした後、T先生と一緒に先生の車で大学のキャパスに向かいました。そして、持ってきた飲料水と食料、大した量ではありませんでしたが、大学の職員さんたちにお渡しし、私は、関学の若手教員のOさん夫妻がお住まいのマンションに向かいました。歩いていると、どこからともなく漂ってきた都市ガスの臭いがしました。

▪️Oさんのマンションに到着しました。Oさんご夫妻は怪我もなく安心しました。しかし、室内は無茶苦茶な状態でした。震災のショックで何もやる気が起こらず、また水道も出ないため、水代わりにご自宅にあったシャンパンを飲んでおられました。奥様からは、地底からゴジラが飛び出してくるような感じがしたという説明をお聞きしました。大阪の梅田あたり、見た目は被害がほとんどないように見えたというと、とても驚いておられました。十分な情報はないし、自衛隊の救援もまだでした。今とはかなり状況が違っています。そのあと、Oさん夫妻と再びキャンパスに戻りました。

▪️交差点の信号機は停止していました。そこでは、自主的に交通整理をされている方たちがおられました。水洗トイレの水を確保するためでしょうか、バケツに紐をつけて川の水を汲んでおられる方もおられました。皆さん、ご近所同士で助け合っておられました。インフラがクラッシュしてしまった後、生きていくための自助や共助が見られました。「社会」が新たに立ち上がってくるかのようでした。そのような話をOさんとしたように記憶しています。

▪️たぶんその翌日だと思いますが、職場のバンで救援物資を運ぶことになりました。というのも、同僚のお母様が亡くなられたことから、当時の上司の判断で大量の水などを運ぶことになったのです。神戸まではできる限り高速道路を走りました。入り口には警察官がおられましたが、「ご苦労様です」と一礼され、一台も車が走っていない高速道路で行けるところまで移動しました。職場の車だったので、走ることが許されたのでしょうか。自分が運転していないので、その辺りき記憶が定かではありません。覚えているのは、高速道路を降りた時の神戸の街が異常な混乱状況だったことです。もう晩になっていたと思います。道路はとても渋滞していました。警察のパトカーが中央分離帯に片側の車輪を乗せて逆走していました。そうでもしないと緊急事態に対応できなかったからだと思います。まるで、街が爆撃にあったかのように感じました。

▪️そのような混乱の中を、同僚のお母様のご遺体が安置されている住宅街まで、なんとかたどりつくことができました。その辺りは、ひっそり静まりかえっていました。問題は、どこのお宅なのかがよくわからないことでした。住所からすれば、だいたいこのあたりなんだがなと思って、あるお宅でお尋ねしてみても、「わかりません」と言われてしまいました。普段、ご近所とあまりつながりがなかったのかもしれません。その点については、よくわかりません。ただ、静まり返った高級住宅街の中で、人が集まっている場所がありしまた。企業の独身住宅のようでした。「社縁」を頼りに、被災されたその企業の家族の皆さんが集まってこられていたようでした。「地縁」が希薄になっている地域だからでしょうか、逆に「社縁」で集まった人びとの存在が気になったのかもしれません。

▪️やっと目指していたお宅がわかりました。そのお宅の中では、同僚のお母様のご遺体が安置されていました。ご遺体は死後硬直のためでしょう、右手が頭の方に上がったままになっておられました。手を伸ばした状態で亡くなられたのだと思います。その右手は白い布で覆ってありました。帰路は、混乱する道を避けて再び大津まで戻りました。今だと、スマートフォンのナビを使うのでしょうが。神戸出身の私は多少なりとも土地勘があったので、東灘区の六甲山の山裾の道を抜けて、西宮の甲陽園から母校・関学の横を通って宝塚方面に抜け、もう夜中だったと思いますが、大津の職場までたどり着くことができました。車を運転していた同僚には感謝されました。こういうことが2回あったと思うのですが、もう1回の方はうまく思い出せません。六甲山の山裾の道を抜けたのは、その2回目のことだったかもしれません。

▪️その後、正式に自治体の職員(滋賀県教育委員会)としてボランティア派遣されることになりました。たまたま偶然だと思いますが、派遣先は母校の兵庫県立兵庫高等学校でした。私たちが学んだ校舎はすでにありませんでした。新しい校舎に建て替えられていました。数日、母校の高校でボランティアを行ったように記憶しています。宿泊したのは、かつて本を読んでいた図書館でした。図書館の床で、職場の上司や他の自治体の職員さんたちと並んで、毛布に包まって寝ました。救援物資を、被災者の皆さんが必要とされるものをお渡しすることが私の仕事でした。新しい校舎でしたが、廊下から上を見上げると地震でできた隙間から空が見えたことを記憶しています。教室はもちろんのこと、校庭にもたくさんの被災者がテントを張って避難されていました。校長先生は、被災者の受け入れで大変だったと思います。被災者の方たちがおられる間、後輩の高校生の皆さんは、他の高校で間借りして授業を受けられました。校庭には、たくさんのキャンプ用のテントが張られていましたが、そのテントから通勤されている方もおられるとのことでした。高校に隣接する室内商店街や周囲の住宅も焼け落ちていました。

▪️30年が経過して、だいぶいろんなことを忘れてしまっています。ということで、メモではなく文章にしておくことにしました。

龍谷大学吹奏楽部 令和7年京都市消防出初式@岡崎公園

▪️龍谷大学吹奏楽部。新年から活躍しています。これは、「令和7年度京都市出初式」(1月12日)の際の動画です。場所は、京都市の岡崎公園です。寒い中、ご苦労様でした。

大相撲初場所の宇良関


▪️大相撲「初場所」始まっています。昨日は、4日目。応援している、同窓生の宇良関、高安関に珍しい大技「伝え反り」で勝ちました。これで、2勝2敗。観客の皆さんもびっくりです。昨日は、大学で諸々の仕事がありましたから、18時までに帰宅してTV観戦をすることができなかったのですが、日本相撲協会がYouTubeに日本相撲協会公式チャンネルを開設しています。そのチャンネルの中にある動画で取り組みを振り返ることができるのです。これは便利です。ありがたいですね。

▪️昨日の宇良関の大技「伝え反り」ですが、これは作戦だったのでしょうかね。宇良関は、取り組み後のインタビューでいつも「ちょっと分からないです」、「覚えていません」、「わかりません」と言います。自然に身体が動いているので、いちいち何か考えているわけではないという意味にもとれますが、調べてみると、「めちゃくちゃ覚えているんですよ。僕も困っているんです。種明かしをしゃべるようなことは自分にはできないですね」と説明されているようです。なるほどですね。今日の取り組みの相手は、翔猿関です。2人は同い年、相撲教習所時代からの仲良しです。でも、取り組みではまた別です。小兵同士の取り組み、何が出てくるのか楽しみにしています。今日は、自宅で観戦します。

【追記】▪️宇良関、敗れました。残念。勢いはあったのですが、土俵の外に飛び出た翔猿よりも先に手がついてしまいました。いや残念。話は変わりますが、解説は湊川親方(=元貴景勝)でした。いいですね、湊川親方の解説、気にいりました。
【関連投稿】 木瀬部屋千秋楽祝賀会

来年度のことでそわそわ

▪️今日は大学に来ています。1年間、特別研究員で研究専念ということになっているので、大学に来る日は限られているのです。今日は留年している学生さんの卒業論文の対応をおこないました。それから来年度に再び担当する社会共生実習「地域エンパワねっと・大津中央」に関する学生さんからの相談を受ける日でもありました。昼休みに、4人の学生さんがやってこられました。昼休み中、いろいろお話をすることができました。楽しかったですね~。

▪️やってこられた皆さんは、大学の4年間にしっかり自分の成長を実感できる経験をしたいと思っておられるようです。でも、所属されている課外活動(サークル)との兼ね合いとか、所属している学科の時間割との兼ね合いだとか、いろいろ考えなければならないことがありますからね。ともあれ、今日は学生さんや事務職員の皆さんと話をすることができました。あと、パソコンのパスワードのこと情報メディアセンターに相談に行きました。前期高齢者は、ネットのセキュリティの強化に追いつくだけで精一杯です。これから、どうなるんでしょうね。

▪️そうそう、社会学科の助手さんのところに行って、来年度のゼミの人数も確認してきました。今、決定しているのは22名。退職するまた退職予定の教員、研究に専念する教員がおられるため、担当する学生さんの人数も増えてきています。もう少し増えるかもしれません。来年度は、上限が24名なのだそうです。これだけの学生さんたちにきちんと卒業論文を書いてもらおうと思うとなかなか大変です。前期高齢者のおじいさんは、耐えられるでしょうか。いろいろ対策を考えねばなりません。

▪️それから来年度の深草キャンパスで開講される新カリキュラムの「基礎ゼミナール」に関する会議がありました。来年4月から入学されてくる学生の皆さんは、新しいカリキュラムで学ぶことになります。そのため、担当者が集まって、シラバスの最後の詰めの議論を行いました。もっとも、用事があって途中で退席。というのも、深草キャンパスに移転するにあたり、研究室の書籍や物品を専門の引っ越し業者さんに運んでもらうのですが、今日は、その業者さんからのヒアリングが予定に入っていたのです。全教員の研究室のものを新しい校舎の研究室に運んでもらうので、その打ち合わせです。

▪️私は、龍谷大学社会学部に勤務して21年になりますが、21年の間に蓄積した研究室の「澱(おり)」をこの機会になんとか処分しなければなりません。前向きに引越し作業に取り組もうと思っています。私の研究室は、たくさんの研究室の中でも荷物の量が「重量級」のようですね。作業困難研究室なのか…。
業者さんには私自身の引っ越し作業に時間がかかるので、業者さん詰め込み作業については後の方にしてほしいとお願いをしておきました。さて、どうなるでしょうね。

▪️というわけで、もう来年度のことでそわそわしてきました。

【追記】▪️引越し業者さんのことで、わざわざこのブログに残しておくことでもないのでしょうが、こんなこともありしまた。私の研究室の書架の本を見渡して「ご専門は環境社会学ですか?」とお聞きになり、「わたし、⚪︎ ⚪︎大学の社会学部の出身なんです」とおっしゃいました。「であれば、⚪︎ ⚪︎先生がおられたでしょう」と反応したら、「ああ、懐かしいですね〜」と。まあ、それだけのことなんですが、ここに書き留めておきます。

同窓会とヴォーリズ

▪️昨日は、母校、関西学院大学同窓会滋賀支部の新年会でした。お昼は、近江八幡市安土町常楽寺にある「料理 魚石」さんで宴会を開きました。参加者は、全員で18人。一番年長の方は、1965年卒。今年で83歳になるのだそうです。とてもお元気です。午前中は、長命寺さんにお参りしましたが、あの808段の石段も副支部長に付き添われてご自身の脚で登られました。素晴らしいです。

▪️その次の方は、1973年卒。お話をすることはできませんでしたが、学生運動の時代にキャンパスにおられたことになります。いや、バリケート封鎖でキャンパスに入れないときもあったと思います。その次は1975年卒がお2人。そのうちのお1人は向かいに座っておられた方です。私とは卒業年次が8年違うわけですが、その年代の方だと、キャンパスの記憶が重なるところがあります。Nさんは放送部に所属されていました。「ああ、そういえば、学生食堂の向かい、銀座通りを挟んで向かいに部室がありましたね」というような話をさせていただきました。今のキャンパスは、私たちの頃とは相当違っていますし、とても懐かしいお話ができました。

▪️次は1980年代の卒業生の皆さんになります。1981年卒から1989年卒までの6人。私は1983年卒ですから、この世代になります。サークルの部室があった木造の建物の1階から出火して、私が入学した時の部室は、2階建ての仮設のプレハブでした。建築現場に臨時に事務所として使われているあの類の建物です。今の学生会館は、私たちが卒業して2年後にできあがったのではないかと思います。所属していた交響楽団も、専用の練習場を与えられました。私たちの頃は、体育館の軒下で、暑い日も寒い日も外で練習をしていました。楽器には、特に木製の管楽器や弦楽器には相当まずい環境なのですが、仕方がありませんでした。1980年代は、そういうキャンパスの風景を共有できる年代になります。

▪️この年代の卒業生のお1人は、1年後輩のKさんです。Kさんは、大学にある3つの学生寮のひとつに入っておられました。そこには、交響楽団の親しい後輩も入っていて、そういう関係でKさんとは学生時代から面識がありました。大学院時代の指導教授が同じだった方は、某銀行の頭取になっておられます。大変なお仕事のようですね。

▪️その次は、1990年代の卒業生の皆さんになります。6名おられます。同窓会滋賀支部の支部長、そして副支部長のお2人も、この年代の方達になります。この3人の皆さんのおかげで、同窓会滋賀支部の活動はけっこう活発になってきているのではないかと思います。年に何回かの食事会、それから見学ツアー、そして年1回の総会、自営業のお仕事の傍で、とても熱心に同窓会支部の運営をしてくださっています。本当にありがたいことです。

▪️この年代の方達のうち1995年以降に卒業された方達は、1995年に発生した阪神・淡路大震災の影響を受けておられます。お話はできませんでしたが、お1人は1995年に卒業されています。関学では、在学生15名、理事1名、現・元教職員7名が倒壊した家屋や土砂崩れの下敷きとなって生命を奪われました。当時の状況について、大学が公表している情報から知ることができます。1999年に卒業された方は、1995年の4月に入学されたわけですが、大学の近くで下宿することはできなかったそうです。学生向けの下宿は、倒壊したり、入居できる状況ではなかったのでしょう。

▪️そして、2000年代はお1人、その次は2020年代がお1人。一番若い方は、2020年卒です。とてもお若いのですが、すでにご自身で行政書士の事務所を開業されています。すごいですね。いわゆる世襲ではなくて、ご自身で開業されたのです。バイタリティがあります。それぞれの年代の方達の中に、それぞれのキャンパスライフの記憶があります。しかし、それらの記憶を貫いているのが時計台と中央芝生なのかなと思います。ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計です。母校には、ヴォーリズ研究センターが設置されています。ヴォーリズに関する様々な研究が進められているようです。同窓会滋賀支部では、昨年に引き続き、今年も、滋賀県内のヴォーリズに関する建築について学ぶ講演会やツアーを企画されているようです。楽しみにしています。

参詣曼荼羅

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20250113kgdosokai17.jpg▪️ひとつ前の投稿にも書いたように、昨日は、母校、関西学院大学同窓会滋賀支部の新年会でした。午前中は近江八幡市にある長命寺さんにお参りしました。その際、ご住職と息子さんの副住職さんから、長命寺に関すたくさんのご説明をいただきました。ありがとうございました。

▪️長命寺は、西国三十三カ所第31番札所です。たくさんの参詣者が808段の石段を登ってこられます。上段の左と右の写真は、「参詣曼荼羅」です。もちろん、実物ではなく撮影してパネルにしたものです。かつて、各地でこの参詣曼荼羅で絵説き(描かれていることをひとつひとつ丁寧に説明していく)をしながら、参詣者の勧誘と霊場案内、そして勧進(寄付を募る)を行ったのだそうです。写真を撮っても良いということで、撮らせていただきました。どうでしょう、雰囲気、伝わりますでしょうか。たくさんの方達が、陸路や船でやってこられている様子が描かれています。

▪️中断の2枚は、人間の心を仏教から説明したもの…なのだそうです。きちんと説明しているかどうか自信がないのですが…。人が抱える業の結果として輪廻転生する6つの世界(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)を表現してあります。この絵図の上半分には、人が誕生して成長し、老いて、最後は死んで骨になるまでの様子が描かれています。そのあとは、6つの世界に輪廻転生していくわけです。仏教的には、ここからどう解脱していくのかということになります。

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20250113kgdosokai12.jpg▪️長命寺は、特定の宗派に属する寺院ではありませんが、天台宗系の単立の寺院です。境内からは、比叡山がよく見えます。比叡山延暦寺は、京都の鬼門の方角に位置するわけですが、長命寺さんはその延暦寺のさらに鬼門の方角に位置しています。偶然なんでしょうけれど。目の良い方だと、びわ湖ホールも見えるようです。私には無理でしたが。そのかわり、琵琶湖大橋、堅田の街並み、三上山(近江富士)についてははっきり確認することができました。

▪️西国三十三カ所第31番札所である長命寺は、日本遺産「琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産-」の「構成文化財」のひとつでもあります。今日は、お話をお聞かせいただき、深く納得しました。

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