むらづくりの村人にとっての「意味」
■昨年、高島市朽木椋川を訪問したときのことを、このブログの投稿でも報告いたしました。以下の2つの投稿です。
炭焼きのこと
第18回おっきん!椋川
■椋川を訪問した際に、大変お世話になった高島市市会議員の是永宙さんから、昨日、メッセージが届きました。「令和2年度ふるさとづくり大賞(総務大臣表彰)を受けたことから、昨年『おっきん!椋川』の時に取材を受けました。その時の動画が配信されていますので、良かったらご覧ください」。早速拝見いたしました。皆さんも、まずはご覧いただき、「おっきん!椋川」というイベントのことをご理解いただけるとありがたいです。
■動画の中で、集落のリーダーのお1人であり、このイベントを開催している「結いの里・椋川」会長の井上四郎太夫さんは次のように語っておられます。
最初、これやろうという時、(他所からやってこられたお客さんに)集落の中をあっちに行ってこっちに行ってと買い物に歩かせるのは失礼ではないか。一つの場所にまとめたほうがいいのではないかという意見があったが、お客さんは商品だけが目的ではなく田舎の空気や雰囲気を求めている。
■私も実際に集落の中を歩きましたが、歩くこと自体が気持ちが良いのです。このイベントを楽しみに毎年リピーターとしてやってきてくれる人びとは、おそらく町場や都会に暮らしておられるのでしょうが、そういう方たちには、山里の中を歩いてみること自体が楽しみなのです。「モノ」の購入だけでなく、「モノ」を生み出す背景に存在する文化や環境をも全身で感じとる気持ちになれることが大切なのです。
■ところで、このイベントには、集落外に暮らす子どもや孫の世代の皆さんもお手伝いとして参加されています。このイベントを支えておられるのです。イベントを手伝うことが三世代交流のきっかけになるだけでなく、地域の暮らしの文化を伝えていくことにもつながっているようです。それから、このイベントには、子どもや孫の皆さんだけでなく、滋賀県立大学の学生さんたちも参加されていました。山村の水田で水生昆虫の保全に関する研究をされているようです。これは推測でしかありませんが、自分が研究をしたいということだけでなく、水生昆虫が生息できるような水田を維持できる集落であるためには、こういったイベントに自分たちも参加して応援していくことが大切だ…と考えておられるのかな…ふと、そのように思いました。
■このイベントを企画したのは、この集落に移住してきた是永宙さんです。是永さんは、次のように語っておられます。
もともと村の人も自分たちが作っているものを売りたいというのはずっと前から思っておられて、僕がこっちに来て移住してから一緒に山仕事をしていたんですけど、その時も村の方が「近所で朝市をされている所があるので、あんなことをやりたいんやけどな〜、でもそんな場所もないしできんよな〜と」いうような話をされていて、それなら僕が言い出しっぺになりますのでやりましょうよと。その時は、村の中ではなく国道の入り口の方までモノを持って行って、モノを売るというところから始まりました。
■しかし、集落の中には反発もあったようです。イベントの継続に対する反発です。「なんでこんな面倒なことをするんだ」という地域の人の声が常にあったからです。是永さんは地域の皆さんのやる気を引き出すために試行錯誤されたようです。ちょうど10回目の時に日本で初めて特別警報がでた台風がやってきて椋川も大変な被害を受けました。そのようなこともあり、「今年は『おっきん!椋川』ができるかどうか」と心配されました。そして、開催するかどうかについて集落の会議で相談をしたら、「やったらいいやんか」とあっさり意見が出てきたというのです。あれだけ反発があったにもかかわらずです。是永さんのお話では、外部の方達(おそらくイベントのリピーター)が椋川の被害のことを心配して連絡を取ってこられたというのです。その時は、ちょうどイベントを10年継続してきた時期で、「おっきん!椋川」のことを楽しみに待っている人が多数おられたのです。そのような集落の外からの声が、「なんでこんな面倒なことをするんだ」という反発ではなく、「やったらいいやんか」という前向きな気持ちを生み出したのです。
■ここで重要な事は、「意味」です。災害の被害を心配した集落外の皆さんの声があったことで、「なぜこのイベントを継続しなくてはいけないのか」という問いに対して、集落内の人びとが納得できる「意味」が共有されたのではないかと思うのです。この点が重要かなと思います。イベントを継続することの中で蓄積された、集落の外部の人びととの信頼関係(架橋型社会関係資本)と集落内で強化された連携(結束型社会関係資本)とが、この「意味」を媒介として連関しているところがとても重要かと思います。そのことにより、このようなイベントを継続していくことの「有効性感覚」を集落内で醸成できたのではないかと思います。
■イベントを継続することで蓄積された集落外部との信頼関係や集落内の連携が基盤となって、この集落の中にあった古民家が「おっきん椋川交流館」に生まれる変わることになりました。初めに交流館があって活動が始まる…のではなく(ハコ物作りからではなく)、活動の結果として交流館が生まれていることが大切かと思います。この施設を管理するために組織されたのが「結いの里・椋川」になります。今では、集落の50名に加えて、集落外から20名も参加され、合わせて70名で活動されています。その活動内容も「おっきん!椋川」の開催だけでなく、集落内の草刈りや水路整備までにおよんでいるようです。
■椋川には、昨年の秋にお邪魔してお話を伺わせていただきましたが、コロナ感染が少し収まった段階で、再びお邪魔させていただきたいと思っています。
【追記】■関連する内容のことを、以前、「生物多様性と集落のしあわせ-農村活性化における生物多様性の意味-」(『農村計画学会誌』35巻4号)という特集論考を書きました。その論考の骨子をもとに、椋川の事例について考察してみました。このあたりのことは、来年度、論文化できれば良いなと思っています。
くさつFARMWE’S MARKET
■今日は、草津市に出かけました。廃川になった旧草津川、今は公園に整備されています。その公園を使ったイベント「くさつFARMER’S MARKET」を見学してきました。
■草津市は、私が住んでいる大津市のお隣の自治体ですが、普段、なかなか出かけることはありません。自宅は湖西線沿いにありますしね。もっとも、私が若い頃に勤務していた滋賀県立琵琶湖博物館の最寄駅はJR草津駅でした。ですから、今から25年程前の草津の中心市街地のことは、それなりに知っているのです。でも、今はその頃とはすっかり街の雰囲気が変わっています。簡単に言ってしまえば、まちづくりが進んでいる、勢いがある、そのような気がします。
■このイベント「くさつFARMER’S MARKET」も、草津市の中心市街地で展開されている様々なまちづくりの取り組みのひとつなのだと思います。このイベントがどのような仕組みで運営されているのか、そういうことにも関心があるのですが、今日は、このイベントに参加している若者グループのお一人のお誘いを受けて出かけることにしました。龍谷大学社会学部の卒業生である尾形 詩織さんのお誘いを受けたのです。
■尾崎さんとは、私が今年度3人の教員で担当している「現場主義入門」という授業に、ゲストスピーカーとしてやってきてくださったことがきっかけで知り合いになりました。写真のグリーンのテントの下にあるような屋台をグループでシェアして、街と人びと、特に若い人びとをつなぐ活動をされています。
今日は、グループの佐藤 鷹政さんがこの手作り屋台を使って「ぎぶみーザぶっく-本と珈琲の物々交換」をテーマにした「さとう珈琲店」を出店されていました。私は、自宅に2冊あった本の1冊を持参し、佐藤さんのおいしいコーヒーと交換してもらいました。もちろん、コーヒー豆の販売や、コーヒーそのものの販売もされています。「くさつFARMER’S MARKET」には、佐藤さんのようなテント、軽トラックの荷台を使ったお店、キッチンカーが並んでいます。公園の周りは、たくさんのマンションが建設されています。ご近所さんたちからすると、日常生活の延長線上に、このようなちょっとした賑わいの場が月に2回開催されることになります。
■でも尾形さんや佐藤さんたちの活動に惹かれるのは、このようなイベントが開催されていないときも、手作りの屋台を使って活動を楽しまれていることにあります。その時、もちろん「販売」はされていません。ただ、この屋台を中心に発信される不思議な魅力が気になって、通りすがりの人たちが、「ここは、何をされているんですか」と立ち寄って行かれるのです。今日も、佐藤さんの「さとう珈琲店」には、様々なな年齢層の方たちが集まってこられていました。お知り合いのようです。無茶苦茶濃くはないけれど、薄くもない。職場も違うし、昔からの知り合いでもない。でも、住んでいるところは比較的近く。お話しを伺いながら、そのような「適度な親しさ」の人たちが、街とつながるネットワークが形成されている…そのようなイメージがふわっと頭の中に浮かんできました。
■よくわかっていませんが、このグループの人たちは、決まった曜日の時間帯(晩)に、暑い夏の日も、寒い冬の日も、晴れの日も、雨の日も、ここに集まってきて街頭の下でお喋りをするのだそうです。立ち話しですね。いろいろ話しを聞いてもらえる、グループのそれぞれの人にとって「大切な場所」になっているようなのです。カフェでもないし、居酒屋でもない。公園の街灯の下に集まってくるのです。繰り返します、よくわかっていないのですが、何か素敵ですよね、絶対に。子どもの時に、あそこに行くと仲良しの誰かがいるんじゃないのかなと思う場所がありましたよね。そうなんです。あの感覚に近いのです。建築家の延藤安弘さんが「まちの縁側」という言葉で表現されていたことにも近いのかな、たぶん。
■尾形さんや佐藤さん以外のグループの皆さんともお話しできました。池田 瞬介さん、そしてご実家が県内にあって、ご実家の農業を継承されているという女性ともお話できました。とっても感動しました。都市と農村との関係の中で、農業の新しい魅力が浮かび上がってくると素敵だなと思いました。年齢をお聞きすると、皆さん、私の子どもよりもお若い方たちばかりです。まちづくりというと、これまではもっと年齢が上の方達がリードされていたように思います。この若いグループの皆さんの活動は、そのようなまちづくりの活動とは少し違っていると思います。それぞれの方達の日常生活の延長線上にあるように思います。そのことが魅力となっているのではないかとも思います。また、遊びに行こうと思います。
■大津の中心市街地にも、とはいっても、大津のばあいはどこが中心市街地か難しいわけですが、それはともかく、若者たちが自主的に楽しみながら何か事を起こすことができるようになるといいなあと思います。
野口・国境の炭焼
■滋賀県高島市マキノ町野口の「国境炭焼きオヤジの会」を訪問しました。午後から炭焼による村づくり活動についてお聞きする予定でしたが、そのことに加えて、午前中は地元のマキノ西小学校4年生の校外学習の様子を見学させていただきました。国境は、高島市マキノ町野口の、3つある集落(小字)の中でも一番北にあります。ちょっと150mほど歩くと福井県に入ります。
■トップの写真は、「国境炭焼きオヤジの会」が作られた炭窯の小屋です。入り口の上には、「夢炭」と書いた看板が掲げてあります。「むーたん」と読みます。たしか、商標登録されているはずです。夢の炭…なかなかロマンチックなネーミングですね。この日は、小学生がやってくるということで、窯の中にライトが照らされていました。私たちも、窯の中に入れていただきました。2段目左の写真は窯の中から撮ったものです。3段目左は、粘土の塊です。炭窯に隙間から空気が入ると炭にならずに灰になってしまいます。そこで、その隙間をこの粘土で塞ぎます。適度な粘りが出るように色々加えてあります。粘土は硬くても柔らかくてもダメなようです。微妙ですね。
■4段目左。左側の割った木材が、右側のような炭になります。重さは1/6に、サイズも少し縮見ます。5段目右、小学生のみなさんが、焼いた炭を適当な大きさにノコギリでカットしています。普通の材木とは切る際の感触が違うので、驚きの声が上がっていました。6段目は、この炭焼窯の近くにある願力寺で、昔の暮らし、特に囲炉裏のある暮らしについて、お話を伺っているところです。いろんな質問が出てきます。予想以上にいろんな知識があります。少し驚きました。
■午後から、願力寺で「国境炭焼きオヤジの会」の活動について、指導している大学院生とともにお話を伺いました。今回は、高島市役所の職員さんも同行された。部屋の真ん中の囲炉裏には、炭が燃えていています。大変温かいです。囲炉裏には五徳が置かれています。五徳に置いた網で餅を焼いていただき、ご馳走になりました。今日も、3時間ほどお話を伺いながら、楽しい時間を過ごすことができました。
■2010年「水源の郷活性化事業補助金」の助成を受けて野口という区の事業として始まった炭焼。最初は、活性化の事業として、どのようなことに取り組むのかを議論されたようです。議論の結果、炭焼をやることになりました。炭焼は、この地域の生業の中心、現金収入の中心でした。この地域のアイデンティティと深く結びついているのです。こんな話も聞くことができました。福井県との県境に位置するこの地域は雪深く、冬の間は炭焼きができません。現金収入が途絶えきます。そこで、炭の問屋から借金をして、雪が溶けて春になってから炭を焼いて、現金ではなく炭で返したというのです。もちろん、そのような経験をされている方は、どうだろう、ご健在ならば100歳前後の方たちでしょうか。
■さて、「国境炭焼オヤジの会」の皆さん、炭を焼くだけでなく、炭を使った石鹸を商品開発して販売もされてきました。近くの道の駅だけでなく、ネットでも販売されたようです。もちろん、炭そのものの販売についても努力されてきました。そうやって盛り上げてきた炭焼きなのですが、活動を始めて10年経過すると、担い手の高齢化や担い手不足等により、炭焼きの活動自体が難しくなってきています。先行きは暗いわけです。しかし、どういうわけだか話は明るく盛り上がります。暗いけど明るい、ここは社会学的にはけっこう大切なポイントかなと思います。
■当初は区の事業として始まった事業ですが、今は野口の有志の個人による活動になっています。加えて、近くの愛知県から在原に移住されてきた方も参加されています。この方はなかなかのアイデアマンのようで、活躍されています。炭窯の煙突にセンサーを設置して、釜の温度を測定したり、窯に原料の薪を運ぶのにも、ローラーコンベアを使ったり、高齢化の中にもいろいろ工夫を提案されているのです。野口の皆さんから期待されています。今日も、リーダーのKさんに、柱を立てて窯全体をブルーシートで覆えるようにすれば、天候に左右されずに炭が焼けると話されていました。しかし、80歳目前のKさんは、「そこまでして、炭を焼きたくないわ」と笑いながら話されていました。このあたり微妙なのですが、大変興味深い点でもあります。
■当初より、野口以外の人たちにもオープンにした活動をされてきました。ただし、炭焼きの作業は、天候や様々な条件に左右されます。作業の段取りが変わるのです。遠く離れたところに住んでいる方、たとえば大津に暮らしておられる方に、急にボランティアで作業をお願いすることもなかなか難しいわけです。結局は、自分たちで作業をすることになります。オープンに活動をする上で、インターネット等での情報発信が大切になるのですが、現在はそこまで手が届いていません。
■高島市には野口の他にも炭焼で活性化に取り組む集落があります。「連携して高島市全体でブランディングしては」という発想も出てくるわけですが、集落によって炭の質が異なるため、それもなかなか難しいとのことでした。炭は工場で生産する工業製品とは異なるのです。もっとも、難しいと言ってばかりでは仕方がありません。なんとか、炭焼を事業化、企業化していきたいとも考えておられます。もう区の事業ではないので、地域外から本気で取り組む若い担い手が来てくれるのならば、技術やノウハウを伝えるという発言がありました。そういう若い担い手が参加してくれるのならば、一緒に頑張るし応援もするという発言もありました。もしそうならば、面白い展開になるのかもしれません。また、「半農半X」ならぬ「半炭焼半X」(炭焼や炭焼に関連する付加価値をつける仕事と、他の仕事(”X”)を組み合わせた働き方)が成立するのならば、実現する可能性もあるのかなと思います。あと、炭焼するには太くなり過ぎた山の広葉樹の利活用をどうするのか。これも大きな課題です。現在、炭にする薪をどうやって調達しているかといえば、別荘地で大きくなりすぎて伐採された樹、炭焼のサイズに割って使っています。山の広葉樹は太くなりすぎて、使えないのです。
■おそらく、こういう現実があることを認識するのならば、地域の支援策もこれまでとは違ったものになってくるのではないかと思います。また、役所の中で部署ごとに縦割りになった支援策をうまく組み合わせていくことも必要だろうと思います。
雲洞谷(うとだに)の炭焼き
■高島市朽木の雲洞谷を訪問しました。「うとだに」と読みます。こちらの「まるくもくらぶ」の活動に関して、指導している大学院生とお話を聞かせていただきました。今回は、高島市の中山間地域の活性化について一緒に仕事をしている市役所の職員さんも同行されました。楽しかったです。お話しいただいたのは、「まるくもくらぶ」のリーダーのIさんと、ここに移住してきてIさんと一緒に活動しているFさんです。Fさん一家は、京都からここに転居されました。お2人に、いろいろ細かな質問に丁寧にお答えいただきました。ありがとうございました。
■写真は復活した炭焼窯です。炭焼は、かつての生業の柱でした。山での暮らしを象徴する生業なのです。その炭焼きを経験されている方を先生役に、「まるくもくらぶ」では炭焼窯を復活させました。活動されているのは70歳前後の人たちです。年齢は前後しますが、全員幼馴染であり、青年団も消防団も一緒に活動してきた仲間です。彼らは炭焼きの手伝いはしても、自分たちの手で炭窯を作ったり炭を焼いたことはありません。そして、親の世代とは異なり、この山村の中だけで暮らしてきたわけではなく、外の職場に通勤しながらここに住み続けてこられました。車と湖西線を使えば、住み続けることができたのです。ただし、同い年の同級生で雲洞谷に残っているのは、Iさんお1人だけです。
■Iさんが生まれたのは1949年。いわゆる団塊の世代です。Iさんが中学生の頃に、「燃料革命」の影響がこの山村にも届くことになりました。そして雲洞谷の炭焼も1960年代の後半には途絶えることになりました。Iさんの記憶では、炭焼きに必要な広葉樹を伐採した後に、杉の苗をどんどん植えていきました。その頃、政策の後押しもあり広葉樹がどんどん針葉樹に替わっていきました。「拡大造林」です。
■先程、炭焼き経験者を先生役に…と書きました。集落を代表する生業としての炭焼きは途絶えていましたが、その経験者の方だけは、身体が動く間、小さな窯で炭焼きを続けてこられていました。2019年、その方から炭焼きを教えてもらう「勉強会」を開催しました。記録を残して、自分たちでも炭焼きが継続できるようにしたのです。この「勉強会」には、多くの外部の人たちも参加されました。「勉強会」がオープンな形であることが興味深いですね。この村に住み続けるのには、外部の人たちの関わりが重要だとの考えを、活動の当初からお持ちだったのです。雲洞谷のことに関心を持ち、気になる人たち、今流行りの言葉で言えば、関係人口を増やそう、そのような考えのもとで取り組まれているのです。
■「まるくもくらぶ」のロゴは、丸の中に「雲」という漢字を書いて、その後にひらがなで「くらぶ」がついてきます。なんでも、消防団の法被の背中は、この「まる雲」が描かれているそうです。ポイントは、「まる」が完全に閉じておらず、少し切れていて、外部に対して開かれているところにあります。つまり、集落で閉じた活動ではなくて、「外部に開かれた活動ですよ、外部の方達にも参加してもらいたいのですよ」という気持ちが表現されているのです。まあ、このブログには全てを書ききれないわけですが、貴重なお話を聞かせていただくことができました。炭焼き以外にも、栃餅、鯖のへしこ、鯖のなれ寿司の話もおもしろかったですね〜。鯖のなれ寿司は食べたことがありません。食べてみたいな〜。この山深い山村の人たちにとって、琵琶湖の淡水魚よりもひと山越えた若狭の海の魚の方が手に入りやすいし重要だったのでしょう。
■本格的に寒くなる前に、再度、雲洞谷を訪問する予定です。その時は、栃餅の原料である栃の実を実らせる巨木にも逢いに行ってみたいと思います。
炭焼きのこと
■指導している大学院生とともに、高島市朽木で炭焼きと村づくりに関して、少しずつお話しをお聞きしています。昨日の午前中は朽木の椋川(おっきん椋川交流館)で、是永宙さんからお話を伺いました。ありがとうございました。
■高島市の中山間地域は、高度経済成長期の前半までは、どこの地域でも炭焼きをされていました。いわゆる燃料革命の前までになります。高島市内では、現在確認されているだけで、4つの集落で炭焼きされているか、これから復活させようとされています。いずれの地域も、過疎と高齢化が進行している地域です。かつて炭焼きを生業としてされていたのは、現在の年齢で言えば、80歳代も半ば以上の方達になります。70歳代の方であれば、手伝いはしたけれど、自分が家の中で中心になって炭焼きをしていたわけではありません。ですので、何歳位の方が、いつ頃から炭焼きを復活させようとしたのかにより、微妙に取り組み方や、何のために炭焼きを復活させたのかという理由については違いがあります。
■炭焼きに焦点を当てて聞き取りをしていますが、その背景となる村の暮らしや社会経済の背景、また外部からやっくるIターンの人びとの存在、村づくりの活動、さらには最近の流行りの言葉でいえば、関係人口の拡大といったコンテクストの中で炭焼きの活動を位置付けなければなりません。いつか、もう少し詳しくこのブログでも報告できるかもしれません。
真野浜で理事会
■昨日は、夕方から真野浜(大津市今堅田)にある民宿「きよみ荘」さんで、NPO法人「琵琶故知新」の理事会&懇親会が開催されました。「きよみ荘」は、理事のお一人が経営されている民宿です。昨日は、ひさしぶりにzoomではなく、理事の皆さんと直接お会いして話し合うとことができました。もちろん、zoomでも意見の交換、言葉のやり取りはできるのですが、実際にお会いすると、もっと深いところでお互いの理解が深まり、素敵な交流ができたように感じました。
■この日の理事会の議題は3つありました。1つめは、某財団へ助成金の申請について。結果ですが、残念ながら次点でした。採択に至りませんでした。私たちのNPOで頑張って運営していこうと思っている「びわぽいんと」、その考え方については共感していただき、評価もいただいたようでしたが、助成する側からすれば、「びわぽいんと」が社会に定着していくために、さらに戦略性を高めてほしいということのようです。そうなんです。そのことは、私たち理事たちもよくわかっているんです。頑張らねば…なのです。ということで、議題の2つめが、某大手通信会社との連携事業についてです。具体的なことはまだ書くことができませんが、良い方向で議論が進んでいます。楽しにしています。そして議題の3つめ。「びわぽいんと」の戦略性を高めるための「勉強会」の開催です。勉強会、誰が勉強するのか。はい、私たちNPOの理事が勉強させていただきます。滋賀県内で、環境保全活動に関連して活躍されている皆さんをお呼びして、「びわぽいんと」を鍛えるためのご意見やアドバイスをいただく開催しようと思っています。すでに4人の方達に参加の了解をいただいています。この「勉強会」も楽しみにしています。
■昨日は、このような議題を中心に理事の皆さんとディスカッションを行いました。良いディスカッションができたと思います。そのあとは、民宿「きよみ荘」さんが用意してくださった鍋料理で懇親会を楽しみました。理事の皆さんの中には、滋賀県以外にもお住まいの方もおられます。神戸からお越しの理事は、大津市堅田の酒蔵の日本酒「波乃音」を堪能されていました。その日は「きよみ荘」に宿泊されルことになっておられたので、かなり召し上がったのではないですかね。別の要件のお疲れもあってか、沈没してしまったようです。良い宴会でした。
■写真のことも少し説明しておきます。トップは、真野浜から見た琵琶湖の北湖です。琵琶湖は琵琶湖大橋から南が南湖、北が北湖に区分されます。南湖と北湖とではスケールが全然違います。北湖はワイルドです。写真の真ん中より少し右側に見えるのは沖島です。左から張り出しているように見えるのは、湖西の比良山系です。天気が良ければ、伊吹山まで眺めることができるのですが、今日は雲に隠れているようです。中段左の写真は、対岸の守山市です。真ん中に見えるのは、湖岸にあるマンションです。右の方には、野洲市にある三上山が見えますね。中段右の写真は、左の写真と同じ方向を拡大したものです。遠くに鈴鹿山脈が見えますね。下段は、理事会の様子です。私は、技術的なことはよくわからないのですが、「びわぽいんと」で用いるアプリがバージョンアップしたのでそれを理事の面々で確認しているところです。
水辺の小さな自然再生
卒論指導、卒寿の祝い、民間企業とNPOの協議
■このブログでは、あまり役に立つことを書いていません。といいますか、1人の大学教員の日々の出来事を書いているものですから…。まあ、公開日記のようなものですね。教員としての私に関する情報は、ブログタイトル下にあるブルーの文字のメニューバーをクリックしてご覧ください。というわけでして、今回も、そういう役に立たない「日々の出来事」を書いています。ご容赦ください。
■月曜日の午前中、自宅で、zoomで2人の学生の卒論指導を行いました。夏期休暇中から、いろいろzoomで面談を積み重ねながら研究を進捗させている人もいますが、そうでない人もいます。こちらのお2人は、後者のそうでない人…になります。とはいえ、不真面目というわけではありません。いろいろ、自分なりには努力をされてきたのですが、次の一歩を踏み出せずにいます。もちろん、緊急事態宣言で大学の危機管理レベルが「2」から「3」になり、学外に調査に出かけていくことができなくなったことも大きいかなと思います。本当は夏期休暇中に調査をして欲しかったのですが、仕方がありません。再び危機管理レベルが10月から「2」に戻ります。時間はもうないわけですが、頑張って調査に出かけて欲しいと思います。
■午後からは引き続き自宅で学部の事務仕事等を行い、それらを済ませて後、大津の街中にある萬治元年創業の酒蔵・平井商店さんに向かいました。日本酒好きの義父の卒寿のお祝い(90歳)を贈るためです。平井商店さんは、私が贔屓にしている大津の中心市街地にある酒蔵です。
■大津は、大きい津、すなわち「大きな港」という意味の地名で、江戸幕府直轄の宿場町として江戸時代初期に誕生しました。「平井商店」さんは、その宿場町に1658年(万治元年)に創業された長い歴史を持つ酒蔵なのです。代表的な銘柄の「浅茅生」(あさぢお)は、後水尾天皇の皇子 聖護院宮道寛法親王(しょうごいんのみや どうかんほうしんのう)から賜られた和歌「浅茅生の 志げき野中の真清水は いく千世ふとも くみはつきせじ」に因んで命名されています。意味は、茅(あし=葦よしのことです)の生い茂っている湖(琵琶湖)の美しく清らかな清水は、どれだけ汲もうが何年経っても尽きることはないだろう」という意味なんだそうです。もちろん、琵琶湖の水で酒を醸しているわけではないのですが…。結局、岐阜には平井商店の「浅茅生 大吟醸」、「浅茅生 特別純米滋賀渡船六号 ひやおろし」、「浅茅生 大吟醸 曳山」、「北船路 純米吟醸」の4本を贈ることにしました。贈る側が言うことではないのですが、結構、豪華なラインナップだと思っています。ちなみに、最後の「北船路 純米吟醸」は、かつて私が指導していた学生たちによる研究グループ「北船路米づくり研究会」がプロデュースした日本酒です。
■「平井商店」さんの後は、浜大津にある通信会社を訪問しました。社員の皆さん方と、琵琶湖の環境保全活動に関わるステークホルダー間の「連帯」や「連携」を生み出す新しいプラットフォームづくりについて協議を行いました。今回で2回目の協議になります。まだ、具体的にブログに書けるレベルには至っていませんが、お互いの夢が共振しあったように思いました。お互いというのは、私が理事長をしている特定非営利活動法人「琵琶故知新」が提案している「びわぽいんと」のアイデアや仕組みに寄り添っていただいくことができたからです。ありがたいことです。はやく、この取り組みが公表できるようになったらと思います。
■協議の後は、近くにある浜大津の公園を散策しました。時間は17時半頃でしたでしょうか。とても綺麗な空でした。少し暗くなるまで過ごしました。良いことがあったので、美しい空と心が共振し合ったのではないかと思います。もちろん、緊急事態宣言が解除されていれば、大津駅前のいつもの居酒屋「利やん」に社員さん達と一緒に行って、さらに夢を語りあうことができるのでしょうが。解除までは、もう少しですね。引き続き感染に気をつけながら、大切なお店を常連客の1人として守って行きたいと思います。
(停泊している船ですが、左から、琵琶湖汽船の「ミシガン」、「ビアンカ」、一番右側は滋賀県庁の環境教育船「うみのこ」です。)
新大宮川で、アユが産卵できるように河床を耕耘しました。
(アユが産卵していないかどうか確認をして、耕耘作業を行いました。)
(記念写真)
■河川愛護活動をされている「新大宮川を美しくする会」の山本 克也さんにお誘い頂き、比叡山の麓を流れる新大宮川(大津市)に行ってきました。これまでこの新大宮川の活動には一度だけ参加したことがあります。その時は、土砂で埋まった魚道を掘り出し、水が流れるようにすることができました。ところが、その後は授業や仕事のためになかなか参加できていませんでした。今回ひさしぶりに参加することになりました。
■現地では、山本さんと、滋賀県立大学で河川工学を専攻されている学生さん、釣り愛好団体の男性、琵琶湖環境科学研究センターの佐藤 祐一さんと水野敏明さんが集まっておられました。加えて私も含めたこの6名で、アユが産卵しやすいように河床をシャベルやレイキで耕耘しました。また、魚道の下に溜まった礫を取り除く作業を行いました。
■「森-川-湖の水系のつながりを考えた魚介類のにぎわい再生」をテーマに研究されている水野さんには、いろいろ教えていただきました。アユが産卵するさい、どのような河床が好きなのか、アユの「好み」がわかってきました。おかげさまで、歩いただけでアユ好みの河床かどうか足裏の感覚でわかるようになりました。オンラインの作業が続いていたので、野外でとても楽しく作業をすることができました。今回は、作業をしながら、いろいろ勉強することができました。以下は、素人理解なので、ちょっと間違いがあるかもしれません。
・アユが産卵したい場所は、コケや水アカが小石や礫についていない場所(忌避する…匂いなのかな)。流れがあって酸素が供給される場所。水が溜まって澱んでいるような場所はだめ。1cmほどの小さな石の間に砂(といってもザラザラした砂)があること。
・比叡山延暦寺が森林をきちんと管理され下草が生えているから、土砂が一気に流出せず、アユが産卵しやすい河床になっていること。
・とはいえ、この夏の豪雨で、新大宮川にも土砂や礫が流れ込んで河床が浅くなっていること。河川の中に樹が生えてそこに土砂や礫が溜まっていること。越水が心配。
・また、琵琶湖からの湖水の流れも河口部では大きな影響を持っており、河川の流れと琵琶湖の流れがぶつかりあっていること。治水工事では、あまりこの辺りを考えてきていないこと。
・人が河床を耕耘すると、コケや水赤が流れて河床が明るくなり、アユが集まってくる。あとは水温が23℃を下回るようになると産卵を始めること。アユに対しての取り組みの成果が短時間でわかる。見えやすい。理解しやすい。楽しい。
・人が耕耘することでアユが産卵しやすい環境が生まれるのならば、これっていわゆる「半栽培」(semi-domestication)みたいなものかな…。他の地域では、鮭が散乱しやすいように河床を耕耘することがある。県内でも、家棟川ではビワマスの産卵のために河床を耕しているな…。
■いろいろ勉強できて楽しかった!! これから、こういう活動が県内のあちこちで生まれてくると良いなと思います。これまでであれば、見えない制度的な壁に阻まれ、お互いにコミュニケーションすることがなかった方達が具体的な河川という「場所」に集い、一緒に汗をかきながら意見交換をすることで、これまでとは異なる見方、考え方をするようになる。そこから、予想もしない新しい協働が生まれてくる。私は、そのあたりのことに強い関心があります。滋賀県って、すごいな〜と思います。
【追記】「比叡森林継承プロジェクト」について
(大きな柳が生えています。ここに土砂が堆積しています。こうなると人力では除去できません。魚道は4段あるはずなのですが、確認できるのは2段のみです。土砂が堆積して河床が浅くなっているのです。想定外の集中豪雨等があったときに越水しないか心配です。)
(河口に近い場所です。正しい説明かどうかわかりませんが、琵琶湖からの水の圧力と、上流からの川の圧力が、ここでぶつかってできあがった洲。住宅地の中にある短い河川(人工的な放水路)ですが、いろいろ勉強することがあります。)
(河口近くから、ゴミを拾いながら、以前掘り起こした魚道まで戻ってきました。拾ったゴミの中には、蛍光灯がありました。これは特にあかんやろ…という不法投棄。山本さんたちが活動をされる中で、この新大宮川のゴミは相当量減ってきました。素晴らしいです。それでも、まだ捨てられる方がいらっしゃるのですね。残念です。以前、掘り起こした魚動、それは「俺の魚道」になっています。自分とのつながりのある「魚道」になっています。だから、この魚道の状況が心配になります。こういう関わることで「自分化」していくことって、大切ですよね。最後は、魚動の下に溜まった礫を取り除き、アユが遡上しやすくしました。)
地域が閉店したスーパーを再生させた
■今朝、facebookをみていると、東近江市役所の職員で、公益財団法人東近江三方よし基金の常務理事をされている山口美知子さんの投稿が目に飛び込んできました。本当に、そんな感じでした。
■閉店した地区唯一のスーパーを、地域有志の方達が寄付を集め合同会社を設立して再生させたというお話しです。地区唯一のスーパー、こういうスーパーって、ある意味、地域の重要なインフラだと思います。都会に暮らしていると、この辺りのこと、よくわからないかも知れませんが、地方で車の運転が難しくなってきた高齢者にとっては、特に身近なスーパーの存在は生活していく上で不可欠の存在です。山口さんの投稿を読んで、そういう地域のインフラを「自分たちの力で守らなくちゃ」と思われた方達が複数居られたというところがとても重要だなと思うのです。なんというか、希望を感じます。人口減少・高齢化の中でも、「共助の知恵と力」で地域社会を守っていくこうとする大変素晴らしい取り組みだと思います。以下は、京都新聞と中日新聞の記事です。
閉店した地区唯一のスーパー再生の試み 寄付集め合同会社を設立した住民らの思い
スーパー再生、住民の力で 東近江・哀東に「i・mart」開店
■両方の記事の中に、地域おこし協力隊の中村泰己さんという方のお名前が出てきます。京都新聞では、「東京都内の高齢化が進む団地でまちづくりに関わり、6月から地域おこし協力隊として愛東地区に着任した中村泰己さん(25)も運営に携わる」とあります。私自身は、まだ、中村さんにはお会いしたことがありませんが、私のゼミの卒業生も、この都内の団地でまちづくりに関わっていて、中村さんとも知り合いでした。中村さんが滋賀に赴任される前に「こういう人が滋賀に行きますよ」と教えてもらっていたのでした。だから、記事を見てちょっとびっくりです。
■さて、facebookのコメント欄で、山口さんに以下のようなコメントを書きました。
このような事例が、他の地域の皆さんにも元気を与えてくれると良いですね。「やれば、できる」って有効性感覚を醸成することになれば。出来上がった仕組みだけではなくて、プロセスが大切ですね。志を持ったキーパーソンとなる人たちによるネットワークがどのように生まれて、そのネットワークを基盤に、どのような組織を作り、資金を調達するためのアイデアがどこから生まれ…そういうプロセスを知りたいなと思いました。
■すると、山口さんからは以下のような返信をいただきました。
脇田 健一 さま、ありがとうございます。愛東の場合は、既にその成功体験を持つ方々が複数おられ、その方々が中心になって、すぐに行動に移されました。当初から資金が必要なことはわかっていたので、ずっと相談に乗っておりました。また、店として成功させるには「みんなの店」にすることを提案しました(当初よりそのつもりをされていました)。当基金以外の助成申請は通らず、三度目の正直が当基金への申請でした。ただ、それだけでは足りないこともわかっていたので、融資や寄付、社会的投資(今回はまだ投資はないですが)の組み合わせも提案してきました。湖東信金さんが協力してくださったのは大きいです。ほんとにプロセス大事ですし、強い動機を持った人が複数いることとつながっていることが地域づくりでは最も重要ですね。
■さまざまなまちづくり活動で成功体験を持つ複数のキーパーソン(まちづくり活動への強い動機、知識やノウハウを持っている人びと)が、「スーパーの再生」という地域課題を共有し、団体を作るとともに、寄付、融資、助成金、社会的投資等の様々な手段で事業費を捻出し、スーパーの再生という事業を成功させる…、そういうプロセスから私たちは多くのことを学ぶことができるように思うのです。成功したと言われる事例の「完成図」からではなく、そこに至るまでのプロセスにこそ大切なポイントがたくさん埋まっているはずです。山口さんが常務理事として関わっておられる公益財団法人東近江三方よし基金は、活動へ助成金を出すだけでなく、そのプロセスをサポートしようとされていました。このような、より専門的な立場からの支援も含めて、事業が展開していくプロセスをきちんと学ぶべきなのかなと思います。