付喪神(つくもがみ)

20250328electric_washing_machine.jpg▪️我が家の洗濯機、30年前のものでした。なんといっても、「National」君ですから。この洗濯機のこと、以前にも投稿しましたね。超長寿で、我が家の衣服を洗濯し続けてくれた洗濯機なのですが、最近は、最後の脱水の時に、ガランゴロンと大きな音を立てるようになってしまいました。しかも、脱水後の衣服に、何やらプラスチックの部品のかけらのようなものが混じっていました。

▪️「これはあかんな。とうとう、これで最後やな」と思い、量販家電で新しい洗濯機を購入しました。今度は、「Panasonic」君です。まあ、同じ会社ですけどね。今までの「National」君なんですが、新しい「Panasonic」君を注文したことを知ってしまったせいか、急に、普通に洗濯してくれるようになりました。なんだったのかな〜、何か不満に思って大きな音を出して文句を言っていたのかな〜。普通に洗濯してくれるようにはなったのですが、ごめんねと、サヨナラをすることになりました。ちょっと心を痛めています。

▪️日本には、付喪神(つくもがみ)がいらっしゃいます。古い道具に宿るといわれる精霊や妖怪を付喪神といいます。うちの「National」君にも、付喪神が宿っておられたのかもしれません。神様が「まだ、きちんと洗濯できたのに、なんで捨てられんとあかんねん」とご立腹されていたら嫌だな〜と、ちょっと気になっています。電気屋さんに言わせれば、洗濯機の寿命は普通は7年まで、長くても10年だとか。30年って、異様ですよね。やっぱり付喪神がいたのではないのかな。ちなみに、今度の「Panasonic」君が30年長持ちするとは思えないのですが、仮に30年使えたとして、私はもうとっくに死んでいます、たぶん。でも、新しい洗濯機、付喪神が宿る前に、壊れてしまうのでしょうかね。

▪️この投稿と同様のことをfacebookに投稿したところ、知人から以下のようなコメントをいただきました。

子供の頃から「全ての物に心が宿る、付喪神さま居られる」と教わって育ちました。例えば「これはそろそろ買い換えよう」という会話は、そのものに聞こえないように話したりしていました。そして、わが家の洗濯機も本当に脇田さんのお宅と同じような状況だったのてすが、それは洗濯機さんが、そろそろ終わるよー準備してーと早めに合図を出してくれて、そして次の子が来るまでは最後の力を振り絞って普段通りに働いてくれたのだと理解しました。我々が不便しないように、付喪神さまも色々考えてくださるのですね。ありがたいことです。

▪️ああ…と感動しました。そうだったのか。「早めに合図を出してくれた」、そう思ったらちょっと涙が出てきました。「次の子が来るまでは最後の力を振り絞って普段通りに働いてくれた」だなんて、とっても感動してしまいます。そういうふうに考えることができる知人の素晴らしさにも感動しました。

スカジャーのこと

▪️今日は早起きをして弁当を作り、朝一番で京都での用事を済ませて、瀬田キャンパスへ移動しました。勤務している社会学部が、深草キャンパス(京都市伏見区)に移転するので、引越しをしなければなりません。今日は研究室で仕事をしながら、その準備として「断捨離」を行いました。よくこれだけ溜め込んだなと思います。仕事をしながら…と書きましたが、書籍や資料の梱包や諸々の紙ものの廃棄等の作業をしていると、仕事をしている時間がなくなってしまいました。

▪️で、話は突然変わるのですが…。今から26年前、岩手県盛岡市で働き始めた時になりますが、初めての岩手の冬を経験して、覚悟はしていましたが、その寒さに驚きました。-10℃近くまで下がると、関西の寒さとはまた別種の寒さだなと思いました。そのような盛岡でちょっと驚いたのは、女子高生がスカートの下にジャージを履いていたことです。寒さに対する自衛手段ですかね。市内の私立高校の女子高生だったと思います。当時、関西では見かけませんでした。私の知る限りかもしれませんが。

▪️今日、京都市内に出かけると、スカートとジャージの女子高生に何度も出会いました。そういえば何年前か忘れましたが、関西でもいるんだなと、ハッとしたことがあります。調べてみると「スカジャー」っていうらしいですね。関西だって寒いものね。調べてみると、関西以外でもスカジャーやっているらしい。しかも校則で禁止している学校もあるみたいで、なんだかな〜という感じです。もっと自由にしたら良いのにね。私、前期高齢者のおじいさんですけど、私が高校生の時には標準服というのはありましたが(いわゆる制服と同じ)、服装は自由でした。最近は、パーカーとかハーフパンツを制服にしている学校もあるみたいですね。

▪️ちなみに、このスカジャーのことをFacebookに投稿したところ、いろいろコメントをいただきました。私は防寒とばかり思っていましたが、それよりも、おしゃれという側面の方が強いのですね。まあ、私のような年寄りには、おしゃれというふうには思いませんが、まあ、好き好きですから。それから、スカジャーのことを「ハニワ」ともいうらしいです。これは、女子高生が自分たちでいっているのではなくて、周りの大人たちが顔をややしかめつつ言っているようですね。

お寺の掲示板


▪️最後の部分、「怒りのピークは5秒で半減 深呼吸が大事」というところに注目しました。特に深呼吸大切ですね。こちらのお寺の掲示板は、いつも考えさせられますね。

孫のこと

▪️大変私的なこと、個人的なことなのですが…。先日、親族のLINEグループで、娘の誕生日の動画が送られてきました。

▪️娘が自宅のお風呂の掃除をしている間に、孫たち(娘の娘たち、姉と妹)がサプライズで、電気を消したリビングに誕生日ケーキを運んでお祝いをする、そういう企画です。姉のひな子(小2)がそろそろっとケーキを両手に持って暗いリビングを進みます。その前で、妹のなな望(ななみ、4歳、保育園)が、一生懸命、「こっちこっち」と必死になって手を動かして誘導します。娘=お母さんに内緒なので、声を出さずに必死になって誘導していたのです。そこに娘がやってきて、みんなでハッピーバスデーの例の歌を歌ってお祝いをするのですが…。

▪️動画には写っていませんでしたが、妹のなな望は、お風呂の掃除をしている娘のところまでやってきて、「お誕生日の準備まんたんやでー!」と言いにいったようです。そのことを、娘は「かわいい」と思ったのだそうです。おじいさんも、キュンとしました。準備万端が準備満タンなのもかわいいな〜。

【人類はどこから来て、どこに向かうのか】国立科学博物館館長・篠田謙一


20250129shinodakenichi.png▪️たまたま、この動画を視聴しました。こういう人類史の話題、とても気になります。ゲストの篠田謙一さんは、一般向けの書籍もたくさん執筆されています。その中の1冊、『人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』は、2023年の新書大賞2位になりました。多くの皆さんも強い関心を持っておられるのですね。この動画のタイトルの通り、「人類はどこから来て、どこに向かうのか」に関心をもつ人が多いのだと思います。こういう研究は、民族、人種、国民国家といった概念を強く相対化していきますね。

古人骨に残されたDNAを解読し、ゲノム(遺伝情報)を手がかりに人類の足跡を辿る古代DNA研究。近年、分析技術の向上によって飛躍的に進展を遂げている。30万年前にアフリカで誕生したホモ・サピエンスは、どのように全世界に広がったのか。旧人であるネアンデルタール人やデニソワ人との血のつながりはあるのか。アジア集団の遺伝的多様性の理由とは――。人類学の第一人者が、最新の研究成果から起源の謎を解き明かす。

『武蔵野地図学序説』(芳賀ひらく)

20250129musashino.jpg▪️芳賀ひらくさん(芳賀啓)は、これまで東京の地形や地図に関する書籍を多数出版されてきました。この『武蔵野地図学序説』は最新作です。関西に暮らしていますが、予約しました。好きなんですよね、地図とか地形とか。ひょっとすると、社会学者じゃなくて、地理学者を目指せばよかったのかも…ですね。まあ、これは冗談です。以下はこの書籍の概要です。この概要をお読みいただけばお分かりいただけると思いますが、古い時代からの様々なタイプの地図を駆使しながら、そこに武蔵野台地が「歴史の地層」を分析していくわけですね。私自身は、そのようなお仕事にすごく興味を持っています。

関東平野西部に広がる武蔵野は、気候変動の温暖化により植生遷移し、野焼きや耕作など人間の活動が加わって今日の姿になった。その生成と変容を、古地図、旧版地図、一般地図、主題図など各種地図資料に刻印された情報を手掛かりにたどりながら、各時代の空間認知にアクセスする。旧石器・縄文時代から現代までのロングスパンを射程に捉えた地形謎解き本、大都市東京の地歴を知ることができるビジュアル学習本にして、街歩きのハンドブックとしても最適な一冊。

▪️著者である芳賀さんとは、一度だけですが、お会いしたことがあります。芳賀さんが経営されている出版社「之潮(コレジオ)」から『川の地図辞典』が出版された時、芳賀さんと著者の菅原健二さんがガイドとなって出版記念ウォークのイベントが開催されました。この『川の地図辞典』に書かれた現場を参加者の皆さんとフィールドワークを行いました。2008年3月16日のことになります。イベントの後は、飲み会でもご一緒させていただきました。懐かしいです。当日のことは、以前のブログにきちんと残してあったのですが、そのプログのサービスが終了してしまったため、消えてしまいました。データをきちんと保存しておけばよかったのに…。その頃は、東京にお住まいの建築家や写真家の皆さんと一緒に、東京の街の地形や歴史をフィールドワークをしながら楽しんでいました。懐かしいです。

▪️『武蔵野地図学序説』の目次ですが、以下の通りです。

第1章 武蔵野の東雲
 はじめに  ターミノロジー 気候変動と「武蔵野」の誕生古代・中世の武蔵野空間認知
第2章 古地図と崖線
 地図の時制 植生地図・開析谷・ハケ 「国分寺崖線」の誕生と誤解
第3章 最古の武蔵野図
 低地の武蔵野 空白の武蔵野 最古の武蔵野図
第4章 ヤマの武蔵野
 武蔵野の「山」 ムサシノAとムサシノB 武蔵野のイドとミチ 武蔵野のツカ
第5章 ミチの武蔵野
 線分のミチ オブシディアン・ロードとジェイド・ロード
第6章 ムラヲサの武蔵野
 防人歌 長者原遺跡 線刻画縄文土器
第7章 地名の武蔵野
 長者地名・殿地名 地点地名・領域地名/地点地図・領域地図 南下する「殿ヶ谷戸」
第8章 地名の武蔵野・続
 「殿ヶ谷戸立体」の出現 地名の発生と展開 駅前集落注記 四つの谷戸、そして補足
第9章 彼方の地図と地図の彼方
 リアル・マップ/イマジナリー・マップ 地図の定義をめぐって 地図からスマホ・ナビへ 武蔵野の地図と文学
第10章 淵源の地図
 地図は国家なり 淵源の地図 江戸後期×明治初期 「フランス式」の残照
第11章 武蔵野のキー・マップ
 国絵図と村絵図 輯製二十万分一図と迅速測図 読図の作業とベース
第12章 伝承と伝説の武蔵野
 自然災害伝承碑 辺境の橋と国分寺崖線 一万分一地形図 二枚橋伝説 坂と馬頭観音 ふたたび二枚橋伝説
あとがき

▪️武蔵野というと、関西にお住まいの方たちには、あまりピンとこない地域かもしれませんが、ぜひ手に取ってお読みいただきたと思います。出版はまだですが、私予約をしました。

いのちと平和を考える特別公開講演会・シンポジウム 「歴史の忘却に抗して- ガザのジェノサイドと私たち」


▪️龍谷大学宗教部からのメールが転送されてきました。1月15日に開催しました特別公開講演会・シンポジウム「歴史の忘却に抗して- ガザのジェノサイドと私たち」(岡真理 早稲田大学教授)の講演、ならびに入澤崇学長と久松英二教授を交えたシンポジウムの様子をYouTubeにアップしたので視聴してもらいたいという内容でした。岡真理さんはアラブ文学と第三世界フェミニズムがご専門です。来月の中頃まで視聴することができるようです。

▪️岡さんは、この特別記念公演の最初の方で、以下のように話しておられます。私たちは、厳しく問われているのです。

ガザの人々が私たちに問いかけているものというのは、「私たちガザのパレスチナ人というのは人間ではないのですか」、と「私たちはあなたたちと同じ人間ではないのですか」ということです。でもガザのパレスチナ人が、私たちと同じ人間であるなどというのは当然のことです。問うまでもありません。あるとすれば、これは翻って言えば、「この私たち自身は人間であるのか」ということです。あるいは「人が人間であるというのは一体どういうことなのか」ということ。

▪️公演の中では、2023年10月7日の攻撃が開始された直後に、当時のガラント国防大臣が、「我々が戦ってる相手(パレスチナ人)というのはヒューマンアニマル、人間動物なんだと、だからそれに見合った処遇をするんだと、食べ物も燃料も医薬品も入れないということを言ったわけです」と説明されます。「飢え」を武器に使うことで、病弱な子どやたちが飢え死に死なせていくわけです。実際、公演では飢えで究極までに痩せほそり亡くなられた子ども写真を拝見しました。ガラント国防大臣は、自分たちが引き起こしている暴力を正当化するために「ヒューマンアニマル」という言葉が使われているように思います。言葉による非人間化です。ここでは、人権を侵しているという感覚は失せてしまっています。

▪️ここで、自分たち日本人は平和な国に暮らせてよかった…と思っていると、それは暴力だと岡さんは説明されます。ノルウェーの平和学の父と呼ばれている ヨハン・ガルトゥングさんが、平和というのは戦争ではなく戦争がないだけではなく、暴力がない状態のことなんだと再定義し、さらに暴力も3つに分類します。ひとつめは、戦争のような物理的な破壊や殺傷を伴う直接的暴力。ふたつめは、貧困や差別など構造が生み出す構造的暴力。三つめは、文化的暴力です。それは、無知や無関心が引き起こす暴力です。岡さんは、「イスラエルで何が起きたのか、そしてそれ以降ガザで何が起きているのか」の有様と本質、この出来事の文脈や歴史的背景を、日本も含めた西側諸国の主流は世界に伝えていないが、これは文化的暴力なのだと批判されます。もし、文脈や歴史的背景もふくめて批判的に言った途端、「反ユダヤ主義」とレッテルを貼って批判を封じようとするらしいのですが、これも文化的暴力です。

▪️日本のジャーナリズムは、直接的暴力にしか注目せず、停戦になったとしても、構造的暴力が続いているにもかかわらず、報道をしなくなってしまう。岡さんは、これも文化的暴力だと批判されます。そして、ガザで起きている事態が「21世紀のホロコースト」と呼んでも過言ではない状況であるにもかかわらず、そのことを知らない、知らないがゆえに関心を持たないと批判されています。停戦になっても、ガザで暮らし続けていくための基盤(食料、医療、教育、住宅、環境、文化、歴史、知識・知識人…)を根こそぎ破壊するための暴力が継続されているのですが、このまさにジェノサイドが継続されているということを報道しなくなることで、私たちも無関心になってしまう。そのような文化的暴力を強く批判されます。

ガザで起きている事態が 21世紀のホロコーストと呼んでも過言ではない状況である、にもかかわらず、そのことを知らない、知らないがゆえに関心を持たない、そして本来自分たちがこの出来事にどのように関わっているのかということも知らず、無関心なまま行動を起こさない、それによってこの事態を支えている私たちもまた、私たちの意思にかかわらず、この文化的暴力の行使者加害者になって、させられてしまっているということになります。

▪️この続きは、実際にYouTubeの公演をご覧になってほしいと思います。おそらくですが、2月の上旬までは視聴できると思います。

3月のような暖かさ…諸々

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【ウォーキング】
▪️家で仕事をしているとほとんど歩かないことになるので、少しウォーキングをしてきました。いつもの公園から琵琶湖の北湖を眺めると、今日は薄ぼんやり伊吹山が見えました。もっと気温が低ければクリアに見えるのですが、急に3月のような気温になってきて景色はぼやけています。こんなに気温が高いと、琵琶湖の全層循環(琵琶湖の深呼吸)はどうなるのでしょう。心配ですね。

▪️ウォーキングの途中で、公園の端にお地蔵さんや同祖神が祀ってあることに気がつきました。何度もこのあたりは歩いていても、気がついていませんでした。きちんとお花も添えてあります。どなたかが、お世話をされているのでしょうね。もともと、このあたりは里山と農地でした。そこを新興住宅地を造成したのです。これは想像ですが、元々祀っていたものか、工事で見つかったものをここに集めているのではないかと思います。たしか、地蔵盆はやっていませんね。このあたりは小学生以下の年齢の子どもたちがたくさんいるので、よろこぶだろうな。もっとも、私自身は子どもの頃九州にいたので、地蔵盆の経験はありません。先日、「地域エンパワねっと」(社会共生実習)の相談会で、この地蔵盆のことと関連して学生さんと話をすることがありました。この地蔵盆、まちづくりに関連して大切な行事なのではないかと思います。

【鬼門について】
▪️話は変わります。「鬼門」について「あっ」と思ったことがあります。鬼門とは、北東の方角で、鬼が出入りする方角なのだそうですね。災いがやってくる方角なのだそうです。そのためなのか、どうかよくわかりませんが、京都の御所の北東には比叡山延暦寺があります。最澄が鬼門封じのためにこの場所を選んで延暦寺を建立したのか、たまたまなのか。どうなんでしょうね。知識がなくてよくわかりません。

▪️まあ、それはともかくです。地図で京都の御所から北東方面に確かに比叡山延暦寺があります。地図に定規を当てるとよくわかります。で、今日、気がついたのです。御所の北東に延暦寺があって、延暦寺の北東に我が家があることに。京の都の鬼門の方角に暮らしているのです。というか、延暦寺が鬼の侵入を防いでいるとしたら、我が家のあたりは鬼がたくさんいはる場所なのかな。いや、だからどうなんや…って話ではありますし、私が鬼門のことを気にしているわけでもないのですが。

20250121isazamame.jpg 【イサザ豆】
▪️またまた、話は変わります。先日、沖島で作ったイサザ豆をいただきました。この季節、琵琶湖の固有種であるイサザの漁は最盛期のはずです。このイサザ豆は砂糖を使っているので、持病のため一度にたくさんは食べられませんが、ビール(無糖)のあてとして楽しんでいます。本当は、イサザの吸い物とか味わってみたいのですが、どこにでも売っているわけではありませんので。なかなか難しいです。早めに夕飯の買い物に行き、お相撲初場所を「ビール(無糖)&イサザ豆」で観戦しています。

建築家・秋山東一さんのこと

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▪️建築家の秋山 東一さんから、メッセンジャーで「ちょっと冊子をお送りしたいので、ご住所を教えてください」とメッセージをいただきました。「はて?どのような冊子だろう」と思っていたら、写真のような「スタンダード住宅を目指して」という冊子でした。これは、住宅業界紙「新建ハウジング+1」に連載されたものをまとめたものです。「秋山東一のSTOCKTAIKING スタンダード住宅を目指して」というタイトルで、2008年の10月から2010年の10月まで、10回にわたって連載されました。

▪️秋山さんは、住宅設計でとても有名な建築家です。設計のことは何もわかっていないので、どこまで理解できているのか不安なわけですが、この冊子の中の記事を拝読すると、秋山さんの「住宅をつくりだすシステム」、そしてそのことに伴う「思想/哲学」が、OMソーラーハウス→フォルクスハウス→be-h@usと、進化/深化して来たことがわかります。冊子の中に次のような秋山さんの問題意識が書かれていました。記事のリード文です。

かつて日本の家は社会全体で共有する家づくりのスタンダードがあった。職人は同じ工程わに何度も繰り返すことで腕を磨き、腕の良い職人は全国どこでも活躍できた。住まい手が職人と対等に家を語り、職人の腕を批評することができた。200年、300年と世代を超えて現代に残される建築が生まれたのはまとさにそんな時代だった。これに対して今はどうか。住まい手が家づくりから閉め出され、果てには住まい手を無視してつくり手本位の家づくりが横行する。ここ数十年間の日本の住宅の実際ではなかったか。今日本の住宅に必要なことは家づくりのスタンダードをもう一度取り戻すことにある。

▪️お知り合いになった頃ですから、もう20年近く前のことになると思いますが、このリード文を読んで、秋山さんが「家は買うものではく、建てるものなんですよ」とおっしゃったことを思い出しました(なぜ秋山さんと知り合いになったのか。それは、ブログを通じてなんですが、ここでは省略します)。

▪️さて、このようなスタンダード、「住宅をつくりだすシステム」、「思想/哲学」が縦糸だとすれば、横糸にあたるものは、Macやインターネットの登場、全国の地方工務店の皆さんとの設計道場の取り組み、おもちゃのLEGO、ブリキの模型、大きな鉄道模型、『WHOLW EARTH CATALOG』、定常型社会……なんだと思います。現在は、さらにbe-h@us はBEAHAUSに進化/深化されているようです。秋山さんのインタビュー動画を拝見しました。とても興味深いです。「美しいバラック」。こちらもご覧ください。BEAHAUSについて詳しく説明されています。そして、なぜおもちゃなのかが理解できます。ところで、私が今暮らしている家。住宅メーカーのものです。その中古の家をリフォームして暮らしているので、秋山さんの「教え」はいかされていません。

30年前の記憶

▪️30年前、1月17日に阪神淡路大震災が発生しました。その時のことを、文字にしておこうと、このブログへの2017年1月17日投稿に、震災時の自分の記憶にあることをメモにしておきました。メモだったので、それをもう一度読みなおして、もう少しはまともな文章にしてみました。

▪️後に「阪神淡路大震災」と命名された巨大地震の大きな揺れに驚き、ベッドから飛び起きました。2段ベッドに寝ていた子どもたちのところに飛んで行きました。姉は小学校2年生、弟は幼稚園だったと思います。当時は、奈良市に暮らしていました。幸いなことに、少し食器が壊れるぐらいの被害ですみました。いったい何が起こったのか、これまでに経験したことのない巨大地震であることはわかりました。状況がよくわかりません。テレビをつけてみました。すぐに「マンションが倒壊しているらしい」といった情報が耳に届きました。「鉄筋コンクリートの建物が倒壊するって…」、すぐには信じられませんでした。交通機関が麻痺している中、当時、大津市の膳所にあった職場(琵琶湖博物館開設準備室)まで、奈良から頑張って通勤しました。なんとか到着できましたが、午後の2時頃になっていました。職場にあったテレビでの報道を視て、非常に驚きました。今だと、スマートフォンを通して、すぐにいろいろな情報を知ることができるのでしょうが、もちろん当時はそのようなものはありません。私は、携帯電話も持っていませんでした。

▪️翌日、西宮市の知人の皆さんのことが気になり、上ヶ原にある母校・関西学院まで、西宮北口から歩いて行きました。梅田でお寿司と水を購入して、阪急電車に乗りました。阪急電車は、西宮北口までは動いていたのです。電車の中は、私と同じように飲み水や食料の入った袋をさげている人ばかりでした。車窓から見える沿線の風景もどんどん変化していきました。梅田の街の被害はよくわかりませんでした。ビルの上の看板が外れていたことは記憶しています。ただ、尼崎のあたりから車窓からも被害を確認できるようになりました。そして、西宮に入ると、途端に被害が増えていることがわかりました。これは、あくまで私の記憶の中にある印象にしかすぎないのですが。

▪️西宮北口から歩き始めました。重い瓦を載せた古い立派なお屋敷は潰れていました。その一方でハウスメーカーの住宅だけはしっかり建っていたことに驚きました。重い瓦は、台風で屋根が飛ばされないようにということなのだと思いますが、その重みが直下型地震では耐えられなかったのでしょうか。街の中が大変な状況になっているのを見ながら、母校のある上ヶ原方面に進んでいきました。すると、学生時代、フランス語の文法の再履修でお世話になったKo先生にお会いしました。少し、放心されたような表情をされていました。心配になりキャンパスに様子を見に行かれたのではないかと思います。

▪️関西学院大学の正門まで到着したら、キャンパスの中には入らず、当時、文学研究科の博士課程にいた後輩のアパートを訪ねました。2階建ての古いアパートでしたが、潰れていました。とても心配になりました。近くの学校の体育館を訪ねました。亡くなった方たちのご遺体が毛布に包まれて安置されていました。その中に、後輩がもしいたらと…心配したわけです。あとでわかったことですが、後輩は、伊丹に暮らす親切な友人のところに避難していました。後輩のアパートがあったあたりをウロウロしていると、都市社会学のKu先生がバイクに乗って地域の様子を確認されていました。当時は、仁川にお住まいだったように記憶しています。

▪️そのあとは、論文指導でお世話になっていたT先生のご自宅に向かいました。震災が発生した日の晩、つまり前日のことになりますが、西宮市の仁川にお住まいだったT先生のことを気遣う学会関係者から、奈良の自宅の方に「何かわからないか」と問い合わせの電話がいくつもかかってきていました。仁川は地震で土砂崩れが起き、たくさんの方たちが亡くなっていたいました。そのことが報道されていたのです。T先生の当時のご自宅は土砂崩れの反対側の場所にありました。ご本人ともお会いすることができました。ご家族ともにご無事でした。T先生は副学長だったということもあり、そのあとは地震への対応に先頭に立って取り組まれました。そのことは、関西学院の記録にもきちんと残っています。

▪️T先生から、お世話になっていた事務職員のAさんが土砂崩れで亡くなられたことをお聞きしました。ショックでした。Aさんは、私が大学の合格発表の後、入学手続きに必要な書類を手渡してくださった方でした。学部生時代、大学院生時代、いろいろお世話になった方でした。ゼミの先生と深酒をして、翌日、酒の臭いがすることに気が付かれたAさんから叱られたこともあります。Aさんが亡くなったことをお聞きした後、T先生と一緒に先生の車で大学のキャパスに向かいました。そして、持ってきた飲料水と食料、大した量ではありませんでしたが、大学の職員さんたちにお渡しし、私は、関学の若手教員のOさん夫妻がお住まいのマンションに向かいました。歩いていると、どこからともなく漂ってきた都市ガスの臭いがしました。

▪️Oさんのマンションに到着しました。Oさんご夫妻は怪我もなく安心しました。しかし、室内は無茶苦茶な状態でした。震災のショックで何もやる気が起こらず、また水道も出ないため、水代わりにご自宅にあったシャンパンを飲んでおられました。奥様からは、地底からゴジラが飛び出してくるような感じがしたという説明をお聞きしました。大阪の梅田あたり、見た目は被害がほとんどないように見えたというと、とても驚いておられました。十分な情報はないし、自衛隊の救援もまだでした。今とはかなり状況が違っています。そのあと、Oさん夫妻と再びキャンパスに戻りました。

▪️交差点の信号機は停止していました。そこでは、自主的に交通整理をされている方たちがおられました。水洗トイレの水を確保するためでしょうか、バケツに紐をつけて川の水を汲んでおられる方もおられました。皆さん、ご近所同士で助け合っておられました。インフラがクラッシュしてしまった後、生きていくための自助や共助が見られました。「社会」が新たに立ち上がってくるかのようでした。そのような話をOさんとしたように記憶しています。

▪️たぶんその翌日だと思いますが、職場のバンで救援物資を運ぶことになりました。というのも、同僚のお母様が亡くなられたことから、当時の上司の判断で大量の水などを運ぶことになったのです。神戸まではできる限り高速道路を走りました。入り口には警察官がおられましたが、「ご苦労様です」と一礼され、一台も車が走っていない高速道路で行けるところまで移動しました。職場の車だったので、走ることが許されたのでしょうか。自分が運転していないので、その辺りき記憶が定かではありません。覚えているのは、高速道路を降りた時の神戸の街が異常な混乱状況だったことです。もう晩になっていたと思います。道路はとても渋滞していました。警察のパトカーが中央分離帯に片側の車輪を乗せて逆走していました。そうでもしないと緊急事態に対応できなかったからだと思います。まるで、街が爆撃にあったかのように感じました。

▪️そのような混乱の中を、同僚のお母様のご遺体が安置されている住宅街まで、なんとかたどりつくことができました。その辺りは、ひっそり静まりかえっていました。問題は、どこのお宅なのかがよくわからないことでした。住所からすれば、だいたいこのあたりなんだがなと思って、あるお宅でお尋ねしてみても、「わかりません」と言われてしまいました。普段、ご近所とあまりつながりがなかったのかもしれません。その点については、よくわかりません。ただ、静まり返った高級住宅街の中で、人が集まっている場所がありしまた。企業の独身住宅のようでした。「社縁」を頼りに、被災されたその企業の家族の皆さんが集まってこられていたようでした。「地縁」が希薄になっている地域だからでしょうか、逆に「社縁」で集まった人びとの存在が気になったのかもしれません。

▪️やっと目指していたお宅がわかりました。そのお宅の中では、同僚のお母様のご遺体が安置されていました。ご遺体は死後硬直のためでしょう、右手が頭の方に上がったままになっておられました。手を伸ばした状態で亡くなられたのだと思います。その右手は白い布で覆ってありました。帰路は、混乱する道を避けて再び大津まで戻りました。今だと、スマートフォンのナビを使うのでしょうが。神戸出身の私は多少なりとも土地勘があったので、東灘区の六甲山の山裾の道を抜けて、西宮の甲陽園から母校・関学の横を通って宝塚方面に抜け、もう夜中だったと思いますが、大津の職場までたどり着くことができました。車を運転していた同僚には感謝されました。こういうことが2回あったと思うのですが、もう1回の方はうまく思い出せません。六甲山の山裾の道を抜けたのは、その2回目のことだったかもしれません。

▪️その後、正式に自治体の職員(滋賀県教育委員会)としてボランティア派遣されることになりました。たまたま偶然だと思いますが、派遣先は母校の兵庫県立兵庫高等学校でした。私たちが学んだ校舎はすでにありませんでした。新しい校舎に建て替えられていました。数日、母校の高校でボランティアを行ったように記憶しています。宿泊したのは、かつて本を読んでいた図書館でした。図書館の床で、職場の上司や他の自治体の職員さんたちと並んで、毛布に包まって寝ました。救援物資を、被災者の皆さんが必要とされるものをお渡しすることが私の仕事でした。新しい校舎でしたが、廊下から上を見上げると地震でできた隙間から空が見えたことを記憶しています。教室はもちろんのこと、校庭にもたくさんの被災者がテントを張って避難されていました。校長先生は、被災者の受け入れで大変だったと思います。被災者の方たちがおられる間、後輩の高校生の皆さんは、他の高校で間借りして授業を受けられました。校庭には、たくさんのキャンプ用のテントが張られていましたが、そのテントから通勤されている方もおられるとのことでした。高校に隣接する室内商店街や周囲の住宅も焼け落ちていました。

▪️30年が経過して、だいぶいろんなことを忘れてしまっています。ということで、メモではなく文章にしておくことにしました。

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