「エコな農家」か「農家のエゴ」か 有機は環境にいい? 悪い?

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▪︎Facebookのお「友達」の社会学者が、シェアされていました。対談です。対談のタイトルに惹かれて、さっそく読んでみました。おひと方は、環境社会学の丸山康司さん。お相手は、『小さくて強い農業をつくる』の著者である久松達央さんです。この対談のなかで、以下のような部分があります。

「エコな農家」か「農家のエゴ」か 有機は環境にいい? 悪い?

丸山:そう。それは対応できるし、ある程度はすでに対応されてきたんです。すぐに健康被害が出るような毒物を環境中に放出するようなことは日本ではもうできませんし、そういう工場も存在できません。どこかに悪者がいる解決可能な問題はほぼ決着して、次のステージに入っています。それはモラルに訴えて解決できる段階ではないのに、従前の発想で解決しようとする嫌いがありますね。

久松:よくわかります。全員が加担している問題がほとんどですよね。

丸山:自分自身だけではなく、子孫が被害者になる可能性も含めて、全員が薄く広く加害者であり、被害者である問題です。もちろん、たとえば企業のモラルに問題が残っているケースもありますが、それでも「誰が悪いのか」の問いはもはやあまり生産的ではありません

久松:解に近づかない。

丸山:近づかないですね。たとえばある種の人たちに、化学肥料や農薬を使う慣行農業への忌避感があることは理解できます。でも、忌避感を持たれるモノをなぜ使うのかと、問いを立てないといけない。そこがわかれば、問題は倫理から生産性のステージに移ります。使用量を減らす合理的な理由も出てくるでしょう。使うか使わないか、ではなくて、使っている量が適正なのかを見るステージですね。

 私は慣行農業に忌避感はないけど、農薬使用量には相当に疑問を持っています。使い過ぎじゃないかと思う場面もかなりある。でも仮に農薬や化学肥料が使いすぎだとして、現在は全体の1%しかいない有機農家を10倍にしようとすることと、99%の慣行農家の農薬や化学肥料の使用量を10分の1に減らすことは、環境負荷的には等価なんですよね。

▪︎ひとつ前のエントリーに、こう書きました。「現状の批判的分析を超えて(隠れた問題点や矛盾を指摘し、ぼんやりした社会の方向性を示すだけでなく)、環境問題の解決に資する実質性を伴った研究を本気になってしようと思えば、分野を超えた連携が必要になる」。この前半部分の「現状の批判的分析」とは、対談の中にある「モラルに訴えて解決できる段階ではない」「「誰が悪いのか」の問いはもはやあまり生産的ではありません」という部分と重なりあうところがあります。「モラルに訴えて解決できる」とは、環境に優しい暮らしをしましょう…といったキャンペーンや啓発・啓発が直接的にはあてはまるのかもしれませんが、社会的なマジョリティにとって、また強い言説の元では不可視化されるマイノリティのリアリティを析出し、そこを拠点にマジョリティや強い言説を相対化するための批判的議論を展開していく…、よくみられる「研究戦略」もこれにあてはまろうかと思います。

▪︎では対談でいう「次のステージ」とはどういうことでしょうか。今回の対談だけでは必ずしも明確にはなっていないように思いますが、問題の解決に向けて、多様なステークホルダーと社会の仕組みを組み替えていくために、「知恵を出し、汗をかく」ことなのかなと思います。解決に向けて生産的かつ具体的な展開が社会に生まれてくるような研究である必要があります。対談の本筋から逸れてしまいました。この対談は、まだ続くようです。続きを待つことにしましょう。

【追記】▪︎…と最後に書きましたが、続きはすでにありました。

あらゆる農業はいつか植物工場にたどり着く?

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