280,000アクセス感謝!!
■先日の深夜、アクセスカウンターが、「280,000」を超えました。皆様、ありがとうございます。アクセスカウンターが「270,000」を超えたのは2023年2月10日でした。「200,000」から「210,000」までは「154日」、「210,000」から「220,000」までは「97日」、「220,000」から「230,000」 までは107日、「230,000」から「240,000」までは123日、「240,000」から「250,000」までは「93日」、「250,000」から「260,000」までは「89日」、「260,000」から「270,000」までは「78日」、「270,000」から「280,000」までは「81日」かかっています。こうやって記録を振り返ると、少しずつではありますが、ご覧くださる方が増えていることがわかります。「270,000」から「280,000」までは、平均すれば毎日約123人の方にご覧いただきました。
■このブログを開始したのは、2012年の7月25日です。昨年の7月で開設10年目になっていました。とはいっても、毎回申し上げますが、何か多くの皆さんの役に立ちそうなことを書いているわけではなく、ただ日々の出来事を書いている日記のようなものでしかありません。一人の大学教員の日々の出来事や気がついたことを書いているブログですので、ご覧いただけるだけでありがたいと思っています。心より感謝いたします。
■次、「290,000」に到達するのは、夏期休暇に入る前の頃かと思います。
太陽の塔
■昨日は天気が良い日でした。大阪の吹田にある国立民族学博物館で開催されている特別展「ラテンアメリカの民衆芸術」を観覧することにしました。また、同時に、有名な太陽の塔の中も見学することにしました。内部の見学は、あらかじめネットで予約をしていなくてはいけません。その手続きがなんというか個人的には面倒臭かったのですが、仕方がありません。料金も、ネットで申し込むときにクレジットカードで支払う仕組みになっていました。支払いが終わるとQRコードが配信され、それをスマホで持参して太陽の塔の入り口で提示するのです。また、当日、太陽の塔や国立民族学博物館がある万博公園の入り口で入場券を購入するときは、このことを窓口で申し出て、割り引いてもらうことになっていました。クレジットカードの代金の中に入場料も入っていたからです。
■私は、小学校6年生の時に、大阪で開催された万国博覧会に行きました。当時は広島市に住んでいましたので、夏休みに大阪の親戚の家に泊めてもらい、2日がかりで万博を楽しみました。楽しみました…と書きましたが、長蛇の列で2時間以上も並ばないと入れないアメリカ館のようなパビリオンには、我が家は行きませんでした。我が家のそのような方針のためか、人気のあったテーマ館、太陽の塔にも入った記憶がありません。たぶん、入っていませんね。残念ですけど。というわけで、今回、53年ぶりに内部を見学することにしたのです。見学して、この太陽の塔をプロデュースした芸術家・岡本太郎さんの太陽の塔に込められた思想を実感することにしたのです。
■太陽の塔には、4つの顔があります。「黄金の顔」・「太陽の顔」・「黒い太陽」、そして「地下の太陽」です。未来を象徴する「黄金の顔」は、太陽の塔の一番上に、塔の真ん中あたりの「太陽の顔」は現在を、その裏側の「黒い太陽」は過去を象徴しているのだそうです。そして、内部見学を始める地下の入り口のあたりには、「地下の太陽」があります。現在のものは複製されたものです。現物は行方不明になっているとのことです。この太陽の塔の解説については、この投稿の最後の動画がわかりやすいかと思います。
■岡本太郎は、この1970年に開催された大阪万博の「人類の進歩と調和」というテーマを前提にこの太陽の塔をデザインしたわけですが、心の底からこのテーマを受け入れていたのでしょうか。予定調和的なこのテーマに対しては、どこかで強く反発していたんではないのか。岡本太郎の思想を振り返ると、そのようにどうしても思えてくるのです。探してみました。すると、こういう記事がありました。「岡本太郎が「太陽の塔」を突き刺した真意」。このままでは全部は読めませんが、冒頭に以下のような文章がありました。
科学技術と資本主義一辺倒で豊かさを追い求めてなんとかなる時代は、そのうち行き詰まるぞ、進歩と調和などといっていて未来が拓ける時代は早晩終わりを告げ、本当に人間が生き生きと輝くにはどうすればいいか、根本から見直さなくてはならない時がくる。そのとき何を信じるか。それは「縄文」だ、今こそ縄文を取り戻すべきなのだ。そのような意味を込めて、岡本太郎は万博の真ん中に、この「縄文の怪物」を突き刺した。
【追記】■このような記事も見つけました。「反時代的なものこそが、世代を超えて生き延びる」。
キャリア支援
■私自身はよくわかりませんけど、こういった学生支援は、おそらく他大学も取り組まれているのでしょうね。自分が学生の頃と比較して、格段に「面倒見」が良いなと思います。母校は今、どんな感じなんだろう。
■一人の教員としては「こういう支援策を活用しない手はないよな〜」と思うのですが、どれくらいの学生さん達がこのような支援の取り組みを知っておられるのでしょうか。私がこの立て看板の横を通ってカメラを向けたとき、誰も立ち止まっていませんでした。実際のところ、どれほど利用されているのか、その辺りも私にはよくわかりません。でも、あまり面倒見が良すぎるのも問題かな。情報過多で何を選択すれば良いのかわからなくなりますしね。
「地方の地域社会に根を張って生きる」
■この2冊の雑誌、連休中に読んでみようと思います。おそらく地方の地域社会に関わって生きたいと考える方達が関心を持って読まれるのかなと思います。NHKでも、「いいいじゅー‼︎」という番組がありますね。これは個人的な意見ですが、若い方達の関心が、もっともっと地方の地域社会に向かっていったら良いのになあと思います。うちの大学の学生の皆さんの中にも、ぼんやりとですが、そのような地方の地域社会に関心を持っている人たちがいるように思います。
■もちろん、地元に帰って就職というパターンもあるでしょうが、そうでなはく、周りからの就活の「同調圧力」には距離を置き、グローバル資本主義の最前線で活躍し経済的な豊かさの獲得を目指す…そのような究極の「勝ち組」イメージにも背を向け、たまたま偶然にご縁でつながった地域に学生時代に通い、そのうちに就職先もそこに見つけて定住に至る。「地方の地域社会に根を張って生きる」、そういう人たちがいてもいいじゃないのと思います。あるいは、就職先は都市部でも、二地点居住で都会の住まいと新たな「地元」との間を往復するというパターンもありかな。そういうライフスタイルを気にしている学生さんたちに寄り添って支えていく仕組みが学内にあったらいいのにな…と妄想しています。あくまで妄想ですけど。でも、すべては妄想からスタートし、その後の試行錯誤で妄想は鍛え直されていくのかなと思います。
JR瀬田駅までのウォーキング/田口さんとの再会
■昨日も帰宅時に歩きました。ただしJR瀬田駅まで、たった3kmですが。それでも208kcalを消費しました。いつもより、少し早め、1kmを10分切るスピードで歩いてみました。「だったらジョギングの方がいいやん」と言う方もおられるでしょうね。。まあ、そうなんですが…。でも、昨日はウォーキングでした。卒業生の皆さんは、見覚えのある風景でしょうね。私も、あと2年で瀬田キャンパスから深草キャンパスに引っ越すので、この風景も懐かしくなるはずです。
■1段目の右は、瀬田キャンパスです。ウォーキングをスタートしてすぐの頃。智光館の横のあたり。2段目左は名神高速道路。右は瀬田丘陵からの風景。左に比叡山、右に比良山系が確認できます。真正面に見えるのは、琵琶湖の南湖。3段目は、ずっと駅に近いところにある寿司店の角に置かれている道標です。大学までのバスが通る学園通りと旧東海道とが交差する地点の角にあります。「三條大橋迄で五里余り」、「膳所藩札所より大萱港常夜灯に至る」、「江戸日本橋迄で百二十里余り」、「旧朝倉道信楽より伊勢 桑名に至る」。最初の二つは東海道。一里は、3.92727kmですから、京都の三条大橋までは20km弱、江戸の日本橋までは、約470kmになります。この東海道と交差する道が、現在の学園通りです。龍谷大学の正門の少し北側のあたりに森の中を抜ける道があるのですが、それが信楽に向かう道で。昔は、この細い道を通って伊勢方面に人が歩いていたのでしょうね。
■JR瀬田駅から電車に乗り、昨晩は、大津駅で下車。そして、大津駅前のいつもの居酒屋「利やん」へ。お店に入ったら、びっくりすることがありました。なんと、田口宇一郎さんがいらっしゃいました。私は以前、滋賀県立琵琶湖博物館に勤務していましたが、その時の上司が田口さんでした。初めてお会いしたのは、博物館が開館する以前の開設準備室の時でした。今から、33年前、1992年のことになります。田口さんは、滋賀県庁では、最後は嘉田由紀子知事のもとで副知事を務められた方ですが、私にとっては「社会人の先生」のような方でした。「組織で仕事をすることの本質」を教えてくださった方かと思います。県庁のOBの方とも「私たちは、田口スクールの生徒だよね」と話すことがあります。開設準備室以降、琵琶湖博物館が開設してからも、本当にお世話になりました。結果としてかもしれませんが、いろいろ教えていただきました。
■私が2004年に龍谷大学に勤務するようになってからも、大津駅前のいつもの居酒屋「利やん」で、しばしばお会いしてきました。龍谷大学に関係することでも、表には出ませんが、大変お世話になりました。そういう感じで、田口さんとは「利やん」を通してつながっていたのです。ところが、コロナ禍以降は、そういうことがなくなりました。そんなこんなで、今日、やっとお会いすることができたのです。こんな嬉しいことはありません。田口さんからは、「また準備室時代の面々と、この店に集まって呑もう」との提案をいただきました。以前、「利やん」で集まって同窓会を開いたことがあったのです。いろいろ手配して、関係者にお声がけしようと思います。初代の館長をおつとめいただいた川那部浩哉さんにもご連絡をいたします。昔の職場の皆さんが、また集まることができたら素敵だなと思います。田口さんは81歳、川那部さんは91歳、私は65歳、みんな同じだけ歳をとっていきます。あたりまえのことですけど。
社会学部パンフレットにゼミの卒業生の活躍が掲載されました。
■新しい社会学部の2024年度用の社会学部パンフレットに、ゼミの卒業生である筈井勇太くんが登場していました。彼は、準硬式野球部と教職の両方で頑張っていました。おそらく、教職センターの先生がパンレットにと推薦されたのでしょう。ご本人からLINEで連絡があったのですが、この4月から別の高校に転勤になりました。張り切って仕事をされているようです。卒業生が社会に出てどのように活躍されているのかを知ることは、とても嬉しいことです。筈井くんには、引き続き、お仕事を楽しみつつ、仕事に励んでほしいと思います。
■筈井くんの卒業論文は、「部活動で得たものと生きられた経験-県立高校の野球部を事例として-」というタイトルでした。彼の問題意識というか、卒論の研究の出発点は、野球が好きで高校の硬式野球部に入部したのに、どうしてみんな野球をやめてしまうのだろう…という点にありました。高校野球をはじめとする課外活動のあり方自体に問題があると考え、ご自身と同級生の野球部員だった方達やマネージャーの方達に、高校野球に取り組んでいた時の経験について丁寧にインタビューを行いました。教育社会学的な研究ということになります。優秀論文にはなりませんでしたが、頑張って取り組んだことがよくわかる卒論でした。
■熱心に野球に取り組んでこられたからでしょう。高校教員になってからも、硬式野球部の指導をされてきたようです。筈井くんは大学1年生の時から知っていますが、その頃は、社会科の高校教員になりたいというよりも、硬式野球部の指導者になりたいという気持ちの方が強かったかな。それはともかく、教職課程で適切な指導を受けて成長し、採用試験にも合格して卒業と同時に高校教員になりました。その頑張りを、ゼミの担当教員としてずっと拝見していました。入試パンフレットに登場して、後輩たちのロールモデルになるだけの人物だと思います。
帰宅時に8kmのウォーキング
■昨日のことになります。ウォーキングに取り組みました。昨日のコースは、職場である瀬田キャンパスをスタートして、瀬田の街を抜けて、近江大橋を渡って、最後は京阪の錦駅に到着するコースです。これで401kaclを消費しました。8kgの荷物を背負ってだから、もう少し消費しているかな。健康回復・維持のために運動をもっと行う必要を感じています。今は通勤の帰りの際にウォーキングしていますが、さらに積極的な運動しなくっちゃ。ここ1ヶ月半で5kg減量しましたが、これからも内臓脂肪が貯まらないように努力します。
■ところで、今回は、1kmを11分弱で歩きました。自分としては、特別速くもないけれど、遅くもないスピードです。瀬田キャンパスから自宅までは約21kmです。11分/kmで歩き続けたら、3時間50分ほとで到着できることになります。しょっちゅう、そのようなウォーキングはできませんが、たまにチャレンジしてみるのも良いかなと思っています。週に1回程度であれば、チャレンジしてみようかなと思います。
■それと同時にチャレンジしたいのは、ジョギングですよね。2017年にホノルルマラソンを走ってから、一度も、まともに走っていません。コロナによるパンデミックからは、運動不足がさらにひどくなってしまいました。運動をしないと、筋肉が細くなり、基礎代謝が落ちていくわけですし、足腰が少しずつ少しずつ弱っていきます。定年以前に早期退職された原田達先生、70歳を超えておられますが、今でも20km程度だと軽く走っておられます。フルマラソンでも自己新記録を達成されしまた。すごいなあと思うと同時に、羨ましくもあります。原田先生からは、「また走りましょう」と言われています。原田先生とはホノルルマラソンを一緒に走りました。また、フルマラソンをご一緒できる日がやってくるかな。
「ありがとう 60th ぐりとぐら」特別サイト(福音館書店)
■自分が子どもの頃の気持ちを思い出します。私は子どもの頃から山脇百合子さんの絵がとっても好きでした。『ぐりとぐら』が世の中に出たのは、1963年です。自分の人生でいえば、まだ5歳の幼稚園児の頃です。今私は65歳です。『ぐりとぐら』が出版されてから60周年ということになります。ということで、福音館書店さんの方で、「ありがとう 60th ぐりとぐら」という特別サイトを開設されました。孫が2人いるおじいさんですが、こういう特別サイトが開設されたことをとても喜んでいます。facebookの自分の投稿について調べてみると、誕生50周年記念「ぐりとぐら展」等についてもシェアしていました。
■ただ、少し調べてみて分かったのですが、「ぐりとぐら」の絵を担当された山脇百合子さんは、2022年にご病気でお亡くなりになっていました。享年80歳。年齢からすると私とは16歳しか違いません。もっと年上の方と思っていました。『ぐりとぐら』が世に出た時は、私は5歳で、山脇さんは21歳でした。お若くしてデビューされたのですね。知りませんでした。
■このブログをお読みいただいている皆さんの中にも、幼い頃に「ぐりとぐら」を読んでいたとか、またご自身のお子さんのために読み聞かせをした経験があるという方もいらっしゃるかと思います。ぜひ、「ぐりとぐら」がお手元になくても、地域の図書館等で手に取ってご覧いただければと思います。きっと心に中が暖かい優しい気持ちでいっぱいになると思います。
「MEET BUDDHISM THINKING」/「龍産戦」
■2023年4月29日(土)、5月6日(土)、7日(日) 10:00 - 17:00、西本願寺の白洲 / 白洲内サブテント / 北境内地と龍谷大学大宮キャンパスで、「あなたと地球が、ちょっと良くなる考えに出会う1週間。MEET BUDDHISM THINKING」というイベントが開催されます。7日は龍谷大学吹奏楽部も演奏します。この日、午前中から晩まで、一日参加しながらこの界隈で過ごしてみようと思います。
■5月3日・4日は、関西六大学の「伝統の一戦」である「龍産戦」です。龍谷大学硬式野球部と京都産業大学硬式野球部が戦います。吹奏楽部も応援します。4日ですが、行けるようであれば行ってみたいです。まだ、吹奏楽部が応援している試合に行ったことがありません。龍谷大学を退職する前に、ぜひ龍谷大学の関係者に皆さんと一緒に応援してみたいと思っていました。もし行けるようならば、以前、硬式野球部の監督さんにお願いをして作ってもらったキャップ、「Ryukoku」と入ったキャップをかぶって応援したいと思います。
母の家の庭
■今から7年前の4月24日にFacebookに投稿した写真です。そこには、このような文章を添えていました。この文章にあるばーちゃんとは、母のことです。
ばーちゃんの家の庭がジャングルになっていた。あの可愛らしいカラスノエンドウが、猛烈に猛々しく増殖していた。これはいかんと、施設のばーちゃんの世話は妻に任せて、私は庭の世話を担当。45リットルの袋にギュウギュウに押し込めて4袋の雑草を刈り取った。刈り取った草は、今回は自宅に持って帰って処分。作業前の写真はお見せできない…が、作業後は、このようにスッキリ。午前中は自宅の庭、午後はばーちゃん家の庭(^_^;)。
■この頃、母は、実家の比較的近くにある「老健」(介護老人保健施設)に入所していました。母は、老健から自宅に戻ることはなく、その後、滋賀の老人ホームに移リ、様々な病気を繰り返して2019年1月の正月明けに亡くなりました。母の世話は10年続きました。ほぼ毎週、自宅から片道2時間半ほどかけて通っていました。母の世話はするのですが、母の家の、特に庭の世話まではなかなかできませんでした。この7年前の投稿のように、大変な状態になってから一気に手入れをしていました。その頃は、この庭の世話、100%義務感だけでやっていました。ご近所のご迷惑にならないように。ただ、義務感とはいっても、「やるからには徹底的にやるぞ!!」と気合が入っていました。
■この投稿の時は、すでに奈良のマンションから現在の大津の家に引っ越していました。引っ越した1ヶ月半後かな。今お世話になっている庭師さんに、庭の大規模改修をしていただく前のことでした。自分の両親が庭の世話をきちんとしない人たちだったので、自分が庭のある家に暮らし始めた時、やはり強い義務感で「母の家の庭のようになってしまってはダメだ。庭をきちんと世話しなければ…」と思ってやっていました。でも、まだ実家の庭の世話をしていたときの延長線上でしかありません。ただし、庭の世話をきちんとしないといけないとの思いから、その後、庭師さんに大改修をしていただき、素敵な庭を作っていただきました。そのような庭ができてからですね、庭の世話に夢中になってきたのは。今は、室内にあるたくさんの観葉植物の世話も含めて、自宅から長期間離れることは、ちょっと嫌かな。心配ですから。私がガーデニングにハマる背景には、このような介護をしていた頃の経験があるのです。
■もっとも、今はまだ体が動くからガーデニングもできるのです。いつか、体が動かなくなった時、庭は荒れていくのでしょうね。残念ですが。できるだけ庭の世話をし続けられるように、健康を大切にしなくてはいけないと思うのです。