カテゴリー機能の復旧
◾️ブログの管理上のミスから、カテゴリーを全て消去してしまいました。そのため、改めてカテゴリーを設定して、最初のエントリーからカテゴリーをタグ付けしていくという作業を少しずつ進めてきました。気が向いた時にしか、この作業はできませんでしたが、かなり復旧してきました。まだ、タグ付けを確認しなければならないエントリーも残っていますが、大方は、復旧したのではないかと思います。
「箇条書きばかりしていると…」
◾️立教大学経営学部の中原淳さんが更新されているブログを時々読んでいます。LINEで更新情報の連絡が入るように設定していることもあり、結構な頻度で拝見しています。今日読ませていただいたのは、「『箇条書き』ばかりしていると『頭が悪くなっちゃう』のはなぜか?」という記事でした。
まず罹患してしまうのは、「思いついたまま羅列病(られつびょう)」です。
問題や現象や考え方を「思いついたまま」、それらの関係や、そこに駆動するロジックやストーリーを「ほとんど」顧みないままに、羅列して、「なんか、よく考えたなー、今日頑張っちゃったなー」と勘違いすることが「習慣化」します。
この下位症候群には「プライオリティつけられない症候群」、「ロジックレス症候群」「ストーリーガン無視症候群」というものがつづきます。
要するに、思いついたままを「羅列」するだけなので、概念間の包含関係、論理などを考慮することができないのですね。
◾️ここに書かれていること、前期の担当している科目「地域社会論」の論述式の試験を採点している時にも、同様のことを思いました。論述の試験ですから、学生さんたちもきちんとした文章で書いている「つもり」なのですが、全体を束ねるロジックやストーリーがないので、実質的な内容は箇条書きと変わらないのです。もちろん、きちんとロジックを組み立てて書いている学生さんもおられましたが、多くの場合、そうではありませんでした。採点しながら「orz…」でした。ということで、後期の授業は、前期の定期試験の講評から始める予定です。卒業前には、長い論理的な文章を卒業論文として書かねばなりません。私の勤務している社会学部では、卒論を提出しないと卒業できないことになっています。「箇条書き」的文章しか書けないのでは、卒業できません。私のゼミでは、そのような現代の学生さんたちの傾向を危惧し、ゼミ内の指導でしかありませんが、卒業論文の調査・執筆に時間をかけて個人面談を行い、丁寧に指導をしてきました。もちろん、この個人面談も、自分から進んでしなければ意味がありませんが…。
◾️ところで、私の担当する「地域社会論」は、龍谷大学社会学部のどの学科の学生でも、2年生以上であれば履修できることになっています。そのようなこともあり、前期の履修者は363名になってしまいました。2年生は193名、3年生は143名、4年生(留年生も含む)が27名です。例年ですと、100名程度の履修者ですので、論述式の試験でも採点する上で苦労はありませんでした。試験に加えて、レポートの評価も加算して成績の点数を出すのですが、それほどの苦労ではありませんでした。しかし、今回は非常に苦労しました。試験監督を手伝ってくれた同僚の教員の方からは、「これだけの履修者で論述式とは、自殺行為ですね…」と言われてしまいました。私も、こんなに履修者が多いとは思わなかったものですから、従来通りの方針で試験をすることにしたのです。
◾️そもそも、どうしてこんなに履修者が多いのか。調べてみると、担当している「地域社会論」が金曜日の3次限目に開講されているのですが、その3次限目には、他に履修する授業がほとんどないことがわかりました。履修の動機に関して、学生さんたちにアンケートを取ってみても、「効率良く単位を取得するために、この科目を履修した」とか、「履修できる授業の中でも、関心を持つことができそうだから」というものが半分以上でした(なぜ、この金曜日3次限には履修できる授業が少ないのかの理由については、ここでは書きません…)。こういう動機は、教員としてはあまり嬉しいものではありません。「シラバスを読んで関心を持った」という学生さんは、100名いなかったように思います。なんだか、残念な話しなのですが…。来年以降も、このような傾向が続くことが考えられます。ということで、私の方も、方針を変更することにしました。この変更の中身についても、後期の授業で説明するようにしようと思います。
実家の荷物の処分
◾️86歳の母は、身体が弱り、滋賀県の老人ホームに入所しています。母が住んでいた家を、このまま放置しておくわけにもいかず、処分することにしました。まずは、家の中の「物の処分」です。当初は、自分の力でやろうと思っていましたが、時間ばかり経過し、精神的にも重荷になってきたことから、先週の木曜日、母が住んでいた家の「物の処分」を業者さんにお願いしました。昨日は、この「家の処分」に先立って、諸々の手続きが必要になることがわかり、最寄りの役所に出かけました。そのついでに母の家を見に行くと、家の中はすっからかん。後は掃除だけの状態になっていました。4tトラック3台弱の物があるとの見積もりでしたが、すべて運び出されていました。呆気なくというか…さすがプロですね。あまりの量に途方に暮れていたのですが…。プロはすごいなと思います。
◾️この家は、私が結婚してから建てられた家なので、私自身は特別な思い入れはありません。私からすると、亡くなった父の看病や介護、父が亡くなった後は、母の生活介護や入院のために通った家であり、どちらかといえば「しんどい思い出」ばかりしかありません。庭の草刈りも大変だったな…。とはいえ、気持ちは、少しずつ肩の荷が軽くなりつつある…という感じでしょうか。家の中はすっからかんと書きましたが、業者さんに買い取ってもらえるものは、残されていました。テレビ、カメラ、時計、それからどういうわけかゲームボーイ…。これ、売れるんですね。後は掃除をして、家の処分に取り掛かります。知り合いの行政書士さんと、親戚の不動産屋さんにお願いします。溜まっている仕事に、早く戻らなくてはいけませんので。
◾️これからの時代、子ども達に、私が経験したような苦労はかけられません。そういう時代になってきたと思います。「終活」と「引き継ぎ」をしっかりしなければと、改めて思っています。あっ!忘れていたことがあります。庭木の剪定も業者さんに頼まないと…。いろんなプロにお願いしています。
台風で「京阪石山坂本線」
◾️なんだか、毎日、鉄道の話題ばかりで恐縮なんですが…。今日は、京阪電車です。
◾️昨晩の台風、ものすごい風でしたね。雨戸が強風でガタガタと音を立てて、家自体も少し揺れているような、そんな気持ちがしました。皆さんのお宅や地域はいかがでしたでしょうか。幸いにも、自宅に被害は、ほとんどありませんでした。庭の小さな小さな菜園に植えてある獅子唐が傾いたぐらいでした。それも、エイっと力を入れると元に戻すことができました。
◾️まあ、こんな厳しい台風でしたので、当然のことながら電車は大混乱です。私が利用しているJR湖西線も電車がなかなかこない様子でした。ということで、今日は、京阪石山坂本線を利用して出勤することにしました。かつて「京阪坂本駅」だったわけですが、駅名変更で、現在は「坂本比叡山口駅」になっています。そこまで、家人に車で送ってもらっての出勤となりました。まずは、この石山坂本線で京阪石山駅まで移動しました。問題はここからです。JR石山駅から次の瀬田駅まで、15分遅れでらやってきた超すし詰め普通電車に乗車したのですが、一駅とはいえ、大変でした。あまりの混雑に、小さな赤ちゃんが大泣き状態でした。周りを知らない大人にぐるっと囲まれてしまったわけですから。かわいそうですよね…というか、申し訳なかっです…。
◾️ところで、坂本比叡山口駅には、ホームの端にモニュメントが置かれています。このモニュメントに使われているレール、英国製なんだそうです。京阪創業時の時のレールなんだそうです。なんだかすごいですね〜。ただし、解説板に書かれている「レール記号」とやらは、私にはさっぱりわかりません。
三ツ矢サイダー発祥の地
◾️母の家の中の「物の処分」、今日から始まりました。私は庭の草刈りをしました。汗びしょびしょ。その後は、役所に行って家を処分するための諸々の相談。で、台風が来ていることから、「物の処分」作業は業者さんにお任せして、昼過ぎに帰宅することにしました。帰宅途中、遅い昼食(トンカツ)を食べたのですが、その近くに「三ツ矢サイダー発祥の地」があったな〜と思い出し、近くまで行ってみることにしました。能勢電鉄「平野駅」のすぐそばです。
◾️以下は、ウィキペディアの説明です。
三ツ矢サイダーは、明治時代に宮内省が兵庫県多田村平野(現在の川西市平野3-23-1)の平野鉱泉を用い、炭酸水の御料工場[1]を建造して始まった。後に工場は三菱に払い下げられ、権利は明治屋が得て、1884年に「三ツ矢平野水(みつやひらのすい)」として販売した。平野水は夏目漱石の『行人』、『思い出す事など』にも登場し、1897年に大正天皇の皇太子時代に御料品として採用された。1907年に「帝国礦泉株式会社」[2]が設立され、従来の平野水を元に、砂糖を煮詰めたカラメルやイギリスから輸入したサイダーフレーバーを加えた「三ツ矢印 平野シャンペンサイダー」を発売し[3]、1909年に「三ツ矢シャンペンサイダー」に改称した。
◾️夏目漱石の作品にも登場しますが、宮沢賢治も行きつけの蕎麦屋で、天ぷら蕎麦とこの「三ツ矢サイダー」を注文していたこともよく知られています。今の価格に換算すれば、天ぷら蕎麦が1000円とすれば「三ツ矢サイダー」は1500円だったようです。「シャンペンサイダー」ですしね、高級品ですよね。かつてここにあった工場で生産された「三ツ矢サイダー」は、能勢電鉄で運ばれていました。
◾️この「三ツ矢サイダー発祥の地」のこと、9年前に亡くなった父を病院に連れて行ったり、看病したりしている頃から気になっていました。父が亡くなったあとは、毎週、母の世話をしに行きながらも、ただ眺めるだけでした。余裕がなかったんですね。今日は、昼食に「トンカツ」を食べて、ふと、「もうじき、ここに来ることもなくなるなぁ〜」と思った時に、この「三ツ矢サイダー発祥の地」のことを思い出し、訪れてみることにしたのでした。
子どもの頃のこと
◾️母親が住んでいた家を処分することになり島田。まず最初にやることは、家の中の物を処分することです。手をつけてはいたのですが、とても自分で処分の作業をすることは無理だと観念し、業者さんに頼むことにしました。9年前に亡くなった父親が自宅で小さな小さな会社を経営していたので、その関係の物や書類も多数あり、4トントラックで3台弱の荷物と見積もってもらいました。もちろん、丁寧に仕分けをしてくださるし、処理もしてくださるのですが、それなりにお代金の方も…ということになりました。とはいえ、私の方は、心身的にも物理的な時間についても余裕がなく、作業をお願いするしかありません。
◾️今日から来週にかけて作業が始まり、私も立ち会います。今日ともう1日だけですが…。今日の私はといえば、まず庭の草刈りで汗ピショビショになった後、役所に行って家を処分するにあたっていろいろ諸手続きの相談をしました。大変丁寧に対応していただき、助かりました。世の中はでは、世代替わりの時に、多くの皆さんがこのような煩雑な経験をされているのでしょうね。私は、こいう作業をさっさとできるタイプではないので、心の中ではベソをかきながらやっています。そうそう、夏休みの宿題をたくさん残した子どものような心境です。とはいえ、処分にあたっては、いろんな方に支えていただいており、ベソをかいているわけにもいきません。昨日は、長い間乗らないままになっていた軽自動車の廃車を、車検等でお世話になってきた会社にお願いをしてきました。こんな状況なんですが、週末は学生を引率して湖北の農村に調査に出かけます。「社会調査実習」という授業の調査です。それから、締め切りのある原稿にも取り組まねばなりません。綱渡り状態です。
◾️今日、庭の作業をしている間に、同行した家族は色々大切なものがないか探してくれていました。細かいものがいろいろ発見されます。これは、私と妹が使っていたバッジです。右上は、私が6歳の頃(1964年、昭和39年)通っていた、現在の北九州市小倉北区にある幼稚園のバッヂ。その下は、5歳の頃に通っていた下関市にある幼稚園のバッジ(私、幼稚園は3つ、小学校も3つ、高校は2つ通いました。転園転校の子ども時代でした。父の転勤のためです)。左は妹の物ですね。左上は、音楽教室のバッジで、下は現在の広島市東区にある幼稚園のバッジ。こういうのを捨てずに、大切に記念として保管していたんですね。たぶん、亡くなった父親が保管していたんでしょう。父は、そういう性格だったな〜。
ひさしぶりに「近江鉄道」
◾️昨日は、午前中に八日市にある滋賀県の東近江合同庁舎へ行ってきました。担当している「社会調査実習」でお世話になる方と、事前の簡単な打ち合わせを行いました。今日は自宅の車が使えなかったので、ひさしぶりに近江八幡からは「近江鉄道」を利用することになりました。18分程度の短い「鉄道の旅」でしたが、満足いたしました。ただ、今年の第100回全国高校野球選手権大会で、地元滋賀県の近江高校が悔しいかな負けてしまったので、乗車した電車の先頭には「必勝 近江高校」のヘッドマークをつけてはいますが、ちょっと残念な感じです。心なしかラッピングの「豊郷あかね」さんが寂しそうでもあります。帰り、近江八幡に向かう電車の乗車券は、駅の自動販売機ではなく窓口で購入したので、このような「硬券」でした。懐かしいですね。なんだか嬉しかったりするわけです。
◾️今はもう、どの鉄道会社もほとんどが乗車券は自動券売機で購入するようになっています。自動販売機にはロール紙がセットされており、そこにプリンターで印刷するそうです。裏面には磁気によって乗車に必要な情報が記録されています。しかし、硬券はそういうわけにはいきません。あらかじめ出発する駅名と到着する駅名とを印刷しておかねばなりません。当然のことながら、種類がとても多くなります。近江鉄道は、この種類の多い硬券を収納するための器具(整理棚?!)も窓口の向こうに置かれています。これこれ、これもとても懐かしいわけです。
真野浜での水草除去作業
◾️先日、大津市堅田の真野浜の水草除去作業に参加しました。その時の様子を、この作業に毎日取り組んでおられる「水草は宝の山」=「水宝山」の代表・山田英二さんが録画されていました。コマを落として時間を短縮して見られるように編集してあります。冒頭、左手から白い短パンを履いたやってくるのが私です。
「戦乱と民衆 』(講談社現代新書)
◾️韓国に主張している頃、ネットの記事「一揆はほんとうに『進歩的な勢力』が担っていたのか?気鋭の歴史学者が戦後歴史学に挑む」を読みました。歴史学者の呉座勇一が執筆されたものです。呉座さんは、1980年生まれ。まだ、38歳のお若い方です。国際日本文化研究センターの助教をされています。専門は歴史学の中の日本中世史。『一揆の原理』(ちくま学芸文庫)、『戦争の日本中世史』(新潮選書)、『応仁の乱』(中公新書)、『陰謀の日本中世史』(角川新書)等、たくさんの研究成果を一般の読者も視野に入れて発表されています。
◾️さて、呉座さんの記事、まずはお読みいただければと思います。呉座さんは一貫して「一揆」を研究テーマにされています。興味深買ったのは、「揆が戦後歴史学の花形テーマだったからである。戦後歴史学の意義と限界を見定めるためには、一揆の検討は欠かせない」ということです。そして、戦後歴史学の「メタ理論」や「支配的なパラダイム」でもある「階級闘争史観」を実証的なデータにもとづき相対化しようとされてきたことです。この「階級闘争史観」に関して、以下のように説明されています。
階級闘争は共産主義の基本的な概念で、非常に単純化して説明すると、階級社会において被支配階級が支配階級による搾取を拒否するために展開する闘争のことである。現代風に言えば、反体制・反権力の抵抗運動、といったところだろうか。その究極の形態が、被支配階級が支配階級総体を否定する、つまりは体制をひっくり返す「革命」である。
したがって、戦後歴史学では「日本の人民が権力と闘った歴史」を解明することが最重要の課題となった。このような潮流の中、中世や近世(江戸時代)の一揆は「階級闘争」と把握されるようになった。「過去の歴史において、民衆は一揆を起こして権力と闘った。我々も革命のために闘おうじゃないか!」というロジックである。つまり階級闘争史観においては、一揆は歴史の発展に貢献する「進歩的」な勢力と礼賛されたのだ。
一揆は必ずしも「進歩的」な勢力ではない。民衆が一揆を結び権力に立ち向かったという階級闘争史観は、歴史的事実としばしば矛盾する。戦乱と民衆の関係は、一筋縄ではいかない複雑なものなのだ。筆者も参加した『戦乱と民衆』(講談社現代新書)では、この問題を掘り下げて論じたつもりなので、興味を持たれたかたはご一読いただきたい。
◾️私は歴史学を学んだわけではないのですが、この呉座さんのご指摘には共感するものがあります。どのような学問分野でも、その時々の議論を支配する「メタ理論」や「支配的なパラダイム」が存在していると思います。多くの場合、そこには学問分野内の政治的な力学が作用しており、通常はその力学に自ら従うかのように研究を進めていこうとするからです。表面的には多様な研究が進展しているようでありながらも、メタレベルに注目してみると何を読んでも同じような読後感を抱いてしまうことがあります。「金太郎飴」のようです。こういう冗談を聞いたことがあります。「たとえばね、中華料理の調味料を使うと誰もがそれなりの味の中華料理を作ることができるけれど、それはみんな同じような味でしかない。それと同じような感じなんだよね」。こうなると笑うに笑えません。まあ、そのようなことはともかく、まずは『戦乱と民衆』を読んでみようと思います。なにか良い刺激を得ることができるかもしれません。