『武蔵野地図学序説』(芳賀ひらく)
▪️芳賀ひらくさん(芳賀啓)は、これまで東京の地形や地図に関する書籍を多数出版されてきました。この『武蔵野地図学序説』は最新作です。関西に暮らしていますが、予約しました。好きなんですよね、地図とか地形とか。ひょっとすると、社会学者じゃなくて、地理学者を目指せばよかったのかも…ですね。まあ、これは冗談です。以下はこの書籍の概要です。この概要をお読みいただけばお分かりいただけると思いますが、古い時代からの様々なタイプの地図を駆使しながら、そこに武蔵野台地が「歴史の地層」を分析していくわけですね。私自身は、そのようなお仕事にすごく興味を持っています。
関東平野西部に広がる武蔵野は、気候変動の温暖化により植生遷移し、野焼きや耕作など人間の活動が加わって今日の姿になった。その生成と変容を、古地図、旧版地図、一般地図、主題図など各種地図資料に刻印された情報を手掛かりにたどりながら、各時代の空間認知にアクセスする。旧石器・縄文時代から現代までのロングスパンを射程に捉えた地形謎解き本、大都市東京の地歴を知ることができるビジュアル学習本にして、街歩きのハンドブックとしても最適な一冊。
▪️著者である芳賀さんとは、一度だけですが、お会いしたことがあります。芳賀さんが経営されている出版社「之潮(コレジオ)」から『川の地図辞典』が出版された時、芳賀さんと著者の菅原健二さんがガイドとなって出版記念ウォークのイベントが開催されました。この『川の地図辞典』に書かれた現場を参加者の皆さんとフィールドワークを行いました。2008年3月16日のことになります。イベントの後は、飲み会でもご一緒させていただきました。懐かしいです。当日のことは、以前のブログにきちんと残してあったのですが、そのプログのサービスが終了してしまったため、消えてしまいました。データをきちんと保存しておけばよかったのに…。その頃は、東京にお住まいの建築家や写真家の皆さんと一緒に、東京の街の地形や歴史をフィールドワークをしながら楽しんでいました。懐かしいです。
▪️『武蔵野地図学序説』の目次ですが、以下の通りです。
第1章 武蔵野の東雲
はじめに ターミノロジー 気候変動と「武蔵野」の誕生古代・中世の武蔵野空間認知
第2章 古地図と崖線
地図の時制 植生地図・開析谷・ハケ 「国分寺崖線」の誕生と誤解
第3章 最古の武蔵野図
低地の武蔵野 空白の武蔵野 最古の武蔵野図
第4章 ヤマの武蔵野
武蔵野の「山」 ムサシノAとムサシノB 武蔵野のイドとミチ 武蔵野のツカ
第5章 ミチの武蔵野
線分のミチ オブシディアン・ロードとジェイド・ロード
第6章 ムラヲサの武蔵野
防人歌 長者原遺跡 線刻画縄文土器
第7章 地名の武蔵野
長者地名・殿地名 地点地名・領域地名/地点地図・領域地図 南下する「殿ヶ谷戸」
第8章 地名の武蔵野・続
「殿ヶ谷戸立体」の出現 地名の発生と展開 駅前集落注記 四つの谷戸、そして補足
第9章 彼方の地図と地図の彼方
リアル・マップ/イマジナリー・マップ 地図の定義をめぐって 地図からスマホ・ナビへ 武蔵野の地図と文学
第10章 淵源の地図
地図は国家なり 淵源の地図 江戸後期×明治初期 「フランス式」の残照
第11章 武蔵野のキー・マップ
国絵図と村絵図 輯製二十万分一図と迅速測図 読図の作業とベース
第12章 伝承と伝説の武蔵野
自然災害伝承碑 辺境の橋と国分寺崖線 一万分一地形図 二枚橋伝説 坂と馬頭観音 ふたたび二枚橋伝説
あとがき
▪️武蔵野というと、関西にお住まいの方たちには、あまりピンとこない地域かもしれませんが、ぜひ手に取ってお読みいただきたと思います。出版はまだですが、私予約をしました。
いのちと平和を考える特別公開講演会・シンポジウム 「歴史の忘却に抗して- ガザのジェノサイドと私たち」
▪️龍谷大学宗教部からのメールが転送されてきました。1月15日に開催しました特別公開講演会・シンポジウム「歴史の忘却に抗して- ガザのジェノサイドと私たち」(岡真理 早稲田大学教授)の講演、ならびに入澤崇学長と久松英二教授を交えたシンポジウムの様子をYouTubeにアップしたので視聴してもらいたいという内容でした。岡真理さんはアラブ文学と第三世界フェミニズムがご専門です。来月の中頃まで視聴することができるようです。
▪️岡さんは、この特別記念公演の最初の方で、以下のように話しておられます。私たちは、厳しく問われているのです。
ガザの人々が私たちに問いかけているものというのは、「私たちガザのパレスチナ人というのは人間ではないのですか」、と「私たちはあなたたちと同じ人間ではないのですか」ということです。でもガザのパレスチナ人が、私たちと同じ人間であるなどというのは当然のことです。問うまでもありません。あるとすれば、これは翻って言えば、「この私たち自身は人間であるのか」ということです。あるいは「人が人間であるというのは一体どういうことなのか」ということ。
▪️公演の中では、2023年10月7日の攻撃が開始された直後に、当時のガラント国防大臣が、「我々が戦ってる相手(パレスチナ人)というのはヒューマンアニマル、人間動物なんだと、だからそれに見合った処遇をするんだと、食べ物も燃料も医薬品も入れないということを言ったわけです」と説明されます。「飢え」を武器に使うことで、病弱な子どやたちが飢え死に死なせていくわけです。実際、公演では飢えで究極までに痩せほそり亡くなられた子ども写真を拝見しました。ガラント国防大臣は、自分たちが引き起こしている暴力を正当化するために「ヒューマンアニマル」という言葉が使われているように思います。言葉による非人間化です。ここでは、人権を侵しているという感覚は失せてしまっています。
▪️ここで、自分たち日本人は平和な国に暮らせてよかった…と思っていると、それは暴力だと岡さんは説明されます。ノルウェーの平和学の父と呼ばれている ヨハン・ガルトゥングさんが、平和というのは戦争ではなく戦争がないだけではなく、暴力がない状態のことなんだと再定義し、さらに暴力も3つに分類します。ひとつめは、戦争のような物理的な破壊や殺傷を伴う直接的暴力。ふたつめは、貧困や差別など構造が生み出す構造的暴力。三つめは、文化的暴力です。それは、無知や無関心が引き起こす暴力です。岡さんは、「イスラエルで何が起きたのか、そしてそれ以降ガザで何が起きているのか」の有様と本質、この出来事の文脈や歴史的背景を、日本も含めた西側諸国の主流は世界に伝えていないが、これは文化的暴力なのだと批判されます。もし、文脈や歴史的背景もふくめて批判的に言った途端、「反ユダヤ主義」とレッテルを貼って批判を封じようとするらしいのですが、これも文化的暴力です。
▪️日本のジャーナリズムは、直接的暴力にしか注目せず、停戦になったとしても、構造的暴力が続いているにもかかわらず、報道をしなくなってしまう。岡さんは、これも文化的暴力だと批判されます。そして、ガザで起きている事態が「21世紀のホロコースト」と呼んでも過言ではない状況であるにもかかわらず、そのことを知らない、知らないがゆえに関心を持たないと批判されています。停戦になっても、ガザで暮らし続けていくための基盤(食料、医療、教育、住宅、環境、文化、歴史、知識・知識人…)を根こそぎ破壊するための暴力が継続されているのですが、このまさにジェノサイドが継続されているということを報道しなくなることで、私たちも無関心になってしまう。そのような文化的暴力を強く批判されます。
ガザで起きている事態が 21世紀のホロコーストと呼んでも過言ではない状況である、にもかかわらず、そのことを知らない、知らないがゆえに関心を持たない、そして本来自分たちがこの出来事にどのように関わっているのかということも知らず、無関心なまま行動を起こさない、それによってこの事態を支えている私たちもまた、私たちの意思にかかわらず、この文化的暴力の行使者加害者になって、させられてしまっているということになります。
▪️この続きは、実際にYouTubeの公演をご覧になってほしいと思います。おそらくですが、2月の上旬までは視聴できると思います。
3月のような暖かさ…諸々
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【ウォーキング】
▪️家で仕事をしているとほとんど歩かないことになるので、少しウォーキングをしてきました。いつもの公園から琵琶湖の北湖を眺めると、今日は薄ぼんやり伊吹山が見えました。もっと気温が低ければクリアに見えるのですが、急に3月のような気温になってきて景色はぼやけています。こんなに気温が高いと、琵琶湖の全層循環(琵琶湖の深呼吸)はどうなるのでしょう。心配ですね。
▪️ウォーキングの途中で、公園の端にお地蔵さんや同祖神が祀ってあることに気がつきました。何度もこのあたりは歩いていても、気がついていませんでした。きちんとお花も添えてあります。どなたかが、お世話をされているのでしょうね。もともと、このあたりは里山と農地でした。そこを新興住宅地を造成したのです。これは想像ですが、元々祀っていたものか、工事で見つかったものをここに集めているのではないかと思います。たしか、地蔵盆はやっていませんね。このあたりは小学生以下の年齢の子どもたちがたくさんいるので、よろこぶだろうな。もっとも、私自身は子どもの頃九州にいたので、地蔵盆の経験はありません。先日、「地域エンパワねっと」(社会共生実習)の相談会で、この地蔵盆のことと関連して学生さんと話をすることがありました。この地蔵盆、まちづくりに関連して大切な行事なのではないかと思います。
【鬼門について】
▪️話は変わります。「鬼門」について「あっ」と思ったことがあります。鬼門とは、北東の方角で、鬼が出入りする方角なのだそうですね。災いがやってくる方角なのだそうです。そのためなのか、どうかよくわかりませんが、京都の御所の北東には比叡山延暦寺があります。最澄が鬼門封じのためにこの場所を選んで延暦寺を建立したのか、たまたまなのか。どうなんでしょうね。知識がなくてよくわかりません。
▪️まあ、それはともかくです。地図で京都の御所から北東方面に確かに比叡山延暦寺があります。地図に定規を当てるとよくわかります。で、今日、気がついたのです。御所の北東に延暦寺があって、延暦寺の北東に我が家があることに。京の都の鬼門の方角に暮らしているのです。というか、延暦寺が鬼の侵入を防いでいるとしたら、我が家のあたりは鬼がたくさんいはる場所なのかな。いや、だからどうなんや…って話ではありますし、私が鬼門のことを気にしているわけでもないのですが。
【イサザ豆】
▪️またまた、話は変わります。先日、沖島で作ったイサザ豆をいただきました。この季節、琵琶湖の固有種であるイサザの漁は最盛期のはずです。このイサザ豆は砂糖を使っているので、持病のため一度にたくさんは食べられませんが、ビール(無糖)のあてとして楽しんでいます。本当は、イサザの吸い物とか味わってみたいのですが、どこにでも売っているわけではありませんので。なかなか難しいです。早めに夕飯の買い物に行き、お相撲初場所を「ビール(無糖)&イサザ豆」で観戦しています。
建築家・秋山東一さんのこと
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▪️建築家の秋山 東一さんから、メッセンジャーで「ちょっと冊子をお送りしたいので、ご住所を教えてください」とメッセージをいただきました。「はて?どのような冊子だろう」と思っていたら、写真のような「スタンダード住宅を目指して」という冊子でした。これは、住宅業界紙「新建ハウジング+1」に連載されたものをまとめたものです。「秋山東一のSTOCKTAIKING スタンダード住宅を目指して」というタイトルで、2008年の10月から2010年の10月まで、10回にわたって連載されました。
▪️秋山さんは、住宅設計でとても有名な建築家です。設計のことは何もわかっていないので、どこまで理解できているのか不安なわけですが、この冊子の中の記事を拝読すると、秋山さんの「住宅をつくりだすシステム」、そしてそのことに伴う「思想/哲学」が、OMソーラーハウス→フォルクスハウス→be-h@usと、進化/深化して来たことがわかります。冊子の中に次のような秋山さんの問題意識が書かれていました。記事のリード文です。
かつて日本の家は社会全体で共有する家づくりのスタンダードがあった。職人は同じ工程わに何度も繰り返すことで腕を磨き、腕の良い職人は全国どこでも活躍できた。住まい手が職人と対等に家を語り、職人の腕を批評することができた。200年、300年と世代を超えて現代に残される建築が生まれたのはまとさにそんな時代だった。これに対して今はどうか。住まい手が家づくりから閉め出され、果てには住まい手を無視してつくり手本位の家づくりが横行する。ここ数十年間の日本の住宅の実際ではなかったか。今日本の住宅に必要なことは家づくりのスタンダードをもう一度取り戻すことにある。
▪️お知り合いになった頃ですから、もう20年近く前のことになると思いますが、このリード文を読んで、秋山さんが「家は買うものではく、建てるものなんですよ」とおっしゃったことを思い出しました(なぜ秋山さんと知り合いになったのか。それは、ブログを通じてなんですが、ここでは省略します)。
▪️さて、このようなスタンダード、「住宅をつくりだすシステム」、「思想/哲学」が縦糸だとすれば、横糸にあたるものは、Macやインターネットの登場、全国の地方工務店の皆さんとの設計道場の取り組み、おもちゃのLEGO、ブリキの模型、大きな鉄道模型、『WHOLW EARTH CATALOG』、定常型社会……なんだと思います。現在は、さらにbe-h@us はBEAHAUSに進化/深化されているようです。秋山さんのインタビュー動画を拝見しました。とても興味深いです。「美しいバラック」。こちらもご覧ください。BEAHAUSについて詳しく説明されています。そして、なぜおもちゃなのかが理解できます。ところで、私が今暮らしている家。住宅メーカーのものです。その中古の家をリフォームして暮らしているので、秋山さんの「教え」はいかされていません。
30年前の記憶
▪️30年前、1月17日に阪神淡路大震災が発生しました。その時のことを、文字にしておこうと、このブログへの2017年1月17日投稿に、震災時の自分の記憶にあることをメモにしておきました。メモだったので、それをもう一度読みなおして、もう少しはまともな文章にしてみました。
▪️後に「阪神淡路大震災」と命名された巨大地震の大きな揺れに驚き、ベッドから飛び起きました。2段ベッドに寝ていた子どもたちのところに飛んで行きました。姉は小学校2年生、弟は幼稚園だったと思います。当時は、奈良市に暮らしていました。幸いなことに、少し食器が壊れるぐらいの被害ですみました。いったい何が起こったのか、これまでに経験したことのない巨大地震であることはわかりました。状況がよくわかりません。テレビをつけてみました。すぐに「マンションが倒壊しているらしい」といった情報が耳に届きました。「鉄筋コンクリートの建物が倒壊するって…」、すぐには信じられませんでした。交通機関が麻痺している中、当時、大津市の膳所にあった職場(琵琶湖博物館開設準備室)まで、奈良から頑張って通勤しました。なんとか到着できましたが、午後の2時頃になっていました。職場にあったテレビでの報道を視て、非常に驚きました。今だと、スマートフォンを通して、すぐにいろいろな情報を知ることができるのでしょうが、もちろん当時はそのようなものはありません。私は、携帯電話も持っていませんでした。
▪️翌日、西宮市の知人の皆さんのことが気になり、上ヶ原にある母校・関西学院まで、西宮北口から歩いて行きました。梅田でお寿司と水を購入して、阪急電車に乗りました。阪急電車は、西宮北口までは動いていたのです。電車の中は、私と同じように飲み水や食料の入った袋をさげている人ばかりでした。車窓から見える沿線の風景もどんどん変化していきました。梅田の街の被害はよくわかりませんでした。ビルの上の看板が外れていたことは記憶しています。ただ、尼崎のあたりから車窓からも被害を確認できるようになりました。そして、西宮に入ると、途端に被害が増えていることがわかりました。これは、あくまで私の記憶の中にある印象にしかすぎないのですが。
▪️西宮北口から歩き始めました。重い瓦を載せた古い立派なお屋敷は潰れていました。その一方でハウスメーカーの住宅だけはしっかり建っていたことに驚きました。重い瓦は、台風で屋根が飛ばされないようにということなのだと思いますが、その重みが直下型地震では耐えられなかったのでしょうか。街の中が大変な状況になっているのを見ながら、母校のある上ヶ原方面に進んでいきました。すると、学生時代、フランス語の文法の再履修でお世話になったKo先生にお会いしました。少し、放心されたような表情をされていました。心配になりキャンパスに様子を見に行かれたのではないかと思います。
▪️関西学院大学の正門まで到着したら、キャンパスの中には入らず、当時、文学研究科の博士課程にいた後輩のアパートを訪ねました。2階建ての古いアパートでしたが、潰れていました。とても心配になりました。近くの学校の体育館を訪ねました。亡くなった方たちのご遺体が毛布に包まれて安置されていました。その中に、後輩がもしいたらと…心配したわけです。あとでわかったことですが、後輩は、伊丹に暮らす親切な友人のところに避難していました。後輩のアパートがあったあたりをウロウロしていると、都市社会学のKu先生がバイクに乗って地域の様子を確認されていました。当時は、仁川にお住まいだったように記憶しています。
▪️そのあとは、論文指導でお世話になっていたT先生のご自宅に向かいました。震災が発生した日の晩、つまり前日のことになりますが、西宮市の仁川にお住まいだったT先生のことを気遣う学会関係者から、奈良の自宅の方に「何かわからないか」と問い合わせの電話がいくつもかかってきていました。仁川は地震で土砂崩れが起き、たくさんの方たちが亡くなっていたいました。そのことが報道されていたのです。T先生の当時のご自宅は土砂崩れの反対側の場所にありました。ご本人ともお会いすることができました。ご家族ともにご無事でした。T先生は副学長だったということもあり、そのあとは地震への対応に先頭に立って取り組まれました。そのことは、関西学院の記録にもきちんと残っています。
▪️T先生から、お世話になっていた事務職員のAさんが土砂崩れで亡くなられたことをお聞きしました。ショックでした。Aさんは、私が大学の合格発表の後、入学手続きに必要な書類を手渡してくださった方でした。学部生時代、大学院生時代、いろいろお世話になった方でした。ゼミの先生と深酒をして、翌日、酒の臭いがすることに気が付かれたAさんから叱られたこともあります。Aさんが亡くなったことをお聞きした後、T先生と一緒に先生の車で大学のキャパスに向かいました。そして、持ってきた飲料水と食料、大した量ではありませんでしたが、大学の職員さんたちにお渡しし、私は、関学の若手教員のOさん夫妻がお住まいのマンションに向かいました。歩いていると、どこからともなく漂ってきた都市ガスの臭いがしました。
▪️Oさんのマンションに到着しました。Oさんご夫妻は怪我もなく安心しました。しかし、室内は無茶苦茶な状態でした。震災のショックで何もやる気が起こらず、また水道も出ないため、水代わりにご自宅にあったシャンパンを飲んでおられました。奥様からは、地底からゴジラが飛び出してくるような感じがしたという説明をお聞きしました。大阪の梅田あたり、見た目は被害がほとんどないように見えたというと、とても驚いておられました。十分な情報はないし、自衛隊の救援もまだでした。今とはかなり状況が違っています。そのあと、Oさん夫妻と再びキャンパスに戻りました。
▪️交差点の信号機は停止していました。そこでは、自主的に交通整理をされている方たちがおられました。水洗トイレの水を確保するためでしょうか、バケツに紐をつけて川の水を汲んでおられる方もおられました。皆さん、ご近所同士で助け合っておられました。インフラがクラッシュしてしまった後、生きていくための自助や共助が見られました。「社会」が新たに立ち上がってくるかのようでした。そのような話をOさんとしたように記憶しています。
▪️たぶんその翌日だと思いますが、職場のバンで救援物資を運ぶことになりました。というのも、同僚のお母様が亡くなられたことから、当時の上司の判断で大量の水などを運ぶことになったのです。神戸まではできる限り高速道路を走りました。入り口には警察官がおられましたが、「ご苦労様です」と一礼され、一台も車が走っていない高速道路で行けるところまで移動しました。職場の車だったので、走ることが許されたのでしょうか。自分が運転していないので、その辺りき記憶が定かではありません。覚えているのは、高速道路を降りた時の神戸の街が異常な混乱状況だったことです。もう晩になっていたと思います。道路はとても渋滞していました。警察のパトカーが中央分離帯に片側の車輪を乗せて逆走していました。そうでもしないと緊急事態に対応できなかったからだと思います。まるで、街が爆撃にあったかのように感じました。
▪️そのような混乱の中を、同僚のお母様のご遺体が安置されている住宅街まで、なんとかたどりつくことができました。その辺りは、ひっそり静まりかえっていました。問題は、どこのお宅なのかがよくわからないことでした。住所からすれば、だいたいこのあたりなんだがなと思って、あるお宅でお尋ねしてみても、「わかりません」と言われてしまいました。普段、ご近所とあまりつながりがなかったのかもしれません。その点については、よくわかりません。ただ、静まり返った高級住宅街の中で、人が集まっている場所がありしまた。企業の独身住宅のようでした。「社縁」を頼りに、被災されたその企業の家族の皆さんが集まってこられていたようでした。「地縁」が希薄になっている地域だからでしょうか、逆に「社縁」で集まった人びとの存在が気になったのかもしれません。
▪️やっと目指していたお宅がわかりました。そのお宅の中では、同僚のお母様のご遺体が安置されていました。ご遺体は死後硬直のためでしょう、右手が頭の方に上がったままになっておられました。手を伸ばした状態で亡くなられたのだと思います。その右手は白い布で覆ってありました。帰路は、混乱する道を避けて再び大津まで戻りました。今だと、スマートフォンのナビを使うのでしょうが。神戸出身の私は多少なりとも土地勘があったので、東灘区の六甲山の山裾の道を抜けて、西宮の甲陽園から母校・関学の横を通って宝塚方面に抜け、もう夜中だったと思いますが、大津の職場までたどり着くことができました。車を運転していた同僚には感謝されました。こういうことが2回あったと思うのですが、もう1回の方はうまく思い出せません。六甲山の山裾の道を抜けたのは、その2回目のことだったかもしれません。
▪️その後、正式に自治体の職員(滋賀県教育委員会)としてボランティア派遣されることになりました。たまたま偶然だと思いますが、派遣先は母校の兵庫県立兵庫高等学校でした。私たちが学んだ校舎はすでにありませんでした。新しい校舎に建て替えられていました。数日、母校の高校でボランティアを行ったように記憶しています。宿泊したのは、かつて本を読んでいた図書館でした。図書館の床で、職場の上司や他の自治体の職員さんたちと並んで、毛布に包まって寝ました。救援物資を、被災者の皆さんが必要とされるものをお渡しすることが私の仕事でした。新しい校舎でしたが、廊下から上を見上げると地震でできた隙間から空が見えたことを記憶しています。教室はもちろんのこと、校庭にもたくさんの被災者がテントを張って避難されていました。校長先生は、被災者の受け入れで大変だったと思います。被災者の方たちがおられる間、後輩の高校生の皆さんは、他の高校で間借りして授業を受けられました。校庭には、たくさんのキャンプ用のテントが張られていましたが、そのテントから通勤されている方もおられるとのことでした。高校に隣接する室内商店街や周囲の住宅も焼け落ちていました。
▪️30年が経過して、だいぶいろんなことを忘れてしまっています。ということで、メモではなく文章にしておくことにしました。
年賀状終い
▪️もう何年も前に、何の連絡も差し上げないまま、一部の親戚関係はのぞいて「年賀状終い」をしていました。「失礼なやつだな」と思われているかもしれませんが、それで何か困ることは起こっていないし、どちらからもクレームも表立っては出てきていないので、これで良かったのかなと思っています。それでも、卒業生の方達の中には毎年きちんと年賀状を送ってくださる方たちがおられて、その方達には年賀状を送っています。
▪️「私の場合は」という限定付きの個人的な考えですが、SNSがこれだけ浸透してきて、タイプで文字を打つ方が圧倒的に普通になってきて、日常的にとまでは言わないにしても、あまり会うことのない方の様子もSNSを通して知ることになりました。以前のように、年賀状をいただいて、「そうか〜、元気にしているようだね〜、よかったな〜」とか、「そうか病気をしていたんだね。お互い年だね〜。でも健康回復できて良かったよ」…という思いを持つことはなくなってきました。
▪️そのような背景もあってか、私だけでなく、「年賀状終い」をされる方が少しずつ増えているように思います。ネットのニュースなど拝見すると、加速度がついて来ているようにも思います。日本郵政さんには気の毒な感じですが。でも、郵便代金も高くなったわけですし、仕方がありませんね。企業さんや事業主さんでも、「年賀状終い」をされるところが増えているのではないでしょうか。驚いたのですが、「年賀状終いグッズ」がよく売れているようですね。
▪️以上のような内容のことをfacebookに投稿したところ、いろいろコメントをいただきました。国家公務員されている方は、しょっちゅう、全国各地を異動することになるので、転居通知や年賀状を大切にされてきたようですが、そのような異動がなくなれば年賀状はやめると書いておられました。また、別の方は、還暦を迎え定年となる年の年賀状で「年賀状終い」をお伝えになりました。その年賀状にご家庭で運営されているホームページのURLのQRコードを印刷されたそうです。年賀状のやりとりをされていた方達の中には高齢の方も多く、その点を心配されたようですが、結果的にはまわりの若い世代の方達からQRコードのことを教わって、ホームページをご覧になることができているとのことでした。
▪️大学時代の後輩は、今年も年賀状を例年通り出したそうです。でも、年末に喪中の挨拶が少ないことに気が付かれました。おそらく喪中挨拶は出さず、来た年賀状にだけ寒中見舞いを返すのかなと推測されていました。また、そのあとはそのままフェードアウトされるのではないかとも推測されていました。それでも送られてきた年賀状に「今年で年賀状終い」との記載があった方が数人いらっしゃったようです。ご自身も、「2年連続で出した年賀状に返信がなければ翌年からは送らない」ことにされているようで、ガクッと減るのは再来年からになるとのことでした。きちんとした性格の後輩くんで、システム的に年賀状のことを管理されていることがわかります。また、SNS時代に知り合った人とは年賀状のやり取りはほぼないとのこと。ですから、年賀状をやり取りしているのは30年以上前からの知り合いになるようです。やはり、「年賀状終い」はSNSが大きく関わっていますね。
▪️しかし、その後輩くんからは、同時に「今後一生会わないだろうなと思う相手と年賀状のやり取りする意味があるのか無いのか色々な考え方はあると思いますが、200枚数弱、ハガキが値上がりしても年1回2万円しないくらいのムダというかゆとりはあっても良いかなと考えています」と意見をいただきました。こういうご意見も、素敵かなと思います。自分にゆとりがないのだなと反省もしてしまいます。
▪️別の方から、このようなご意見もいただきました。facebookのようなSNS等を全くやっていない人の場合、「人間関係のメッシュから零れ落ちていく」ことを実感されているとのことでした。自分の意思で周りの人間関係を断捨離されている方は別にして、気がついたときに、どなたとも繋がっていない、話をしたり連絡をしあったりする人がいないという状況は、社会的な孤立の問題にもつながっていくような気がします。
「水俣・京都展」関連記事
▪️京都の「みやこめっせ」で「水俣・京都展」が開催されています。このことにあわせて、小学校時代のクラスメイトで新聞記者の林田英明さんが「希望を見つけに「水俣・京都展」へ~実川悠太さん講演」という記事を書いておられます。林田さんというと、何か居心地が悪いので林田くんと書かせてください。林田くんご本人から「拡散」してほしいとのお知らせをいただいたので、皆様にもお読みいただければと思います。記事の内容は、実川悠太さんの講演会を取材したものです。
▪️実川さんは、NPO法人「水俣フォーラム」理事長をお務めになっています。ご講演の中のジェンダーと公害や環境問題に関わる部分には、良い刺激をいただきました。また、このご講演と関連して、林田さんが紹介されている『SDGsの先駆者 9人の女性とごみ環境』のことも気になりました。読んでみようと思います。林田君の記事、最後の部分です。
実川さんの言葉の端々に、便利さの裏側にあるものも見ようという姿勢が伝わる。「私たちは、遠い加害者でもあり、遠い被害者でもある。そんな暮らしを享受してきたけれど、これは何万年も続かない。さてどうしますか?」と直球で投げかける。水俣病は過去の話ではない。差別や嫌がらせは今もある。水俣病の実相を伝える水俣展はこれまでに26回開催しているが、来月の京都開催は初めてとなる。実川さんは「いかに悲惨かを知ってもらうためではない。こういう人たちがいると知ってもらいたい」と言う。「こういう人たち」は患者だけでなく、水俣病に生き方を迫られ行動してきた多様な人たちも指すに違いない。最後に実川さんはこう語った。「深い絶望があるところに、深い希望がある」。希望を見つけに、京都を訪れてみたい。
眼科での診察
▪️昨日、定期健康診断の結果を大学で受け取りました。また悪いところが出てきました。今度は眼科で診てもらいなさいと指示が出ました。仕事を終えて帰宅する際、浜大津にある眼科医院で診察を受けることにしました。「まあ、そのうちに」と思ってグズクズしていると、「あの時診察を受けていれば…」なんてことになると嫌だなと思ったのです。また、大学の産業医の方に「受診報告書」を12月24日までに提出するようにとの強い指示が出ています。医師にその報告書を書いてもらい、産業医に提出しなければなりません。
▪️さて、受付時間ギリギリでしたが、なんとか診察していただくことができました。定期健康診断の眼底検査は、左右の眼の眼底の写真を撮るだけですが、昨日は、何台もの機器を使って検査していただきました。視力検査も含んでいました。医師の診察の後にも、念のためもう1回写真を撮りました。結果ですが、右眼の「黄斑上膜」が明らかになりました。この病気になると、物や風景が歪んでみえるらしいのですが、私の場合は今のところそうではないので、すぐに治療する必要はないとの診断になりました。ただ、3ヶ月ごとに経過観察をしましょうということになりました。
▪️加齢に伴い硝子体が網膜から離れていくようなのですが、「黄斑上膜」 って、その際に硝子体の一部が黄斑に残ってしまい、それが膜状になると黄斑上膜になるとのこと。う〜ん、よくわかりませんよね。私もあまりよくわかっていません。これから、しっかり勉強します。ひどくなってくると視力が低下してしまうようです。また歪んで見えるようになります。もし状態がひどくなってくるのであれば、手術ということになるのでしょう。糖尿病と血圧はきちんとコントロールできているので、眼に悪い影響は出ていません。幸いなことに、緑内障の様子も全くないとのことでした。これは安心です。ただし、あと10年もすれば加齢にともない白内障になっていきますよとは言われました。まあ、これは仕方がないですかね。紫外線が目に入らないように、予防のために、冬でもオーバーグラスをかけようかな。
▪️糖尿病についてはクリニックで毎日月1回血液検査をしています。歯科医院は3ヶ月ごとにチェック、それに加えて今度は3ヶ月ごとの眼科医院でのチェックが加わりました。財布の中の診察カードがまた増えてしまいました。歳をとるってこういうことなんですね。いっそのこと、大きな病院で、人間ドッグをしっかり受診しましょうかね。身体のオーバーホールです。
三日月と金星
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▪️夕方、歩いて10数分ほどのところにあるスーパーマーケットに夕食の買い出しに行きました。買い物を終えて空を見上げると、三日月と明るく輝く星が見えました。調べてみました。輝く星は金星でした。こういう空を見た時にも、すぐに理解できるようになりたいです。もう少し、星や星座のことも知識が欲しいなと思っています。住んでいる近所だと、明るすぎるのかな、暗闇が足らないのです。でも、滋賀県内だともっと北の方に行けば、たくさんの星座や天の川が見える地域があるのではないかと思います。そいうところで、ゆっくり夜空を眺めて鑑賞してみたいのです。
▪️星座の思い出があります。子どもの頃、習字の教室に通っていました。北九州市小倉区(今は小倉北区)に住んでいたときのことで、小学校4年生だったと思います。習字の教室は、当時住んでいた団地の中にある集会所で行われていました。習字の練習を終えて自宅に帰る時、空を見上げると「オリオン座」が見えたのです。もちろん、突然空を見上げて「オリオン座」がわかるわけはありません。どういう経緯かわかりませんが、事前に「オリオン座」や星座の知識があったのだと思います。その知識でしかわかっていない星座が、目の前にドーンと現れたので、とても驚いたのです。びっくりしました。「これが星座ということなんだ!!」と驚きました。星座に関して、その時の記憶がずっと残っているのです。ちなみに、「字」は、その時以来全く進歩していません。子どもの時と同じレベルです。大人の字が書けません。いつも恥ずかしいく思っています。
成長したクサガメ
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▪️2016年、奈良市から大津市に転居した際、職場の同僚である奥村康仁さんからクサガメ3匹をいただきました。奥村さんがクサガメを大量に飼育されていることを知っていてお願いしてみたのです。2匹ということでお願いしたのですが、どういうわけが3匹いただくことになりました。最初は小さな同じ大きさの赤ちゃんでした。甲羅の縦の長さはおそらく3cm程度だったと思います。あれから8年近く経過しました。今はホームセンターで販売されているコンテナの中で飼育しています。最初は、3匹一緒だったのですが、だんだん3匹のうちの2匹が大きくなり、コンテナも2つに増やしました。右の写真が、我が家に「養子」にやってきた頃のクサガメ。本当にまだ可愛らしいサイズです。
▪️左の写真の、左の方のコンテナの中のカメ、名前は三朗子。メスです。卵を生みます。無精卵ですけど。最初は三郎と呼んでいたのですが、卵を産み始めたので、とりあえず「子」をつけてメスらしく呼ぶことにしました。これが一番大きいのです。甲羅の縦の長さは22cmあります。右のコンテナの中のカメ、二郎子と一郎子。こちらも最初は二郎と一郎でした。無精卵ですが、卵を産み初めて、二郎に「子」をつけました。甲羅の長さは20cm。一郎子は一番小さいのです。性別は不明です。不明なんですが、「3匹姉妹」という設定にして「子」をつけました。甲羅の長さは12cm。一郎子は、もともと体の弱い亀でした。餌を食べるのも他の2匹と比較してとても下手くそでした。視力に問題があるのかもしれません。小さな時は、水カビが体に発生することもありました。毎日消毒してあげていました。そんなこんなで、大きさに差が生まれてしまいました。でも、名前的には長男です。
▪️成長のスピードは少し緩くなってきました。とはいえ、このコンテナでは小さいように思います。もっと大きなケースに替えようかな。専用飼育水槽というのが売っているのですが、値段もそれなりに高いです。どうしましょうかね。悩んでいます。広い敷地だった問題ないのですが、小さな庭のどこに飼育水槽を置こうかなと悩むわけです。結構値段もしますしね。
▪️ところでクサガメたちの最近の様子ですが、暑いうちは、とても元気が良く、近づくと「餌を早くおくれ」とばかりに足をバタバタとさていました。最近は、気温が下がり、コンテナの水温も下がってきたので、ずいぶんおとなしくなりました。カメは変温動物ですからね。これからは餌も控えめにして、冬の冬眠に備えることにします。冬眠までにはお腹を空っぽにしておく必要があります。晩秋の頃、コンテナの中の中に3匹を入れて段ボールで囲って暗くしてやります。すると頭と足を引っ込めて水中でじっとして冬眠するのです。
▪️新陳代謝を極度に落として、来年の春までじっとしています。亀は肺呼吸をするわけですが、冬眠中は総排泄口(肛門と排尿口と生殖口が分かれていません)から入ってくる水の中の酸素を粘膜から吸収したり、皮膚呼吸したりするらしいです。そのことを知った時は驚きました。日陰を作っても真夏はぬるい風呂のようになりますし、真冬は凍る直前まで水温が下がります。かなりの水温差があります。それでも逞しく生きていけるのはすごいです。さすが、2億年以上生き続けてきただけのことはありますね。