農家と妄想を語り合う

■昨日、知り合いの農家(滋賀県外の方)から突然電話がかかってきました。電話の用件とは別に、近況についてお話くださいました。そのかなで、水田に生えてくる雑草、コナギの話になりました。コナギってご存知でしょうか。水田に生えてくるいわゆる雑草の類です。薄紫色の可愛らしい花を咲かせますが、農家にとっては敵なのです。「雑草図鑑」というサイトでは、以下のように説明されています。ここにもあるように、稲にいくはずの栄養を吸い取ってしまうし、しかも果実からはたくさんの種が飛び散るようです。これでは農家は困ります。だから除草剤を撒くわけですね。

1年草。水田1年草広葉雑草の代表的なもので、生育期間は5月~11月頃で、種子から繁殖する。 発生量が多く、しかも養分収奪力が大きい強害草である。(中略)夏に葉柄の基部に数個の青紫色の花が集って、短い房状の花穂をつくるが葉よりは高くならない。開花後、花穂は下向きとなって果実をつくる。果実のなかにはたくさんの種子が入っている。全国各地で見られる。

■ところが、電話をかけてこれた農家は無農薬・有機で米を生産されています。ご自身でコナギも含めた水田雑草を薬品を使わずに、草取り機で除草されています。大変な作業です。ところで、こちらの農家は、仲良しの方達と一緒に、「コナギを食べる集い」を開催される予定です。コナギ、食べられるんです。繊維質で硬いところもあるのですが、きちんと調理すれば食べられるようです。この「コナギを食べる集い」(正式名称はわからないですけど…)にお誘いを受けました。私も都合がつけば参加させていただこうと思っています。

■電話では、このコナギの話から、縄文時代の稲作に話が展開しました。かつては稲作は世弥生時代からと学校で習ったわけですが、現在は、縄文時代にはすでに稲作が始まっていたということが明らかになっています。その前提で、こういった水田雑草も稲と一緒に日本列島に伝わったんではないのかということになりました。今では雑草扱いですが、身近な湿地に稲と同じく食用の植物として栽培されていたのではないのか…という話になりました。もちろん、水田のように手間隙をかけて米を生産するのではなくて、「半栽培」です。自然の湿地に、放置するかのように植えて栽培するんです。縄文時代の米は、生産というよりも栽培程度なんじゃないのかと…そのような話になりました。調べてみると、少し古い記事ですが、以下のような記述があります。

「小林達雄国学院大教授(考古学)の話 縄文時代を考える上で重要な成果であり、努力に大いに敬意を表したい。縄文時代の中期や前期に、断続的にイネが入ってきたとしても不思議ではない。重要なことはイネがあったかなかったではなく、あったとしても縄文経済や食生活に影響を与えなかった点だ。農耕とは呼べず栽培という程度であり、イネは多種多様な食べ物の一つにすぎなかったのだろう。(2005.2.18 共同通信)」

■この小林達雄さんのコメントにあるように、「農耕とは呼べず栽培という程度であり、イネは多種多様な食べ物の一つにすぎなかったのだろう」というところが大切かなと思います。貝塚で捨てられた遺物を見ていくと、当時の縄文人が何を食べていたのかよくわかると思います。よく貝塚から発見されるドングリや栗などの木の実の場合も、今のような果樹栽培とは違うけど、「半栽培」に近い形で身の回りに食料を確保できるようにしていたのではないのか…電話ではそういう話にもなりました。考古学者でもない私たちが、気楽に楽しく、いろいろ妄想を膨らませて話している内容ですが、アカデミックに正確な話なのかどうかは別です。要するに、米は、コナギと同じく湿地に生える食べられる植物だったのではないのか、ということです。加えて、そのような湿地では、魚が産卵したくなるような環境に、少し手をいれて改良していたんではないか、漁具を使って魚を効率的に採取していたのではないか…とか、もう何も根拠はないのですが、ただただ妄想をお互い語り合いました。はい、楽しかったです。

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田んぼの雑草を食べてしまう
■この記事の中には、合鴨農法で有名な古野隆雄さんの話が出てきます。面白い!!

田んぼからは米と肉(合鴨)と魚(水路のドジョウや鯉)とデザート(畔に植えたイチジク)がいただけると言う。 ビールのつまみ(畔の枝豆)だって、得られる。唯一欠けていた野菜はコナギから。田んぼはお米だけを穫る単作の場ではない。

ゆらぐ縄文時代 稲作はどこまでさかのぼる?

縄文人は戦争を誘発する農耕を拒んだ?

「逆開発~アスファルトの駅前を森に戻す」(日経ビジネス記事)


■ちょっと素敵な記事を読みました。『日経ビジネス』のネットの記事です。千葉県のローカル私鉄「小湊鐵道」に関する記事です。まず、タイトルに少し驚きました。だって、「逆開発~アスファルトの駅前を森に戻す」ですから。普通と真逆ですね。だから「逆開発」なんでしょうけど。早速、読んでみましたが、大変興味深いものでした。

■「小湊鐵道」は、房総半島の東京湾側にある千葉県市原市の五井駅から、房総半島の中程にある千葉県夷隅郡大多喜町堀切の上総中野駅までの39.1kmを走るローカル私鉄です。社名の「鐵道」、旧字体なのでまずは「おっ!」と思いますよね。こだわりを感じますね〜。走っている列車も特徴があります。電車ではありません。全線非電化、走っているのは気動車(ディーゼルカー)になります。クリーム色と柿色のツートンカラー、昭和の雰囲気満載です。かつては電化されていない地域がたくさんありました。そこではこのような気動車がたくさん走っていました。私などの年代の人たちは、おそらく懐かしく感じるのではないでしょうか。都市部の鉄道はどんどん新しくなり、機能的にも優れた列車が走ることになっているのだと思いますが、こちらの「小湊鐵道」は、そうではありません。そういう傾向とは異なる方向で経営されているのではないか、そのことが雰囲気から伝わってきますね。

■『日経ビジネス』の記事の内容を紹介することにしましょう。「小湊鉄道」の沿線、私自身は行ったことがないのですが、会社の公式サイトを拝見すると、丘陵地に里山が残る素敵な田園風景が広がっています。ところが、そのような風景を評価するような考え方は、かつては存在していませんでした。高度経済成長期には沿線が観光地化されたようですが、その頃はそのような観光施設も人気があり、人も集まったようです。しかし、その後はしだいに観光地としては寂れていきました。開発されたのに、寂れていったわけです。それは鉄道を利用する人が減っていくということを意味します。そこで、鉄道会社としてどうしたのか、動画や記事をお読みいただきたいのですが、駅の周りのアスファルトを剥がして木や花を植え、駅の周りを森林にしていくのです。「逆開発」。そもそも…というか、もともとこの地域にあった自然環境や風土の中に、鉄道を埋め戻していくということでしょうか。アスファルトを剥がして、周りの自然環境や風土と一体化していく中で、むしろそれを経営上の利点として活かしていくという発想です。鉄道と地域(地域コミュニティや自然環境)とが繋がることで、新しい価値を産み出そうとしているのです。誤解を招いてしまうかもしれませんが、「鉄道の里山資本主義」という言葉が頭に浮かんできました(藻谷浩介さんからお叱りを受けますね…すみません)。

■私は関西に住んでいますから、私鉄というと、都市と郊外を結んで、郊外に住宅地を開発し…というパターンを連想します。阪急の小林一三が生み出したビジネスモデルですね。小林一三は、私鉄経営のビジネスモデルの創造者として知られています。しかし、この「小湊鐵道」は、それとは真逆の発想になります。非常に興味深いです。

「地域と会社の間に境目を作らなければ、自然の持つエネルギーがバランスシートの資産になってくる。悪く言えば、自然を使い倒す。これは理にかなった事業活動だと思う」

 4月下旬。逆開発が始まって1カ月なのに、すでに木々が成長を始めていた。まだ、全体計画から見れば、ほんの一部しか手がつけられていないが、駅前の風景は大きく変わった。鉄道でやってくる若者や家族連ればかりでなく、クルマで通りかかった人々も、様変わりした駅前に集まってくる。枕木で作られたベンチに腰掛け、緩やかに流れる時間を過ごしていた。

■このような発想は、現在の社長の祖父にあたる先代の社長の影響があると記事には書いてありました。先代の社長は画家でもあり、沿線の里山の風景を絵画としてたくさん残した人でした。しかも、昔の駅舎を丁寧にいつまで使い続けることを命じた人です。その辺りのことは、記事の方をお読みいただきたいと思います。記事の最後では、こういう書かれていました。

「開発という字は『かいほつ』という禅の言葉で、自分を気付かせることを言う」。養老渓谷駅に近い宝林寺住職の千葉公慈は、人と人が交錯することで、互いに自分の潜在力に気づくという。地域社会も、来訪者が来ることで、その地が秘めている能力や可能性を発見し、伸ばすことができる。

■その通りだと思います。「反開発」(はん・かいはつ)と言っても、実践していることは仏教でいう「開発」(かいほつ)だったのですね。他者の中に自己には無いものを見出していく=お互いの潜在力に気が付くこと、それが本来地域が持っている可能性を引き出していくわけです。かつて「内発的発展」ということがよく言われましたが、この「反開発」=「開発(かいほつ)」は、どこかでつながっているように思います。

女優 原田美枝子が、制作・撮影・編集・監督- 母のために作り上げた短編ドキュメンタリー『女優 原田ヒサ子』予告

女優・原田美枝子が、自ら制作・撮影・編集・監督を手掛け、母のために作り上げた短編ドキュメンタリー『女優 原田ヒサ子』。認知症が進み、まるで我が事のように娘の人生を語りだした、女優・原田美枝子の母、ヒサ子。認知症の人は、自分が一番輝いていた時代に戻ることが多いけれど、自分以外の人の記憶を語るということは珍しいという。

15の時に映画でデビューして以来、女優の仕事を続けてきた原田美枝子。子供の面倒を見てくれたり、美枝子の女優の仕事を支えてきた母ヒサ子は、認知症が進み、ある時体調を崩して入院した病院のベッドで、「私ね、15の時から、女優やってるの」と語り始めたことに驚き、カメラを回し始めたドキュメンタリー。

母の記憶が娘の人生とオーバーラップしていることに驚いた美枝子は、母の人生を振り返り、母の心の中に残されていた夢を叶えようと思い立つ。

15歳から女優として、黒澤明、増村保造、勝新太郎、深作欣二、平山秀幸といった錚々たる映画監督の作品に出演し、45年もの間カメラの前に立ってきた美枝子が、初めてカメラの後ろから母を見つめる。そこに映し出されたのは、娘と一心同体で生きてきたヒサ子の時間。スクリーンを通してそれを共有し、私たちはそれぞれの人生を振り返る。

美枝子の長男の石橋大河(VFXアーティスト)、長女の優河(歌手)、次女の石橋静河(女優)ら孫たちをはじめ、母ヒサ子の映画を作る美枝子の思いに賛同する人々が協力し、90歳の女優デビューとなる撮影のカチンコボードが叩かれた――
2020年3月28日公開

■私と同い年、同級生になる原田美枝子さんが、ご自身のお母様のために制作したドキュメンタリーだそうです。予告編ですが、何か心に沁み込みます。娘と一心同体で生きた…。いろんな家庭、いろんな親子関係があります。

「かねよ」のうなぎ

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■ずっと自粛続きで、近所のスーパーに買い物に行く、週に1度ほど大学に行く以外は、自宅に籠っていました。やっと、気をつけながら気分転換に外食をしても良いかなという気持ちになり、大津市内のうなぎ料理店に出かけました。ウナギは絶滅危惧種であることから、自然保護、水産業…様々な立場から意見があることを承知しています。あまり自ら進んで食べることはしてきませんでした。昨年は、ほとんど食べていないと思います。食べていれば記憶に残るほど、我が家にとっては高級品です。おそらく今年は最初で最後になるだろうと、大津市内の大谷という場所にある高級うなぎ店「かねよ」に出かけました。

■店内はコロナ対策も万全で、相当気を遣っておられる様子でした。注文したのは、「極上きんし重」。おそらく来年もうなぎを食べることはないだろう…ということで、奮発してしまいました。まる1匹、お重の中にうなぎの蒲焼が入っています。そして、これが「かねよ」さんの特徴なのですが、うなぎの横に錦糸卵になる前のもの(出汁巻玉子状態)が乗っています。こちらのお店では、それを「きんし丼」「きんし重」と呼んでおられます。お店の説明によれば、元々は細かく刻んだ普通の錦糸卵をうなぎに添えていたそうですが、あまりに厨房が忙しかったため、だし巻き卵をそのままのせてお客さんに出したところ、人気が出てきたのでそのままになっている…とのことです。

■お腹いっぱいになり、満足いたしました。この満足感は数年間持続すると思います。

大昔に執筆した論文に関してヒアリングを受けました。

■ヒアリングというと、社会学を専門にしている立場であれば、普通は社会調査でインタビュー、ヒアリングを行うことになります。しかし、昨日は、ヒアリングを受けました。昨日の午後、若い頃に執筆した論文に関して、弁護士の方達からヒアリングを受けることになりました。随分昔のことで、私自身の記憶も曖昧ですし、はたしてお役に立てるのかな…と心配していたのですが、満足されたようで安心いたしました。ヒアリングを受けるために、事前に自分の論文を読み直してみることはもちろんですが、押入れの中にしまってあった調査データ(ノート、カード)を読み直したり、また調査をしたときの録音テープ等も聞き直しました。けっこう、そのことに時間をかけることになりました。

■録音テープを聴きながら、懐かしくもあり、恥ずかしくもあり、あまり成長していないなと残念な気持ちも少しあったりしましたが、大切なことを一生懸命聞こうとしていること、相手の方も一生懸命説明しようとしてくださっていることが、録音から伝わってきました。論文を執筆するにあたってお話を聞かせていただいた皆さんは、もう御存命ではないと思います。皆さん、今の私よりも年上の方たちばかりでしたから。しかし、若い頃の私に、一生懸命お話くださったことが、いったん私を介して、結果としてお話くださった皆さんの地元のお役に立つことができているのだとすれば、何かとても感慨深いものがあります。私の論文や調査が、タイムカプセルみたいな役目を果たしたわけです。

■かつて、大学院時代に指導をしてくださった領家穰先生が、「脇田、やっぱり記述やで」といつもおっしゃていたことを思い出します。その時々の学問の流行や学会内の政治的な力に影響受けてしまうのではなく、丁寧に聞き取ったことを記述すること、領家先生がおっしゃった「やっぱり記述やで」の中には、このような一番わかりやすいレベルはもちろんのこと、そのほかにも幾重にも大切な意味が込められているのですが、それはともかく、2011年5月14日に逝去された領家先生も、ひょっとするとあちらの世界で「やっとわかってきたか」と喜んでくださっているかもしれません。

■私は現在62歳です。80歳過ぎまで健康に生きることができたとしても、その後、自分が残した調査での記述や記録はどうなっていくのでしょうね。簡単に公にするわけにはいかないし、かといって死蔵したまま、子どもたちに廃棄されてしまうのも…。いろいろ考えなくてはいけません。

上田洋平さんと「心象絵図」

◼︎昨日の3年生のゼミでは、ゲストに「心象絵図」で知られる上田洋平さん(滋賀県立大学)をお迎えしました。もちろん、オンライン、Zoomを使ってです。上田さんにはご講演をいただき、その後、あらかじめ上田さんの論文を読んだ学生からの質疑に一人一人お答えいただきました。

絵画制作を通じた地域生活誌の創発 ―心象図法による実践とその展開―

■盛り上がりました。勉強になったなあ。論文にまだ書かれていないこと、この心象絵図に関してはまだまだたくさんあるので、ぜひ活字にしていただきたいなあと思っています。各地でこの「心象絵図」の取り組みが行われるたびに、様々な知見が生まれてくる、そんな感じですね。発案者の上田さんとは別に、「心象絵図」自体が命をもって動き始めている、そのような印象を持ちました。とても素敵なことだと思います。自分の頭の中にある、その思い通りになるのではなく、予想しなかったことが現場で起こる、現場で動き始める、これが大切だと思うんですよね。

■前にも投稿したかもしれませんが、和菓子の「叶匠寿庵」・「寿長生の郷」のスタップの皆さんと一緒に心象絵図を使ったむらづくりに取り組む予定になっています。今日のZoomのゼミには、スタッフの皆さんにもご参加いただきました。ありがとうございました。コロナ禍で、学生たちは外に出かけるわけにはいかないのですが、コロナが一定収束して、次のコロナの大波がやってくる前に、現地で活動できたらなあと思ってます。結構、大学のリスク管理の基準は厳しいものがあります…。

■上田さんからは、ゼミ生同士で「心象絵図」の五感アンケートをやってみたらというアドバイスがありました。実際にやってみたいと思います。上田さん、ありがとうございます。引き続き、ご指導ください。よろしくお願いいたします。個人的な研究との絡みでいうと、流域の心象絵図とか、内湖の心象絵図とか、いろいろやってみたいなあと思っています。時間かかるけどね。

糠漬け

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■糠漬けの記憶。一番古い記憶は、おそらく幼稚園の頃だと思います。だから、今から56年前のことになります。当時は、現在の北九州市小倉北区にある日本住宅公団の団地に暮らしていました。5階建ての1階。今も部屋の番号を覚えています。2215です。22号棟の1階の左から5番目の部屋…という意味になります。3Kの間取りでした。6畳が一間と4畳半の二間、そして小さなキッチン(K)です。ステンレスの流しの下には物が置けるようになっていた。我が家の糠漬けの定位置はその場所でした。

■私の記憶では、糠床は青の蓋のついた琺瑯の容器に入れられていたように思います。その琺瑯の容器の中に入れられた糠床には、何処かの家の糠床が加えられていました。そう聞かされていました。100年漬け続けてきた糠床です(百年床というらしい)。スーパー糠床ですね。糠床は、乳酸菌、酵母、その他の微生物の相互作用で生まれる芸術的な食品ですから、分けてもらった糠床で、我が家の糠漬けのレベルは随分向上したのではないかと思います。父は、その漬物を好んで食べました。特に、胡瓜の少し黄色くなりかけた酸味を増した古漬けが好きだったと思います(私は好きではなかったのですが…)。そうやって、子どもの頃は当たり前のように糠漬けが食卓にのぼっていましたが(同年代の皆さんのご実家でもそうだったと思う)、自分自身が糠漬けの食文化の技を継承することはありませんでした。ということで、飲みに行っても、自分の店で漬けたという糠漬けが出てきたりすると嬉しくなります。知人の家で出してもらったりすると喜んでいただきます。自宅で糠漬けをやっているという人は、相当減ってしまったのではないでしょうか。

■我が家では、浅漬けを自分の家で作る程度で、糠漬けはやったことがありません。ところが、最近、我が家にはこの写真のようなものが登場しました。「この袋がぬか床に!! ぬか漬け体験」と書かれてます。よくスーパー等でも売られていますね。食塩、昆布、辛子、刻み干し椎茸、山椒の入った炒糠と、米糠と乾燥ビール酵母、調味料(アミノ酸)からできた種糠、これで糠床を作るようになっています。調味料が入っているから、完全な糠漬けとは言えないかもしれません。だから「ぬか漬け体験」なのでしょう。でも、そこそこ美味しく食べられます。昨日は、糠床を混ぜて胡瓜と茄子と茗荷を漬けるように言われたので、自分でもやってみました。

【追記】
小倉は糠漬や、糠炊という魚料理(糠床の糠も使って魚を炊く料理)が有名です。もっとも、子どもの時、糠炊を食べた記憶がありません。どのような味なんだろう。このような小倉と糠漬けの歴史は、江戸時代や初めの頃まで遡るようです。ごく簡単にですが、こちらで歴史を確認できますね。小笠原忠真という信州から移封された殿様が、小倉で庶民に奨励したということのようです。ちなみに、茶人でもあり、小笠原家茶道古流を興した人物でもあります。

Daphnis et Chloé Suite No.2 / Joseph-Maurice Ravel バレエ音楽「ダフニスとクロエ」第2組曲 龍谷大学吹奏楽部


■龍谷大学吹奏楽部公式YouTubeで新しく「ダフニスとクロエ」がアップされました。

比良でホタル鑑賞

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20200604hotaru1.jpg■facebookのお友達である山川君枝さんから教えていただいた、比良山の麓にある田んぼの水路に行ってきました。ホタルを鑑賞するためです。湖西線のそばです。写真に撮ったらイマイチですが、肉眼で見るともっと素晴らしいですけどね。ちょっと残念です。今度は、iPhoneで撮影するにしても、Liveで撮影して、長時間露光のエフェクトをかけてみることにします。たぶん、光の残像が残るのではないかと思います(どうだろう…心配)。

■滋賀県は、元々、農村の水辺環境が豊な地域だと思います。かつては、そのような水辺環境を生活の中に取り込み利用してきました。また、水辺環境を汚染しないような工夫もしてきました。ホタルの中でもヘイケボタルは、そのような里の空間の中に生息します。少しだけ栄養塩が混じった水が流れるところだ聞いたことがあります。ホタルが生息するためには、まず幼虫の餌であるカワニナが生息していければなりませんし、カワニナが生息するためにはその餌が必要ということになります。急流ではなく、緩やかな流れで、川岸にも生息に適した自然の残る小川でないといけないようです。昨日は、夜になって鑑賞に行ったので、真っ暗でどのような環境なのかよくわかりませんでしたが、次回は明るいうちに確認をしておこうと思います。

■ところで、山川さんは、北比良地区で農業をしながら、地域の女性の皆さんと一緒に、JR比良駅前にある北比良のアンテナショップ「ほっとすてぃしょん比良」を経営されています。ぜひ、こちらをお読みいただければと思います。2014年春に卒業した脇田ゼミ9期生の安平昂志くんは、卒論に向けての調査で山川さんに大変お世話になりました。おかげさまで「農村女性によるコミュニティビジネス-滋賀県大津市『ほっとすていしょん比良』の事例をもとに-」という卒業論文にまとめることができました。ありがとうございました。

初夏の庭

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■自宅にほぼ篭っています。オンライン会議が集中する日があり、疲れたので、庭に出て休憩しました。小さな庭なのですが、それでも心がやすらぎます。今年はブラシノキがよく咲いてくれた。嬉しいです。ありがとう…とブラシノキにお礼を言いたくなります。

■ところで、オンライン会議になると会議が短くなるという説があります。いろんな大学に勤務されている方たちから伺います。一般に、大学の会議は長くなります。民間企業の方達からすると、余計にそのように感じられるのではないかと思います。ところが、長くなる傾向のある大学の会議も、オンライン化で短くなっているというのです。良いことかと思います。しかし、こうやってオンライン会議に参加していると、自分はあまり会議が好きではないのだな…と改めて思うわけです。
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■さて、庭の話でしたね。小さな庭ではありますが、そこには畑があります。そこにズッキーニとスイートバジル、それからオクラを植えました。ズッキーには花が咲きました。花の咲いているあたりを眺めながら、ズッキーニの実はこんな感じにできるのか…と理解できました。そして、ズッキーニのことをfacebookに投稿したところ、知り合いの方が「ズッキーニには雄花と雌花があって、雌花に雄花の花粉をくっつけてやらないと実はできないよ」と教えてくれました。そうなんだ。知りませんでした。知人の方も、どうもわかっていないんじゃないのかなと勘付いて教えてくださったのでしょう。感謝です。ズッキーニ以外にも、いろいろ夏にむけて花が咲き始めています。ズッキーニの裏には、コバノズイナという低木に花が咲きました。小さな花が房のように連なっています。

■育ちの悪かった大きな鉢に植えたオリーブも、今年はそれなりに花を咲かせてくれました。嬉しいです。一方、昨年は沢山の実を収穫したジューンベリーですが、今年はあまり実がなりません。育て方に問題があるのでしょうが、知識も技もないので、どうしたものかと困ってしまいます。やはり、庭師さんにちゃんと相談をしないといけませんね。庭の奥の方に植えてある、アカンサスに花が咲き始めました。アカンサス、大変大きな植物ですが、どういうわけか我が家に植えてあります。庭師さんは、庭の一番奥の方に、わざと背丈の大きな植物を植えられたのだと思います。トゲのある苞から花が顔を出し始めました。玄関近くでは、ヒペリカム・カリシナム(セイヨウキンシバイ)が咲き始めました。今年は、本格的に芽を伸ばす前に、昨年の枯れたものをきれいに刈り取っていたので、余計に花が美しく見えます。

■こういう花が順番に咲いてくれることに、本当に幸せを感じます。丁寧に世話をしようという気持ちになります。

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