2020年 新年のご挨拶
■昨年の1月に母が86歳で天寿を全うしたことから、新年のご挨拶もそこそこにして、今年のお正月は控えめ⁈に過ごしています。一昨年から、還暦になったことを機に、年賀状での新年のご挨拶も失礼させていただいています。もっとも、年末に東京で働く息子が帰省し、今日はこれから奈良に暮らす娘の家族や、親戚の皆さんとの新年会です。控えめなお正月ではありますが、それなりに楽しんでいます。
■日差しが暖かいので、庭に出て春の準備をしている庭の草木をボーッと眺めています。小さな小さな庭ですが、なんとなく心が安らぎます。大学の仕事だけでなく、学外でもNPO法人「琵琶故知新」の運営、高島の「全国棚田サミット」の支援、大津市大石・田上地域の活性化…といろいろありますが、ボチボチとやっていくことにします。ご理解ください。体調のこともありますが、マイペースでやっていくことにします。どうか、よろしくお願いいたします。
■大学の仕事ですが、定年退職まであと7年となり、いろいろ考えるところがあります。龍谷大学が頑張って取り組んできた地域連携を、次の時代の教学運営の大切な軸にできればと思っています。しかし、私には限られた時間しかありません。できること/できないこと。やるべきこと/やるべきでないこと。そのあたりをきちんと峻別して、若い世代の同僚の皆さんを応援することを基本的なスタンスとして働いていければと思っています。
縦コン
■一昨日は、学生時代に所属していた関西学院交響楽団(通称、関オケ)のビオラパートを中心とした「縦コン」でした。「縦コン」とは、学年を超えて縦につながったコンパ…のことでしょうか。コンパという言葉自体が今や「死語」のような気もしますが、我々の世代はなんと言っても飲み会ではなくて、コンパです。昨日の「縦コン」の正式名称は、「20191228大ビオラ会縦コン」です。
■参加者は48名。そのうちの41名はビオラパートの方達ですが、残りの7名は、他のパートの方達です。私もこの他のパートのうちの1名になます。私の場合、現役時代はずっとバイオリンを弾いていましたが、卒業して大学院に進学してからは、後輩たちの定演でエキストラとして弾いていました。その時代に1回だけ、ビオラを弾いたことがあるのです。内声部のパートに憧れていたのですね。堤俊作さんが指揮をされたベートーベンの交響曲第3番「英雄」でした。ビオラとバイオリンでは奏法が違うのですが、私は我流で、ビオラをバイオリンのように弾いていたと思います(^^;;。ただ、バイオリンの譜面はト音記号ですが、ビオラはハ音記号。最初の頃は、頭の中でト音記号をハ音記号に変換していたので、大変でした。ちなみに、昨日、胸にはったネームカードにはハ音記号がデザインされていました。細かい気の配り方ですね。
■昨日は、1970年に卒業された大先輩から、2018年に卒業されたばかりの後輩の皆さんまで、大勢の方達が集まりました。1970年に卒業された大先輩の頃は、キャンパスは学園紛争でロックアウトされていて、部室にしかいく場所がなかったとか…2018年卒業の方達にはなかなか理解しがたい話かと思います。驚いたのは、1982年卒業の先輩と2018年に卒業された後輩が親子で乾杯のおんどを取られたことです。もちろん、親子でビオラパートです。すごいですよね。年齢の幅はかなり広いです。親子よりは離れていて、場合によれば祖父母と孫くらい…かな。これも、すごいですね。ただ、若い後輩の方達がおられるおかげで、私の卒業年次に近い後輩以上の人たちは、みんな平等に歳をとった感じで、みなさん立派なおじさん、おばさんになっておられました。妙な安心感(^^;;。
■昨日は、東京等の遠方から、この「20191228大ビオラ会縦コン」のためにやってこられた方が何人もおられました。その先輩が途中で帰宅されるということで、後輩のひとりがエールを切って校歌「空の翼」を全員で歌いました。もちろん、最後にも、もう一度「空の翼」。いいですね〜。みんな校歌の1番だけは歌えますね。
■昨日のお店「鳥居」は、西宮界隈では有名な焼き鳥屋さんです。私の学生時代の頃は、阪急仁川駅そばに本店がありましたが、現在では、甲東園駅や昨日の小林駅のそばにもあります。大変有名なお店で、お店のなかがいっぱいな時は、お店の入り口の前にビールのケースを置いて、その上に板を敷いて椅子がわりに使っていました。とても懐かしかったです。ちょっと、味は変化していたけれど…。こうやって昔を懐かしみながら、幸せな気持ちになって、少しずつ歳をとって行けたらいいなあと思います。
■「20191228大ビオラ会縦コン」の会場は西宮市でした。ここから大津の湖西にある自宅まで戻らねばなりませんでした。帰宅に時間がかかるので、多くの皆さんが余韻に浸っているところを、お先にお暇させていただきました。東京に深夜バスで帰るという同級生と一緒でした。タフネスです。女性ですけど。若いな〜。それはともかく、スマホのアプリで帰りの電車を検索。すると…
阪急小林→阪急西宮北口→阪急十三→阪急高槻市→阪急大山崎…徒歩…JR山崎→JR京都→湖西線…
■ずいぶん、乗り換えをしなくてはいけませんが、これが一番早いらしく、アプリの指示通りに帰宅することにしました。JR山崎駅、なかなか素敵な佇まいです。調べてみると、1927年(昭和2年)に建てられた駅舎のようです。入り口のアーチが素敵です。戦前の都市郊外に建設された住宅地の最寄り駅…の雰囲気が出ているような気がします(勝手な妄想ですけど)。そばには、サントリーの山崎蒸溜所があり、アサヒビールの山崎山荘美術館があります。そのイメージともよくあう素敵な駅だと思います。
西日本代表校決定戦〜Western Japan Bowl〜立命館大学vs関西学院大学ゲームハイライト
■母校・関西学院大学アメリカンフットボール部ファイターズ、全日本大学選手権西日本代表決定戦ウエスタンジャパンボウルで、立命館大学パンサーズを21-10で破り、甲子園ボウル出場を決めました。ファィターズの皆さん、おめでとうございます。卒業生として、大変嬉しいです。
■関学は、立命館にリーグ戦では負けたわけですが、今回は、きちんと積み重ねたきた練習の成果を本番の試合でも発揮できたのではないかと思います。今年のリーグ戦では、鳥内監督はいつも自分のチームの試合内容に厳しいことを言っておられたように思いますが、最後は良い結果になりました。一方、立命館は、その逆なのかなと思いました。うまく発揮できなかったのではないかと思います。私はアメリカンフットボールについて全く素人なので、間違ったことを言っているかもしれませんが…。母校を応援していたわけですが、少し残念な気持ちもあります。立命館にもっと力を出してもらいたかった…というのが本音です。その時々の様々な事情があるとは思いますが、本番の試合で全力をきちんと出し切ることって本当に難しいですね。
■立命館大学は、この2015年から2度リーグ優勝していますが、全国8連盟のリーグ代表校によるトーナメント戦で東日本代表校と西日本代表校をそれぞれ決定する方式に仕組みが変わっていることから、2015年に甲子園ボウルに出場して以降は、毎年関学に破れています。つまり来年度は、チームの中に、甲子園ボウル経験者がいなくなるということです。これはチームにとって、とても大きな出来事かと思います。
■今年の関西アメリカンフットボールのリーグ戦、神戸大学の活躍がとても印象に残りました。神戸大学は、2017年には2部に降格しましたが、昨年は復活し、今年は大活躍しています。アメリカンフットボールに限らず、学生スポーツの記録を見ていると、様々な浮き沈みがありますね。ちなみに、我が龍谷大学は、これから入れ替え戦です。本当に頑張って欲しいと思います。おそらく、応援にいきます。12月14日(土)王子スタジアムで14時から、2部1位の大学との対戦になります。龍谷大学の関係者の皆さん、応援いたしましょう。
■大学スポーツにはそのような浮き沈みがあるわけですが、そのような中で、ずっと関学は優勝を争うポジションに居続けています。すごいことだと思います。その関学を率いてこられた鳥内秀晃監督は、今シーズンで監督を勇退されます。1992年に監督に就任されてから27年になります。私は浪人したので学年は違いますが、鳥内さんと同い年です。鳥内さんは、学生主体、学生本位でいつもチームのことを考えておられるわけではありますが、最後、甲子園ボウル優勝で勇退していただきたいと思います。鳥内監督に関連する記事は山のようにありますが、以下の記事は、学生スポーツだけでなく、全ての大学の課外活動に関わる人たちにとって、参考になる記事なのかと思います。私も大学の課外活動に関わっていますが、とても参考になるなと思いました。
【育てる】来季勇退の関学大アメフト部・鳥内秀晃監督「体罰がないから強い」
孫の七五三
■2017年の春に生まれた孫娘は、満年齢は来年の春に3歳になりますが、数え年で3歳ということで、先週の土曜日、七五三参りを行いました。「もう七五三なのか…」と時間の経過に驚きながら、孫の成長を喜んでいます。今は、近くの保育園に通っていますが、いろんなことができるようになりました。
■まずは、写真館にいって撮影を行いました。洋服と着物に着替えて、たくさんの写真を撮りました。孫の母親が3歳の時も、写真館で撮影を行いましたが、その当時とはまったく異なっています。最近は、結婚式の前に「前撮り」をしますが、それと同じような感じでしょうか。いろいろ動きや表情の変化の中で、次々と写真を撮っていかれました。高級デジタル一眼レフですから、見たママを撮ることができます。ジジバカ丸出しですが、素敵な写真がたくさん撮れました。さすがプロのお仕事ですね(残念ながら、孫の写真を公開することはできませんが)。撮影した後は、孫が住む近くのお宮さんへお参りに行きました。孫は、お父さん(義理の息子)と一緒にですが、きちんと作法通りに神様に榊を捧げることもできました。次の「七五三」は6歳の秋になります。4年後はまだ先のようですが、すぐにやってくるでしょうね。
ひさしぶりに、秋山東一さんにお会いしました!!
■先日の投稿「aki’s Märklin & MECCANO」の続きになります。一昨日、午前中から昼過ぎにかけて、孫娘の七五三の宮参が奈良でありました。このことは、また別途、投稿しようと思います。七五三の後は、近鉄の奈良線に乗って大阪の布施駅まで移動しました。そこから徒歩で、建築家である秋山東一さんのイベント「aki’s Märklin & MECCANO」が開催されている会場、木村工務店さんに伺いました。秋山さんのご友人の工務店さんです。最寄り駅は東大阪市の布施ですが、住所は大阪市の生野区になります。大変申し訳なかったのですが、私が到着した時は、ちょうど秋山さんのご講演が終わろうとしている時でした。
■木村工務店さんは、大阪市生野区で開業された3代目。こちらの工務店の作業場が会場でした。戦前に建てられた建物を手を入れて使っているとのこと。ここは、作業場であると同時に、時にはいろんな方達が交流する場にもなっているのですね。なかなか素敵です。ここに、大きなテーブルを設置して、その上に模型のレールを配置しています。普通、鉄道模型というとHOゲージ(レール幅16.5mm)やNゲージ(レール幅9mm)が頭に浮かんできますが、秋山さんのコレクションはOゲージ(32mm)になります。このサイズを鉄道を走らせよとすると、普通の住宅ではかなり難しい…。ということで、秋山さんも、ご自宅以外の広い場所で、何度かこれらの模型を走らせるイベントを開催されてきました。
■写真に写っている黄色い機関車、これはアメリカ大陸を横断する鉄道「ユニオン・パシフィック鉄道」の機関車です。電気ではなく、エンジンで走る機関車です。ディーゼルエンジンで走っていました。じつは、秋山さんのこの鉄道模型のことがずっと気になっていました。私は、小学生の頃、鉄道模型に憧れていました。もちろんHOゲージです。鉄道模型は”King of hobby”と呼ばれるように大人の遊びです。お金がかかります。当然、子どもであった私にはそのようなお金はありません。町の模型屋でHOゲージの台車だけ買ってきて、後は模型のバルサ材や厚紙でボディを作り、秋山さんのOゲージのように黄色く色を塗りました。まだ、「ユニオン・パシフィック鉄道」のことはちゃんとわかっていなかったと思います。ただ、アメリカのディーゼル機関車ということだけで憧れていました。1969年、小学校5年生の時のことです。私は、福岡県の福岡市、博多駅の近くに住んでいました。1969年はアメリカが初めて月面着陸をした年でした。その時の宇宙飛行士アームストロング船長のことを覚えています。翌年は、大阪で万国博覧会「EXPO’70」が開催され、アメリカ館の展示の人気は前年の宇宙飛行士たちが持ち帰った「月の石」でした。もう50年前のことになります。
■秋山さんは、たくさんのお客さんの間を飛び回りながらも、私とも時間をとっていろいろお話ししてくださいました。懐かしかったです。以前、「 Japan Earth Divers Institute」というブログ仲間のグループを作って、時々、東京の町の地形や歴史を楽しむウォーキングをしていました。当時、中沢新一さんの『アースダイバー』が大変話題になっていたことから、自分たちのウォーキングを「アースダイビング」といって楽しんでいました。懐かしいです。その時のことは、秋山さんのブログの以下のリストからご覧いただけます。もちろん、このリストの全てアースダイビングに参加できているわけではありませんが、関西から何度か参加することができました。現在は塩漬けになっている旧ブログ Blog版「環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発」で、私自身も細かく報告しています。
Blog版「環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発」 - 第五回アースダイビング-善福寺川と阿佐ヶ谷住宅地の50年を探る。- (その1)
Blog版「環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発」 - 第五回アースダイビング-善福寺川と阿佐ヶ谷住宅地の50年を探る。- (その2)
Blog版「環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発」 - 第五回アースダイビング-善福寺川と阿佐ヶ谷住宅地の50年を探る。- (その3)
■会場では、この日に出会った方ともお話をさせていただきました。大阪で設計事務所を経営されている方とは、日本でもダーチャのような「セカンドハウスができるのではないか…」というお話で盛り上がりました。ダーチャとは、現在のロシアがソビエト連邦だった時代に政府が国民に与えられた郊外の菜園付きの小さな別荘です。なかには立派なダーチャもあるようですが、一般には、小さな小屋のようなイメージです。ソ連末期、経済的に疲弊している時、国民が自給自足でなんとか生きていくための大切な手段になったといいます。それはともかく、なぜ日本でダーチャなのか…ということなのですが。
■バブル経済の時代、大阪の郊外に無理をして開発された住宅地があります。そういうところは、交通も不便で、公共交通機関もきちんとあまりきちんとしていないことから、車がないと大変不便な土地です。ただし、距離的には大阪に近いわけです。現在は、都心に人気があり、こういう土地は不動産価格が相当低下しているらしいのです。であれば、このような住宅地を「ダーチャ」として利用できるのではないか。普段は都心で暮らし、週末は郊外の「ダーチャ」で暮らす、そういうライフスタイルが可能ではないか…というのがその時の盛り上がった話の中身でした。鉄道以外にも、いろいろ楽しい時間を過ごすことができました。
【追記】■1969年、福岡市に暮らしていた時のことを書きました。少し気になって調べてみました。模型の名前、頭にあるの「模型の王様」という店名でしたが、どうも違うようです。「王様もけい」だったようです。いろいろ調べてみると、あるブログの記事で、「王様もけい」は、博多駅から呉服町のほうに走っていた西鉄に路面電車が店の前を走っていたようです。間違いありません。現在は、息子さんたちが、お店を引継ぎ「新王様もけい」として鉄道模型のお店を営業されているようです。小学校5年生の私が、「アメリンカのディーゼルカーを作りたい」と相談したのは、息子さんたちのお父様だったわけですね。
aki’s Märklin & MECCANO
■私の専門分野は社会学ということになるのですが、私の交友関係といいますか、人のつながりは、そのような専門分野よりもその外部、自分とは異なる他の様々な分野に広がっています。そのよう異なる世界の皆さんとのつながりは、私の人生を豊なものにしてくれているようにも思います。今から15年ほどまえのことになりますが、ちょっとした偶然から、東京在住のブロガーの皆さんが交流されているネットワークに参加することになりました。
■15年前、私は、偶然に見つけたブログ「Kai-Wai散策」の大ファンになりました。写真家のmasaさんのブログです。連日、猛烈な量の熱いコメントを書き送っていました。今も、そのブログをmasaさんは運営されています。ただ、当時とはブログの運営方針が変わり、今はコメントを書くことはできません。しかし当時は、様々な方達がmasaさんのブログを楽しみにしてコメントを書いておられました。またお互いのブログにコメントを書き込みされていました。そうやってそれぞれのブログを通してオープンなネットワークを作って交流を楽しんでおられたのです。そのようなブロガーのネットワークに、突然登場した関西人の私が、連日かなりの分量のコメントを書くようになったのものですから、これまでmasaさんのブログを楽しみにしておられた方たちは驚かれたのではないかと思います。私のコメントを面白がってくださる方たちも多数おられたようですが、なかには眉をしかめておられた方もいらっしゃったかもしれませんね。
■それはともかく、そのようなネットワークの「重鎮」が、住宅設計の分野で活躍されてきた建築家の秋山東一さんでした。秋山さんは、最初、私のコメントを不思議に思われたもしれませんが、にもかかわらず突然現れた私を快く受け入れてくださいました(たぶん…)。何度かお会いして、「JEDI 」=「 Japan Earth Divers Institute」なる怪しくも楽しいグループにも参加させていただき、人気番組「ブラタモリ」のように、地形や歴史を意識しながら東京の街を一緒に丹念に歩かせていただきました。ところが、そのようなブログを通した楽しい交流が突然中断することになりました。2011年の東日本大震災です。masaさんの「Kai-Wai散策」からコメント欄がなくなり、ご自身の作品を発表されるようなスタイルに運営方針を変更されました。また、その頃からfacebookなど様々なSNSが発展してきたことから、かつてほどブログを通しての交流は少なくなっていきました。私も、それまでのブログを塩漬けにして、新たに、教員としての自分の活動を報告するこのブログをスタートさせました。ネット上の交流はfacebookが中心になりました。
■そのような時代の変化の中でも、建築家の秋山東一さんは、ずっとご自身のブログ「aki’s STOCKTAKING」を継続されいます。加えて、facebookにも時々投稿されています。先日の秋山さんからfacebookのメッセンジャーを通して、「大阪にある仲間の工務店の加工場で、趣味の鉄道模型のイベントを開催するので都合が付けばやってこないか」とのお誘いを頂きました。秋山さんは、Märklin(メルクリン)というドイツ玩具メーカーのディーゼル機関車や、 MECCANO(メカノ)というイギリスの玩具メーカの鉄道模型の鉄橋をお持ちなのです。鉄道模型とはいっても、1番ゲージ、軌間は45mmとかなり大きな鉄道模型です。今回のイベントでは、その大きな鉄道模型を広い工務店の加工場を借りて走らせるようです。あわせて、秋山さんのご講演もお聞きすることができるようです。イベントの開催は週末の土日。日曜日は仕事の予定が入っていますが、土曜日は幸いにも予定が入っていませんでした。午前中は孫娘の七五三のお祝いがありますが、午後からは時間が取れるので、秋山さんのイベントに参加させていただくことにしました。
■秋山さんにお会いするのは、何年ぶりでしょうね。おそらく10年ぶりです。楽しみです。
【追記】■秋山さんのイベントの詳しい情報については、以下をご覧ください。
田口宇一郎さんの「瑞宝中綬章受賞を祝う会」
◼︎今日は、田口宇一郎さんの「瑞宝中綬章受賞を祝う会」がびわ湖大津プリンスホテルで開かれました。滋賀県内の自治体、国会、県議会、経済界、様々な団体、県職員OBOG、現職部次長の皆さん、田口さんの受賞をお祝いするために300人を超える皆さんが、お集まりになりました。
◼︎私は、1991年に琵琶湖博物館の開設準備のために滋賀県庁に入庁しました。大学院の博士課程を終えてオーバードクターをしていた時です。その時の、直接の上司が田口さんでした。私の所属は、滋賀県教育委員会事務局文化施設開設準備室で、学芸技師という職名でした。その時、田口さん参事をされていました。翌年の1992年には私のいた準備室は(仮称)琵琶湖博物館開設準備室になり、田口さんはその準備室の室長に。1996年の琵琶湖博物館開館時には副館長に就任されました。その後は、農政水産部環境監、琵琶湖環境部次長、最後は琵琶湖環境部長を歴任され、2002年に滋賀県庁を退職されました。退職後も、滋賀県理事員、滋賀県政顧問に、そして2008年からは2013年までは嘉田由紀子知事のもとで副知事をされました。その他にも、財団法人近江環境保全財団理事長、滋賀県産業支援プラザ理事長、滋賀県文化振興事業団会長等も歴任されています。
◼︎私は田口さんが農政水産部次長をされている時に、滋賀県庁(滋賀県立琵琶湖博物館)から岩手県立大学に異動することになりました。田口さんのもとで仕事をしていたのは6年ほどでしかありませんが、結果として「組織で仕事をするとはどういうことなのか」「組織でどういうふうに仕事を進めるのか」、そのようなことを教えていただいたように思います。その時の経験が、自分の人生にとってとても大きな財産になっています。そのように意味で、田口学校の生徒のような気がします。2004年に岩手県立大学から龍谷大学社会学部に異動しましたが、それ以来、再び、田口さんには以前と同じようにご指導をいただいています。ご指導いただくのは、大津駅前のいつもの居酒屋「利やん」が多いわけですが(^^;;。もちろん、「利やん」に通っているのは、田口さんのご指導の賜物です。
◼︎さて、これから田口さんとは、人の終末期を地域全体でどのように支えていくのか…そのような課題に、福祉や宗教、そして医療の専門家と一緒に取り組んでいくことになっています。そのことを、またご報告できるかもしれません。
新大宮川の再生、原田先生との再会
■9月11日の投稿は「新大宮川の魚道を復活させよう!」でした。身近な河川の復活に関心を持つ方たちが多数集まり、大津市の坂本の町を流れる新大宮川の魚道を復活させました。私も含めて30人ほどの方たちが作業に取り組みました。その魚道の復活が、その後どのように川の生き物の状況を変えているのかが気になっていました。
■昨日、午前中は、大津市仰木の里自治連合会・大津市役所・龍子大学RECで取り組んでいる「学生まちづくりLABO」の会議でした。そして昼からは、総合地球環境学研究所の「地域連携セミナー」の打ち合わせで滋賀県琵琶湖環境科学研究センターに出かけ、研究員の佐藤祐一さんと色々相談をしました。その際、佐藤さんから、「先日の魚道復活の後、魚道をアユが俎上しているようですよ」と教えてもらいました。昨日は、たまたま車での移動でしたので、帰宅途中、新大宮川に立ち寄ってみることにしました。
■写真をご覧いただくとわかりますが、たしかにアユが俎上できるだけの十分な水量が復活した魚道を流れています。嬉しかったです。復活させた魚道のすぐ下流のところには、たくさんの魚影が確認できました。このことをfacebookに投稿したところ、今回の川の再生のキーパーソンである山本克也さんからコメントが入りました。再生した魚道の上流までアユが俎上していることも教えていただきました。
「脇田先生、これアユですよ。それと、アユの群れは、再生した魚道の上流に上がっています」。
「橋のすぐ上流に結構います。しかも、例年のものより、大きいと思います」。
「同じくらいのサイズのカワムツもいるのですが、アユはクネクネと泳ぎ、横腹が白いです。カワムツは、筋があって直線的に泳ぎます。アユはナワバリ意識が強いためだと思いますが、アユがいるとカワムツは追いやられて近くにはほとんど見あたりません」。
■滋賀県では、毎年、夏の終わりから秋にかけてたくさんのアユが琵琶湖から川に入って産卵します。今回、泥で埋まった魚道を復活させたことで、アユの産卵する範囲が以前と比較して広がったようですね。自分たちの作業がこうやって琵琶湖の生き物のためになっていることを、実際に自分の眼で確認すること、見守り続けること、とても重要ですね。眼で見て、確認して、私自身、とても嬉しいと感じることができました。こうやって身近な河川の「世話」を継続することで、琵琶湖の生態系に寄与できていることに、何か達成感というか満足感も覚えます。
■さて、昨日は、いったん車で帰宅して、それから再び大津の街中に出かけました。社会学部で取り組んでいる「社会共生実習」の「大津エンバワねっと」に関する地域の皆さんとの会議が開催されたからです。「大津エンバワねっとを進める会」です。この会議の後ですが、大津駅前のいつもの居酒屋「利やん」に行きました。3年前に社会学部を退職された原田達先生とお会いする約束になっていたからです。原田先生とは、半年ぶりの再会になりました。先生も、「利やん」には時々お越しになっているようなのですが、私がお店に行くタイミングとなかなか合いませんでした。昨日は、最近の大学のことから、ランニングのこと、世界情勢、特に東アジアの情勢のことまで、様々なお話をさせていただくことができました。原田先生、ありがとうございました。ご退職後、原田先生は本格的にランニングに取り組んでこられました。退職後に、フルマラソンも自己記録を更新されました。すごいです。お店に現れた先生のスタイルは、真面目にランニングに取り組んでおられる人のそれでした。かっこいい。頭もスキンヘッドにされ、少しヒゲもはやされたお姿は、なかなかワイルドです。刺激をいただきました。
敬老の日
◼︎昨日は敬老の日でした。以前は、老いた両親のための日だったように思いますが、その両親もともに亡くなり、自分自身に孫が生まれて私自身が還暦を超えると、今度は、私が感謝の気持ちを伝えてもらう日になっています。
■このメッセージカードは、2歳になる孫娘がプレゼントしてくれたものです。通っている保育園で作ったようです。小さな手に絵の具をつけてカードにスタンプ。これは「象さん」ですね。まだ2歳なのでひらがなは書けませんが、孫の気持ちを両親(娘夫婦)が代わりにメッセージにしてくれました。私が79歳になる時、孫娘は成人します。その時までは、なんとか生きていたいと思います。大丈夫かな。
◼︎先ほど、両親がともに亡くなり、孫娘が生まれ…と書きました。これで完全に世代交代です。プライベートで世代交代したら、仕事でも世代交代しつつあります。これで自然です。ただし、「おじいさん」(老人)のカテゴリーに移り、健康面ではいろいろ心配になります、やはり。「人生100年時代」と政府は高齢者を煽りますが、「政府に頼らずに、いつまでも自力で稼いでくれよな」という裏のメッセージが聞こえてくるかのようです。というか、それが本音だと思います。まずは健康を維持すること、健康寿命を延ばすことが大切になります。あまり自信がありません。両親を看病・介護してきた経験があるからです。そんな簡単ではありません。両親は、息子である私に看病・介護されても当然と思っていたようですが、私が本格的に老人になった時はどう思うでしょうか。多くの同世代の皆さんは、子どもたちには世話になれないと、どこかで思っているのではないでしょうか。やはり、地域の中に、人の最期を支える「共助の仕組み」が必要だと思うわけです。さて、どうしたものか。今、地域にある様々な資源をつなげて、地域の中にその「共助の仕組み」を作れないだろうかと相談を受け、福祉の専門家、僧侶、様々な方達とそのデザインを考えようとしています。うまくいったら良いと思っています。
◼︎すみません。話が逸れてしまいました。昨日の敬老の日、孫のひなちゃんからカードをもらってとても幸せな気持ちになりました。ありがとう。ひなちゃん。
50年ぶりの再会、今度は大津で。
◼︎私は幼稚園の年長クラスから小4まで北九州市の小倉区(現在の小倉北区)に暮らしていました。小学校は、戸畑区にある明治学園小学校という私立の学校に通っていました。たしかカナダのカトリック修道院が経営する学校でした。その学校で、3年生の時に転向してきたのがHくんでした。私は4年生までその小学校にいて、5年生からは福岡市の小学校に転向したので、Hくんとは2年間だけですが、クラスメイトとして過ごしました。本当にたまたまの偶然なのですが、昨年、そのHくんの名前を某新聞社のサイトで見つけたのです。彼は新聞記者になっていました。多くのクラスメイトの名前は記憶していませんが、数名の人たちの名前はいつまでも忘れていません。Hくんも、そのうちの1人です。
◼︎ということで、人づてにHくんに連絡を取って、50年ぶりに大阪で再会することができました。昨晩は、そのHくんが今度は大津にやってきてくれました。Hくんの後輩記者であるOさんとNさんも一緒です。場所は、もちろん、大津駅前のいつもの居酒屋「利やん」。滋賀の地酒を楽しみに来られた酒豪のOさんにお付き合いして、私もいろいろ銘柄を楽しむことができました。ご了解をとるのを忘れたので、皆さんのお顔はモザイクに(^_^;)。