大災害時の大学対応 岩手県立大学総合政策学部「東日本大震災の危機対応記録」

■今から6年前、東日本大震災が発生した時、私は兵庫県の母親の家にいました。一人暮らしの母はすでに身体が弱っており、毎日ヘルパーさんに来ていただき、炊事や洗濯、そして母の身の回りの世話をしていただいていました。加えて、私自身も、ほぼ毎週母親のところに行っていました。ガソリンスタンドに灯油を買いに行き、屋外に設置された石油ファンヒーターのタンクに灯油を入れること、近くのスーパーで買い物をして来ること、神戸灘生協の個別配送の注文表を作成すること、このあたりが私の仕事でした。

■東日本大震災が発生した時、恐らくは買い物中だったように思います。母の家に帰ると、母がこう大きな声で言いました。「あんた、東北が大変なことになっているで」。母は視力をほとんど失っておりテレビを毎日「聞いて」過ごしていました。そのテレビには、岩手県の宮古市が津波に飲み込まれる様子が映されていました。言葉を失いました。翌日からは、岩手県の二戸市に行く予定でしたが、もちろんそのようなことは不可能になりました。

■私は龍谷大学に赴任する前、岩手県立大学総合政策学部に勤務していました。私が2004年に龍谷大学に異動した後も、2011年には半分ほどの教員が退職ないしは他大学に異動されていたように思います。知り合いの教員の方からは、学生の安否確認を必死になって取り組まれていることが伝わってきました。調べてみると、2016年3月に「「東日本大震災の危機対応記録 プロジェクト 報告書 東日本大震災時における岩手県立大学総合政策学部の 危機対応記録」が発行されており、PDFファイルでも読めるようになっていました。以下が、その目次です。「東日本大震災の危機対応記録」プロジェクトメンバーである、金子与止男、Tee Kian Heng、山田佳奈、島田直明、小井田伸雄、以上5名の先生方によって作成された報告書のようです。金子先生以外は、面識のある方達です。

目次
はじめに
第1章 東日本大震災時の危機対応の記録
第2章 総合政策学部における「教職員」の安否確認
第3章 総合政策学部における「学生」の安否確認作業の経緯と課題
1.在学生の安否確認はどのようにおこなわれたのか
2.安否未確認の学生数の推移
3.安否確認作業の「実施主体」としての学部地震災害対策本部の設置と役割
4.「入学予定者」の安否確認はどうあるべきなのか
第4章 学生に対する経済的措置に関する課題
1.岩手県立大学が発表した措置について
2.他大学の対応
3.他大学の経済支援措置を含め、見えた課題
おわりに
資料集目次

■東日本大震災のような大災害が関西で発生した場合、龍谷大学の教員としては自分はどう行動するのか。このことについては、いろいろ考えて来ましたが、一人だけではもちろん話しになりません。学部として、大学として、どのような対応して行くのか。私自身は、全く情報がありません。本学のどこかに、そのような情報があるのでしょうか。それも知りません。これでいいのだろうか…。ダメです。

■こ報告書の最後には、次のような課題も書かれています。

被災した新入学生としては、入学料が免除されても、生活費等の見込みがなけれ ば入学を躊躇すると思われる。在学生も、やはり授業料が免除されても、生活費等の見込 みがなければ退学を考えるかもしれない。生活費等の支援に関しては、今回のような大規 模災害では多くの団体が奨学金を出して、援助を行っているが、奨学金の申請や選考には 時間を要するため、奨学金が給付されるまでの期間の生活費等を確保する必要がある。よ って、入学を希望している被災地(災害救助法適用地域)の学生に対して、就学の機会を できる限り保証するという観点から、被災した学生が入学金と授業料が免除されるのみな らず生活費等の見込みが立つように、大学は経済的支援体制を整えておく必要がある。

【追記1】■災害と大学…で頭に浮かんでくるのは、内田樹さんのブログの以下の投稿です。「ばかばかしくてやってられるか」というタイプや、自分では目の前の状況に対して何もせず、「大学の瓦礫が片づいた頃にきれいな服を着て教員の仕事をするために現れ」、「震災経験から私たちは何を学ぶべきかとか、震災で傷ついた人々の心をどうやって癒したらよいのか、というようなことを教授会でしゃべる」ようなタイプの教員にだけはなりたくないものです。
「2005年01月18日 震災から10年」(1月17日)

【追記2】■学内にも、災害への対応策をきちんと考えておくことが必要だと思う教職員もおられるとは思いますが、私が知る限り、そのようなこときちんと検討してきたかどうか、よくわかりません。

・学生の安否確認
・教職員の安否確認
・地域への対応
・校舎や施設の確認
・授業の再開はどうするか
・成績はどうするのか
・定期試験をどうするか
・入試をどうするか
・学生への経済的支援はどうするのか
・学生のキャリア支援はどうするか
・災害に備えた様々な物の備蓄
・その他諸々

■それぞれ、被害の深刻度に応じて優先順位も異なりますし、考えればきりがありませんが、あらかじめそれなりの備えは必要だといつも思っています。ということを、3月11日にエントリーするだけでは、ダメですね。本当に。

カテゴリーの復旧

■ブログの管理上のミスから、カテゴリーを全て消去してしまいました。そのため、改めてカテゴリーを設定して、最初のエントリーからカテゴリーをタグ付けしていくという作業を少しずつ進めています。やっと、2014年の10月のエントリーまで復旧作業を完了しました。2014年11月から現在まで作業はこれからになります。まだまだ復旧作業に時間がかかります。ご迷惑をおかけすることがあるかもしれませんが、どうかご容赦ください。現在、仕事が多忙なため、作業は予想以上に遅れています。

ひな祭り

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20170303hinamatsuri3.jpg■春が近づいています。少しずつ暖かくなってきました。自宅では、お雛様が飾ってあります。左の豪華な方は、結婚した娘のお雛様です。義父母が娘のためにプレゼントしてくれたものだと思います。11年前に、娘が大学に入学して神戸で一人暮らしを始めた頃から、ずっと「出番」はなかったような気がします。ひさしぶりに、飾ってもらってお内裏様もお雛様もなんだか嬉しそうにされています。もうひとつのお雛様は、ガラスケースに入ったものです。こちらは妻のもの。可愛らしいお雛様ですね。奈良のマンションに暮らしているときは、狭くて飾る場所もありませんでした。今はなんとか飾るスペースも見つかって、こうやって久しぶりに飾ってもらっているわけです。

■ずっと忙しく、庭の手入れをする余裕がないのですが、今日は久しぶりに庭に出てみました。植木鉢に植えた球根から芽が出て、もうじき花を咲かせそう担っていました。クロッカス…かな。例の、定点観測をしているスイセンのような葉の植物もさらに伸びてきています。左が2月2日、真ん中が2月20日、そして右が今日、3月3日です。少しずつ成長してきています。暖かくなると、何か花を咲かせるはずです。今のところ、名前がわかりません。
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■今日の午前中は社会学部教務課で事務処理をして、その後は研究部に移動。資料をチェックするはずだったのですが、今日は事務職員会という集まりが深草キャンパスで開催されるそうで、研究部の事務室は14時には閉まると知らされました。午後から、「公正な研究活動の推進に向けて-社会から信頼と高い評価を得られる研究遂行のために-」という研究部が作成した冊子の原稿をチェックしようと思っていたのですが、残念…。この資料、4月に入って龍谷大学に赴任される新任の教員の皆さんに配布されるものです。新任者研修の際に、説明が行われるのだと思います。とは言っても、その説明は、次の研究部長のお仕事になります。

■というわけで、研究部の部屋で仕事ができません。気分転換も兼ねて研究室の整理整頓を行うことにしました。研究部長を務めたこの2年間で、研究室は物置状態になっていました。このままでは、4月から国内長期研究員になっても研究を行うことができません。といことで、溜まりに溜まった書類を処分する。もう必要ない書籍を処分する。その他諸々のガラクタの類を処分する。研究室の「断捨離」を断行しなくてはいけません。数時間書類の選別を行いました。これだけで、5時間近くもかかってしまいました…。普段から、きちんと整理整頓ができる方たちが、めちゃくちゃ羨ましいです。

【追記】■雛人形について、facebookの「友達」の皆さんに、いろいろ教えていただきました。男雛と女雛の左右の位置についてです。世の中では常識なのかもしれませんが、私はこのことについて全く知りませんでした。男雛が向かって左、そして女雛が向かって右になるのは「関東雛」と呼び、逆に、男雛が向かって右で、女雛が向かって左になるのは「京雛」と呼ぶのだそうです。日本では左側の方か社会的な位が高く、男雛であるお内裏様・殿様は左側に位置してきたというのです。ところが、この「雛人形.jp」というサイトでは、大正天皇を契機に、「関東雛」が一般的になってきたと説明しています。

現在一般的な関東雛は、向かって左にお殿さまがお座りになっていますが、なぜ関東雛はお殿さまが左側になったのでしょうか。
それには大正天皇が関係しているとされています。明治時代、西洋の流れを受けて国際儀礼である「右が上位」の考え方が取り入れられるようになりました。
大正天皇が即位の礼で、洋装の天皇陛下が西洋のスタイルで皇后陛下の右に立たれた事からこの風習が広まったとされています。
明治天皇の時代から皇居は東京に移っておりましたから関東を中心にこのご即位時のスタイルが定番となっていきました。 全国的にも今はこのスタイルが主流となっています。

三寒四温

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■あたふたと年度末の仕事に取り組んでいます。そのような日々のなかで、少しずつ暖かくなってきているのを感じます。まだ、寒い日があると思いますが、寒い日がすぎるごとに暖かさが増していくように思います。今日は春の雰囲気を感じています。そんなことを、自宅近くに咲いている梅の花をみながら感じました。ところで、こういう季節を表現する言葉に「三寒四温」がありますが、どういう自然科学的・気象学的な背景があるのかしりませんでした。こういうことなんですね

三寒四温とは、冬の時期に寒い日が3日くらい続くと、そのあとに比較的暖かい日が4日続くという意味の言葉で、寒暖の周期を表しています。

もとは中国の東北部や朝鮮半島北部で冬の気候を表す言葉として用いられました。冬のシベリア高気圧から吹き出す寒気が7日ぐらいの周期で、強まったり弱まったりすることに由来する言葉とされています。

日本の冬は、”3日間寒い日が続いた後に4日間暖かい日が続く”という周期が現れることはほとんどありません。

その代わり、日本では早春になると低気圧と高気圧が交互にやってきて、低気圧が通過し寒気が流れ込んで寒くなった後、今度は高気圧に覆われて暖かくなり、周期的な気温の変化を繰り返すことが多くなります。

このため、日本においての『三寒四温』という言葉は、本来使われる冬ではなく、寒暖の変化がはっきりと現れる春先に用いられるようになりました。

■学内、学外、年度末の締切のある仕事が次々に迫ってきます。頑張ります。

自分ではわからない方言

■岩手県立大学に勤務していた当時の学生がfacebookでタグ付けされていました。もちろん、卒業してから15年以上たっていますから30歳代後半になりますね。立派な社会人になっています。タグ付された写真で、その学生、いやい卒業生は立派な社会人のオーラを放っていました。彼とはfacebookでのお「友達」なのですが、彼自信によるfacebookへの投稿はほぼ無く、開店休業状態になっています。タグ付けに気がついて、ひさしぶりに彼のページを覗いてみました。すると、彼と「友達」になった時の投稿をすぐに「発見」しました。そこにはこう書いてありました。「申請ありがとうございました。大変、ご無沙汰しております。今は東京の支社に勤務していました。住まいは横浜ですが、通勤で1時間以上かかっています」。標準語だと「東京の支社に勤務しています」になるはずなのですが、どういうわけか過去形になっています。彼は宮城県の塩竈市出身です。

■この「過去形」については、多くの皆さんからコメントをいただきました。

新潟の長岡辺りですと、電話を掛けたときに、自分の名前にでしたと付けます。こんな感じです。「もしもし、脇田さんですか?私、Mでした」となります。これはビックリしました。山形の庄内でも聞いたことがあります。

以前、よく使っていた旅行会社の窓口のお姉さんは、電話をかけて、先方が出たら「●●(名前)でした。」と名乗って、お話を始められる方でした。そういう方言があるというのは、聞いていて、なんかほほえましく見ていたのを思い出しました。

■いただいたコメントから推測するに、電話で受話器をとった冒頭に「〇〇でした」というのは、山形や新潟に集中しているようです。ただし、会話のなかに、過去形が入ってくるのは東北ではよくあるように思います。いやいや、私が住んでいたのは盛岡だから、少なくとも盛岡ではと限定すべきかもしれません。私の経験を少し。私が盛岡に暮らし始めた時、書店のなかで隣の人が携帯電話で、「もしもし、ああ、今、大通りの本屋にいました」と答えていました。その時、「えっ…?今、電話かけているのは本屋じゃないの」と思いました。それが私の勘違いと気がついたのは、盛岡に住んでしばらくしてからでした。関連して調べていると、次のような記事をみつけました。「教えて! goo」です。

私は、東京に住んでいます。この前、岩手に住んでいる人に、「○○さん、いらっしゃいますか?」って電話したら、「出かけてました」って返事が返ってきたので、私は、「じゃあ、お願いします」って言ったら、「だから、出かけてました!」って同じことを言われました。私は、てっきり、さっきまで、どこかに出かけていたけど、今は家に帰ってきているんだなというふうに解釈したのですが、岩手の人がおっしゃるにはそうじゃないみたいなんです。過去完了?みたいな言い方で、「出かけてました」って言われるので、どういうことなのか教えてください。

それから、朝、「今日は、晴れていますか?」って聞いたら、「晴れてました!」って言われたのですが、夜、「今日は一日晴れていました」って言われるのは分かるのですが、朝の段階で、「晴れてました」と既に過去形の形で言われるのが不思議でなりません。もしかしたら、午後から雨になるかも分からないのに・・。
岩手県に住んでいる人の独特の言い回しなんでしょうか?
気になって仕方ありません。どなたか、教えてください。

こんにちは。生まれも育ちも岩手の花巻石鳥谷→東京→震災後、花巻のお隣の紫波という所に住んでいる30代の主婦です。
たしかに「出かけてました」や「晴れていました」は東京の方からすると戸惑うのかもしれませんね。
私は東京の下町に何年か住み使い分けていましたが、岩手県では最大限まで相手を思いやる精神が生きている感じがします。
私は東京時代最初は「晴れています!」や「出かけています!」と、です!ます!とはっきりすっきり言うのが、口では言っても心では相手に申し訳ない気がしました(笑)
東京ですと、全国から沢山の方々が来ますのではっきり言わないと伝わらない状況ですが、
岩手県の人々は一人の人に対してどれだけ気持ち良く思いやれるか?沢山の方々に出会う東京と違い、同じ方に次に会う機会も多いですしどこかで繋がっている感覚があるので、
最大限相手に失礼のないよう気持ち良く過ごせるよう丁寧な言い方が自然に出てきますが、
東京ではどれだけ相手に自分の意志、思いをはっきり伝えお互い分かりあえるか?に気を配り、
岩手ではどれだけ相手を楽しませたり慮れるか?思いやれるか?に気をつける習慣に、私の場合自然になっているようです。
お互い気持ち良く付き合うという感じでしょうか。

■こうなると、単なる方言の意味を超えて、なにかもっとお奥深いメンタリティのようなものを感じます。人間関係の在り方が方言のなかに含まれているわけです。言葉を大切にしなくてはいけない・・・と思ってしまいます。方言ってすごいですね。ところでこの方言の話題、昨日のfacebookでは、東日本、特に東北の方言に話題が集中しまたが、それ以外で私が気が付いたことに、岐阜県や愛知県のものがあります。濃尾平野にお住まいの方からのメールやメッセージでは、「〜してみえる」という表現をしばしばみかけるのです。これは、前後から解釈すると敬語なのだろうと推測しています。おそらく、ご本人は濃尾平野の方言とは意識していないのでしょう。また、和歌山弁についても、教えてもらいました。和歌山では「ざ行」と「だ行」の差が曖昧なのだそうです。そのため、「そうぞう」とキーボードで入力しようとすると、手が勝手に本来であればZのはずが無意識のうちにDを押していて、「そうどう」と入力していることがしばしばある…とのことでした。ひょっとすると、私も「標準語」のつもりで書いていて、実は関西弁の語彙や話し方が無意識のうちに出ているということもあるのではないだろうかと思っています。そんな自分ではわからない方言の奥深さを、自分自身で知りたいと思います。

オバマ大統領“退任演説”ノーカット配信|日テレNEWS24


■オバマ大統領の退任演説です。「日テレNEWS24」で放送されたものの動画です。同時通訳付きです。また、文字でも読むことができます。以下をクリックしてください。

「表に出よう。飛び込め。続けるんだ」これがオバマ大統領退任スピーチ全文だ

The First Lady Honors the 2017 School Counselor of the Year


■いよいよアメリカの大統領がかわります。このことにより、アメリカのみならず世界はどう変わっていくか…不安です。ホワイトハウスで、ミシェル・オバマ大統領夫人の最後のスピーチが行われました。1月6日にホワイトハウスで開催された「2017 全米スクールカウンセラー・オブ・ザ・イヤー」の授賞式でのスピーチです。ネット上ではすごく話題になっていますね。英語全文は、facebookのホワイトハウスのページで読むことができます。
ミシェル・オバマ大統領夫人の最後のスピーチ

■スピーチの後半部分、特に”And as I end my time in the White House, I can think of no better message to send our young people in my last official remarks as First Lady. “のところからですが、アメリカの若者に対するメッセージです。ミッシェル大統領夫人は、アメリカドリームといわれるアメリカの可能性は、様々な多様性が生み出したものであり、全ての人々に開かれており、全ての人々に獲得する権利があることを強調します。これは、アメリカ建国の基盤となる考え方ですね。しかし、このようにもいっています。

“But I also want to be very clear: This right isn’t just handed to you. No, this right has to be earned every single day. You cannot take your freedoms for granted. Just like generations who have come before you, you have to do your part to preserve and protect those freedoms. And that starts right now, when you’re young. “

■「何もしなくてもその権利が手渡されるわけではありません」というのです。では、どうすれば良いのか。「この権利は毎日その日ごとに獲得していかなければなりません。自由を当然のものと思ってはいけません。あなたたちが生まれる以前の上の世代の人たちと同じように、人々の自由を守るための自分の役割を果たさなければいけません。そして、それはまさに今、あなたが若いうちから始まるのです」といっています。ここで、オバマ大統領と同じ民主党のジョン・F・ケネディ大統領が、かつて大統領就任演説の中でいったあの有名な一節「同胞であるアメリカ市民の皆さん、国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えようではありませんか」をふと連想しました。このあたりにも、アメリカらしさを感じます。

■さらに、このスピーチが「2017 全米スクールカウンセラー・オブ・ザ・イヤー」の授賞式の場で行われていることもあると思いますが、ミッシェル大統領夫人は、アメリカの可能性や価値を守っていくために「市民として知識をもち関与できるように準備」していくこと、すなわち教育の意味や価値を強調します。そして希望を失わないように呼びかけます。希望の力が、国を分断するような声を乗り換え、怒りや恐怖の声を乗り越えるのだと言います。直接的には語っていませんが、次期大統領のトランプ氏を批判していると私は思います。

“And that means getting the best education possible so you can think critically, so you can express yourself clearly, so you can get a good job and support yourself and your family, so you can be a positive force in your communities. “

“It is our fundamental belief in the power of hope that has allowed us to rise above the voices of doubt and division, of anger and fear that we have faced in our own lives and in the life of this country. “

■ところで、トランプ氏が大統領になった時には、このようなオバマ大統領の時代のスピーチなどは、ホワイトハウスのfacebookページからは消えてしまうのかな。たぶんそうでしょうね。

黒田一樹さんのこと

20160523kuroda1.jpg ■昨年の5月に、「黒田一樹さんの講演会」をエントリーしました。そこでは、末期癌から復活し『すごいぞ! 私鉄王国・関西』を出版された黒田一樹さんの講演会のことを書きました。その黒田さんが、本日の0時34分にご逝去されました。末期癌と闘いながら、最後まで目標と夢を失うことはありませんでした。多くの方達がそのような黒田さんから勇気付けられました。また同時に、多くの方達が、直接何もできないにしろ、facebookを通して癌と闘う黒田さんを応援し続けました。昨年末のfacebookへの黒田さんの投稿では少し弱音を吐かれているかのようでしたので、心配をしていました。本日、早朝4時頃に目を覚まし、iPadeでfacebookを確認したところ一番最初に黒田さんのご家族からの投稿があり、ご逝去されたことを知りました。

■黒田さんに初めてお会いしたのは、滋賀県大津市の中心市街地にある「パーンの笛」というジャズバーです。おそらく7〜8年前のことでしょうか。お仕事の関係で、京阪電車の社員の方と来店されていました。その時、黒田さんのとてもチャーミングなお話しぶりに魅了されてしまいました。一昨年の1月には、上京の折にお会いするチャンスもいただきましたが、残念ながら私の都合がつきませんでした。とはいえ、facebookを介してお付き合いをいただき、fb上のある鉄道ファンのグループにお誘いすると、快くご参加くださいました。そして鉄道に対する深い愛と知識と体験を元に、みるみるこのグループの主力メンバーとなって活躍されました。2度目にお目にかかったのは、冒頭に書いた大阪で開催された出版記念講演会とパーティの場でした。あの時のご様子から、また関西にもお越し頂けるものと固く信じておりましたが、本日の悲報に接し、本当に悲しくて悲しくて、残念でなりません。私のささやかな夢は、黒田さんと一緒に大阪近郊区間を1日で回ることでした。それも叶わないことになってしまいました。

■黒田さんとの最後のやり取りは、大晦日の日になりました。前述した鉄道ファンのグループへの投稿の最後に「黒田 一樹さん、応援しています!また、講演会に伺いますから」と呼びかけたことに「いいね!」をくださったのが最後になりました。1年間近くの闘病で苦しまれながらも、最後の最後まで黒田流の美意識とダンディズムを貫き通されたことに敬服しております。このような方は、なかなかいらっしゃらない。しかし今は、唯々、安らかにお体を休めて頂きたいと念じるばかりです。このように美意識とダンディズムを貫き通せたのも、奥様やご家族の皆様の支えがあったからこそと思っております。

謹んでお悔やみ申し上げます。

【追記】■昨日から、このブログへのアクセス数が伸びています。おそらく、多くの皆さんは、亡くなった黒田一樹さんに関する情報を検索されているうちに、ここに辿りつかれたのかなと思います。Googleの検索順位も5位となっています。本当に申し訳ないのですが、ここに書いてあることは、ささやかな私の思い出でしかありません。facebookでは、黒田さんと昔からのお友達である皆さんが、黒田さんとの思い出を続々と投稿されています。ぜひ、そちらをお読みください。私も、皆さんの思い出を読ませていただきながら、黒田さんのお人柄に感動しています。

■私は、根っからの鉄道ファンではありません。鉄道好きなおじさんではありますが、鉄道に関する知識や経験がほとんどありません。そのような本物の鉄道ファン皆さんの前では何もいえなくなってしまうのです。しかし黒田さんは、「鉄道は知識ではなく、センスなんだ」と言って、色々、鉄道の楽しみ方を教えてくださいました。マニアの世界にある単純に知識の量を競うようなことを、少し軽蔑されていたようにも思います。私のようなちょっとだけ「鉄道好きのおじさん」は、そのような黒田さんに、ある種の「優しさ」のようなものも感じていました。

■普段、私は大学教員をして若い学生の皆さんと接しており、学生の教育のあり方について色々悩んでいるわけですが、そのような学生の教育という点についても、黒田さんとやり取りをした記憶があります。黒田さんも、専門学校で学生の皆さんを指導されていたからです。もう少し、この辺りについても議論をしたかったところです。

「忘れない~震災犠牲者の行動記録」

首都大学東京 渡邉英徳研究室と岩手日報社は共同で、東日本大震災から5年を迎える2016年3月、岩手県における震災犠牲者の「地震発生時」から「津波襲来時」までの避難行動をまとめたデジタルアーカイブ「忘れない~震災犠牲者の行動記録」を制作しました。

「忘れない~震災犠牲者の行動記録」

中野秀一郎先生の葬儀ミサと告別式

20160110nakano.jpg ■金曜日の研究部の会議中に、母校・関西学院大学社会学部の名誉教授である中野秀一郎先生がご逝去されたというe-mailが届きました。長年親しくさせていただいている、関西学院大学社会学部長の荻野昌弘先生からのe-mailでした。やはり母校の別の名誉教授の先生からいただいた年賀状で、中野先生のことが書いてありました。病院に入院されている中野先生をお見舞いしたとのことでした。その文面からは、かなり中野先生のご容態が悪い状況であることがわかっていましたが、年賀状をいただいてわずかな日しか経っていなかったので、とても驚くことになりました。

■中野先生を最後にお見かけしたのは、近鉄京都駅でした。中野先生は、関西学院大学を退職された後、奈良女子大学や京都文教大学に勤務されました。当時は、京都文教大学におられましたので、おそらくはご通勤の途中だったのではないかと思います。杖をついておられました。その時は、足をお悪くされていたのではないかと思います。2013年頃までは、ご自身のホームページに社会学的なエッセーもアップされていました。写真は、私が卒業した年の卒業アルバムに載っていた先生のお写真です。おそらくは、46歳頃のお写真ですね。

■昨日の午前中、中野先生の葬儀ミサと告別式が夙川カトリック教会で執り行われ、私も参列しました。中野先生からは、直接、何か学問的な指導を受けたわけではないのですが、今となれば笑い話しになるような、いろいろな出来事がありました。一つの思い出を書きます。大学院の修士課程当時(正確には、博士課程前期課程)、私は、大学の近くに学生下宿に暮らしていました。晩遅く、小腹が空いたので、下宿の近くの駐車場で、夜だけ営業していた屋台入っておでんを食べていたところ、突然、お酒を飲んでご機嫌の中野先生が入ってこられました。私の方は、挨拶をしてそのまま下宿に戻ろうとしたところ、引き止められました。そして、どういうわけか(本当はそのまま下宿に帰りたかったのですが)、最後は、先生のご自宅まで連れて行かれることになったのです。先生のご自宅は、大学から少し離れたところにありました。そこまで歩いて先生をお連れすることになりました。先生は酔っておられました。おそらくは、2時間近くかかったのではないかと思います。奥様は笑顔で迎えてくださいましたが、大変ご迷惑をおかけすることになったのではないかと思います。先生は、多くの人たちからダンディーと言われていました。髭をたくわえた大柄な方でした。そして、何よりもお酒がお好きな方でした。葬儀ミサや告別式の時に、先生の遺影を拝見しながら、そのような中野先生との個人的な出来事を、ひとつひとつ思い出すことになりました。

■奥様はキリスト教のカトリックを信仰されています。奥様の、そしてお元気だった時の先生のご意向もあるのかと思いますが、亡くなる少し前に、入院されていた病院の病室で洗礼をお受けになったとのことでした。そのことを、夙川教会の司祭である梅原彰神父が、葬儀ミサの中で、参列した皆さんにお話しになりました。梅原神父は、ご夫婦やご家族のこれまでの様々なエピソードとともに、キリスト教の信者にとっての死がどのような意味を持つのかを丁寧にお話しになりました。おそらくは、カトリックを含めたキリスト教一般なのでしょうが、人の死は終焉ではありません。寂しいことですが、神様のもとへ召される祝福されるべきことと考えるのです。ヨゼフ・中野秀一郎先生。天に召された中野先生の平安をお祈りいたします。

わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる者は、死んでも生きる。
(ヨハネによる福音11ー25)

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