映画「沈黙-サイレンス-」
 ■この映画「沈黙-サイレンス-」、何としても観たいのですが、さてどうなるでしょうかね〜。私が暮らしている大津では、浜大津にある「大津アレックスシネマ」と膳所にある「ユナイテッド・シネマ大津」で、今月の21日から上映が始まります。
 ■この映画「沈黙-サイレンス-」、何としても観たいのですが、さてどうなるでしょうかね〜。私が暮らしている大津では、浜大津にある「大津アレックスシネマ」と膳所にある「ユナイテッド・シネマ大津」で、今月の21日から上映が始まります。
■昨年末のことになりますが、文学部の真宗学科や大学院実践真宗学科の若手教員の皆さんと、懇談するチャンスがありました。その時も、この「沈黙」のことがすごく話題になりました。呑みながらのディスカッションだったので、なんだか記憶が曖昧になっていますが、「信仰する」とはどういうことなのか…そのような議論の文脈上でこの映画の話題も出てきたように思います。
■この映画の原作である遠藤周作の『沈黙』(1966年)を、私自身は、いつ読んだのかはっきり思い出せません。自宅の書架にきちんと配架してありますが、記憶が曖昧です。おそらくですが、予備校生から大学生のときに、自宅の書架にあったものを読んだのではないかと思います。本を購入したのは私ではありません。両親のどちらかが読んだものだと思います。だから読み方も、自宅の書架にある本を「なんとなく…」読んでいたのだと思います。あの頃の私で理解できたのか、甚だ怪しいところがあります。同じく遠藤周作の『イエスの生涯』(1973年)を読んだときはもう30歳を超えていました。こちらは、友人の勧めもあり「しっかり」読みました。ただし、こちらも自分で購入したわけではありません。大学時代のサークルの先輩からいただいたものでした。先輩が就職のため下宿から引越しをする際に、引越しの荷造りを手伝ったお礼にいただいたものです。今も手元にありますが、裏表紙には先輩の名前と買った日付と書店名(1977.1.22 梅田、旭屋)が書かれています。とても几帳面な字です。ああ、話しがずれてしまいました…。というわけで、「なんとなく…」読んだ『沈黙』の方を、58歳になった今、もう一度読んでみたいと思っています。もちろん、映画を観る前にです。
■小説の最後には、作者である遠藤周作の「あとがき」があります。そこには、この小説でキリスト教を棄教するカトリックの司祭ロドリゴに関して、次のように書いています。少し気になるところです。
ロドリゴの最後の信仰はプロテスタンティズムに近いと思われるが、しかしこれは私の今の立場である。それによって受ける神学的な批判ももちろん承知しているが、どうにも仕方がない。
■ロドリゴの最後の信仰とはどのようなものでしょうか。『沈黙』の中で、棄教したロドリゴに対して、奉行・筑後守は次のように言っています。
「かつて余はそこもとと同じ切支丹パードレに訊ねたことがある。仏の慈悲と切支丹デウスの慈悲とはいかに違うのかと。どうにもならぬ己の弱さに、衆生がすがる仏の慈悲、これを救いと日本では教えておる。だがそのパードレは、はっきりと申した。切支丹の申す救いとは、それは違うとな。切支丹の救いとはデウスにすがるだけのものではなく、信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬと。してみるとそこもと、やはり切支丹の教えを、この日本と申す泥沼の中でいつしか曲げてしまったのであろう」
基督教とはあなたの言うようなものではない、と司祭は叫ぼうとした。
■「基督教とはあなたの言うようなものではない」。ここに遠藤周作自身のキリスト教に対する考えが示されているように思います。ということで、『沈黙』を再読し、映画を観たあとに、また昨年末のように仏教の研究をされている若手教員の皆さんと、この映画について語り合いたものです。人間の弱さと、信仰の問題について。
【追記1】■『沈黙』の登場人物である司祭ロドリゴには、実在のモデルがあります。ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッチです。キリシタン禁制下にあった江戸中期(1708年)に潜入するもすぐに捕らえられ、長崎を経由して江戸に送られました。新井白石の『西洋記聞』は、このシドッチからの話しに基づいて書かれたものです。彼は、茗荷谷にある切支丹屋敷に軟禁されました。以下は、切支丹屋敷跡から、シドッチと見られるイタリア人男性の人骨が見つかったという記事です。
キリシタン屋敷跡から出土した人骨が語る、宣教師シドッチの信仰
【追記2】■『沈黙』に関する評論文を見つけました。文学を専門にしているわけではないので、この評論文をどう評価して良いのかはわかりませんが、参考になりました。 遠藤周作・「沈黙」について
黒田一樹さんのこと
 ■昨年の5月に、「黒田一樹さんの講演会」をエントリーしました。そこでは、末期癌から復活し『すごいぞ! 私鉄王国・関西』を出版された黒田一樹さんの講演会のことを書きました。その黒田さんが、本日の0時34分にご逝去されました。末期癌と闘いながら、最後まで目標と夢を失うことはありませんでした。多くの方達がそのような黒田さんから勇気付けられました。また同時に、多くの方達が、直接何もできないにしろ、facebookを通して癌と闘う黒田さんを応援し続けました。昨年末のfacebookへの黒田さんの投稿では少し弱音を吐かれているかのようでしたので、心配をしていました。本日、早朝4時頃に目を覚まし、iPadeでfacebookを確認したところ一番最初に黒田さんのご家族からの投稿があり、ご逝去されたことを知りました。
 ■昨年の5月に、「黒田一樹さんの講演会」をエントリーしました。そこでは、末期癌から復活し『すごいぞ! 私鉄王国・関西』を出版された黒田一樹さんの講演会のことを書きました。その黒田さんが、本日の0時34分にご逝去されました。末期癌と闘いながら、最後まで目標と夢を失うことはありませんでした。多くの方達がそのような黒田さんから勇気付けられました。また同時に、多くの方達が、直接何もできないにしろ、facebookを通して癌と闘う黒田さんを応援し続けました。昨年末のfacebookへの黒田さんの投稿では少し弱音を吐かれているかのようでしたので、心配をしていました。本日、早朝4時頃に目を覚まし、iPadeでfacebookを確認したところ一番最初に黒田さんのご家族からの投稿があり、ご逝去されたことを知りました。
■黒田さんに初めてお会いしたのは、滋賀県大津市の中心市街地にある「パーンの笛」というジャズバーです。おそらく7〜8年前のことでしょうか。お仕事の関係で、京阪電車の社員の方と来店されていました。その時、黒田さんのとてもチャーミングなお話しぶりに魅了されてしまいました。一昨年の1月には、上京の折にお会いするチャンスもいただきましたが、残念ながら私の都合がつきませんでした。とはいえ、facebookを介してお付き合いをいただき、fb上のある鉄道ファンのグループにお誘いすると、快くご参加くださいました。そして鉄道に対する深い愛と知識と体験を元に、みるみるこのグループの主力メンバーとなって活躍されました。2度目にお目にかかったのは、冒頭に書いた大阪で開催された出版記念講演会とパーティの場でした。あの時のご様子から、また関西にもお越し頂けるものと固く信じておりましたが、本日の悲報に接し、本当に悲しくて悲しくて、残念でなりません。私のささやかな夢は、黒田さんと一緒に大阪近郊区間を1日で回ることでした。それも叶わないことになってしまいました。
■黒田さんとの最後のやり取りは、大晦日の日になりました。前述した鉄道ファンのグループへの投稿の最後に「黒田 一樹さん、応援しています!また、講演会に伺いますから」と呼びかけたことに「いいね!」をくださったのが最後になりました。1年間近くの闘病で苦しまれながらも、最後の最後まで黒田流の美意識とダンディズムを貫き通されたことに敬服しております。このような方は、なかなかいらっしゃらない。しかし今は、唯々、安らかにお体を休めて頂きたいと念じるばかりです。このように美意識とダンディズムを貫き通せたのも、奥様やご家族の皆様の支えがあったからこそと思っております。
謹んでお悔やみ申し上げます。
【追記】■昨日から、このブログへのアクセス数が伸びています。おそらく、多くの皆さんは、亡くなった黒田一樹さんに関する情報を検索されているうちに、ここに辿りつかれたのかなと思います。Googleの検索順位も5位となっています。本当に申し訳ないのですが、ここに書いてあることは、ささやかな私の思い出でしかありません。facebookでは、黒田さんと昔からのお友達である皆さんが、黒田さんとの思い出を続々と投稿されています。ぜひ、そちらをお読みください。私も、皆さんの思い出を読ませていただきながら、黒田さんのお人柄に感動しています。
■私は、根っからの鉄道ファンではありません。鉄道好きなおじさんではありますが、鉄道に関する知識や経験がほとんどありません。そのような本物の鉄道ファン皆さんの前では何もいえなくなってしまうのです。しかし黒田さんは、「鉄道は知識ではなく、センスなんだ」と言って、色々、鉄道の楽しみ方を教えてくださいました。マニアの世界にある単純に知識の量を競うようなことを、少し軽蔑されていたようにも思います。私のようなちょっとだけ「鉄道好きのおじさん」は、そのような黒田さんに、ある種の「優しさ」のようなものも感じていました。
■普段、私は大学教員をして若い学生の皆さんと接しており、学生の教育のあり方について色々悩んでいるわけですが、そのような学生の教育という点についても、黒田さんとやり取りをした記憶があります。黒田さんも、専門学校で学生の皆さんを指導されていたからです。もう少し、この辺りについても議論をしたかったところです。
ミロコマチコ『ねこまみれ帳』
 ■世の中にはイヌ派とネコ派がいるそうですね。時々、いろんな知人との雑談の中で「イヌ派、それともネコ派?」という話しが出てきます。私は、哺乳類のペットを飼ったことはありませんが、頭のなかで「やはり自分はイヌ派だろうな〜」と思っています。実際には飼ったことがないので、「ヴァーチャル・イヌ派」でしかありませんが。
 ■世の中にはイヌ派とネコ派がいるそうですね。時々、いろんな知人との雑談の中で「イヌ派、それともネコ派?」という話しが出てきます。私は、哺乳類のペットを飼ったことはありませんが、頭のなかで「やはり自分はイヌ派だろうな〜」と思っています。実際には飼ったことがないので、「ヴァーチャル・イヌ派」でしかありませんが。
■さて、写真は、私の大好きな絵本作家のひとり、ミロコマチコさんの本です。ミロコさんはネコ派です。それも並大抵のネコ派ではありません。この『ねこまみれ帳』からは、そのことがズンズン伝わってきます。この本では、鉄三という名前のネコと、ボウとソトという兄弟のネコたちとの暮らしが描かれています。おそらく、ネコ派の人たちにとってはたまならいと思うのですが、日々の暮らしのなかのネコたちが引き起こす数々のエピソードが描かれています。ネコ好きの人には読まずにおれない本なのではないでしょうか。最初のネコ、鉄三が病気で死んだとき(鉄三は糖尿病でインシュリンを打っていました…)のミロコさんの悲しみは、イヌ派の私にもひしひしと伝わってきました。アラ還のおじさんの老眼の眼からも、涙がハラハラと流れてしまった。素敵な本です。ひとつ疑問があるとすれば、お連れ合いが描かれているのですが、彼はミロコさんのネコたちのことをどう思っているのでしょうね。とても気の優しいおとなしい方のように描かれているけれど(あまり登場されませんが…)。ネコたちの関心は、ミロコさんに集中しているようでもあります。かわいそう。
檸檬
 ■今年の3月に大津市に転居しました。大津市の湖西の丘陵地に自宅があります。いわゆる新興住宅地なのですが、所々に家が建っていない空き地があります。住宅地が造成される際に、元々の農家の地主さんに分配されたものと聞いています。だからでしょうか、その様な空き地の多くは畑になっています。とりあえず畑として利用して、まとまった現金が必要になった時に売却する…ため、あるいは子どもや孫に住宅が必要になった時のためにそうやって土地を保有されているのかもしれません。自宅近くの空き地には、野菜ではなく様々な種類の柑橘類が植えられています。ちゃんと手入れをされている様で、どの種類も立派に実が成っています。写真は、そのうちの一本。レモンだと思います。道路から手を伸ばせば取れるところにあります。もちろん、人様のものですから取りはしませんけれど。
 ■今年の3月に大津市に転居しました。大津市の湖西の丘陵地に自宅があります。いわゆる新興住宅地なのですが、所々に家が建っていない空き地があります。住宅地が造成される際に、元々の農家の地主さんに分配されたものと聞いています。だからでしょうか、その様な空き地の多くは畑になっています。とりあえず畑として利用して、まとまった現金が必要になった時に売却する…ため、あるいは子どもや孫に住宅が必要になった時のためにそうやって土地を保有されているのかもしれません。自宅近くの空き地には、野菜ではなく様々な種類の柑橘類が植えられています。ちゃんと手入れをされている様で、どの種類も立派に実が成っています。写真は、そのうちの一本。レモンだと思います。道路から手を伸ばせば取れるところにあります。もちろん、人様のものですから取りはしませんけれど。
■ところで、漢字の「檸檬」は読めてもきちんと書けと言われると一瞬戸惑うわけです。確認すると、木偏に丁寧の「寧」、木偏に啓蒙の「蒙」。簡単なんですけどね。そう思っていると、連想ゲームの様にiPadを使って梶井基次郎の「檸檬」(青空文庫)を読みたくなってきました。大学生の時に、おそらくは40年近く前に読んでいると思うのですが、あまりよく記憶していません。読んで見て、「こんな出だしだったかな」と思いました。この小説に登場する美しい黄色いレモンは、主人公の「妄想」の中では京都の丸善書店を「粉葉みじん」にする爆弾でもあります。この辺りは、しっかり記憶にある。でも、読後感は当時と今とではまったく違うな…という感じです。おそらく、若い頃の自分には、この梶井基次郎が置かれた状況がよくわからなかったんだと思います。そういう意味では、「死」を気にすることもなく、脳天気に生きていたわけで、青年らしく健康だったのだなと思っています。
■というのも、梶井基次郎は幼い頃から病気に苦しんできました。自分だけでなく、弟は脊椎カリエス、兄も結核性リンパ腺炎という病気になっています。基次郎は学生の頃は、重い結核に罹っていました。今すぐに死ぬわけでは無いけれど、常に命を脅かされるような感覚のもとで生きていたのでした。「檸檬」(青空文庫)の冒頭部分は、そのような元次郎の落ち着かない、身の置き所のないような不安を表現しています。
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧おさえつけていた。焦躁しょうそうと言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔ふつかよいがあるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。結果した肺尖はいせんカタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私を居堪いたたまらずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。
■医学が進歩した現在ではなかなか想像しにくいわけですが、「檸檬」が発行された1931年頃の平均寿命は45歳前後かと思います。今だと薬で治すことができる病気でも、当時だと死につながることがよくありました。結核はその代表のような病気です。薬による治療法が確立する以前は「不治の病」と呼ばれていました。実際、梶井元次郎はその結核で31歳で亡くなりました。当時は、「死」が日常生活の中にさりげなく存在していました。現代社会は、「死の不可視化」が進んでいます。人びとが死を感じるのは、リアルな現実の「死」ではなく、映画やテレビの中で演出された作り物の「死」となってしまいます。それは、人びとの好奇心の対象でしかありません。そのことを「死のポルノ化」という人がいます。そのような「死の不可視化」と「死のポルノ化」の中で、人びとはリアルな死を感じることができません。梶井基次郎の時代と今とでは、「死生観」に大きな差があるように思います。
■話しは変わります。『檸檬』や梶井基次郎とは関係のないことですが…。年末が近づくこの季節になると、自宅には喪中の葉書がたくさん届くようになります。喪中の葉書の枚数は年々増えて生きます。自分自身が歳を取っているからです。こうやって喪中の葉書をいただくと、人生の最後の瞬間に向かうための整理券をいただいているような気持ちにもなります。しっかり考えなくてはいけません。少し厳しい気持ちになります。そのような喪中の葉書なのですが、その中でも表現が難しいのですが、「素敵だな…」と思う葉書がありました。前の職場で大変お世話になった先生からの葉書でした。先生ご自身は、今年で82歳になられます。お元気です。今回の喪中の葉書では、その先生の奥様のお母様が亡くなられたことを知りました。もちろん、お会いしたことはありません。享年104歳なのだそうです。大変なご長寿ですね。しかも、ご自身のお誕生日にお亡くなりになったというのです。葉書には、「お祝いのお花やカードに囲まれて静かに息をひきとりました」と書いてありました。よくわかっていないのに、勝手なことを言うべきではないとは思いますが、それでも、お母様は幸せな最期を過ごされたのではないか、そのように思いました。幸せな気持ちとともに、静かに、眠るように亡くなられたように想像しました。
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■数日前から、ブログの調子が悪くなりました。ご迷惑をお掛けしますが、しばらくお待ちください。原因がわかりました。
■このエントリーのタイトルをクリックしてください。右側の下の方に「Last 10 entries」とありますので、そこから最近の記事をご覧ください。また、「Archives」からも過去の記事をご覧いただけます。操作を誤り「Categories」も消去してしまっています。ですので、古い記事の「Categories」は、内容とは一致していません。また、再構築する必要が出てきました。のんびりやっていきますので、おつきあいください。
ミロコマチコ いきものたちの音がきこえる

■大好きなミロコマチコさんの展覧会!「ミロコマチコ いきものたちの音がきこえる」。京都駅、ISETANの美術館「えき」で、12/1から12/25まで。
バッグパッキング



 ■トップの写真、『Made in U.S.A.-2 Scrapbook ofAmerica』は、昭和50年・1975年に出版されたものです。自宅の書架に保存してあります。処分せずに、大切に…ということはないのですが、一応保存してあります。この雑誌というかムック本が出版された頃、もう36年前のことになりますが、アメリカの文化が日本の若者たちを魅了していました。私よりも4つほど歳上の方達(1970年代前半に大学におられた方達)までは、ベトナム戦争、安保や学園闘争、そういった当時の政治的な雰囲気をまだご存知だったでしょうから、そのような政治的な雰囲気を背景に、アメリカの文化、特に西海岸から発信される情報に夢中になっておられたのではないかと思います。ただし、私たちが学生の頃は、すでにそのような政治的な雰囲気は大学のキャンパスから消え去っていました。学生たちは、スキーやテニスサークルに夢中でした。したがって、私たちの年代の場合は、単なる流行としてアメリカの文化に夢中になりました。大学にいた時期が数年違うだけで、このような差異が生まれるわけですが、そのような差異はともかく、アメリカの文化が当時の若者の憧れの的だったのです。その辺りが、今の大学生の皆さんとはかなり違うところかと思います。バックパッキングも、そのような時代が生み出したひとつのムープメントなのです。以下は、こちらの記事からの引用です。
■トップの写真、『Made in U.S.A.-2 Scrapbook ofAmerica』は、昭和50年・1975年に出版されたものです。自宅の書架に保存してあります。処分せずに、大切に…ということはないのですが、一応保存してあります。この雑誌というかムック本が出版された頃、もう36年前のことになりますが、アメリカの文化が日本の若者たちを魅了していました。私よりも4つほど歳上の方達(1970年代前半に大学におられた方達)までは、ベトナム戦争、安保や学園闘争、そういった当時の政治的な雰囲気をまだご存知だったでしょうから、そのような政治的な雰囲気を背景に、アメリカの文化、特に西海岸から発信される情報に夢中になっておられたのではないかと思います。ただし、私たちが学生の頃は、すでにそのような政治的な雰囲気は大学のキャンパスから消え去っていました。学生たちは、スキーやテニスサークルに夢中でした。したがって、私たちの年代の場合は、単なる流行としてアメリカの文化に夢中になりました。大学にいた時期が数年違うだけで、このような差異が生まれるわけですが、そのような差異はともかく、アメリカの文化が当時の若者の憧れの的だったのです。その辺りが、今の大学生の皆さんとはかなり違うところかと思います。バックパッキングも、そのような時代が生み出したひとつのムープメントなのです。以下は、こちらの記事からの引用です。
バックパッキング・ムーブメント
バックパッキングは1960年代のアメリカで生まれました。ベトナム戦争がもたらした社会に対する不安や疑問から起こった反戦運動は、各地の大学生を中心としたヒッピー・ムーブメントとなり、やがてその運動は「ホール・アース(Whole Earth)」というスローガンを掲げ、人間だけでなく水や森や空気も含めて「世界は一つ」であるという自然回帰の思想へと発展していきました。
若者達は大きめのフレームザックに数日間の山での生活に必要な道具を詰め込み、一人、または気の合った仲間と共に原生自然:ウィルダネス(Wilderness)を目指しました。彼らはヘンリー・デビッド・ソローの『森の生活』(1854年初版)や、自然保護の父と呼ばれるジョン・ミューアの書籍を愛読し、そこに書かれている自然回帰のメッセージに従いながら、自然を散策する旅人となったのです。
今では環境問題や自然保護という言葉は珍しくもなく、むしろその思想の多くは現代の私達の生活の一部になっていると言えますが、これらの思想が社会へと浸透した大きなきっかけが、このバックパッキング・ムーブメントにありました。
■『Made in U.S.A.-2 Scrapbook ofAmerica』が出版された頃、私は高校生で、アウトドア、特にバックパッキングにとても憧れていました。この雑誌のバックパッキング関連のところを何度も読み、写真を眺めて、大学生になったら自分もやってみようと思っていました。「東海道自然歩道を踏破するぞ!!」と決意し、密かに地形図なども手に入れていました。ところが、子どもの頃からヴァイオリンを弾いていたこともあり、大学に入学するとオーケストラに入部、楽器三昧の大学生活を送ることになってしまったのです。いいかげんなものですね。コリン・フレッチャーの『遊歩大全』なんかも読んでいましたが、アウトドアの世界に戻ることはありませんでした。当時は、アウトドアという言葉もまだ定着していなかったように思います。そのような時代です。
■先日、「第3回びわ湖チャリティー100km歩行大会」=「びわ100」に参加しました。100kmを歩いてみて、改めて「歩く」ということが気になって来ました。「世界農業遺産」申請を県民の皆さんにアピールするための手段として、この大会に参加し100kmを歩いたわけですが、歩くことをもう少し積極的にやってみたいと思い始めました。健康のためのウォーキング…とはまた別の思いですね。「歩く」という行為…というかこの動作は、生き物としての人間の一番基本の部分にある大切なことなのではないのか…そのように思うからです(私の頭に中には、「グレートジャーニー」で有名な探検家の関野吉晴さんの腰とが頭に浮かんで来ます)。ならば、歩いて琵琶湖を一周する歩く「びわいち」を、バックパッキングでやってみようか…なんてことが頭に浮かんで来ます。これならば私にもできそうな気がします。そのあとは、さて、どこを歩こうか…。琵琶湖の源流から、淀川の河口まで、流域の地域をたずねながら、少しずつ歩いてみたい…なんてことも思っています。こちらは、研究のことも少し関係しているかもしれません。
■若い頃、バックパキングに憧れたことから、蔵書の中には、こんなものもあります。エリック・ライバックの『ハイ アドベンチャー』(1972年)は、18歳で、アメリカのカナダ国境からメキシコ国境まで、パシフィック・クレスト・トレイル4000kmを踏破した時の縦走記です。若い頃の私は、この『ハイ アドベンチャー』を繰り返し読みました。次は、コリン・フレッチャーの『遊歩大全』(1978年)。これは、当時のバックパッカーにとって「バイブル」のような存在の本でした。内容的に現代の状況に合わない部分も多々ありますが、今でも読む価値があると思います。最後は、「別冊山渓」は、なんと創刊号(1976年)です。特集は「バックパキング」。時代を感じさせます。
2016年の「ノーベル文学賞」
 ■今年の「ノーベル文学賞」は、アメリカの歌手ボブ・ディランさんが受賞されました。少し驚きましたが、ボブ・ディランさんを世界の若者に強い影響を与えた現代の吟遊詩人だと捉えれば、「ノーベル文学賞」もおかしくないと思うからです。でも、村上春樹ファンとしては、やはり少し残念です。毎年、今年こそは村上春樹が受賞するのではないかというニュースが流れ、多くのファンが期待してきたわけですから。
 ■今年の「ノーベル文学賞」は、アメリカの歌手ボブ・ディランさんが受賞されました。少し驚きましたが、ボブ・ディランさんを世界の若者に強い影響を与えた現代の吟遊詩人だと捉えれば、「ノーベル文学賞」もおかしくないと思うからです。でも、村上春樹ファンとしては、やはり少し残念です。毎年、今年こそは村上春樹が受賞するのではないかというニュースが流れ、多くのファンが期待してきたわけですから。
■ネットのニュースを読んでいて、興味深い記事を見つけました。「村上春樹はなぜノーベル賞を取れない? 大手紙が指摘していた「いくつもの理由」」という記事です。記事の中には、こんなことが書いてありました。
ノーベル文学賞が審査されるストックホルムで活躍するジャーナリスト、デューク雪子さん(50)に電話すると、返ってきた答えは、意外にも「難しい」だった。雪子さんは「ノルウェイの森」など7冊の村上作品を日本人の母、叡子さんと共訳。ノーベル文学賞を選ぶスウェーデン・アカデミーにも詳しい。「今のところ、アカデミーの会員たちの好みとちょっと違ってて彼が描く世界の深みを会員がわかっているかどうか。面白さを読み取っていない感じがする」「アカデミーから漏れ聞こえてくる声は『才能は十分認めるが……』なんです。『……』をはっきりは言わないんですが、何かが望まれている。深みというのか……。軽すぎると思われているんじゃないですかね」
■記事では、この重厚さを「現代史と正面から向き合う社会性のある作品。あるいは圧政と闘う文学」と説明しています。村上春樹は、ここでいう重厚さとは別のレベル(より抽象化された)で闘っていると思うのですが、スウェーデン・アカデミーはそうは考えていないようです。記事では、イタリア文化会館東京館長を務めるジョルジョ・アミトラーノさんが、「村上は世界のどの作家の追従も許さないほど、現代という時代の本質をつかみ取っている」と断言していることを紹介しています。
■村上春樹自身がいっていますが、阪神淡路大震災やオウム真理教の地下鉄サリン事件以前と以降とでは、作品の社会に対するベクトルが大きく異なります。変化の契機となった作品は、『アンダーグラウンド』です。この作品以前が「デタッチメントの文学」、以後が「アタッチメントの文学」と言われています。私自身は、「アタッチメントの文学」の方により関心を持っています。もちろん、村上春樹のいう「アタッチメント」とは、すでに「ノーベル文学賞」を受賞している大江健三郎の場合とは異なる意味での「アタッチメント」だと思っています。村上春樹の作品の中では、グローバリゼーションが進行し後期資本主義といわれる現代社会に生きることの「重い」リアリティが、「軽い」文体で表現されているように思います。そのリアリティも、ストレートに表現されたものではなく、現代社会の深層にある集合的な無意識を一旦媒介させて再構成したものであるようにな思います。だからこそ、地球上の様々な国の人びとが、それぞれ自分が生きている社会的文脈の上で、村上春樹の作品から何かを感じ取ることができるのです。「重い」内容を、「軽い」文体(様々な言語に翻訳されても確実にメッセージが伝わる)で書いている(確信的に…)。そのような意味で、ジョルジョ・アミトラーノさんが言うように「現代という時代の本質をつかみ取っている」と私も思うのです。
『外来種は本当に悪者か?』
 ■私の周りでは、けっこう話題になっている本です。科学ジャーナリストであるフレッド・ピアス。タイトルが刺激的です。『外来種は本当に悪者か ?』。本の帯にはこう書いてあります。
 ■私の周りでは、けっこう話題になっている本です。科学ジャーナリストであるフレッド・ピアス。タイトルが刺激的です。『外来種は本当に悪者か ?』。本の帯にはこう書いてあります。
著名科学ジャーナリストとが
敵視されてきた生物の活躍ぶりを評価し
外来種のイメージを根底から覆す
知的興奮にみちた科学ノンフィクション。
よそ者、嫌われ者の生き物たちが
失われた生態系を元気にしている!?
■この本を勧めてくれたのは、ずっと長く一緒に研究プロジェクトをやってきた京大生態学研究センターの谷内茂雄さん。生態学を専門とする谷内さんが、勧めてくれたので、これは面白い本に違いないと思いました。谷内さんは、研究に関連する著書や論文だけでなく、小説や漫画に至るまで、その時々、読んで面白いと思った本を私に勧めてくれます。とてもありがたいことです。
■さて、この著書、「外来種は悪」であり「在来種は善」、だから外来種を排斥しなければならない…といった単純な考え方で、知らないうちに「正義」を背負って自らの正当性を主張している方達には受け入れがたい内容になっているかもしれません。しかし著者は、外来種の排斥を人種偏見に基づく民族浄化と重ね合わせます。外来種排斥による自然環境保護の主張が、自然再生にはならないというのですから。私自身、以前、博物館や文化遺産の研究をしている時に、ある絶滅危惧種(あえて名前は出しませんが…)を守ろうとする活動やそこにある声高な発言の背景に、偏見に基づく他民族排斥と外来種排斥と同じような構造があるのでは…と感じたとことがありました。その当時、ヨーロッパで、戦争やナチズムに関して調査をしていたので、一層のこと強く感じたのでした。その時に感じたことを、谷内さんからこの本を紹介された時に思い出したのでした。そういえば、昨年は、『ナチスと自然保護景観美・アウトバーン・森林と狩猟』(フランク・ユケッター・著、和田佐規子・訳、築地書館 )という本も翻訳されていましたね。
■さて、この本の解説は、流域管理の研究を通して知った生態学者・岸由二さんが書かれています。ここで読むことができるようです。その一部を以下に、引用しておきます。
生態学という分野は、生物の種の生存・繁殖と、環境条件との関係を扱う、ダーウィン以来の生物学の一分野である。と同時に、生態系、生物群集などという概念を使用して、地域の自然の動態についても議論をする分野でもある。種の論議と、生態系や生物群集の論議は、かならずしもわかりやすくつながっているわけではないので、 2つの領域はしばしばまったく別物のように扱われることもあったと思う。
しかし、20世紀半ば以降、実はこの2つの分野をどのように統合的に理解するかという課題をめぐって、生態学の前線に大きな論争あるいは転換があり、古い生態学、とくに古い生態系生態学、生物群集生態学になじんできた日本の読者には、「意外」というほかないような革命的な変化が、すでに起こってしまっているのである。その転換を紹介するのにもっともよい切り口が、「外来種問題」、これにかんれんする「自然保護の問題」といっていいのである。
『アンソロジー 餃子』
 ■最近、気持ちに余裕がないせいか、街中を「ほっつき歩く」ということを長らくしていない。そんなことに気がつきました。ということで…というわけではないのですが、兵庫県の施設に入っている老母の介護・見舞の帰り、小一時間ほど梅田界隈を「ほっつき歩く」ことにしました。若い頃は、大阪の梅田や、神戸の三ノ宮や元町界隈を「ほっつき歩いて」いました。そういえば、若い頃、私はあの「植草甚一」に憧れていたよな…と思い出しました。といっても、若い学生の皆さんは、植草甚一のことをご存じないですよね。
 ■最近、気持ちに余裕がないせいか、街中を「ほっつき歩く」ということを長らくしていない。そんなことに気がつきました。ということで…というわけではないのですが、兵庫県の施設に入っている老母の介護・見舞の帰り、小一時間ほど梅田界隈を「ほっつき歩く」ことにしました。若い頃は、大阪の梅田や、神戸の三ノ宮や元町界隈を「ほっつき歩いて」いました。そういえば、若い頃、私はあの「植草甚一」に憧れていたよな…と思い出しました。といっても、若い学生の皆さんは、植草甚一のことをご存じないですよね。
■「ほっつき歩き」ながら、梅田の書籍店「紀伊國屋」にも立ち寄りました。たまたま偶然、「餃子」が登場するエッセイを集めた本を見つけました。アンソロジーとタイトルにも入っています。この本の表紙を眺めていると、「ユー、龍谷大学餃子研究会の会長じゃね!俺を買わないの?!買っちゃいなよ!!」という声が、この本から聞こえてきたような気がしました。ということで、迷わず購入しました。私、本当に、「龍谷大学餃子研究会」の会長なんです。本当なんですよ。まあ、この「龍谷大学餃子研究会」以外にも、「龍谷大学東九条粉もん研究会」とか、いろいろさせていただいています。後者の「龍谷大学東九条粉もん研究会」についても、このブログで近いうちにエントリーできるかと思います。
関西グスタフ・マーラー交響楽団 第6回演奏会

■来月、6月19日(日)、京都の「ロームシアター京都  メインホール」で、グスタフ・マーラーの交響曲第3番が演奏されます。指揮は田中宗利さん、オーケストラは「関西グスタフ・マーラー交響楽団」です。変わった名前のオーケストラですね。「関西グスタフ・マーラー交響楽団は、マーラー大好き!マーラーを演奏したい!という思いをもった関西を中心に活動するアマチュア演奏家により、2010年夏に発足」しました。つまり、マーラーの作品を演奏するために組織されたオーケストラなのです。しかも、「1年に1回〜2回、マーラーの交響曲を全曲演奏するという壮大な計画」をお持ちです。
■マーラーの作品は、規模も大きく技術的にも難しく、かつて、アマチュアのオーケストラではあまり演奏されてきませんでした。私が学生オーケストラで演奏していた時代、一部を除いて、大学オーケストラの世界でマーラーの作品を演奏することはほとんどありませんでした。かなり技術的に無理があったからです。特に、大学オーケストラの場合は、大学に入学して初めて楽器(特に弦楽器)を始める人が多く相当な困難が予想されます。今では、アマチュアオーケストラがマーラーの作品を演奏すること自体、それほど驚くことでもなくなりましたが、それでもマーラーの交響曲を、すべて演奏することなどなかなかできることではありません。ですから、「マーラーの交響曲が好きなのに、なかなか演奏できない…」と密かにフラストレーションを募らせていた方達が集まって、このようなオーケストラが組織されたのではないでしょうか。推測ですけど…(関西弁だと、こういう場合は「知らんけど」となる)。
 ■ところで、私の「iPhone6 plus」には、マーラーの全作品が入っています。普段、通勤時に、「iPhone6 plus」で音楽を聴くことはありませんが、毎週末の老母の見舞いのさいには、1時間以上運転することになることから、「Bluetooth」を通して交響曲を聞きます。最近は、来月の予習も兼ねてマーラーの「第3番」を聞いているのです(サイモン・ラトル指揮、バーミンガム市交響楽団)。さらに、もう少しだけ予習をしておこうと、昔読んだ新書も自宅の書架から取り出してきました。柴田南雄の『グスタフ・マーラー -現代音楽への道-』(岩波新書)です。1984年に出版されたものです。ということは、今から32年前のものですね。まだ、ソビエト社会主義連邦共和国が存在していました。2月にはソ連共産党書記長のアンドロポフが死去し、7月にはロサンゼルスオリンピックが開催されました。今の学生の皆さんには、さっぱりわからない話しですね。学生の皆さんのために少しだけ説明しておけば、柴田さん(1916〜1996年)は、有名な作曲家・音楽評論家・音楽学者です。
 ■ところで、私の「iPhone6 plus」には、マーラーの全作品が入っています。普段、通勤時に、「iPhone6 plus」で音楽を聴くことはありませんが、毎週末の老母の見舞いのさいには、1時間以上運転することになることから、「Bluetooth」を通して交響曲を聞きます。最近は、来月の予習も兼ねてマーラーの「第3番」を聞いているのです(サイモン・ラトル指揮、バーミンガム市交響楽団)。さらに、もう少しだけ予習をしておこうと、昔読んだ新書も自宅の書架から取り出してきました。柴田南雄の『グスタフ・マーラー -現代音楽への道-』(岩波新書)です。1984年に出版されたものです。ということは、今から32年前のものですね。まだ、ソビエト社会主義連邦共和国が存在していました。2月にはソ連共産党書記長のアンドロポフが死去し、7月にはロサンゼルスオリンピックが開催されました。今の学生の皆さんには、さっぱりわからない話しですね。学生の皆さんのために少しだけ説明しておけば、柴田さん(1916〜1996年)は、有名な作曲家・音楽評論家・音楽学者です。
■書架から取り出した新書は、ページをめくるとどのページもすでに黄ばんでいました。かつて読んでいるはずなのですが、記憶に残っていません。新鮮な気持ちで読むことができました。この新書は、マーラーの伝記とマーラーの作品解説を兼ね備えたような構成になっています。第3番について解説を読んでいると、とても興味深い記述に出会いました。第3番は、冒頭に、8本のホルンが、ユニゾンで第一主題を13小節にわたって勇壮に吹き鳴らされます。柴田南雄さんは、この13小節を丁寧に解説した後、次のように述べておられます。深く納得しました。おそらく、32年前の若い頃の自分では、柴田さんが力を込めて書いておられること(以下の引用部分)を、きちんと受け止めることが(理解することが)できなかったのではないかと思います。
以上、わずか十三小節の第一主題を対象にしたにすぎないか、このように見てくれば、マーラーが人々に理解されるのに長い年月が必要であった理由が、ある程度は説明できように思う。つまり、古典派=ロマン派の作曲家たちが固有の様式に集中し、凝集したのに対して、マーラーは共時的・通時的な厖大な音楽語法からの広汎な借用・引用によって自己の音楽を成立させた。そこには原始の旋律からユダヤ教とドイツ・プロテスタントの聖歌を経てバッハに代表されるバロック音楽まで、さらには近世以降のヨーロッパ音楽の拍節法からチャイコフスキーを連想させるスラブ音楽に至るまでの、歴史的にも地理的も広大な音楽文化圏を背景に置き、さらには彼の生地のボヘミア、青年時代を過ごしたモラヴィアの地がオーストリア・ハンガリー帝国の版図に属していた事実までを軍楽の響きの音色とリズム、しかも葬送のリズム(!)によってこの主題に固定した。しかも、八本のホルンの斉奏という管弦楽法は、この曲が書かれた一八九五年当時としては前衛意外の何者でもなかった。
■ところで、マーラーの交響曲3番を丁寧に解説したページをみつけました。千葉フィルハーモニー管弦楽団の指揮者をつとめる金子建志さんの解説です。
グスタフ・マーラー(1860〜1911)交響曲3番 ニ短調