30年前の記憶

▪️30年前、1月17日に阪神淡路大震災が発生しました。その時のことを、文字にしておこうと、このブログへの2017年1月17日投稿に、震災時の自分の記憶にあることをメモにしておきました。メモだったので、それをもう一度読みなおして、もう少しはまともな文章にしてみました。

▪️後に「阪神淡路大震災」と命名された巨大地震の大きな揺れに驚き、ベッドから飛び起きました。2段ベッドに寝ていた子どもたちのところに飛んで行きました。姉は小学校2年生、弟は幼稚園だったと思います。当時は、奈良市に暮らしていました。幸いなことに、少し食器が壊れるぐらいの被害ですみました。いったい何が起こったのか、これまでに経験したことのない巨大地震であることはわかりました。状況がよくわかりません。テレビをつけてみました。すぐに「マンションが倒壊しているらしい」といった情報が耳に届きました。「鉄筋コンクリートの建物が倒壊するって…」、すぐには信じられませんでした。交通機関が麻痺している中、当時、大津市の膳所にあった職場(琵琶湖博物館開設準備室)まで、奈良から頑張って通勤しました。なんとか到着できましたが、午後の2時頃になっていました。職場にあったテレビでの報道を視て、非常に驚きました。今だと、スマートフォンを通して、すぐにいろいろな情報を知ることができるのでしょうが、もちろん当時はそのようなものはありません。私は、携帯電話も持っていませんでした。

▪️翌日、西宮市の知人の皆さんのことが気になり、上ヶ原にある母校・関西学院まで、西宮北口から歩いて行きました。梅田でお寿司と水を購入して、阪急電車に乗りました。阪急電車は、西宮北口までは動いていたのです。電車の中は、私と同じように飲み水や食料の入った袋をさげている人ばかりでした。車窓から見える沿線の風景もどんどん変化していきました。梅田の街の被害はよくわかりませんでした。ビルの上の看板が外れていたことは記憶しています。ただ、尼崎のあたりから車窓からも被害を確認できるようになりました。そして、西宮に入ると、途端に被害が増えていることがわかりました。これは、あくまで私の記憶の中にある印象にしかすぎないのですが。

▪️西宮北口から歩き始めました。重い瓦を載せた古い立派なお屋敷は潰れていました。その一方でハウスメーカーの住宅だけはしっかり建っていたことに驚きました。重い瓦は、台風で屋根が飛ばされないようにということなのだと思いますが、その重みが直下型地震では耐えられなかったのでしょうか。街の中が大変な状況になっているのを見ながら、母校のある上ヶ原方面に進んでいきました。すると、学生時代、フランス語の文法の再履修でお世話になったKo先生にお会いしました。少し、放心されたような表情をされていました。心配になりキャンパスに様子を見に行かれたのではないかと思います。

▪️関西学院大学の正門まで到着したら、キャンパスの中には入らず、当時、文学研究科の博士課程にいた後輩のアパートを訪ねました。2階建ての古いアパートでしたが、潰れていました。とても心配になりました。近くの学校の体育館を訪ねました。亡くなった方たちのご遺体が毛布に包まれて安置されていました。その中に、後輩がもしいたらと…心配したわけです。あとでわかったことですが、後輩は、伊丹に暮らす親切な友人のところに避難していました。後輩のアパートがあったあたりをウロウロしていると、都市社会学のKu先生がバイクに乗って地域の様子を確認されていました。当時は、仁川にお住まいだったように記憶しています。

▪️そのあとは、論文指導でお世話になっていたT先生のご自宅に向かいました。震災が発生した日の晩、つまり前日のことになりますが、西宮市の仁川にお住まいだったT先生のことを気遣う学会関係者から、奈良の自宅の方に「何かわからないか」と問い合わせの電話がいくつもかかってきていました。仁川は地震で土砂崩れが起き、たくさんの方たちが亡くなっていたいました。そのことが報道されていたのです。T先生の当時のご自宅は土砂崩れの反対側の場所にありました。ご本人ともお会いすることができました。ご家族ともにご無事でした。T先生は副学長だったということもあり、そのあとは地震への対応に先頭に立って取り組まれました。そのことは、関西学院の記録にもきちんと残っています。

▪️T先生から、お世話になっていた事務職員のAさんが土砂崩れで亡くなられたことをお聞きしました。ショックでした。Aさんは、私が大学の合格発表の後、入学手続きに必要な書類を手渡してくださった方でした。学部生時代、大学院生時代、いろいろお世話になった方でした。ゼミの先生と深酒をして、翌日、酒の臭いがすることに気が付かれたAさんから叱られたこともあります。Aさんが亡くなったことをお聞きした後、T先生と一緒に先生の車で大学のキャパスに向かいました。そして、持ってきた飲料水と食料、大した量ではありませんでしたが、大学の職員さんたちにお渡しし、私は、関学の若手教員のOさん夫妻がお住まいのマンションに向かいました。歩いていると、どこからともなく漂ってきた都市ガスの臭いがしました。

▪️Oさんのマンションに到着しました。Oさんご夫妻は怪我もなく安心しました。しかし、室内は無茶苦茶な状態でした。震災のショックで何もやる気が起こらず、また水道も出ないため、水代わりにご自宅にあったシャンパンを飲んでおられました。奥様からは、地底からゴジラが飛び出してくるような感じがしたという説明をお聞きしました。大阪の梅田あたり、見た目は被害がほとんどないように見えたというと、とても驚いておられました。十分な情報はないし、自衛隊の救援もまだでした。今とはかなり状況が違っています。そのあと、Oさん夫妻と再びキャンパスに戻りました。

▪️交差点の信号機は停止していました。そこでは、自主的に交通整理をされている方たちがおられました。水洗トイレの水を確保するためでしょうか、バケツに紐をつけて川の水を汲んでおられる方もおられました。皆さん、ご近所同士で助け合っておられました。インフラがクラッシュしてしまった後、生きていくための自助や共助が見られました。「社会」が新たに立ち上がってくるかのようでした。そのような話をOさんとしたように記憶しています。

▪️たぶんその翌日だと思いますが、職場のバンで救援物資を運ぶことになりました。というのも、同僚のお母様が亡くなられたことから、当時の上司の判断で大量の水などを運ぶことになったのです。神戸まではできる限り高速道路を走りました。入り口には警察官がおられましたが、「ご苦労様です」と一礼され、一台も車が走っていない高速道路で行けるところまで移動しました。職場の車だったので、走ることが許されたのでしょうか。自分が運転していないので、その辺りき記憶が定かではありません。覚えているのは、高速道路を降りた時の神戸の街が異常な混乱状況だったことです。もう晩になっていたと思います。道路はとても渋滞していました。警察のパトカーが中央分離帯に片側の車輪を乗せて逆走していました。そうでもしないと緊急事態に対応できなかったからだと思います。まるで、街が爆撃にあったかのように感じました。

▪️そのような混乱の中を、同僚のお母様のご遺体が安置されている住宅街まで、なんとかたどりつくことができました。その辺りは、ひっそり静まりかえっていました。問題は、どこのお宅なのかがよくわからないことでした。住所からすれば、だいたいこのあたりなんだがなと思って、あるお宅でお尋ねしてみても、「わかりません」と言われてしまいました。普段、ご近所とあまりつながりがなかったのかもしれません。その点については、よくわかりません。ただ、静まり返った高級住宅街の中で、人が集まっている場所がありしまた。企業の独身住宅のようでした。「社縁」を頼りに、被災されたその企業の家族の皆さんが集まってこられていたようでした。「地縁」が希薄になっている地域だからでしょうか、逆に「社縁」で集まった人びとの存在が気になったのかもしれません。

▪️やっと目指していたお宅がわかりました。そのお宅の中では、同僚のお母様のご遺体が安置されていました。ご遺体は死後硬直のためでしょう、右手が頭の方に上がったままになっておられました。手を伸ばした状態で亡くなられたのだと思います。その右手は白い布で覆ってありました。帰路は、混乱する道を避けて再び大津まで戻りました。今だと、スマートフォンのナビを使うのでしょうが。神戸出身の私は多少なりとも土地勘があったので、東灘区の六甲山の山裾の道を抜けて、西宮の甲陽園から母校・関学の横を通って宝塚方面に抜け、もう夜中だったと思いますが、大津の職場までたどり着くことができました。車を運転していた同僚には感謝されました。こういうことが2回あったと思うのですが、もう1回の方はうまく思い出せません。六甲山の山裾の道を抜けたのは、その2回目のことだったかもしれません。

▪️その後、正式に自治体の職員(滋賀県教育委員会)としてボランティア派遣されることになりました。たまたま偶然だと思いますが、派遣先は母校の兵庫県立兵庫高等学校でした。私たちが学んだ校舎はすでにありませんでした。新しい校舎に建て替えられていました。数日、母校の高校でボランティアを行ったように記憶しています。宿泊したのは、かつて本を読んでいた図書館でした。図書館の床で、職場の上司や他の自治体の職員さんたちと並んで、毛布に包まって寝ました。救援物資を、被災者の皆さんが必要とされるものをお渡しすることが私の仕事でした。新しい校舎でしたが、廊下から上を見上げると地震でできた隙間から空が見えたことを記憶しています。教室はもちろんのこと、校庭にもたくさんの被災者がテントを張って避難されていました。校長先生は、被災者の受け入れで大変だったと思います。被災者の方たちがおられる間、後輩の高校生の皆さんは、他の高校で間借りして授業を受けられました。校庭には、たくさんのキャンプ用のテントが張られていましたが、そのテントから通勤されている方もおられるとのことでした。高校に隣接する室内商店街や周囲の住宅も焼け落ちていました。

▪️30年が経過して、だいぶいろんなことを忘れてしまっています。ということで、メモではなく文章にしておくことにしました。

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