龍谷大学吹奏楽部のOB・OG会の総会

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■龍谷大学吹奏楽部のOB・OG会の総会が開催されました。部長の私と現役の幹部部員の皆さんも、オブザーバーとして参加させていただきました。ありがとうございました。総会の後は、一部のOB ・OGの皆さんと夕食をご一緒いたしました。初めて参加させていただきましたが、とても楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございました。今後とも、どうかよろしくお願いいたします。

■龍谷大学吹奏楽部は、創部15周年、45周年、50周年の時に記念誌を発刊しています。これらの記念誌は公式サイトを通してPDFファイルとして読むことができます。書かれたことを通して吹奏楽部の歴史を振り返ってみると、初期のOBの皆さんが様々な困難の中で決断や判断されたことが無ければ、現在のような、大学吹奏楽界を代表する学生バンドとして評価されるまでには成長できていなかったのではないかと思うわけです。

■吹奏楽部は、1967年に、応援団の中に創設されたブラスパンドからスタートしました。しかし、1968年に暴力事件を引き起こした応援団は永久解散ということになり、吹奏楽部は応援団総部傘下にあったことから、事件とは関係ないにもかかわらず、解散ということになってしまいました。この事件の影響は大変大きなものでした。1973年になって、吹奏楽部は、やっと同好会として再スターを切ることができました。その後も、部室のあった建物から火災が起こり、楽譜や楽器が燃えてしまうなどの不幸な出来事が続きました。練習場もなく、公園や名神高速道路高架下等で練習していたそうです。記念誌に掲載されている、この時代の部員の皆さんの寄稿文からは、大変なご苦労されてきたという事実だけでなく、そのご苦労を乗り越える吹奏楽に対する熱い情熱を感じ取ることができます。そのような初期の出来事に加えて、その後、龍谷大学吹奏楽部にはいくつかの重要な転機がありました。

定期演奏会を開催するようになったこと(1974年)。
吹奏楽コンクールに出場するようになったこと(1978年)。
上埜孝先生をお迎えし、プロの指導を受けるようになったこと(1983年)。
佐渡裕さんの指揮で全日本吹奏楽コンクールに出場したこと(1986年)。
若林義人さんを中心とした指導体制となり、音楽監督・常任指揮者に就任されたこと(2007年)。

■私が拝見した限りでは…ですが、これらのことがその後の大きな流れを生み出しているような気がします。

https://ryukoku-wind … ic.com/pamphlet.html

■創部50周年の中に、こんなことが書かれていました。執筆された熊谷法明は、この時、すでにOBでありOB会事務局をされていました。

上埜先生就任3年目?で関西大会に出場できました。4年目、関西大会まで1ヶ月もないある日、上埜先生はデブった若者を連れてきて「次の関西大会は彼で行く」とおっしゃいました。嘘だろうと思いましたが、彼がタクトを下ろした瞬間、楽団の音色が変わったのを覚えています。何と上埜先生就任4年目にして全国大会に出場できました。驚きです。関西大会後「これで龍大も安泰です。来年も宜しくお願いします」と若者に言ったら、「僕、もうすぐニューヨークに行くんだ」と返事されました。その若者が佐渡裕です。世界的な指揮者になられるとは思いもよりません。

■熊谷さんは、佐渡さんよりも6歳年上なので、確かに若者ということになりますね。佐渡さんは、この時、25歳でしょうか。翌年、1987年にアメリカに渡ってタングルウッド音楽祭でバーンスタインと小澤征爾さんに師事されています。私が学生時代所属していた関西学院交響楽団も、1987年の第69回定期演奏会で佐渡さんに指揮をしていただいています。私は、すでにOBで、エキストラもやめていたので、残念ながら佐渡さんの指揮を経験することはできていません。たしか、6月末の定演の後、アメリカに行かれたんじゃなかったかなと思います。

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