「戦乱と民衆 』(講談社現代新書)

20180821shinsyo.png ◾️韓国に主張している頃、ネットの記事「一揆はほんとうに『進歩的な勢力』が担っていたのか?気鋭の歴史学者が戦後歴史学に挑む」を読みました。歴史学者の呉座勇一が執筆されたものです。呉座さんは、1980年生まれ。まだ、38歳のお若い方です。国際日本文化研究センターの助教をされています。専門は歴史学の中の日本中世史。『一揆の原理』(ちくま学芸文庫)、『戦争の日本中世史』(新潮選書)、『応仁の乱』(中公新書)、『陰謀の日本中世史』(角川新書)等、たくさんの研究成果を一般の読者も視野に入れて発表されています。

◾️さて、呉座さんの記事、まずはお読みいただければと思います。呉座さんは一貫して「一揆」を研究テーマにされています。興味深買ったのは、「揆が戦後歴史学の花形テーマだったからである。戦後歴史学の意義と限界を見定めるためには、一揆の検討は欠かせない」ということです。そして、戦後歴史学の「メタ理論」や「支配的なパラダイム」でもある「階級闘争史観」を実証的なデータにもとづき相対化しようとされてきたことです。この「階級闘争史観」に関して、以下のように説明されています。

階級闘争は共産主義の基本的な概念で、非常に単純化して説明すると、階級社会において被支配階級が支配階級による搾取を拒否するために展開する闘争のことである。現代風に言えば、反体制・反権力の抵抗運動、といったところだろうか。その究極の形態が、被支配階級が支配階級総体を否定する、つまりは体制をひっくり返す「革命」である。

したがって、戦後歴史学では「日本の人民が権力と闘った歴史」を解明することが最重要の課題となった。このような潮流の中、中世や近世(江戸時代)の一揆は「階級闘争」と把握されるようになった。「過去の歴史において、民衆は一揆を起こして権力と闘った。我々も革命のために闘おうじゃないか!」というロジックである。つまり階級闘争史観においては、一揆は歴史の発展に貢献する「進歩的」な勢力と礼賛されたのだ。

一揆は必ずしも「進歩的」な勢力ではない。民衆が一揆を結び権力に立ち向かったという階級闘争史観は、歴史的事実としばしば矛盾する。戦乱と民衆の関係は、一筋縄ではいかない複雑なものなのだ。筆者も参加した『戦乱と民衆』(講談社現代新書)では、この問題を掘り下げて論じたつもりなので、興味を持たれたかたはご一読いただきたい。

◾️私は歴史学を学んだわけではないのですが、この呉座さんのご指摘には共感するものがあります。どのような学問分野でも、その時々の議論を支配する「メタ理論」や「支配的なパラダイム」が存在していると思います。多くの場合、そこには学問分野内の政治的な力学が作用しており、通常はその力学に自ら従うかのように研究を進めていこうとするからです。表面的には多様な研究が進展しているようでありながらも、メタレベルに注目してみると何を読んでも同じような読後感を抱いてしまうことがあります。「金太郎飴」のようです。こういう冗談を聞いたことがあります。「たとえばね、中華料理の調味料を使うと誰もがそれなりの味の中華料理を作ることができるけれど、それはみんな同じような味でしかない。それと同じような感じなんだよね」。こうなると笑うに笑えません。まあ、そのようなことはともかく、まずは『戦乱と民衆』を読んでみようと思います。なにか良い刺激を得ることができるかもしれません。

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