島田叡さんのこと

20150616shimada.png ▪︎私は神戸市の出身です。高校は、神戸市長田区にある兵庫県立兵庫高等学校を卒業しました。神戸新聞に、母校と関係の深い方の記事が掲載されました。島田叡(あきら)さんです。兵庫高校の前身は旧制の神戸二中になりますが、島田さんはこの二中の卒業生です。以下は、新聞記事からの引用です。

 神戸市出身で、沖縄県最後の官選知事として沖縄戦に散った島田叡(あきら)氏(1901~1945年)の顕彰碑が沖縄県民の募金で建立され、命日とされる6月26日、那覇市の奥武山(おうのやま)公園内で除幕される。除幕式には、井戸敏三知事ら兵庫県代表団も出席し、いまも沖縄県民に慕われる「島守」の事跡をしのぶ。
 島田氏は旧制神戸二中(現兵庫高)、東京帝国大をへて旧内務省に入った。45年1月に沖縄県知事として赴任し、米軍上陸を前に県民の疎開や食糧確保に奔走。米軍の砲撃の下でも壕(ごう)を転々として執務を続け、本島南部で消息を絶った。
 没後70年を前に、慰霊碑は沖縄県民の有志が期成会を設立し、募金を呼び掛けたところ、主に県内から600万円近くが集まった。顕彰碑は高さ3メートルで、「琉球」を象徴する石灰岩の台座に、「希望」をイメージしたステンレスの球体を組み合わせる。
 期成会会長で元沖縄県副知事の嘉数昇明(かかずのりあき)さん(73)は「碑に沖縄県民の『島田さんを忘れない』という思いが結集された。島田さんからもらった兵庫との交流の新たなスタートにしたい」と話す。
 除幕式には、兵庫県から井戸知事や久元喜造・神戸市長、沖縄県人会兵庫県本部や兵庫高同窓会「武陽会」関係者ら計50人の代表団が参加し、沖縄県関係者らとの交流会も開かれる。

▪︎現在の兵庫高校の校舎は、私たちの頃とは違っています。建て替えられています。私たちが学んだ校舎は、戦前、旧制神戸二中の時代からの建物でした。いろいろ思い出すのですが、学校の敷地の西側、野球のバックネットの裏側にあった斜面に、島田叡さんの慰霊碑が建てられていました。「合掌の碑」と呼ばれています。両手を合わせて合掌したようなデザインの慰霊碑です。現在、この慰霊碑は、沖縄に向かって建てられています。私たちの時はどうだったのか…記憶が定かではありません。慰霊碑には、こう書かれています。神戸二中の後輩である、竹中郁さんの詩だそうです。

「このグラウンド
このユーカリプタス
みな目の底に収めて
島田叡は沖縄へ赴いた
一九四五年六月下浣
摩文仁岳の近くで
かれもこれも砕け散った」

▪︎現在、この「合掌の碑」の横には、島田さんの座右の銘であった「断而敢行、鬼神避之」 の碑が建てられています。「断じて敢行すれば、鬼神もこれを避く」。私たちのときは、どうだったのか…情けないことに、このことも記憶がありません。兵庫高校に在学していたとき、島田叡さんがどういう方なのか、詳しくは知りませんでした。授業のさいにも、ほとんど説明がなかったように思います。

▪︎wikipediaには、こうありますね。「沖縄への米軍上陸は必至と見られていたため、後任者の人選は難航していた。沖縄に米軍が上陸すれば、知事の身にも危険が及ぶため、周囲の者はみな止めたが、島田は『誰かが、どうしても行かなならんとあれば、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。』として、日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせながら、死を覚悟して沖縄へ飛んだ」。「北部への県民疎開や、食料の分散確保など、喫緊の問題を迅速に処理していった」。死を覚悟して沖縄に赴き、沖縄県民の皆さんのために尽力された島田さん。享年、43歳でした。新聞記事には、いまも沖縄県民の皆さんに「島守」として慕われていると書かれています。夏の高校野球の沖縄県大会で優勝した高校には、「島田杯」が贈られています。

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