田中則夫先生

■水曜日は、午後から教授会、そして研究科委員会でした。研究科委員会を終えたあと、研究科長している関係で、教務課長と少し相談事をしていたのですが、そこに1人の先生が眼に涙を浮かべてやってこられました。「副学長の田中則夫先生が亡くなられました」と伝えてくださいました。田中先生は、今年の6月に末期の食道癌であることがわかり、それ以後、療養されていましたが、12日(水)の午後2時45分に、ご自宅でお亡くなりになったのでした。

■昨日は、田中則夫先生の告別式でした。田中先生とは、長く、深くおつきあいをさせていただいたわけではありません。4年前に研究科長に就任してからのお付き合いであり、それも全学の会議でお会いするときのお付き合いですから、あくまで仕事での関係ということになります。ただし、会議の場でいつも田中則夫先生のお人柄にふれてきたような気がします。とても誠実な方でした。普段のご様子は知的な紳士という印象でした。しかし、時に、理不尽な意見に対しては、はっきりとした口調で反論されました。副学長として大学の改革に懸命に取り組まれました。

■昨日の告別式では、たくさんの方が弔辞を捧げられました。一番最初は、赤松徹眞学長でした。弔辞を捧げられる赤松学長の背中しか拝見できませんでしたが、学長の声の調子からは、大変深く悲しまれていることが伝わってきました。告別式の最後に、喪主である奥様がご挨拶をされました。「研究・教育にも、学内行政にも、平和運動にも、いつも全力投入していました。そういう夫を大変誇りに思っています」。感動しました。先生のご専門は、国際法、海洋法でした。大変、学生思いの方でした。護憲運動や平和運動にも熱心に取り組んでこられました。田中先生は、ご自宅のリビングでご家族に見守られて安らかにお亡くなりになったとのことです。私は、奥様に抱きかかえられ、お子様たちにも手を握られ声をかけられながら亡くなった田中先生のことを想像しました。

■告別式では、心の窓を全開にして、告別式の「場」にあふれる多くの方達の哀しみと自分とを同期させました。とても悲しかった。涙があふれました。もともと涙もろいほうではありますが、このこときは一層悲しくなり、涙があふれました。告別式が終わり、最後のお別れをしました。棺のなかの田中先生は、会議でお会いしていたときとは異なり、一回り小さく見えました。「さようなら」。浄土に旅立たれた田中先生に最後のご挨拶をしました。田中先生のお好きだった「則天去私」という言葉の意味をかみしめながら、先生の棺を乗せた霊柩車をお見送りさせていただきました。

■告別式のあとは、1人で大津の街中をゆっくり歩きながら帰りました。長等の洋食「アケミ」に入りました。田中先生のこと、これからの大学のことをぼんやり考えながら熱燗2合を呑み、ロースとんかつ定食をいただきました。食事のあとは、街中をぷらぷら歩きながら知り合いの方と立ち話をしたり挨拶をしたり。そして、平井商店さんで「浅茅生」の「ひやおろし」を購入しました。奈良の自宅に帰宅したあと、亡くなった田中先生のこと、告別式の様子などを妻に説明しながら、熟成した「ひやおろし」を味わいました。

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