ロジャー・ノリントン

20140106norrington.png ■昨晩、このブログを更新したり本を読んでいたりしていると、隣のリビングからベートーベンの「運命」(交響曲第5番)が聞こえてきました。ちょっとびっくりしてリビングにいってみました。NHK交響楽団の演奏会で、指揮者はロジャー・ノリントン。イギリスの指揮者でした。なぜびっくりしたかというと、やたらにテンポが速く、独特の表現をしていたからです。

■私は学生時代に、オーケストラに所属していました。学生オケの演奏会では、しばしばベートーベンのシンフォニーを演奏するのですが、この「運命」についても何度も何度も演奏してきたので、「体にしみついている曲」になっているのです。また、さまざまな指揮者の演奏もLPレコードで聞きました(当時は、CDではなく、まだLPレコードが全盛時代でした)。「耳にしみこんでいる曲」でもあるのです。しかし、リビングから聞こえてきたロジャー・ノリントンの「運命」は、「『運命』ってこんなシンフォニーだよね」という鑑賞の幅、言い換えれば「閾値」を超える演奏でした。

■ノリントンの演奏は、非常に速いテンポとノン・ヴィブラート奏法にその特徴があるようです。そこから生まれる響きを、ノリントンは「ピュア・トーン」と呼んでいます。それに、通常のオケと楽器の配置もかなり違います。調べてみると、ノリントンは、絶賛と批判が両極端にわかれる指揮者なのですね。昨晩、放送されたNHK交響楽団の「運命」も、速すぎてオケ、特に弦楽器がテンポについていけないときもあったように思います。しかし、この速いテンポと独特の表現が、曲の骨格をクリアに浮かび上がらせているようにも思いました。私は、嫌いじゃありませんね、こういうの!

■ネットでみつけたノリントンに関する記事(音楽ジャーナリスト・毬沙琳(まるしゃ・りん)さんの記事)です。なるほどな…と思いました。

ノリントンは単にヴィブラートの有無にこだわっているのではない。根本にあるのは、スコアを丹念に読み解く中でテンポのあり方、アーテキュレーション(音と音のつなげ方、切り方)やアクセントの強弱など、音楽学者的なアプローチを独自に行っていることだ。作曲家が求めていた音に近づきたいという真摯な音楽への向き合い方だとも言える。

これまでの巨匠指揮者たちが不真面目だったというのでは全くない。多くの演奏家はスコアから読み取った解釈を、自由なイマジネーションによって表現しようとする。私たちは演奏家の数だけ音楽の違いを楽しむことが出来るし、芸術は自由な人間の賜物であるから正解などどこにも存在しない。だからこそ、作曲家の意図を遥かに超えた作品の魅力を引き出すことも可能なのだ。

しかしベートーヴェンの作品がこの世に生まれて200年と考えると、この10数年で作曲家が生きていた当時の響きを現代の楽器で再現しようという潮流が盛んになってきたことには重要な意味があると言える。作品が素晴らしいものであれば尚更、様々なアプローチで表現方法を改革することは、さらなる魅力の発見にも繋がるのだ。

ノリントンで聴くN響のベートーヴェンからは、このオーケストラの持つ音の美しさが際立ち、作品の構造が音の透明感によって強調される。同じアンダンテでも「歩く早さで」という解釈には様々な感性が作用するが、ノリントンの場合は明解だ。「ベートーヴェンがメトロノームを用いた最初の作曲家であり、メトロノーム記号はスコアの一部だ」と確信している。(「音楽の友」で連載中の「ノリントン先生のベートーヴェン講座」をお読み頂ければ、マエストロの音楽解釈が手に取るように伝わってくる)

■ということで、とっても気になったものですから、ノリントンの別のベートーベンも聴いてみたくなり、さきほどiTuneでダウンロードしてみました。それが、トップの画像です。ところで、ノリントンの演奏の前提になっている考え方、社会科学の古典とよばれる作品を読むばあいと、どこかで共通するところがあるように思いました。ある学説や理論を、現在の「いま・ここ」に生きる私たちの文脈から解釈するのではなく、それらが生成されてくる時代状況のなかにしっかりと位置づけながら、もっといえば、それらは何を思想的ないしは理論的な敵手としながら生み出されてきたのか、そのあたりまでをも含めて解釈していく…、そういうことでしょうか。

■以下の動画は、ノリントンの「運命」です。

■ユーモア、ウイット、悪戯…。
ロジャー・ノリントンへのインタビュー

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