「大津エンパワねっと」の「大学と地域をつなぐ特別講義Ⅰ」

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■今日の1限は、「大津エンパワねっと」の「大学と地域をつなぐ特別講義Ⅰ」でした。受講しているのは1年生。ゲスト講師は、先週に引き続き、大津市歴史博物館・学芸員の木津勝先生でした。木津先生は、大津市の近現代の古写真を博物館で収集保存されています。今日は、「大津ってどんなとこ?古写真でみる地域のあゆみ」というテーマのもと、博物館に収蔵されている写真を使って講義をしていただきました。写真ですが、トップは講義をされている木津先生です。その下。講義の冒頭、まずは私から「大津エンパワねっと」についての説明を行いました。

■本日、配布された資料も以下にアップしておきますので、参考にしていただければと思います。
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■大津。津とは港を意味します。したがって大津とは「大きな港」ということです。江戸時代は、北陸方面からの米などの物資は、丸子船と呼ばれる伝統的木造船で、琵琶湖の北の港から大津まで運ばれていました。江戸時代中頃には1000隻をこえる丸子船が湖上を行き来していたという記録が残っているといいます。白い大きな帆を揚げた船が琵琶湖を行き来している風景、港に陸揚げされた膨大な物資の量。どれだけ大津の街が繁栄していたのか、容易に想像できるはずです。実際、大津は港町としてだけでなく、東海道の宿場町として、そして三井寺等への参拝客が集まる門前町としても繁栄しました。江戸時代には、旅籠が軒を連ね、たくさんの商店がひしめいていました。17世紀末頃には、町数100カ町、18、000人を超える規模に発展していました。このように大津は、江戸時代に大きく繁栄したわけですが、明治時代に入るとしだいにその繁栄は衰退していきます。その原因は鉄道です。

■明治に入って東海道線がすぐに開通したわけではありません。京都と大津のあいだは、1880年に開通しました。ただし、技術的な問題から、線路は現在の場所ではなく、南まわり(伏見区の稲荷を経由して…)のルートでした。大津駅も、現在の場所にはありませんでした。いったん現在の膳所駅、当時の馬場駅までいき、そこからスイッチバックして現在の浜大津にある大津駅に向かいました。大津駅からは、人びとは太湖汽船で長浜まで湖上交通で移動しました。そして、再び長浜から鉄道にのって移動しました。しかし、1889年に東海道線が全線開通します。駅も現在の大津駅の近くに移動します。かつては、いったん大津の街に降りていた人たちは、その必要がなくなり、大津は通過地点になってしまいました。(つづく)

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