お葬式に参列して

■妻方の親戚のお葬式に参列しました。お葬式に対する感じ方、年々、違ってきているなあ…と思いました。死をみつめることは、今の生をしっかり生きることの前提であり出発点でもある…年を取ると、自然とそのようなな考え方が強まってきました。死を終着点ではなく通過点としてイメージすることも大切かなと思います。

■今日は、妻方の親戚のお葬式があり、大阪の葬祭場まで、妻、妻の母(義母)の3人で参列してきました。亡くなられた方には、ひょっとすると親戚の結婚式のときにお会いしただけなのかもしれません。こういう遠い親戚のばあい、最近は、参列しない人のほうが多いのかもしれませんが、なぜか参列させていただこうという気持ちになりました。

■その親戚の男性は、82歳でお亡くなりになりました。天寿を全うされたと思います。何人ものご弟さんやお姉さんが参列されていました。現在、家族の規模はどんどん縮小していますから、近い将来、このようにたくさんの兄弟姉妹が故人をみおくるということは無くなるのではないかと思います。葬儀は、その時代ごとの家族のあり方や死生観と大きく関係しています。近年は、家族だけで葬儀を行う家族葬、お通夜をおこなわない一日葬、そして火葬のみの直葬もおこなわれるようになりました。その善し悪しについては、様々な議論があるところですが、お葬式はどうなっていくのでしょうか。これは、日本人の生き方に関わるけれど、みえにくい、社会の根底にところに潜んでいる切実な問題だと思っています。

■お葬式だけではありません。今は、墓の問題も深刻です。先日のNHK「クローズアップ現代」のテーマは、「墓が捨てられる~無縁化の先に何が~」というものでした。「全国各地で墓石の不法投棄が相次いで」おり、「その背景には、お参りする人がいないいわゆる無縁墓の急増が」あるというのです。そして、「過疎化の進む地方から始まった墓の無縁化が、今、都会でも急速に広がり始めて」いるというのです。詳しくは、こちらをご覧ください。現在は、先祖伝来の土地で生涯暮らすわけではありません。子どもの世代は、遠く離れたところに住んでいます。祖父母のことを孫たちはよく知らない…物理的にも心理的にも世代を超えた家族の関係は希薄にならざるをえません。そのような状況のなかで、墓の無縁化が進んでいるのでしょう。

■番組のなかで、宗教学者の山折哲雄さんは、以下のように説明されています。

これは戦前からずっと、日本人の宗教の一つの中心をなしていたのは、『家の宗教』としての先祖崇拝でした。これがガタガタと崩れ始めた、その結果とも言えるかもしれません。従来の伝統的な家制度の中で作られたお墓信仰は崩れざるを得ない、魂の行方を信じることができない。現代人がそうですよね、私もそうだ。誰も思わなくなってしまったとすれば、自分の死後の問題をどうするか、葬儀の問題をどうするかという問題に直面しているということです。ある意味ではジレンマの時期に今さしかかっていると思います。

■昔は、死んだ後のあとのことは、子どもや子孫が面倒をみて、きちんと供養するのがあたりまえでした。ある意味で義務でした。しかし、今は、生きているあいだに自分が死んだあとのことを考えなくてはいけません。番組のなかでは、本人の希望どおりに死後の手続きを勧めてくれるNPO法人と契約されたご夫婦が登場されます。ご夫婦は墓もつくりません。以前、家族社会学者の山田昌弘さんが、もう5年ほど前のことでしょうか、日本社会学会の学会誌で「家族の個人化」と「家族の『本質的』個人化」について論文を書かれていました。私は、そのような「家族の『本質的』個人化」と、このエントリーで取り上げているような問題が関連していると考えています(こりのエントリーでは、個人化については説明しませんが)。死後のことを、自己責任で考えねばならない時代がやってきているのです。

■このような問題は、ひとつ上の世代ではなく、まさに私たちの世代の問題なのです(私は56歳ですが)。死んだあとのことをどうするのか…そのことを今から考えねばなりません。問題は、このこと以外にもあるように思います。まわりの同世代は、しばらく先に定年を迎えます。「残りの人生」をどう充実させていくのかということを真剣に考え始めています(そして、どう生きていくのかも…)。もちろんそれは大切なことなのですが、今の「生」をしっかり生きることの前提や出発的には、「死」をしっかりみつめることが必要だ…そのように思います。「生」を煽る現代社会において、「死」をみつめることは非常に難しい。みつめるためには、「死」を終着点ではなく通過点としてリアルに「イメージ」することも大切かなと思っています(山折哲男さんのいう「魂の行方」)。「死」をみつめ「死」を通過点としてイメージする。私も含めて、一人一人にとって大きな課題なんじゃないのか…個人的にはそう思っています。

権利だけの話しなのか…

■ちょっとした偶然から、2つの動画を視ることになりました。難しい。
米 29歳末期がん患者、「安楽死する」と公表
スイス 自殺幇助サービス(2010)

■「個人」の「権利」の問題に還元してしまうことに、死を「個」の問題に限定してしまうことに、どうもしっくりこないものを感じます。いろいろ書こうと思いましたが、まだまだ不勉強なので…。いいがげんなことを書いてしまうのではないかと思い、本文を書くこと、途中でやめて削除しました。

高齢者による新聞への投稿

20140316toukou.jpg ■親しい知人のおじいさまは、100歳を超えておられます。100歳になったときは、地元の自治体の首長さんからお祝いの言葉が届けられました。一般論として長寿は大変おめでたいことなのですが、おじいさまは、孫になる私の知人に、「嫁さんもとうの昔に亡くなり、子どもたちもみんな先に亡くなってしまった。寂しい」と言っておられるそうです。一緒に生活をともにしてきた身内の人たち、言い換えれば、いろんな体験や記憶を共有している人たちが亡くなってしまうことが、お寂しいのですね。では、幸せな最期とは、どういうことでしょうね。家族や身内、そして友人たちに囲まれ、「ありがとう。あなたと一緒に過ごすことができて私は幸せでした…」といってもらいながら、息をひきとる。記憶や体験とともにある豊かな関係性を実感しながら亡くなっていく…ということなのかなと思います。あくまで、個人的な考えですが。

■今日、新聞で80歳になる男性の投稿を読みました。11年前に奥様を亡くされています。優れたユーモアのセンスをお持ちだということがわかります。しかし、同時に、亡くなった奥様のことを偲びつつ、奥様と一緒に暮らした日々のことを思い出しながら、生きてこられたご様子もなんとなく伝わってきます。そして毎日毎日を「しっかり生きておられる」ふうにも想像します。毎日毎日同じような暮らしかもしれないけれど、「しっかり生きる」。「しっかり生きる」ことができることを感謝する。そのような心持ち。これもあくまで個人的な想像ではありますが、素敵な投稿だと思いました。

宮沢賢治の「幸せ」と「死生観」

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■先日、7月24日の朝日新聞(朝刊)の「リレーおぴにおん」に、宮澤賢治の弟・清六さんの孫である宮沢和樹さんが登場されていました。とても興味深いご意見でした。

■賢治ファンの皆さんが、宮沢賢治を聖人や偉人のような存在に位置づけようとする傾向を「違う」と否定されます。「賢治さんは失敗のほうが多かったといってもいい」とも語っておられます。賢治の作品を「悩みを抱えた人間が書いたもの」という視点で読むことではじめて「真の価値」が見えてくるというのです。この「おぴにおん」の後半部分では、賢治の「幸せ」観や「死生観」について語られています。

自分自身や他人に対して、何か後ろめたいことをしていると感じたら幸せにはなれない。ならば、どう生きるべきかと、考えさせてくれます。

現代人の死生観にも訴えるものがありますね。童話では登場人物が死んでしまったり、八パーエンドでなかったりします。それでも基本的には明るいと思いませんか?人はみな、いつか死ぬ。じゃあ、何もかもなくなってしまうのでしょうか。銀河鉄道の列車は時空を超えてどこまでも走っていく。そのよう「意識」のようなものは残り、終着点はない。死は悲しいことだけど、同時に悲しいことじゃない。

■とても大切なことをおっしゃっておられる。死ぬ前の段階で、「死は終着点ではない」というイメージやリアリティをもつことができるのかどうか、とても大事なことだと思います。このようなイメージやリアリティをもつことができなければ、「底なしの真っ暗闇に吸い込まれていく…そして消えていく…」、そのような恐怖しか存在しないからです。よく、「死んだらすてべて無くなる。自分もただの物質に戻っていく(たとえば…遺骨)」という発言も聞きます。しかし、そのようなイメージも、現代科学の、たとえば生態系やそのなかでの物質循環のイメージを媒介にしながら、死後をイメージしようとされているのだと思うのです。

■フォロースルーという言葉があります。調べてみました。「野球、テニス、ゴルフなどの球技で、ボールを打ったり投げたりしたとき、そのプレーの流れとして後まで続いていくからだの動き」のことだそうですね。死の瞬間が、バットにボールが当たる瞬間、ラケットにボールが当たる瞬間、ゴルフのクラブにボールが当たる瞬間と考えるならば(実際には、死は瞬間ではなく一定の幅をもった時間と考えたほうがよいと思っていますが…)、死は生の終着点と考えるのではなく、死は生との連続線上にあるものとして理解できます。現世と死後のイメージとが連続しており、通常私たちがいう死とはその経過点にしかすぎなくなります。そうでないと、今、生きているこの瞬間が「幸せ」にはなりません。この続きは、また別のエントリーで。

躍動する仏教系NGO

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■2013年度 第1回 国内シンポジウム「躍動する仏教系NGO―その活動と展望」を開催します
龍谷大学アジア仏教文化研究センター(BARC)
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2013年度国内シンポジウム「アジア仏教の現在Ⅳ」

「躍動する仏教系NGO ― その活動と展望」
開催日時:2013年6月1日(土) 13:30~17:00 <13:00会場>
会  場:龍谷大学大宮学舎 清和館3Fホール
登 壇 者:茅野 俊幸 (公益社団法人シャンティ国際ボランティア会 専務理事)
     茂田 真澄 (特定非営利活動法人アーユス仏教国際協力ネットワーク 理事長)
     中村 尚司 (龍谷大学人間・科学・宗教総合研究センター 研究フェロー、龍谷大学アジア仏              教文化研究センター 研究員、特定非営利活動法人JIPPO専務理事)

主  催:龍谷大学 アジア仏教文化研究センター(BARC)
協  力:特定非営利活動法人JIPPO
問い合わせ先:龍谷大学 アジア仏教文化研究センター(BARC)
TEL:(075)343-3808 http://barc.ryukoku.ac.jp/
龍谷大学 人間・科学・宗教総合研究センター事務室
TEL:(075)645-2154

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プログラム:
13:30~13:45 開会の挨拶
桂 紹隆  (龍谷大学文学部教授,龍谷大学アジア仏教文化研究センター長)
13:45~15:15 第一部基調報告
       報告1.茅野 俊幸 「アジアの活動を被災地に生かす」
       報告2.茂田 真澄 「アーユス事業の特質:仏教者としてなすべきこと」
       報告3.中村 尚司 「宗門の壁を越える課題:JIPPOの経験から」
15:15~15:30 休憩
15:30~16:45 第二部 パネルディスカッション
ファシリテーター:若原 雄昭(龍谷大学文学部教授,龍谷大学アジア仏教文化研究センター ユニット1リーダー)
コメンテーター :小原 克博(同志社大学神学部教授,一神教学際研究センター長)

高橋 卓志 (神宮寺住職,NPO法人アクセス21代表,龍谷大学文学部客員教授)
16:45~17:00 閉会の挨拶
佐藤 智水  (龍谷大学文学部客員教授,龍谷大学人間・科学・宗教総合研究センター 研究フェロー,龍谷大学アジア仏教文化研究センター ユニット3リーダー)

映画「エンディングノート」


■facebookの友達でもある笠井先生の投稿でしりました。映画「エンディングノート」。こんなストーリーの映画です。
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私の名前は砂田知昭。享年69歳になります。毎年欠かさず受けていた検診で癌が発見されたのは、会社を引退して二年後の2009年の事、発見時にはすでに手術が不可能な状態でした。癌告知後、私がまず最初に取り組んだのは“エンディングノート”と呼ばれるマニュアル作り。これは遺書よりはフランクで法的な効力を持たない、家族への覚え書きのようなものです。自分の人生をきちんとデッサンしておかないと、残された家族は困るでしょうから・・・。「段取り命!」で高度経済成長を駆け抜けた元熱血営業マンの私にとって、死に至るまでの段取りは、人生最後の一大プロジェクトになったのでございます。
 父が遺した“エンディングノート”が開かれる、その時まで。人間味あふれる父とその姿を見守る家族を「娘」が描いた、感動のエンターテインメント・ドキュメンタリー
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■このストーリーからもわかるように、主人公の砂田知昭さんの娘である砂田麻美監督が、自らの父の最期をドキュメンタリーという形で表現した作品です。公式サイトもあります。DVDも発売されているようです。

■「自分の人生をきちんとデッサンしておかないと、残された家族は困るでしょうから・・・。「段取り命!」で高度経済成長を駆け抜けた元熱血営業マンの私にとって、死に至るまでの段取りは、人生最後の一大プロジェクトになったのでございます。」という部分。癌で父を亡くしている私には、よくわかります。しかし残念ながら、私の父のばあいは、きちんと自分自身の段取りができなかったように思います。それが、父にとってはものすごく辛かったのです。ということで、DVDを購入して観てみたいと思います。

【追記1】■監督の砂田麻美さんのインタビューです。

【追記2】■この作品とは直接に関係しませんが、関連する動画。「葬儀の様子、エンディングノート終活「ライフヒストリー」」。

【追記3】■この「エンディングノート」に関するブログ記事を、知り合いの谷合さんが書かれています。ぜひ、あわせてご覧ください。

NHKスペシャル「終(つい)の住処(すみか)はどこに 老人漂流社会」


■2009年に父が亡くなりました。約1年間看病しましたが、最後は病院で亡くなりました。肺がんでした。父がまだ動くことができた頃は、老いとともに体が弱ってしまった母の面倒を、父自身がみていました。しかし、父がなくなった現在は、介護保険でヘルパーさんに来ていただきながらも、週1回、母の世話をするために母の家に通っています。こうやって父を看取り、母の世話をしながら、私自身も年齢を重ね、「老い」について毎日深く考えざるを得なくなってきました。また、いずれやってくる自分が「死」ぬ時のことを(平均寿命よりもずっと手前かもしれませんし、もっと後かもしれません…誰にもわかりません)考えるようになりました。「死」一般の問題は、40歳を超えたあたりから少しずつ気になってはいましたが、父の死を経験したあたりから、自分自身どうやって「死」んでいくのか、どのように「死」を迎えるのか、どのように「死」を経験するのか(予期的に経験を先取りするということも含めて)ということについても考えるようになりました。亡き父がそういうふうに、私を導いているのかもしれません。

■父の看病をしながら、「日本の社会では、幸せに『死』を迎えることがなかなか難しい」ということがわかってきました。「死」に向かう人の肉体的な苦しみを緩和する「医学」。「死」に向かいながらも日々の生活の質を支える「福祉」。そして、自分が死んでいくことの恐怖や意味の喪失(自分の足下が底なしの真っ暗に暗闇であることに気がついたとき…)という精神的危機から救う広い意味での「宗教」。「医学」、「福祉」、「宗教」。この3つがきちんと連関していてこそ人は幸せに「死」を迎えることができるのでは…そのように思うのですが、現実には、この3つがバラバラに、それぞれ独自の論理とシステムで動いており、「死」に向かう人は、3つの機能分化したシステムにより引き裂かれるような状況に陥っているのではないかということです。父もそうでした。その父を看病し、看取った私たち家族も辛い経験をしました。

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■ところで、私がちょうど父の看病と看取りを経験したころ、研究会や学会で、ある1人の医師と出会いました。宮城県の名取市で終末期の在宅医療(自宅での看取り)に取り組む岡部健先生です。残念なことに、岡部先生は、先日、お亡くなりになりました。先生には、2度お会いして少しだけお話しをさせてもらっただけですが、大きなヒントをいただきました。写真は、朝日新聞に掲載された岡部先生の記事です。この記事のなかにある「臨床宗教師」のことも、私なりに理解すれば、「医学」・「福祉」・「宗教」を結びつけていくための試みなのかなと思っています。以下は、岡部先生がラジオ番組に出演されたときの録音です。東日本大震災での先生ご自身の経験から、「死後の世界とある程度つながりをもった感覚がないと、なかなか人間は死にきれないし、死んだあとに残った家族も受け止められない」と語っておられます。

■さて、ここから急に話しが変ります。最近、ショッキングなテレビ番組を視ました。「NHKスペシャル「終(つい)の住処(すみか)はどこに  老人漂流社会」という番組です。以下は、NHKスベシャルの公式サイトにある番組紹介です。
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『歳をとることは罪なのか――』
今、高齢者が自らの意志で「死に場所」すら決められない現実が広がっている。
ひとり暮らしで体調を壊し、自宅にいられなくなり、病院や介護施設も満床で入れない・・・「死に場所」なき高齢者は、短期入所できるタイプの一時的に高齢者を預かってくれる施設を数か月おきに漂流し続けなければならない。
「歳をとり、周囲に迷惑をかけるだけの存在になりたくない…」 施設を転々とする高齢者は同じようにつぶやき、そしてじっと耐え続けている。
超高齢社会を迎え、ひとり暮らしの高齢者(単身世帯)は、今年500万人を突破。「住まい」を追われ、“死に場所”を求めて漂流する高齢者があふれ出す異常事態が、すでに起き始めている。
ひとりで暮らせなくなった高齢者が殺到している場所のひとつがNPOが運営する通称「無料低額宿泊所」。かつてホームレスの臨時の保護施設だった無料低額宿泊所に、自治体から相次いで高齢者が斡旋されてくる事態が広がっているのだ。しかし、こうした民間の施設は「認知症」を患うといられなくなる。多くは、認知症を一時的に受け入れてくれる精神科病院へ移送。
症状が治まれば退院するが、その先も、病院→無届け施設→病院・・・と自らの意志とは無関係に延々と漂流が続いていく。
ささいなきっかけで漂流が始まり、自宅へ帰ることなく施設を転々とし続ける「老人漂流社会」に迫り、誰しもが他人事ではない老後の現実を描き出す。さらに国や自治体で始まった単身高齢者の受け皿作りについて検証する。その上で、高齢者が「尊厳」と「希望」を持って生きられる社会をどう実現できるのか、専門家の提言も交えて考えていく。
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■このダイジェスト版には登場しませんが、実際の番組の最後の方で、ある女性が運営している施設が紹介されていました。認知症の高齢者も含めて、複数の高齢者が入所されているわけですが、体が動く方、たとえば料理が得意な方は、自らも調理作業に参加しておられたりと、入所されている高齢者がお互いに助け合うように運営されていました。前回の投稿では、「幸せの経済学」という映画に関連して「ローカリゼーション」という言葉を紹介しましたが、こういう「死」の問題についても、同様の「ローカリゼーション」の発想が必要なのかと思っています。(続く)

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