中津川市「付知総合事務所」の記事

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▪︎先日、まちづくりのお手伝いにいった中津川市・付知の「付知総合事務所」のスタッフの方が、今回の「まちづくりMU-JIN」のことを記事にして、市役所のホームページにアップしてくださいました。ありがとうございました。とっても楽しい会合でした。
【付知】『まちづくりMU-JIN(無尽)』が開催されました!

関連エントリー
「地域づくり型生涯学習モデル事業」(岐阜県中津川市)

「大津市都市計画マスタープランまちづくり会議 北部ブロック」ワークショップ

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▪︎今日は、大津市の堅田にある「北部地域センター」で、「大津市都市計画マスタープランまちづくり会議 北部ブロック」が開催されました。この会議では、大津市の「都市計画マスタープラン」を作っていくためのワークショップも同時に開催されました。このワークショップに参加された市民の皆さんのご意見が、マスタープランに、特に地域別構想に反映されていくことになります。大津市を7つに区分したブロックごとに、このようなワークショップが開催されています。7ブロックの区分は、超高齢社会・人口減少社会のもとでも都市サービスの確保を図るためのコンパクト+ネットワークの視点、地域コミュニテの視点、歴史・文化の視点、地形・景観の視点、他の計画との整合の視点、以上5つの視点からの総合的判断にもとづいています。私は、大津市都市計画審議会で審議員や大津市都市計画マスタープラン案策定専門部会部会長職務代理者を務めていることから、この日はアドバイザーとして参加させていただきました。

▪︎最初は、少し緊張した雰囲気でしたが、ファシリテーターの方達のお力もあり、すぐに笑い声が聞こえてくる楽しい雰囲気になっていきました。皆さん、熱心に自分の考えを述べておられました。この日参加された皆さんは、北部ブロックにお住まいの皆さんです。北部ブロックとは、堅田、仰木、仰木の里、真野、伊香立、そして葛川にいたる広いエリアです。もっとも広いエリアとはいえ、同時に、地域間には相対的に強い関係があることも事実です。特に、堅田、真野、伊香立、葛川といった地域はそうだと思います。しかし、普段、交流されているのは、おそらくはもっと小さいエリアになるのではないでしょうか。北部ブロックという地域社会について話しをされたご経験も、あまりなかったのではないかと思います。

▪︎これまで、ワークショップを経験されたことのある方は、参加者のうちの約半分ほどの方達だけでした。ワークショップを通じて、ふだん何気なく自分自身で考えていることと、似たような発想をしている人がいることに納得し、あるいは逆に、自分自身とは異なる考え方に気がついたりと、有意義な経験をされたようでした。今回のワークショップでは、この北部ブロックの「魅力」と「問題点」についてポストイットカードに書いて提示しあい、それを模造紙に貼り付けていきました。また、さらに「魅力」を伸ばしていくための、そして「問題点」を解決していくための「取り組み」についてもアイデアを出していただきました。かなり盛り上がりました。予定の時間をオーバーして、熱心に議論いただきました。今後は、このワークショップの成果を、マスタープランや地域別構想に反映していくわけですが、どのように反映させているのか、またその反映させていくプロセスをも含めて、参加者の皆さん、そしてお住まいの地域の皆さんにフィードバックしていくことが大切かと思っています。

▪︎ところで、今日の会議の会場となったのは、「北部地域センター」のホールでした。ホールにはステージがあり、緞帳がぶら下がっていました。緞帳に描かれているのは、「堅田の浮御堂」と琵琶湖のようです。

【追記】■今回の北部ブロックの「まちづくり会議」では、最後にアドバイザーとして総評をさせていただきました。そのなかで、ひとつのたとえ話をしました。先日、岐阜県の中津川市のまちづくりのお手伝いにいったさい、「栗きんとん」の詰め合わせをお土産にいただきました。中津川市は、栗きんとんの発祥の地なのです。ただし、この「栗きんとんの詰め合わせ」、市内にあるさまざまな老舗の和菓子屋さん自慢の栗きんとんを詰め合わせにしたものなのです。すべて「栗きんとん」なんですが、そうでありながらひとつひとつに個性があるのです。今回、北部の「まちづくり会議」では、これからの「まちづくり」のイメージを伝えるために、この中津川市の「栗きんとん」の詰め合わせのお話しをさせていただきました。小さなコミュニティが、それぞれ個性をもちながらも、全体としてはまとまっている、あるいは相補的な関係のなかでに全体ができあがっている、そのようなイメージです。うまく伝わったかどうかわかりませんが、参加者のおひとりからは、「わかりやすくて聞いててワクワクしてきました」という感想をいただきました。他のみなさんにも、そのように感じてもらえるとうれしいんですけど、どうでしょうね〜。

■もうひとつ、とても印象に残ったことがあります。今回の「まちづくり会議」の最年少の参加者は、20歳代前半の方でした。消防団に所属されているようです。災害対策に関連して、ご自身の意見を述べられました。災害時には安否確認が大切になりますが、普段からのつながりが大切だという意見です。これも大切な意見かと思いました。超高齢化社会では、行政サービスに期待することができません。ますます地域社会では共助の仕組みが大切になってきます。自分たちの地域の実情を基盤にした、持続可能な共助の仕組みをどうつくっていくのかが問われるのです。一人の方が、複数の共助の仕組みを支えることに参加していると、地域には重層化された共助の仕組みのネットワークが生まれることになります。重層化されたネットワークをどう構築していくのか、いろいろ地域の皆さんのご意見を伺いたいと思います。

「地域づくり型生涯学習モデル事業」(岐阜県中津川市)

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▪︎この前の週末の土日、「地域づくり型生涯学習モデル事業」のお手伝いをするために、岐阜県中津川市へ行ってきました。市内の付知地区と蛭川地区の交流会で、地域の皆さんの活動の振り返り、これからの課題と将来の夢に関してお話しを伺うことができました。岐阜県とのおつきあいは、県のモデル事業に呼ばれたことから始まっています。記憶は曖昧ですが、2006年頃から、岐阜市、各務原市、可児市、白川町、羽島市、郡上市、安八町、関市、中津川市…と、いろいろお邪魔させていただいた。そして2014年からは、再び中津川市のお手伝いをすることになりました。

▪︎写真は付知地区で撮ったものです。「まちづくりMU-JIN」。「じぃばぁず」。少し説明させてください。「MU-JIN」とは「無尽」のことです。もともとは、いわゆる頼母子講のことです。現在、「無尽」に参加する人たちは、毎月お金を出し合い、積み立てたお金で宴会や旅行を楽しんでおられます。岐阜県の地域社会では、この「無尽」がとても盛んです。一人で、複数の「無尽」に参加されています。このような「無尽」によって生まれた関係が、地域社会の様々な局面で潤滑油のような役目を果たしているようです。そのような「無尽」の文化を、地域づくりにも活かしていこう…ということになりました。お茶を飲みながら気楽にまちづくりについて情報交換をしたり、いろいろ頼んだり頼まれたり…そのような場所ができたらいいね、じゃ、作っちゃお…ということになり名付けられたのが、「まちづくりMU-JIN」です。「無尽」…と漢字ではないのは、こっちの方がカッコいいという単純な理由からです。

▪︎土曜日は、その「まちづくりMU-JIN」の2年間の活動を振り返り、いろいろお話しを聞かせていただきました。以前、アドバイスさせていたどいたことのひとつは、いわゆる「異業種間でつながって面白いコラボをしてみたら…」というものでした。横につながると「1+1=3 ‼︎」のような効果が生まれることがあるからです。わかりやすい例を出しましょう。麹や味噌を作っている「じぃばぁず」というグループの麹や味噌を、和菓子屋さんが自分の店で使って「味噌くるみ餅」という商品が生まれました!和菓子屋さんも、「味噌くるみ餅」で大儲けをしたわけではないのでしょうが、それでもこうやって協力して新しい商品を作ることができて、そのこと自体を、とても喜んでおられたそうです。この喜んでおられた…というところが、非常に大切なのかなと思っています。別の言い方をすれば、人と人の間に「幸せ」がフッと生まれたわけですね。付知地区では、その他にも、このような「1+1=3‼︎」のつながりが生まれていました。といいますか、そのような「ちょっとしたつながり」に、皆さんが、より自覚的になったのかもしれません。そこに幸せを感じるようになっているのかもしれません。

▪︎こんなお話しもお聞きしました。30歳代のある店主さんは、頑張って地域の商店街の仲間と「付知GINZAマルシェ」というイベントを開催しています。その「マルシェ」、マスコミにも取り上げられ、地域内外からたくさんの方たちが参加するイベントに成長しています。その店主さんが、こんなことを言っておられました。「自分たちがもっと若い頃は、親の家業を継いで、地元に残ることはダサいことでした。しかし、最近は変わってきました。むしろカッコいいという評価がでてきた」というのです。地元志向といいますか、若い世代が、都会を志向するのではなく、地元に根付いた暮らしを楽しむ、そのことを評価する傾向が、中津川の中に少しずつ生まれているようです。そのような傾向を、翌日、日曜日に伺った蛭川地区でも聞くことができました。30歳代以下の人たちが、地域の活動に積極的に関わろうとする傾向が出てきているというのです。ここは、もっと深く聞き取りをしてみたいところです。

▪︎若い人たちの間で、何が幸せや暮らしの豊かさなのか、個々人の中にある「幸せの物差し」が少しずつ変化しているようなのです。その蛭川地区では、外から転入した方たちと、地元の人たち、その両者を媒介する人たち、3者の関係の中で、地域が静かに動き始めていました。これもまた、楽しみな傾向です。もう少し、中津川に通う頻度を上げていきたいと思います。こういう仕事は、楽しいです!

▪︎『星の王子さま』のなかに、こんな一節があります。
「じゃあ、秘密を教えるよ。とても簡単なことだ。
ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。本当に大切なことは、目には見えない。
君のバラをかけがえのないものにしたのは、君がバラのために費やした時間だったんだ。」

第42回「北船路野菜市」、3年生に引き継がれました!!

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月曜日の授業

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▪︎今年度から来年度にかけて大学の研究部長の職についているため、担当授業数は4コマということになっています。うちの大学の教員のノルマは5コマです。1コマ減らすかわりに、学内行政に集中しろ…ということなのでしょう。とはいえ、実際には、4コマに授業を急に減らすことはできません。ということで、現在私は7コマ担当しています。月曜日の午前中の2コマ、金曜日に5コマという変則的な時間割になっています。

▪︎月曜日の1限は、「社会調査実習」です。上の写真は、来週の水曜日に開催される「社会調査実習報告会」に向けて、現在、パワーポイントのスライドと原稿を作成中の学生たちです。滋賀県の愛知川河口部に、江戸時代後期の新田開発で生まれた農村、栗見出在家で夏休みに聞き取り調査を行いました。報告会では、その栗見出在家で取り組まれている「魚のゆりかご水田」プロジェクトに関して報告を行います。写真ですが、iPhone6のカメラで撮ろうとすると、一番右端の男子学生が、「いかにもそれっぽい」雰囲気に見える動きをしてくれました。急にそんなことをするので、他のメンバーが笑っているのです。来週の月曜日は、報告会の予行演習をする予定です。

▪︎月曜日の2限は、「社会学演習ⅠB」です(下の2枚の写真)。3年生後期のゼミです。後期のゼミでは、フィールドワークに基づいた学術論文とは、どのような「構造」になっているのかを学習しました。ある学会の年報に掲載された、「中山間地域の女性による地域づくりとエンパワメント」をテーマにした論文をテキストに使用しました。学部学生の卒業論文とはいえ、学術論文であり学位論文であることにかわりはなく、そのあたりは厳しく指導をしています。卒論の「構造」について学んだあとは、夏期休暇中に執筆してもらった書評…いや書評のようなレポートをもとにグループワークに取り組みました。ゼミには、本を読む習慣がある学生とそうでない学生が混在しています。そこで、書評の執筆を夏期休暇の課題にしたわけです。グループワークでは、その書評をもとに討論を行ってもらいました。討論することで、お互いの問題関心を知り、自分自身の卒論に向けての問題意識を高めていくことができます。卒業論文は、一人一人が取り組むものではありますが、「ゼミの力」で、切磋琢磨しながら取り組むものだと思っています。

▪︎そして、今週からは、いよいよ卒論調査に向けての構想を、お互いに語りあってもらうことにしました。事前に、自分の問題関心、テーマ、フィールド等に関して、A4・1枚程度にまとめてきてもらいました。テーマは、発酵食、グリーンツーリズム、農村、漁村、郊外、コミュニティ放送、観光、中間支援組織、学生街、バリアフリー…と、実に様々です。しっかりフィールドワークに取り組んでほしいと思います。

かかしづくり教室

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20150826mitubati2.jpg ■今日の午前中、「北船路米づくり研究会」が主催する「かかしづくり教室」が、大津市観音寺にある「みつばち保育園」で開催されました。今日の教室では、保育園児さんたちと研究会のゼミ生たちが一緒になって、15体の案山子をつくりました。8月30日(日)に北船路で開催される第4回「かかし祭」のさいには、ゼミ生が作成した案山子も加えて、イベントのシンボルとして、棚田のてっぺんにずらりと案山子が飾られることになっています。これまでのエントリーにも書いてきたように、「みつばち保育園」では、地産地消や食育に非常に熱心に取り組まれています。園の給食のご飯も、北船路で生産した環境こだわり米を使っておられます。また、北船路に園児さんたちが田植えや芋ほりに来られるときは、学生たちがサポートをしています。そのようなご縁から、私たちの「かかし祭」にも積極的にご参加くださっています。

■今日は、8時45分に浜大津駅に集合し、そこから保育園まで徒歩で移動しました。9時からミーティングと準備を開始し、「かかしづくり教室」は10時から始めました。園児さんたちには、いらなくなったシャツに手形スタンプを押してもらいました。また、好きな絵を描いてもらいました。さらしの布に、顔も描いてもらいました。その「シャツ」と「顔」を、あらかじめ指導農家の吹野藤代次さんが製作してくださった案山子の躯体に着せていくのです。躯体は、竹を十文字に縛り、そこに藁をまきつけたものです。シャツは「着せる」ですが、さらしの布に描いた顔は、藁の胴体に巻いて「縛る」…という感じでしょうか。頭には、防止をかぶせます。

■トップの写真は、案山子の役割や、案山子の作り方について説明をしているところです。園児さんに理解してもらおうと思うと、なかなか大変です。わかりやすい言葉を使っているつもりでも、それは園児さんには理解できない大人の言葉だったりします。難しいですね~。「かかしづくり教室」は、年少さん、年中さん、年長さんごとに、それぞれ20分~30分程度の時間で行いました。中段の写真は、年中さんが、案山子に着せるシャツに絵を描いているところです。すでに手形スタンプは押してあります。園児さんを優しく指導しているのが、私とペアを組んでくれたI君です。最後(下)の写真は、「かかしつづくり教室」が終わったあと、園児さんたちが「ありがとうございました」と学生たちに御礼をしているところですね。こちらこそ、「ありがとうございます」なんですが。園児さんたちを指導しながら、学生たちは、いろいろ戸惑うところもありながらも、社会学部生としては普段経験することのできない、そういう意味で有意義な体験ができたように思いました。みなさん、ご苦労様でした。さて、いよいよ第4回「かかし祭」の本番です。

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西粟倉村のこと

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▪︎つい先日、知り合いの新聞記者から問い合わせがありました。仕事上の問い合わせというよりも、個人的に意見を聞かせてほしい…という感じでしょうか。このような質問です。「日本創成会議が提唱している東京圏から地方への移住呼びかけについてはどう思うか?」。この「移住の呼びかけ」については、以下の日本経済新聞の記事をご覧ください。

民間有識者でつくる日本創成会議(座長・増田寛也元総務相)は4日、東京など1都3県で高齢化が進行し、介護施設が2025年に13万人分不足するとの推計結果をまとめた。施設や人材面で医療や介護の受け入れ機能が整っている全国41地域を移住先の候補地として示した。

 創成会議は「東京圏高齢化危機回避戦略」と題する提言をまとめた。全国896の市区町村が人口減少によって出産年齢人口の女性が激減する「消滅可能性都市」であるとした昨年のリポートに次ぐ第2弾。

 東京、神奈川、千葉、埼玉の1都3県では、今後10年間で75歳以上の後期高齢者が175万人増える。この結果、医療や介護に対応できなくなり、高齢者が病院や施設を奪い合う構図になると予測した。解決策として移住のほか、外国人介護士の受け入れ、大規模団地の再生、空き家の活用などを提案した。

 移住候補地は函館、青森、富山、福井、岡山、松山、北九州など一定以上の生活機能を満たした都市部が中心。過疎地域は生活の利便性を考え、移住先候補から除いたという。観光地としても有名な別府や宮古島なども入っている。

 高齢者移住の候補地域は以下の通り(地名は地域の中心都市。かっこ内は介護施設の追加整備で受け入れ可能になる準候補地域)。

【北海道】室蘭市、函館市、旭川市、帯広市、釧路市、(北見市)
【東北】青森市、弘前市、秋田市、山形市、(盛岡市)
【中部】上越市、富山市、高岡市、福井市、(金沢市)
【近畿】福知山市、和歌山市
【中国】岡山市、鳥取市、米子市、松江市、宇部市、(山口市、下関市)
【四国】高松市、坂出市、三豊市、徳島市、新居浜市、松山市、高知市
【九州・沖縄】北九州市、大牟田市、鳥栖市、別府市、八代市、宮古島市、(熊本市、長崎市、鹿児島市)

▪︎いかがでしょうか。なるほどと思われる方もいらっしゃるかと思いますが、私は、この提案内容に納得がいきませんでした。一極集中している東京の視点から語られているからです。乱暴にいえば、東京=大都市の論理に地方を従属させて消費しようとしているかのようです。移住とは、そんなに簡単なものでしょうか。高齢者の移住に関していえば、身体の弱ってきた人たちほど、移住は難しいと思います。移住してそこに根を生やして、その土地の人たちといろんな関係を作り、その地域になんらかの貢献をして…そういうプロセスを経ることが移住には必要だと思っているからです。このよう提案は、「物価の安い海外で優雅に暮らそう」という発想と、ほとんどかわりはありません。知人の新聞記者に教えていただきましたが、かつて「シルバーコロンビア計画」というものがあったそうですね。wikipediaで申し訳ありませんが、以下のように説明されています。「1986年に通商産業省のサービス産業室が提唱した、リタイア層の第二の人生を海外で送るプログラムを指す。正式名称『シルバーコロンビア計画”92”-豊かな第二の人生を海外で過ごすための海外居住支援事業』。『92』が付いているのは、目標年次を1992年としていたため。結局は、『計画』どまり、『構想』レベルに終わった」。また、もっと以前に遡れば、「南米への移住」等の政策についても、同様の考え方のように思います。

▪︎そのようなやり取りを、知人の新聞記者としたあと、facebookでひとつの記事をみつけました。岡山県にある西粟倉村に関する記事です。西粟倉村は、岡山県の最北東端に位置し、兵庫県・鳥取県と境を接する村です。記事は、「ニシアワー」という名前がついたサイトです。西粟倉村の挑戦者たちの活動を伝えるサイトです。こう紹介されています。

ぐるぐる、めぐる。生態系の循環に寄り添う地域作り
ニシアワーは、岡山県西粟倉村の挑戦者たち活動をお伝えするメディアです。

2008年、西粟倉村で50年後(2058年)を目指す「百年の森林構想」が掲げられました。50年後を目指す冒険の物語は、ローカルベンチャーと呼ばれる挑戦者たちが村に眠っている可能性を発掘していくこと、そして挑戦者たちを見守ってくださる応援者を増やして行くことによって成立し、前進していきます。

■「なんだか、おもしろいぞ!!」と思わせる力のようなものを感じました。西粟倉村の主産業は林業てす。しかし、多くの国内の地域と同じく林業になかなか展望を見いだせない状況にありました。そのような厳しい状況にありながらも、西粟倉村は2004年に合併を阻み、独自の道を歩み始めます。2008年には「百年の森林構想」を打ち出し林業と地域と人の再生をはかっていきます。この「百年の森林構想」の経緯にいて説明した文書を引用してみます。

西粟倉村は、2004年に合併を拒み、村として自立していく道を選択しました。スケールメリットよりもスモールメリット。小さな村だからこそ実現できる未来があるはずだ。大都市、大企業の下請けにはならない、自立した循環型の地域経済を目指すべきだ。2004年以降、議論を積み重ねるなかで、目指すべき方向が徐々に言語化されていきました。

2005年には「心産業(しんさんぎょう)」というコンセプトが打ち出されます。心の生態系の豊かな村へ。心のつながりを大切にしながら、価値の創出と交換が行われる地域経済へ。(中略)仕事がないから過疎化する。だったら仕事を生み出そう。地域資源から仕事を生み出していける起業家型人材の発掘・育成を進めることになりました。 そして2008年、「百年の森林構想」という旗が掲げられました。「百年の森林構想」というビジョン、「心産業」というコンセプト、「雇用対策協議会」という推進組織によって、移住・起業の連鎖反応が広がっていくことになります

■非常に建設的で前向きな地域経営に対する意志のようなものを感じます。地域の主体性です。そのような主体性が、移住・起業の連鎖を生み出したというのです。このあたりについては、「挑戦者たち」というページにいろんな方たちが登場します。たとえば、酒屋と日本酒バーを開業した女性、「地域の中のローカルベンチャーの支援をする。それのなにが悪いんですか」と主張する役場職員、地域商社、西粟倉・森の学校の若き経営者…。非常に気になる方たちばかりです。こういう方たちがいる地域って、魅力的ですよね。その魅力に挽きつけられるように多くの方たちが、この西粟倉村にやってこられるようです。そして、西粟倉村で生まれて育っている子供たちが増えているというのです。詳しくは、こちらのページをご覧ください。

第4回「北船路・かかし祭」の開催

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▪︎今月末の30日(日)に、大津市八屋戸北船路で、第4回「かかし祭」が開催されます。農村と都市の架け橋となり、「顔のみえる関係」づくりを目指している北船路米づくり研究会の一大イベントになります。この季節、北船路の棚田は、稲穂が成熟していき、黄金色に染まります。その棚田の向こうには、大津から伊吹山まで一望することができます。その素晴らしい風景を背景に、「みつばち保育園」の園児さんたちが作った「かかし」がづらりと並ぶことになっています。「みつばち保育園」では、食育に熱心に取り組んでおられます。北船路の棚田で生産した環境こだわり米を給食に使っておられます。また、春と秋には田植えや芋掘りをする遠足に来られます。そのような北船路とのつながりがあることから、この「かかし祭」にも積極的に参加していただいているのです。もちろん、「かかし祭」には、保育園の園児さんや保護者の皆さんだけでなく、一般の皆さんも多数参加されます。

▪︎26日の午前中には、北船路米づくり研究会(脇田ゼミ)の学生たちが、保育園で園児さんたちと交流しながら、「かかし」を製作する「かかし教室」を開催する予定になっています。園児さんたちには、「かかし」の顔を描いてもらい、「かかし」の服には、手型スタンプをたくさん押してもらいます。昨日は、その「かかし教室」や、「かかし祭」の事前打ち合わせの日でした。学生たちが事前に作成したチラシに一部修正が必要なりましたが、時間がないようなので、午後から、急遽ピンチヒッターで私のほうでチラシを作成し、夕方、保育園の方に届けました(学生の活動なので、私が手を出すことは望ましいことではないのですが…)。園長先生のリクエストにも応えて、手書きのイラスト入りにしました。このイラストは、第1回のときに私が書いたものと、ほぼ同じです。北船路の棚田から琵琶湖がみえている風景です。

▪︎なお、今回から、「北船路・かかし祭」と名称を変更しました。地元の北船路の皆さんからのご支援をいただいていることを明確にするためです。「北船路中山間地域管理組合」、「農事組合法人北船路福谷の郷」の関係者の皆様に全面的に応援していただいています。また、「NPO法人スモールファーマーズ」の皆さんにも当日、お手伝いいただく予定です。少しずつではありますが、成長発展してきています。

2015年度 社会調査実習(6)

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▪︎8月5日、東近江市立能登川博物館を見学したあとは、能登川駅の近くにあるNPO法人「子民家etokoro」を訪問しました。ここは、大きな古民家を活かした施設です。etokoro(エトコロ)の名前の由来は、絵(芸術)を通して子どもを育むという意味合いの絵と子、そして地域の人たちが協力し合いながら子どもを育むえーところ(良いところ)という思いをこめています。たいへんうまいネーミングです。そして、子どもや子育てと関係しているから、古民家ではなくて「子民家」なのでしょう。

▪︎私たちは、ここの集会室を使わせていただき、この「子民家etokoro」の管理人でもあり友人でもあるIさんのご一家と夕食をとりました。Iさんの奥様の指導のもと、学生たちが料理のお手伝いをしました。学生たちは、古民家を活かした「エコトロ」の魅力を十分に楽しめたようです。この日は、能登川駅前のホテルに宿泊し、翌日は草津市にある滋賀県立琵琶湖博物館に行きました(私は溜まっていた疲れも手伝ってか、「バタンキュー」(学生の皆さんは理解できない言葉でしょうが)状態で、ベットに倒れこみ朝まで爆睡しました)。トップの写真は、滋賀県立琵琶湖博物館のエントランスです。むこうには、琵琶湖の南湖がみえます。ところで、博物館の展示は、もうじきリニューアルされます。この博物館が開館して以来の展示は、もうじき無くなってしまいます。少し名残惜しさを感じながら、学生たちに展示の解説をしました。

▪︎ところで、なぜ琵琶湖博物館の展示を学生たちに観覧させたのか…それには理由があります。琵琶湖の周囲の地域では、米をつくりながら、同時に、水田や水路、そしてそれらにつながる水辺空間で魚を獲るような生業や生活が、弥生時代からずっと続いてきました。このような地域のことを「魚米の郷」と呼んだりします。「魚米の郷」は、東南アジアや揚子江流域から日本列島にいたるまで、アジアのかなりの広いエリアに存在しています(滋賀県では、農家が行う漁撈活動を「おかずとり」と呼んできました)。「魚米の郷」とは、生態系と生業・生活が一体となったシステム、言い換えれば「生態・文化複合体」(高谷好一先生)なのです。学生たちには、琵琶湖博物館の展示を通じてこの「生態文化複合体」の存在を実感してほしかったのですが…はたして実感できたかどうか…。

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▪︎午後は、大津駅前にある「町家キャンパス龍龍」に移動しました。「町家キャンパス龍龍」では、滋賀県庁農政水産部農村振興課の職員であるHさんにお願いをして、「魚のゆりかご水田」プロジェクトに関して、政策論的な立場からお話しいただきました。Hさんによれば、滋賀県の農村整備は、次の3つの段階を経てきました。1960年代から70年代にかけての「生産環境」整備の時代、1980年代から1990年代にかけての「生活環境」整備の時代を経て、その後の「自然環境」を保全する時代へと移行してきました。

▪︎「自然環境」を保全する時代に関して、もう少し具体的にみてみましょう。1996年には「みずすまし構想」(水・物質循環、自然との共生、住民参加…等を重視した農村整備、農業の生産性を維持しながら、環境に調和した脳器用の推進と琵琶湖の環境保全を図る)が策定されました。2000年には「マザーレイク21計画」(琵琶湖総合保全整備計画)が策定され、さらには2003年には「環境こだわり農業推進条例」(減農薬・減化学肥料による環境と調和のとれた脳器用生産の推進)が制定されました。そのような流れとともに、「魚のゆりかご水田」プロジェクトは展開してきました。2001〜2002年には、魚の「水田での繁殖能力が確認」されました。2002〜2003年には「一筆排水口」が開発され、2004〜2005年には「排水路堰上げ式水田魚道の開発効果の確認」(遡上実績、副次的効果)が行われています。2006年には、「魚のゆりかご水田環境直接支払いパイロット事業」が行われ、2007年からは「世代をつなぐ農村まるごと保全向上対策」のなかで「魚のゆりかご水田」プロジェクトは滋賀県下に広がっていくことになります。

▪︎ところで、Hさんの説明に、1人の学生が質問をしました。「自然環境」の保全の次の段階には、どういう時代がやってくると思われるか…という質問でした。しばらく時間をおいたあと、Hさんは、「心の時代でしょうか」とお答えになりました。農村整備の背後にある考え方が、物質的・経済的な幸福追求から、より精神的な幸福追求へとシフトしている、そういうふうに解釈することができるのかもしれません。

▪︎今回、Hさんからは、「魚のゆりかご水田」プロジェクトの背景に関して、マクロな政策論的な視点からお話しいただきました。栗見出在家では、地域固有の歴史や課題との関連から、いわばミクロな視点から「魚のゆりかご水田」プロジェクトのお話しを伺いました。学生たちには、この両者の視点が現場のなかでどのように連関しているのかを考察してほしいと思います。

2015年度 社会調査実習(5)

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▪︎8月6日の社会調査実習の続きです。栗見出在家でお話しを伺ったあと、私たちは、東近江市立能登川博物館に移動しました。能登川博物館の学芸員の方に、収蔵庫に収められている漁具や農具を見せていただきたいとお願いをしてあったからです。民具以外にも、大切な資料を見せていただきました。それは、栗見出在家の地図です。地図といっても現在のものではありません。明治時代のものです。「近江国神崎郡出在家村地券取調地引全図」という地図です。栗見出在家自治会が所有し、現在は博物館に保管されています。「地券」という言葉が入っています。土地一筆ごとに税金を確定するために、土地所有者に交付した証書のことを「地券」といいます。これらの地図は、税金を徴収するための基礎資料として作成されたのです。詳しくは、専門的な書籍をお読みください。

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▪︎ところで、私がこの地図をみて驚いたことがあります。それは、この地図に「水の世界」が大きく広がっていたからです。少し説明しましょう。学生たちがたっている側は、琵琶湖になります。むかって右側をご覧ください。愛知川が琵琶湖にむかって流れていることがわかります。そして愛知川河口付近の左岸に、栗見出在家の集落が描かれています。ビンク色の場所が、宅地になります。赤いところは、道。黄色が水田。緑が畑。水色が水路やクリーク、そして川や琵琶湖になります。それ以外にも、藪、葦(ヨシ)、砂州(地図では寄洲と表記されています)なども描かれています。この地図で大きな面積を占めるのは、ピンク色の宅地、黄色の水田、そして水色の水路やクリーク、琵琶湖です。栗見出在家が、水郷地帯であったことがよくわかります。それぞれの家から田舟で農作業にむかったということもよくわかります。この地図は、明治6年頃に作製されたもののようです。この地図からは、もともと栗見出在家が三角州であったことがよくわかります。陸地にっなていない水のある空間のことを「水界」と呼べば、まだかなりの面積を「水界」が占めています。明治期以降も、盛んに土地改良が行われ、水田の面積を増やしていったようです。

20150807kurimi21.jpg▪︎このような「水界」がある環境での生業は、容易に想像できますが、半農半漁ということになります。明治13年に刊行された『滋賀県物産誌』によれば、農家は68軒あり、漁業や商業も営まれていたと書かれているそうです。明治7年の「魚漁税納証」という書類によれば、イサザやモロコを獲る網、四手網、かがり火漁の漁船、貝挽きの網、投網、漬柴漁の道具、竹筒漁、エリ漁…様々な漁具に税金がかけられています。これは推測にしか過ぎませんが、竹製のモンドリやタツべなど小規模な漁具については、さらに日常的に使われていたのではないかと思います。

▪︎また、このような漁撈活動以外には、採藻泥も活発に行わていました。江戸時代、栗見出在家は三角州に開発されました。この地域の土地は基本的には砂交じりの土なのです。砂があると肥料分の持ちがよくありません。そのようなこともあり、琵琶湖や内湖の底にある水草や泥を採取して、水田に肥料としてすき込んでいたのです。この地域では、このような藻泥のことを「ゴミ」と呼んでおられます。冬場、この「ゴミ」採りの作業が盛んに行われていたと栗見出在家の皆さんからお聞きしました。博物館では、その「ゴミ採り」の道具を見せていただきました。横に学生が立っています。彼の身長は170mです。目算では、この学生の2.5倍ほどの長さがあります。4mほどの長さがあるのではないかと思います。この道具を使って、船の上から、藻泥掻きを行ったのです。

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