安曇川扇状地にある水田からの湧水

20170629yusui.jpg ■最近のことですが、高島市の農村地域で調査をしている時、興味深いものを見つけました。画像をご覧ください。丸く囲ってある中の水田から、冷たい地下水が湧き出ているのです。湧水です。ここは、安曇川左岸の扇状地、安曇川の堤防のすぐ近くにある水田です。安曇川の扇状地は、国内でも有数の規模を誇るものです。この扇状地が終わるあたり、扇端で、地下から水が湧き出てくるのです。とても冷たい水です。そのためでしょうか、湧水が出てくる周囲には稲の苗が植えられていませんでした。私の推測でしかありませんが、苗が生育するには水温が冷たすぎるのでしょう。苗が植えられているのは、この湧水の場所から数m離れた場所からでした。もうひとつ、水田から湧き出た水は、丸く囲ってあるところから水路を通して、手前に見える排水路に流されています。水田に冷たい水が広がらないようにしているのでしょう。このような現象は、この地域では一般的なことなのでしょうか。水田からの湧水。農作業をする上では困ったことのようにも思うのですが。残念ながら、確認することができませんでした。

■この安曇川の扇状地の湧水について、以前、1年生の学生の皆さんと一緒に見学したことがあります。新旭町の針江という集落です。その時のことは、このブログで以下のエントリーでご覧いただけます。

針江のカバタ(5)-「2016社会学入門演習」
針江のカバタ(4)-「2016社会学入門演習」
針江のカバタ(3)-「2016社会学入門演習」
針江のカバタ(2)-「2016社会学入門演習」
針江のカバタ(1)-「2016社会学入門演習」

■実は、来月の上旬になりますが、韓国からの視察団の皆さんを針江にお連れします。私は、そのコーディネート役を勤めています。そして、現地の「生水の郷」委員会の関係者の方に、針江の集落内で見られる湧水を生活用水として利用されている様子をガイドしていただくことになっています。針江以外にも、滋賀県庁の関係部局や、県内の地域社会で環境保全に取り組んでおられる集落を訪問します。充実した視察になるように頑張ります。

朽木村古屋の坂本家のこと

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■先週の金曜日、ゼミの卒業生である坂本昂弘くん(脇田ゼミ6期生)、そして坂本くんの叔父さまと一緒に呑むことになりました。少しその背景を説明しておきます。昨年の夏、大学の先輩でもある写真家・辻村 耕司さんのご紹介で、朽木古屋(高島市)の「六斎念仏踊り」を拝見することができました。そして、坂本くんと再会し、坂本くんのご一家ともお話しをすることができました。詳しいことは、以下のエントリーをご覧いただきたいのですが、いよいよ坂本家三代の皆さんにお話しを伺うことになりそうです。

朽木古屋「六斎念仏踊り」の復活

■場所は、当然のことながら、大津駅前のいつもの居酒屋「利やん」。酒を楽しみながら、叔父さまから古屋での山村の暮らしや、一家で山を降りてからも、家や家産として山を守るために古屋に通い続けて来たことなど、いろいろお聞かせいただきました。坂本くんも、普段、親戚が集まっても、自分のルーツについて詳しい話しを聞くこともなかったらしく、叔父さまの話しを真剣に聞いていました。

■坂本家の皆さんにお話しを伺う準備として、朽木が高島市に合併される以前の1974年に発行された『朽木村史』と、高島史に合併されてから、2010年に発行された『朽木村史』の2つを入手して朽木のことについて勉強をはじめました。良い仕事ができるように頑張りたいと思います。

Satoyama Japan | The Secret Watergarden | Discovery English Subtitles


■BBCが製作した作品のようです。滋賀県高島市新旭町針江の水辺環境や、その水辺環境と一体化した針江の暮らしが取り上げられています。ステレオタイプというと言い過ぎかもしれませんが、ちょっとBGMが…、日本人の私にはちょっとだけですが違和感がありますが…。素敵な作品です。

朽木古屋「六斎念仏踊り」の復活

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■2009年の4月、1人の学生が私のゼミの配属になりました。脇田ゼミ6期生の坂本昂弘くんです。その坂本くんが4年生になり卒業論文の調査に取り組むことになりました。ひょっとすると、3年生の終わりかもしれません。坂本くんが提案してきた調査は、滋賀県高島市の朽木にある山村の研究でした。話しを聞いてみると、京都府の美山や福井県の名田庄に近い場所にあります。最初は、「そのような遠い場所に調査に通えるのかな…」と指導教員として若干の不安がありましたが、よく聞いてみると、お祖父様がその山村にお住まいで、お父様もその山村のお生まれ、つまり自分自身のルーツがその山村だというのです。朽木にある古屋という集落です。

■坂本くんの問題関心は、過疎化が進み、限界集落化が進む古屋で、その山村に転居してくるIターン者の方たちが果たす社会的な役割に注目するものでした。彼は、お祖父様のいらっしゃる山村に大きなバイクで通いながら調査を進めました。調査を行うたびに、研究室に来て報告してくれました。その内容は、とても興味深いものでした。良いセンスの持ち主で、とても指導のしがいがありました。私自身は、古屋に行った経験は全く無かったのですが、彼の報告を丹念に聞きながら、時々質問をしていく、そのようなやり取りというか指導の中で、坂本くんはメキメキ力をつけていきました。坂本くんの卒業論文は、「限界集落にみるIターン者の役割-滋賀県高島市朽木針畑を事例に-」として提出され、優秀論文に選ばれました。卒業後、坂本くんは滋賀県内の企業に就職しました。卒業後は、facebookを通して再びつながりが生まれ、元気に働いている様子が伝わってきました。そのうちに、大津駅前のいつもの居酒屋「利やん」で飲もうということになっていました。

■話しは変わります。母校・関西学院大学の先輩である辻村耕司さんは、滋賀県を中心に活躍されている写真家です。県内の民俗芸能等の撮影でも、たくさんのお仕事をされています。辻村さんと出会ったのは、私が滋賀県立琵琶湖博物館に勤務されている時ですから、もう20年近くも前のことになります。辻村さんともfacebookで日常的に交流していますが、一昨年の秋のこと、朽木の古屋の「六斎念仏踊り」の映像に記録する仕事に関してfacebookでメッセージをくださいました。そして、映像記録の一部を拝見させていただくことができました。その時に、ピンときました。「六斎念仏踊り」については、坂本昂弘くんが彼の卒業論文で言及していたからです。そして、坂本くんに、「君が継承者になりなさいよ!」と言っていたからです。さっそく辻村さんに許可を頂き、その「六斎念仏踊り」の映像記録の一部を坂本くんにも見てもらいました。坂本くんからは、「色々考えさせられました。少し泣きそうになりました」との返事をもらいました。「六斎念仏踊り」の継承者の孫として、坂本くんも、いろいろ悩み考えていたのです。しかし、今の仕事でめいっぱい、なかなか「六斎念仏踊り」に取り組む余裕がないこともよく理解できました。

■再度、話しは変わります。今年の話しになります。先月のことです。ある仕事で、辻村さんとお会いしました。その際、2013年から行われなくなっていた古屋の「六斎念仏踊り」が、8月14日に復活することになったと教えていただきました。「六斎念仏踊り」の継承者である古老の皆さんと、村の外の若者とが連携することにより復活することになったというのです。主催は、「高島市文化遺産活用実行委員会」と「朽木の知恵と技発見・復活プロジェクト」です。辻村さんからは、当日、坂本くんもやってくるとお聞きしました。もちろん、見学させていただくことにしました。

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■朽木の古屋に行くには、ふた通りのルートがあります。ひとつは、高島市朽木の中心地である市場から行くルート。もうひとつは、国道367号線(鯖街道)から古屋に向かうルート。大津市内に住む私は、後者のルートで古屋に向かうことにしました。道は舗装されているものの、道幅はかなり狭く、対向車が来たらどうすればよいのかと、ドキドキするようなところもありました。狭い山道を通りつつ、幾つかの集落を抜けて大津市内からは1時間20分程で古屋に到着することができました。おそらくは、いつもは静かな山村に、たくさんの方たちが集まってこられていました。

■「六斎念仏踊り」は、20時から始まりました。その様子については、上の動画をご覧ください。また、「六斎念仏踊り」の民俗学的なことについては、以下の「(財)滋賀県文化財保護協会」の「滋賀文化財教室シリーズ[223]」をご覧いただければと思います。私も、歴史的・民俗学的なことについては、これから、いろいろ勉強してみようと思っています。ここでは、ごくごく簡単に説明しておきます。「滋賀文化財教室シリーズ[223]」にも説明してありますが、もともとは、現在のようにお寺で行われるものではなく、太鼓を持った踊り手3人と、笛2人、鐘2人の合計7人で行われます。この一団で、古屋にある約20軒の家を順番に回って「六斎念仏」を踊ったのです。夜の22時頃から翌日の夜明けまで、それぞれの家の祖霊を供養するために行われていました。14日に「六斎念仏踊り」がおこなわれた玉泉寺は、曹洞宗のお寺です。伝承によれば、以前は天台宗の寺だったといいます。集落の中にある寺の宗派が変わることは、それほど珍しいことではありませんが、祖先祭祀やお盆と結びついた「六斎念仏踊り」の方が古くからの歴史を持っていると考えられているようです。もう一つ、これは自分への備忘録のつもりで書いておきますが、「滋賀文化財教室シリーズ[223]」には、次のような記述があります。

昭和49年発行の『朽木村志』の記述から、編さん当時の六斎念仏の姿を見てみましょう。

生杉と古屋の2地区で毎年8月14日に行われていた六斎念仏も、徐々に忘れられつつありましたが、昭和46年に、この2地区を含む地域一帯が県立自然公園の特別指定地域に編入されたことから、地元有志の人々によって六斎念仏の保存活動が行われるようになったといいます。

■まだ実際に『朽木村志』を読んでいませんが、すでに昭和40年代から徐々に忘れられつつあったということに注目したいと思います。古屋のある朽木は、林業が盛んな地域でした。昭和40年代というと、全国的に日本の林業が不況に陥った時代です。山での仕事がなくなり、朽木の古屋でも、多くの人びが山を降りました。その頃と、「六斎念仏踊り」の保存活動が行われるようになった時期とが重なっていることです。このあたりの事情は、また関係者の皆さんに詳しくお聞きしてみたいと思います。

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■「六斎念仏踊り」の復活が無事に終わった後、私は坂本くんのお祖父様のお宅にお招きいただきました。遠くまで来てもらったからと、ご丁寧におもてなしをいただきました。もう夜が遅かったこともあり、短い時間でしたが、お祖父様、お父様、叔父様とお話しをすることができました。非常に興味深いお話しをお聞かせいただくことができました。坂本くんのお祖父様は、林業の仕事がなくなった後も、山を降りて滋賀県内で新しい仕事を見つけて、生きてこられました。再就職した後も、実に度々、古屋に戻っておられました。といいますか、古屋の家と仕事のための家との間を往復されていたと言っても良いのかもしれません。街場と山を往復しながら、家を守り、村を守ってこられたのです。遠く離れた大都会ではなく、古屋から車で1時間半ほどの場所に暮らすことができたことは、坂本くんのお祖父様、そして同じように生きてこられたお仲間の人生に取って、非常に大きな意味を持っていたのではないかと思います。

■今回は、坂本昂弘くんや坂本家の皆様、辻村さん、そして「高島市文化遺産活用実行委員会」と「朽木の知恵と技発見・復活プロジェクト」の関係者の皆様に大変お世話になりました。非常に貴重な見学をさせていただくことができました。心より感謝いたします。なお、当日の玉泉寺での撮影が、シャッター音を消してほしいという指示がありましたが、私はスマホのカメラしかなく、音を消すことができませんでした。トップの写真は、坂本昂弘くんが撮影したものを使わせてもらっています。

【追記】■「朽木の知恵と技発見・復活プロジェクト」の皆さんに、プロジェクトのfacebookで、このエントリーのことをご紹介いただきました。ありがとうございました。

高島市の古式上水道

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20160706atkashima2.jpg■ひと月近く前のことを、今頃になってエントリーします。なかなか、更新するだけの余裕がなくなっております。更新できていないにもかかわらず、毎日、ご覧いただいている皆様には、心より感謝いたします。先月、6月11日・12日と、滋賀県高島市を1年生の学生16名と滋賀県高島市を訪問しました。12日の午前中、グループに分かれて、JR近江高島駅の近くの街中を散策していろんな発見をしてもらうことにしました。このあたりは、江戸時代は大溝藩の城下町でした。今でも、町並みには城下町の風情を感じ取ることができます

■街中を歩いていると、他の地域にあまりないものがあります。水路です。幅と深さともに、だいたい1mほどでしょうか。「まちわり水路」と呼ばれる水路です。街中の南北の4つの通りのど真ん中に、この水路が設けられています。もともとは、江戸時代に、飲用や防火のために設けられものなのだそうです。この「まちわり水路」と同時に、目を惹くものがあります。「古式上水道」です。トップの写真は、「タチアガリ」と呼ばれる「古式水道の施設」です。高島市役所のホームページのなかに、以下のような説明がありました

◆町並みを走る古式上水道
 旧町人地では、近世に遡る2系統の古式上水道が現在も利用されています。
 このうち、水源地と高低差がない勝野井戸組合では、埋設した水道管を通じて各戸に配水しています。一方、山麓に水源地を持つ日吉山水道組合では、水道を地下に通しつつ、ところどころで分水のためにタチアガリと呼ばれる施設を作り、各戸に水を引き入れています。
 このように上水道の維持や管理に関わる作業は、同じく近世にまで遡る曳山行事などとともに,地域共同体の結び付きを維持する機能を果たしています。

■「古式水道」の維持管理が、結果として、地域の結びつきを維持する機能をもっているというのです。興味深いですね。かつて、農村研究の世界では、農道や水路の存在、そしてその維持管理が、日本の農村を特徴づけているということがさかんに言われました。そのような主張と、論理的には似ているように思いました。しかし、通常、この「古式水道」のような「ローカルな技術」は、近代化のプロセスで消えていきます。そして、近代的な水道という技術システムが、地域社会内の自然と人との関係を絶っていくのです。この場合は、地域の水と人の関係ですね。それだけでなく、そのような地域の水をめぐる「人と人との関係=共同性」をも破壊してしまいます。地域住民がハンドリングできる地域社会の歴史的文脈に根ざした、また「在地の合理性」に基づく、「古式水道」のような「ローカルな技術」が、もっと再評価されていけば良いなあと思います。今回、この「古式水道」をご利用になっている方に少しだけですがお話しを伺いました。なぜ利用し続けるのか。最初に出てくる説明は、経済的なものになります。水道を使うとお金がかかる。「古式水道」は、お金がかからない・・・。とてもわかりやすい説明です。しかしそれだけではなく、副次的な理由が多数あるのです。そこが大切だなと思いました。多くの場合、経済的(貨幣的)な価値に裏付けられた社会的な力が、そのような「ローカルな技術」を駆逐し破壊していくのですが、高島のばあいは、地域固有のローカルな複数の要因が、「これを残さなければならない」と人びとに思わせているのではないかと思いました。

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針江のカバタ(5)-「2016社会学入門演習」-

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■「針江 生水の郷委員会」の皆さんに、針江集落内の「カバタ」をガイドしていただいたあと、学生たちと私は、タクシーに分乗して琵琶湖の湖岸のあたりにある内湖「中島」に向かいました。地図をみればわかりますが、集落内の川を流れた水は琵琶湖に向かいます。そして、琵琶湖に流入するまえに、いったん内湖「中島」に注ぎ込みます。私たちは、この「中島」について、委員会のガイドであるFさんからお話しを伺いました。

「針江 生水の郷委員会」の公式サイトでは、この「中島」に関して、以下のように解説されています。

針江生水の郷委員会では先人が築いてきた素晴らしいカバタ文化を次世代に残せるように活動するとともに、ここ針江の素晴らしい環境を守ろうと取り組んでいます。

ここ船着き場はNHK『里山・命めぐる水辺』の舞台になった所で漁師:田中三五郎さんがお元気な頃長年手入れをされて素晴らしい景色が残ってきた所です。鯉・鮒・ウナギ・ビワマスなど在来種の産卵場所になり又カイツブリ・カモ・オオバン・アオサギ・トンビ等など多くの野鳥の生育場所でもあります。柳の枝が茂る、藻が繁殖する、浮遊ゴミが溜まる、流れが悪くなる、水が汚れる、などでやはり人の手が入り里山を守らなければなりません。委員会では委員会独自で、また行政と共にこのような環境を守る取り組みを行っています。

■この解説にあるNHK『里山・命めぐる水辺』を撮影した今森光彦さんが、この「中島」を撮影された作品を、私は自宅に飾ってあります。しかし、今森さんが撮影するときに切り取った風景の外側には、私が想像していたのとはずいぶん違う風景が広がっていました。地図をみればわかりますが、周囲は別荘地になっています。琵琶湖の湖岸の別荘地です。そのことはともかく、公式サイトの解説からは、この内湖の自然が、人の手が加わることで維持されてきたことが理解できます。問題は人手が足らないことです。「針江 生水の郷委員会」の委員会の平均年齢もあがり、この内湖を維持するための作業に対応することが困難になりつつあるというのです。時間があまりなく、限られた時間でしか説明をお聞きすることができませんでした。今回は、「社会学入門演習」の「現地実習」の一環として針江を訪問させていただきましたが、次回は、このような地域の水環境の保全活動や、地域の農業との関係等についても、もっと詳しくお話しをお聞かせいただけばと思っています。
(針江を訪問したのは、6月11日(土)です。)

【追記】■6月11日(土)・12日(日)に実施した「社会学入門演習」の「現地実習」の報告、まだまだ続きます。

針江のカバタ(4)-「2016社会学入門演習」-

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20160616takashima16.jpg■「針江 生水郷委員会」の皆様に、集落内の「カバタ」をガイドしていただいているとき、川に少しだけ濁り水が流れてきました。そのとき、ガイドをしてくださっていたMさんが「誰か川で遊んでいるのかな」と微笑みながらつぶやかれました。しばらく歩くと、川のなかで子どもたちが遊んでいました。もっと暑くなると、発泡スチロールの筏にのった子どもたちが川下りを楽しむのだそうです。素敵ですね。自分の住んでいる近くの川で遊ぶことができるなんて。川で楽しく遊ぶ子どもたちのことを「川ガキ」と呼ぶ人たちがいます。「川ガキ」は、身近な環境と地域の暮らしとの関係を考えるうえで大切な指標になるという意見を聞いたことがあります。このように川で集落の子どもたちが遊ぶことができるのも、地域でこの川を大切に保全されているからです。

■川には、梅花藻(ばいかも)が生えています。針江の集落内を流れる川は豊富な湧水を含んでおり、年間をとおして水温が一定で、梅花藻の生育に適しているのだそうです。とても可憐な小さな花を水中で咲かせます。今回は、全面的に開花しているというわけにはいきませんでしたが、一部で梅花藻の花を確認することができました。もっとも、「川ガキ」の楽しげな声が響き、梅花藻が茂る川を維持するためには、地域の保全の働きかけが不可欠です。この集落内の川には、かつてたくさんの田船が行きかっていました。その頃は、このような水草は肥料として利用されていました。しかし、化学肥料が普及してからは、水草を利用することはなくなりました。しかし、現在でも、針江では、年に4回川の「藻取り」作業をされています。刈り取った藻=水草は下流に流れていきますが、下流で重機を使って川から引き上げて処理されます。

■川に関して、このようなお話しも伺いました。多くの地域では、治水の観点から、川は三面コンクリート張りになりました。集中豪雨の後の水を早く下流に流して洪水を防ぐためです。ところが、こちらの針江のばあいは、三面コンクリートにはなっていません。川底は、昔のままの自然の状態で維持されています。川底からも湧水がでているからです。もし、川底もコンクリートで固めてしまうと、湧水の出口がなくなります。川の周辺の土地は、地盤が軟らかくなり、生活や生業に支障をきたすことになります。たまたま河川改修の行政担当者の方が、この地域の事情をよく知っている方で、三面ではなく二面にする方針にされたのだそうです。
(針江を訪問したのは、6月11日(土)です。)

針江のカバタ(3)-「2016社会学入門演習」-

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20160616takashima19.jpg■「針江 生水の郷委員会」の事務所は、針江の公民館の横にあります。そして公民館の横には、この写真のような公園があります。かつて、針江の集落の中を流れる川には、農作業のため使用する田舟がたくさん行き来していました。秋になると収穫した米の臼擦りをする作業が必要になります。農家の皆さんは、この公園の場所まで、籾を田船でここまで運んでこられました。この公園は、臼擦り作業をする場所だったのだそうです。臼擦りは、水車の力を利用して行われていました。現在も、公園の横には水車が動いているわけですが、もう臼擦りをしているわけではありません。この水車は発電をしています。自転車のライトをつけるダイナモのような小さな発電機が付いており、その電力で公園内にある常夜灯を灯しているのです。それでは何のための常夜灯なのか。実は、真空式公共下水道の吸気管にかぶせるカモフラージュなのです。

■針江は、前のエントリーでも説明したように湧水が豊富です。下水道管を敷設しようとして道を掘るとすぐに地下水が湧いてきて、深いところに下水管を通すことができません。しかし、深いところに下水管を通さないと、下水は流れてくれません。そこで、こちの針江では真空式の公共下水道になっているのです。深く下水道を敷設して自然流下させていくことができないので、ポンプで下水管の中を真空にして下水を吸い込んでいくのです。吸い込んでいくためには、下水管に空気が入ってこなければなりません。そこで、針江の集落のなかには、右の写真のようなパイプ状の吸気管があちこちに出ています。ただし、こういった吸気菅は「針江 生水の郷委員会」の皆さんからすれば、「無粋」、つまり集落の景観に似つかわしくないということになります。そこでガイド料を積み立てて、このような常夜灯のスタイルをしたカバーを製作してかぶせておられるのです。そのような意味で、観光を柱とするコミュニティビジネスといった側面をもっているのかもしれません。もっとも、この点については、知り合いの若い研究者がたしか論文を書いておられました。また、別の機会にご紹介できればと思います。
(針江を訪問したのは、6月11日(土)です。)

針江のカバタ(2)-「2016社会学入門演習」-

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20160616takashima13.jpg■針江のお宅の「カバタ」であれば、どこでも拝見できるわけではありません。このような集落外の見学者に誰しもが好意的であるわけではありません。自分の敷地にぞろぞろ人がやってきて、家の中を覗いていく…ご自身が「見られる」側になったことを想像してみるとすぐにわかると思いますが、気持ちの良いものではありません。それにもかかわらず、針江に関心を持つ外部の人たちに、自分たちの守ってきた「カバタ」を見てもらってもかまわない…とお考えのお宅の協力を得て、この「針江 生水の郷委員会」の皆さんはガイドの活動をされています。この辺り、微妙な部分があります。一つ前のエントリーにも書きましたが、突然、「外の眼」から評価されるようになってしまったことと、「外の眼」に自分たちの生活が晒されることになってしまったことの両方の間に、様々な考え方があることが推測されます。「カバタ」のガイド活動は、この両方の考え方に配慮した上で、微妙なバランスに成り立っていることのようにも思います。どちらかに決定するのではなく、様々な意見があることを前提に成り立っているところが大切だと思うのです。

■写真は、ガイドをしてくださったMさんのお宅の「カバタ」です。「カバタ」には、屋敷の一部、あるいは屋敷と繋がっている「ウチカバタ(内川端)」と、屋敷地内あっても屋敷とは離れている「ソトカバタ(外川端)」の2つがあります。こちらのMさんのお宅のばあいは、「ソトカバタ」になります。大変綺麗にお使いですね。この「カバタ」の雰囲気からは、今も現役でお使いであるとが伝わってきます。「元池」から湧き出てきた水は、ポンプで屋敷内にも送られて生活に利用されているようです。もちろん、上水道はどのお宅でも使われています。どうして、水道があるに、わざわざ湧き水を使っておられるのでしょうか。大きな理由は、経済的な理由です。水道水を利用するとお金がかかりますが、湧き水はお金がかかりません。では、針江の人びとが「カバタ」を残されているのは、そういった経済的理由からだけなのでしょうか。そうではありません。副次的ではありますが、維持管理の手間をかけてでもこの「カバタ」の中にある「価値」、暮らしの中で初めて実感できるような「価値」を、大切に維持していきたいと考えておられるのです。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」、この「カバタ」を守っているわけではないのです。

■「端池」では、コイが泳いでいます。もともと、この「端池」で飼育している鯉は、食用に使われるものでした。何かのお祝いの時に、外からお客さんがやってきた時に、この「端池」の鯉が調理されるわけです。もっとも、最近は、食用だけでなく、観賞用に鯉を飼っておられお宅も多数あるようです。こちらのFさんのお宅のばあいも、緋鯉ですから観賞用になりますね。しかし、ここは今でも現役の施設なのです。そしてこれも大切なことだと思うのですが、あえて「カバタ」のある生活を楽しまれているのです。この「楽しみ」という視点、とても大切なことだと思います。

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■こちらの「カバタ」は、もう一人のガイドであるFさんのお宅の「ソトカバタ」です。Fさんのお宅の「ソトカバタ」とは、少し水の色が違います。少しだけ青みがかっています。色だけでなく、味も違います。「カバタ」の湧き水は地下水脈からのものですが、どの地下水脈かによって水の成分が違っているのです。とても微妙ですよね。こちらのお宅の「壺池」には、レタスとビールが冷やされていました。私たちが見学することから、イメージが湧きやすいように演出してくださったものかと思います。しかし、演出だけでなく、実際にこの「壺池」で日常的にこのように利用されているのです。「壺池」で冷やされた野菜は、冷蔵庫で冷やされた野菜とは違い、乾燥せず大変みずみずしく野菜の持っている美味しさを味わえるのだそうです。いいですね〜。「端池」には、黒い鯉と岩魚が悠々と泳いでいました。これは、明らかに食用なるわけですが、こちらのお宅では召し上がっておられでしょうか。そのあたりは、お話しを聞き損ってしまいました。
(針江を訪問したのは、6月11日(土)です。)

針江のカバタ(1)-「2016社会学入門演習」-

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■JR近江高島駅から2駅でJR新旭駅に到着します。そこから、針江集落までは徒歩で15分。早めに針江の公民館に到着し、「針江 生水の郷委員会」の皆さんに、あらかじめ予約をしておいた集落内のガイドしていただくための手続きを済ませました。「生水」と書いて「しょうず」と読みます。集落のあちこちに地下から湧き水がコンコンと湧き出ています。

■針江は、どこにあるのか。琵琶湖に流入する河川では野洲川に次ぐ長さである安曇川が形成した扇状地にあります。扇状地とは、河川が山地から平野に流れ出るさい、河川が運んできた土砂が、山側を頂点として扇状に堆積して生まれる地形のことです。扇状地では、その扇城の地形の一番端のあたりに湧き水が出ることが多く、生活に必要に水を得やすいことから、それらの場所には集落が形成されていることが多いと言われています。この針江も、安曇川の扇状地の端にあります。針江、そしてその上流にあたる霜降という集落では、豊かな水を利用した独特の生活文化が営まれてきました。これらの文化は「琵琶湖周辺の生活文化を理解するために欠くことのできない貴重な文化的景観として評価」され、2010年8月5日には、「高島針江・霜降の水辺景観」として国の重要文化的景観」に選定されました。

■「針江 生水の郷委員会」のガイドは、13時から始まりました。1年生の学生が16名、3年生のティーチングアシスタントが1名、そして教員の私、全員で18名いるので、2グループに分かれてガイドをしていただきました。私たちのガイドをしてくださったのは、男性のMさんです。この日が、初めてのガイドの仕事で、まさにガイド・デビューとのことでした。しかし、とても初めてのガイドとは思えませんでした。一つ一つ、非常に丁寧にご説明していただきました。トップの写真、これは「カバタ」と呼ばれる水利用の施設です。漢字で書くと「川端」と書くようです。ここには、もともと屋敷があったわけですが、後継者がおられなかったのでしょうか、屋敷は取り壊されています。しかし、この「カバタ」は地域の人びとの強い希望もあり、残されることになりました。それだけ針江の皆さんは、「カバタ」のことを気にかけて大切にされているのです。これはかなり立派な「カバタ」だと思います。大きなお屋敷だったのでしょうね。少し説明します。

■「カバタ」の中からパイプが出ています。これは、「元池(もといけ)」と呼ばれます。パイプが地下に打ち込まれており、10mから20mほどの深さにある砂礫層を流れる地下水脈に届いています。この地下水脈の水が、パイプを通して地表に湧き出てきているのです。この「元池」の水は、一旦丸い「壺池(つぼいけ)」の中に溜められます。ここでは食器を洗ったり、野菜を洗ったり、夏には野菜を冷やしたりする場所とのことです。もちろん、「壺池」に入る前の「元池」から出たばかりの水は飲料水として利用されてきました。今回、私たちは、事前に渡された紙コップに入れて、この「壺池」の湧き水を試飲させていただきました。非常に美味しい!! 微妙に水の「甘さ」を感じることができます。おそらく、この水で玉露などのお茶を入れると非常に美味しいのではないかと思いました。「壺池」の溜まった水は、さらに「端池(はたいけ)」に流れ出ます。ここには、多くの「カバタ」の場合、鯉などの魚が飼われています。お茶碗についた米粒などは、この「端池」の鯉が食べてくれるのだそうです。「端池」の水は、水路へと流れ出ていきます。水路は中島と呼ばれる内湖に、そして最後は琵琶湖に注ぎ込みます。この写真の「カバタ」は、人がお住まいになっていないので、「端池」の中には、鯉はおらず、その代わりにクレソンが生えていました。そうです。サラダなどに使われるあのクレソンです。実際に使われている「カバタ」は、この後の別のエントリーでご紹介することにしましょう。

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■針江の集落の中を案内していただいていると、右上のような注意喚起の看板があちこちに貼られています。以下のように書かれています(針江集落を、針江区と呼んでおられます)。

針江区内 見学のみなさまへ

ここは、観光地ではありません。
生水(しょうず)の恵を受け、自然とともに暮らしている生活の場です。
私達の暮らしを知っていただくために、散策は必ず地元ガイドと一緒に見学カード
(右下図)を身に着けた状態でお願いします。
針江区内に見知らぬ方がおられることに、子どもやその親が敏感になっています。
ガイドを伴っておられない方には、目的をお訪ねするとともに、場合によっては
区外に退去をお願いすることもありますので、ご理解をお願いします。

■この看板からは、「針江 生水の郷委員会」によるガイドが、「観光」目的でないことがわかります。ガイドという形をとることで、外からやってくる見学者を受け止めて集落の生活を防衛しているのです。そのような意味で、ガイドはガーディアンでもあるわけです。この辺りのことについては、少し説明が要りますね。「針江 生水の郷委員会」には公式サイトがあります。その中には、次のような記述があります。

ここ針江地区は里山の写真家・今森光彦さんが撮り2004年1月にNHKハイビジョンスペシャルで放映された映像詩『里山・命めぐる水辺』の舞台になった美しい景色と生命の輝きに満ちた滋賀県高島市新旭町針江という小さな静かな集落です。

この地域には日本でも珍しい水の文化があります 比良山系に降った雪、雨が伏流水となり各家庭から非常に綺麗な水がコンコンと湧き出ます。人々はこの自噴する清らかな水を飲料や炊事と言った日常生活に利用しています。
このシステムをこちらでは川端(かばた)と呼んでいます。
このような究極なエコの生活、美しい景色、地域の人とのふれあいなどを求めて日本全国、海外よりたくさんの人が見学に見えるようになりました。

■今森光彦さんは、滋賀県大津市出身の写真家です。昆虫や生物の写真、そして今森さんの地元である滋賀の里山を題材にした作品で知られています。私も、滋賀県立琵琶湖博物館に勤務している時に、大変お世話になりました。その今森さんの映像作品『里山・命めぐる水辺』を、私自身も拝見しました。そして、大変驚き感動しました。おそらくは、多くの皆さんも同様だったようで、たくさんの皆さんが「小さな静かな集落」であるこの針江集落に来られるようになったのです。そうです。「小さな静かな集落」の日常生活が、突然、観光の対象になってしまったのです。自分たちの豊かな湧水とともにある生活文化、それらは針江の人々にとってみれば当たり前のことでではありますが、それを改めて「外の眼」から評価されることは、地元の皆さんがここに暮らすことの誇りを醸成することにつながるはずです。しかし同時に、これまで考えもしなかったような「外の眼」に自分たちの生活が晒されることになってしまったのです。それだけではありません。「子どもやその親が敏感」になるような出来事さえも起きてしまいました。ここは、「自然との共生」をテーマにしてテーマパークではありません。あくまで、「小さな静かな集落」なのです。人びとは、外からの評価を受け入れつつも、同時に、自分たちの生活を防衛していく必要があったのです。「針江 生水の里委員会」の存在の背景には、このような事情があったのです。以下は、針江を紹介した今森さんの映像作品『里山・命めぐる水辺』です。どういうわけか、YouTubeにアップされていました。いつか、視聴できなくなる可能性大です。

(針江を訪問したのは、6月11日(土)です。)

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