昨日の「社会学入門演習」

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20160426nyumonenshyu5.jpg▪︎火曜日の2講ときは、「社会学入門演習」です。1年生の入門ゼミナールのようなものでしょうか。大学に慣れていくための入り口のようなゼミです。昨日は、急遽、瀬田キャンパスのミニツアーを実施しました。瀬田キャンパス、広いようでそんなに広くありません。しかし、学生は、自分が授業を受ける教室、食堂、そのような場所にしか行っていないようです。いろいろ好奇心を持ってキャンパス内をウロウロしているものだと思っていましたが、そうではないのです。せめて図書館ぐらいは行っておいて欲しいのですが、どうでしょうか…。というわけで、ミニツアーです。

▪︎まずは、食堂の横にある「ボランティア・NPO活動センター」に行きました。学生のみなさんには、授業とアルバイトとサークルの間をぐるぐる回るだけ…の大学生活ではなく、大学の外にも、「社会的な課題・問題」にも目を向けて欲しいなと思っています。様々な人びととの出会いの中で、自分自身で勝手に⁉︎思い込んでいる「殻」を破って、自分の持っている可能性に気がついて欲しい、伸ばして欲しいと思います。さらに、社会と関わって生きて行くことの意味を感じて欲しいと思います。

▪︎この「ボランティア・NPO活動センター」の裏側に、立派な野球場があるのですが、多くの学生たちは実際にきちんと見たことがないようでした。硬式野球部と準硬式野球部の学生たちだけですね。ということで野球場を見学、そのあとは引き続き、隣接する雨天練習場「瀬田ドーム」を見学しました。この「瀬田ドーム」の横には、農学部の建物である9号館があります。エントランスあたりだけでもと思い、少しだけ見学させていただきました。実験や実習のための部屋があったり、壁面には、稲の様々な品種が展示されていたりすることを見て、学生たちは「農学部やな〜!!」とちょっと感動していました。私にとっては、そういう学生の反応の方が興味深かったのですが。

▪︎9号館の後は、引き続き、お許しを得て9号館の南側にある温室を見学させていただきました。すると、たまたまでしょうが、麦の遺伝について研究されている中村千春先生がやってこられました。そして、ご自身が実験中の温室で、先生の麦の遺伝に関する研究についてご説明くださいました。手のひらに乗っているのは、中村先生がピンセットで取り出した麦の花です。「かわいいでしょ」と言って、一人の女子学生の手のひらの上に乗せてくださいました。なかには、麦と稲の区別が曖昧な学生もいたのですが、そのような学生に対しても、中村先生は丁寧、かつユーモアを交えてわかりやすくお話しくださいました。

▪︎おそらくは、このようなミニツアーを実施していないと、学生たちは、農学部に近寄ることもなかったのではないかと思いますし、中村先生との出会いもなかったのではないかと思います。ちょっと好奇心を持ってみる、ちょっと勇気を持って行動してみると、自分の生きている世界が変化していきます。中村先生には、そのあとお礼のメールを差し上げましたが、頂いたお返信には、「学生諸君には、どんなことにも興味を持って、明るく前向きに人生を切り開いていって欲しい」と書いておられました。本当に、そう思います。学生のみなさん、中村先生と知り合いになったのですから、今度、キャンパスで先生をお見かけしたら、ぜひ挨拶をしてお話しをさせてもらってください。きっと、面白い展開になると思いますよ。
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2016年度「社会学入門演習」

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■11日(月)から実質的に授業が始まりました。キャンパスに行く最寄り駅のバス停は長蛇の列です。履修が確定するまで、しばらくこのような状況が続くのではないかと思います。さて、今年度、前期の私の時間割ですが、月曜日の2講時が「地域社会論Ⅰ」、火曜日の2講時が「社会学入門演習」、残りの授業はすべて金曜日に集中しています。残りは、昨年と同様に研究部関連の会議に対応できるように空けてあります。

■昨日は、第1回目の「社会学入門演習」でした。これは、新入生のための授業で、私のクラスは全員で16名です。この演習では何をするのかというと、6月に1泊2日の調査旅行をしてレポートにまとめて報告書を作成します。その過程で、大学での授業を履修するための基本的なことも同時に学ぶことになります。今日は、まだ情報処理の授業を受けていないため、パソコンのメールが使えないことから、取り急ぎ、全員とLINEで連絡が取れるようにしました。ラーニングアシスタントのF君や、テキパキと動く学生がいてくれるおかげで「社会学入門演習脇田班」のグループへの参加も1日で終わりました。パソコンからメールを送ることはできないけれど、LINEはできるというのは、なんだかいまどきの現象ですよね。

■今日は、それぞれ自己紹介をしてもらいました。その際、「大学4年間でチャレンジしたいことはなに?」と全員に聞いてみました。国内旅行であちこちに行きたい、韓国語を習得したい、英語のレベルを上げたい、高校の教員になりたい、自分が作曲した楽曲のCDを出したい、プロ野球選手になりたい…。いろいろ語ってくれました。しかし同時に、何をしたら良いのかよくわからない学生達も半分強いたように思います。この辺りも、いまどきなのかもしれません。教員として望むことは、授業とサークルとアルバイトの三角形を真面目にぐるぐる回ること以上の何かを、ぜひ大学の4年間で経験して欲しいということです。みなさん、期待していますよ。

関西「私鉄王国」

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▪︎今日は、老母の世話の日でした。忙しくて手入れができていなかった老母宅の庭は、草がぼうぼうでジャングルのようになりかけていました。こまでは、見て見ぬ振りをしてきたのですが、さすがにこれでは…という状態でした。ということで、真昼の炎天下に、草刈機を持ち出し作業を始めました。年に何回か草刈りをしなければなりませんが、そのたびごとに優勢な草の種類が違います。今回は、草に加えて、このまま放っておくと樹になってしまう…そのような感じの植物も生えていました。これはいかん…と草刈りを始めたのです。

▪︎草刈りを終えた頃にiPhone6plusに電話がかかってきました。大学の学長室からでした。担当している研究部の懸案となっている課題に関して、学長室の会議で研究部長として話しをしてほしいという内容でした。着ていたポロシャツは汗びしょびしょで、しかも下はジーンズ、とても大学の会議に出席するような格好ではありませんでしたが、良いチャンスをいただけたので、老母の世話を完了させたのち、あわてて大学の本部に移動しました。

▪︎老母宅は兵庫県にあります。「能勢電鉄」、「阪急宝塚線」。「阪急十三駅」乗り換えの「阪急京都線」で「阪急四条河原町駅」まで行きます。そこからは、徒歩で「京阪本線」の「京阪祇園四条」まで移動。職場の本部のある「深草駅」までは10分です。なんとか予定の時刻に間に合わせることができました。老母宅から大学の本部まで全部私鉄で移動できます。さすが、関西は「私鉄王国」です。今回は、ひさしぶりに「阪急京都線」に乗りました。普段、大阪と京都のあいだは、阪急に乗るチャンスがあまりありません。ということで、満足いたしました(よくご理解いただけないと思いますが…電車好きなものでして…)。河原町では、阪急から京阪に徒歩で移動するさいに鴨川を渡ります。昨日は、前日の雨のせいでかなりの水量で、ゴーゴーと川の濁った水が流れていました。ところで、その鴨川の横には、「東華菜館」という有名な北京料理店の建物があります。私にとっては、ランドマークのような建物です。

▪︎このレトロな建物は、あのウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計したもので、1926年に竣工しています。現在は、登録有形文化財になっています。また、このお店のエレベータは1924年OTIS製です。日本に現存する最古のエレベータなのだそうです。東華菜館の公式サイトにあるページでは、以下のように説明しています。

前身は、西洋料理店「矢尾政」。大正の頃よりビアホールブームが始まっており、大正13年、「矢尾政」二代目店主・浅井安次郎氏が新しいビアレストランをイメージし、その設計をウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏に依頼。大正15年に、このスパニッシュ・バロックの洋館が生まれました。その後、戦時色が深まる中、洋食レストランの存続が許されない状況になり、浅井安次郎氏はこの建物を中国人の友人・于永善に託しました。中国山東省出身の于永善は、大連で北京料理のベースである山東料理を修得して来日しており、ここで北京料理店を創業。昭和20年末、「東華菜館」が誕生致しました。尚「東華菜館洛北店」は、現店主・于純政が、平成5年にオープン致しました。

シンプルなデザインの学校・教会建築を数多く残したヴォーリズ氏による商業建築は少なく、その中でも当店は氏による生涯唯一のレストラン建築です。特に玄関ファサードで印象的な海の幸・山の幸等食材のモチーフは、館内にちりばめられており、目を楽しませてくれます。シンプルな直線と曲線を組み合わせた天井や梁・腰板・扉の装飾が美しいのも特徴的。また、建物に合わせヴォーリズ氏により設計された調度品や花台も残っており、料理とともにお客様をもてなします。当店の建物は、ほぼ大正15年竣工当時の姿を残しており、今もその維持管理・保存に努めております。

1924年米国で製造、輸入されたOTIS製。格子形の蛇腹式内扉や時計針式のフロアインジケーターなど非常に珍しい器具が備わっている、現存する日本最古のエレベーターです。昇降は運転手による手動式であり、その操作盤・L字方向での二面開き扉等洗練された設計になっています。

▪︎娘は建築が専門なので、年末には、ここで家族の忘年会ができたらなあ…などと考えながら通り過ぎました。ここのお店では、冬に、中国風の「火鍋」料理をいただくことができます。「火鍋」とは、中華の鍋料理です。鍋の中央に炭を入れる煙突が立っている…そんな中華の鍋をご覧になったことはありませんか。ここの東華菜館の「火鍋」も、そのような形の鍋です。そのような鍋に、様々な具材を入れていきます。湯通ししたもの、揚げたもの等、具材ごとに適切な下準備を施してあるそうです。そのことで、最大限の味わい深さを引き出すのです。最高のスープから出た鍋の最後には、中華麺を入れて楽しみます。いかがでしょか。ちょっと、なんだか、人生の楽しみが増えました(大げさですが)。

深草

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20150113fukakusa2.jpg▪︎今日は、深草キャンパスで、定例の大学院の会議が開催されました。そのあと、知り合いの先生の研究室を訪問して、少し情報交換をさせていただきました。もちろん他学部の方ですが、これからの龍谷大学の行く末、特に瀬田キャンパスの行く末に関して、いろいろ情報交換させていただきました。ありがたいことです。その後、外のでると、写真のような感じになっていました。

▪︎トップの写真は、iPhone6plusのパノラマ機能を使って撮ったものです。昼間から夜に移行する時間帯、見慣れた風景であっても不思議な魅力を発します。右端の建物は、ひとつだけ明るい照明がついています。現在建築中の新校舎です。夕方ですが、なかでは工事が行われていました。

▪︎中段左。これも深草キャンパスです。といっても、「おっ…」と思ったのは、微かにまだ明るさを残した空です。写真を撮ろうと意識することで、その微妙な美しさが見えてきました。キャンパスを出て、京阪の深草駅に向かいました。下段の写真は、跨線橋の上から撮った深草駅です。ちょうど「出町柳」行きの普通電車が深草駅に入ってくるところでした。これも見慣れた風景ですが、こうやって写真に撮ると、普段は思いもしない感覚が味わえるのです。

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京都のラーメン(4)京都新福菜館

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▪︎昨日の昼食は、京都駅近くの新福菜館本店でした。今回は、黒い「チャーハン」を試してみたかったのです。でも、せっかくだから、やはりラーメンも…と思い、「中華そば」の小も注文しました。それが、間違いでした。おじさんの胃袋にはきびしかった…。

伏見のタバコ屋

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■iPhone5で撮った写真です。ボケボケですが、ちょっと懐かしい雰囲気が気になったもので、撮らせていただきました。

iPhone6 Plus 初めての写真

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■「ヨドバシカメラ京都店」で購入した「iPhone6 Plus」で、初めて撮った写真は、これです。ヨドバシカメラと京都タワーの谷間に月が見えています。個人的には、きれいに撮れているな〜と思い込んでいます(^^;;。いままでの「iPhone5」よりも、性能はあがっているようです。

晩秋の深草

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20141104fukakusa3.jpg■昨日は、午前中は老母の生活介護。昼食に梅田三番街の「インデアンカレー」でパワーを注入し、肥後橋経由・京阪で深草キャンパスへ。会議2連チャンでした。けっこう長くなりました。疲れました。物理的な時間の長さというよりも、議論の中身かな。これ以上は書きません。

■まあ、とにかくです、ちょっと気持ち的に疲れたのです。こういう時は、ぶらりとどこかに立ち寄るわけですが、そういう気持ちにもならず、まっすぐに帰宅しました。京阪深草の駅に向かう最中に撮った写真です。満月ではありませんが、月が出ていました。見慣れた風景ですが、こうやって写真に撮ると風景の奥にある姿がみえてきます。その風景に気持ちが投影されます。

■写真はiPhone5で撮ったものです。画質が荒いですが、どうかご容赦ください。上の写真は、キャンパスの門を出たところにある「大洋」という会社です。その右は、跨線橋の上から撮った京阪深草駅。左は、琵琶湖疎水でとった町家。錆びたトタンの壁に「魚治」の看板がお気に入りなのです。

電気鉄道事業発祥地

20141014denkitetudo.jpg ■京都駅は、私にとって通勤のときに通過する場所です。自宅のある奈良から近鉄で京都駅まで行き、そこからJR京都駅まで歩き、こんど琵琶湖線に乗り換え瀬田駅までいく。京都駅は、そのようなルートの通過地点でしかありません。そのようなこともあり、駅構内の外に出ることはあまりありません。駅の周辺にある書店や居酒屋(ないしはパブ)に行くとき、あるいは近くにあるショッピングモールに買い物をしにいくとき以外は、駅の建物から外に出ることはありません。まして、京都駅から地下鉄に乗って繁華街である四条のあたりまでいくなんてもことも、県人会や同窓会等の特別な用事がない限りありません。つまり、京都駅は通過はしていますが、京都の街のことはあまり知らないのです。

■先日のことになります。駅から少し離れたところにあるラーメン店に昼食をとりにいきました。京都駅ビル内の伊勢丹にも拉麺小路という場所があり、全国の有名店が出店されています。まあ、そこでも良かったのですが、その日は京都駅近くにある「本家 第一旭」に行きたくなり、テクテク歩いていたのです。すると、駅のすぐそばにこの写真の石碑がたっていることに気がつきました。何度も通っているはずなのですが、今回、このような石碑が建っていることに初めて気がつきました。「電気鉄道事業発祥の地」と書いてあります。帰宅してからも調べてみて、いろいろわかりました。京都市役所のホームページでは、この日本発の電機鉄道に関して詳しく解説していました。以下は、そこからの引用です。

日本初の市街路面電車
明治28(1895)年2月1日から昭和53(1978)年9月30日までの83年間,路面電車が京都市内を縦横に走っていました。明治28(1895)年,民営の京都電気鉄道会社(京電<きょうでん>)が東洞院(ひがしのとういん)塩小路(しおこうじ)下るの七条停車場(しちじょうていしゃじょう,京都駅)と伏見町(ふしみちょう)下油掛(しもあぶらかけ)間の営業を開始。京都に日本初の路面電車が誕生しました。明治45(1912)年6月,京都市営電車の営業が開始され,京電との激しい客取り合戦が繰り広げられましたが,大正7(1918)年7月,京都市が京電を買収し,競合区間の路線が統一されました。大正中期から昭和初期までは,市電の黄金時代が続きました。
昭和30年代の後半(1959~1964)から,市電と競合する市バスや会社バスが増加し,更に自動車も多く走りはじめ,路線の自由がきかない市電経営は行き詰まりを見せました。
昭和45(1970)年3月31日,日本最古の路面電車路線だった伏見線(塩小路高倉<しおこうじたかくら>と中書島<ちゅうしょじま>間)と稲荷線(勧進橋<かんじんばし>と稲荷間)が廃止されたのを皮切りに,路線が次々と廃止され,昭和53(1978)年9月30日,残る外郭線(北大路・西大路・九条・東山・七条・河原町の各線)すべてが廃止され,京都の路面電車の歴史に終止符が打たれました

先走りの少年
京電開業の6か月後の明治28(1895)年8月,雑踏や街角,橋上では電車の先五間(約9メートル)以内を先行し,昼は旗,夜は提灯をもち「電車がきまっせえ。あぶのおっせえ」と叫びながら線路を走る告知人がいました。告知人は,12歳から15歳の少年で構成されていて,先走りと呼ばれました。告知人制度は,府令第六十七号電気鉄道取締規制によるもので,仕事は危険な上に汗とほこりにまみれての重労働で,少年が電車にひかれる事故が相次いだため,告知人制度は廃止されました。

疏水止まれば電車も止まる
京電は琵琶湖疏水(びわこそすい)による水力発電によって電力が供給されたため,疏水の流れが止まると,京電も休業となりました。京電の定期休業日は,元旦,毎月1日と15日の疏水藻刈日。その他,水利事務所の機械故障や琵琶湖の増水などによって,たびたび電車の走行が止まりました。明治32(1899)年,東九条村(ひがしくじょうむら,現南区東九条東山王町)に石炭による火力発電所が開設され,その発電により輸送能力が一気に向上しました。

■素朴に「電車に乗るのが楽しい…」と思うだけの幼稚な鉄道愛好家なので、こういう歴史的な事実関係についてはまったく知りませんでした。京都の路面電車と琵琶湖疎水の関係については受験勉強のときに得た知識として知っていましたが、「先走りの少年」がいたなんてことも…知りませんでした。しかも、「電車がきまっせえ。あぶのおっせえ」と叫びながらというのが、京都らしい。ただし、少年が電車にひかれる事故が相次いだため…というのは、悲惨というか、なんとも言いようがありません…。解説では、路面電車が全面的に廃止になったのが昭和53(1978)年だといいます。私が二十歳のときです。当時、神戸に住んでいましたが、廃止寸前の頃に、一度だけ乗ったような記憶があります。今から思えば、市電を無くしてしまうなんて…もったいない話しですね。電車、自転車、人の歩行を優先るす街になっていれば…と思わずにはいられません。

■ところで、「電気鉄道事業発祥の地」の石碑の碑文ですが、以下の通りです。
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電気鉄道事業発祥の地
日本最初の電気鉄道はこの地に発祥した。即ち明治二十八年二月一日 京都電気鉄道 株式会社は 東洞院通り七条下る鉄道踏切 南側から伏見下油掛通りまで 六キロの間 に軌道を敷き 電車の運転を始めた。この成功を機として 我が国電気鉄道事業 は漸次全国に広がり 今日の新幹線電車にまで発展することになったのである。よってその八十周年にあたり 先人の偉業 を讃えてこの記念碑を建てる。 昭和五十年二月一日

日本国有鉄道
京都市交通局
関西電力株式会社
阪急電鉄株式会社
京阪電気鉄道株式会社
近畿日本鉄道株式会社
阪神電気鉄道株式会社
南海電気鉄道株式会社
京福電気鉄道株式会社
鉄道友の会京都支部
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■関西の鉄道関係の企業がずらりとならんでいますね。阪神、南海なんて鉄道会社は京都とは関係ないはずですが、鉄道会社のとっては重要な「発祥の地」ということで、ここに名前があがっているのでしょう。ちなみに最後の「鉄道友の会」ですが、1953年(昭和28年)11月14日に創立された全国規模の鉄道愛好者団体です。広く鉄道知識を普及し、鉄道趣味を通じて会員相互の親睦を深め、鉄道を愛護し、その発展に寄与することを目的として設立されています。この「発祥の地」の石碑は、伏見区にも建てられているのだそうです。こちらも、チャンスがあれば見学したいと思っています。

京都タワーとイメージの変遷

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■本日、10月1日は、「展望の日」です。全日本タワー協議会が2006年に制定したもので、10月の「10」を「テン」、1日の「1」を「ボー(棒)」と(むりやり…)読むのだそうです。この「展望の日」をアピールするために、昨晩(9月30日)、協議会所属のタワーは赤くライトで照らされたようです。関西だと、「京都タワー」、「通天閣」(大阪)、「ポートタワー」(神戸)が赤くなったようです。トップの写真は、帰宅途中に撮ったものです。たしかに、いつも白いタワーの柱の部分が赤く染まっています。

■みなさん、「京都タワー」に登ったことがあるでしょうか。私は、2回ほどあります。展望台からの風景はなかなかのものだと思いますが、建設当時は、いろいろ論争があったようです。以下は、土木学会の論集「環境システム研究論文集」(2007)に掲載された「京都タワーのイメージ変遷に関する研究」(稲本 健太朗・岡田 昌彰)からの引用です。

設立当初より建設反対論が渦巻く中,京都タワー は意外性とともに外観の美が認識されるようになる.京都のシンボルあるいは地元の風景といった京都自体とのイメージ的結びつきも次第に発現し,いわば地元への同化の進行がここに読み取れよう.高さの認識は 1990 年代前半まで漸増するが,1997 年の新京都駅ビル完成後はその認識の割合も減少し 来塔者数にも減少が見られる.現在でもランドマー クとしての役割は継続して見られるが,これは 1969 年当時で 20m など高さ制限(その後,45m に推移) を京都市が長く発布し周辺建築の高層化が他都市に 比べ大きくは進行しなかったことが背景にあるもの と考えられる.これにより周辺域との相対的高さは 確保され続けてきたが,1997 年の新京都駅ビル竣功 と前後してこのイメージに低下が見られる.また, 新京都駅ビルの竣功はタワーを眺める新たな視点場 を生成させている.

いっぽう,灯台なる当初設計におけるモチーフとは何ら脈絡を持たない「蝋燭」なるイメージが竣工後オブザーバーにより付与され,それが次第に定着し,現在は逆にこの事後的に形成された通説が当初設計におけるモチーフとして認識される傾向があることはたいへん特徴的である.マスとしての形態をもつ応力外被構造の京都タワーはゲシュタルトとしての認識が卓越するものと考えられる.このことがオブザーバーによる見立てを促し,さらに否定・肯定両面における社会的注目度の高さがオブザーバー主体によるこの意味づけを通説へと昇華するまでに強化していったものと捉えられる.このことは,塔状構造物の形成するイメージと,塔の形態ならびに立地地区の地理的条件,及び社会的背景との間にみられる関係性を示唆する知見であるといえる.内外における他の塔状構造物とのさらなる比較検討を今後行う必要があろう.

加えて,設立40周年を迎えた近年においては,上 記のような元来のモチーフや設計における構造特性 などといった京都タワーの歴史的系譜そのものに対 する関心も生じてきている.東京タワーや通天閣な ど国内における他の塔状構造物が映画などのメディ アを通じて“地域資産”“文化財”あるいは“都市 の原風景”という新たなまなざしで注目される社会 的趨勢の影響も考えられるが,40 年という期間が 人々の意識に与えうる影響を端的に示す史実として 指摘されよう.

■昨晩、facebookにこの写真を投稿したところ、ある方から「もともと京都タワーは『ロウソク』をイメージしてるんですよね」というコメントをいただきました。しかし、上記の引用にもあるように、「ロウソク(蝋燭)」ではなく、建設当初は「灯台」をイメージして設計されました。市内の町家の瓦葺きを波に見立て、海のない京都の街を照らす灯台をイメージしたものなのだそうです。以下は、「京都タワー」のサイトから[url-http://www.kyoto-tower.co.jp/kyototower/about/index.html]引用です[/url]。

京都駅の烏丸口から出ると、真正面に京都タワーが見えます。 1964年(昭和39年)12月に誕生したタワーの独特な姿は、海のない京都の街を照らす灯台をイメージしたもの。その姿だけではなく、構造も個性的ってご存じでしたか?

■当初は景観論争もあったようですが、今では上記の論文の引用にもあるように「京都のシンボルあるいは地元の風景といった京都自体とのイメージ的結びつきも次第に発現し,いわば地元への同化の進行」していきました。見る側の「眼差し」が、見られる側(物としての建築物)の社会的意味付けを変化させていったわけです。仏教寺院が多数ある「京都らしい」イメージとして受容されるさいに「ロウソク(蝋燭)」という新たなイメージが付与されているのです。私自身も、京都の景観について調べる前までは、「蝋燭」という流布したイメージで、そして京都のランドマークとして受け入れていました。

■この京都タワー、怪獣映画のなかにも登場するようです。映画『ゴジラvsメカゴジラ』(1993年)です。1993年になっても、まだ怪獣映画が製作させていたのか…というのが私の正直な感想ですが、それはともかく、この映画のなかでは、ゴジラの熱線によって京都タワーが破壊されているのだそうです。また、『日本沈没』(1973)のなかでは京都タワーが倒壊するのだそうです(両方ともwikipediaの情報ですが…)。1973年に『日本沈没』の映画が上映される頃には、京都といえば「京都タワー」(お寺のロウソクイメージ)が定着していたのでしょう。

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