50年ぶりの中山町

▪️広島の出張、現地解散になったので、少し寄り道をすることにしました。50年前に暮らしていた地域を訪ねてみることにしました。歩いてみると、いろんな記憶が甦ってきました。私は10代の後半に至るまで転園や転校が続いたのですが、なんとか小学校と中学校は広島の学校を卒業しました。私が卒業した小学校は広島市立中山小学校。かつて暮らしていた家から小学校まで記憶に残っている道を歩いてみました。私はこの広島市中山町に小学校5年生の3月から高校1年生の夏まで暮らしていました。1970年3月から1974年7月までです。

▪️広島市が全国で10番目となる政令指定都市に指定されるのは1980年です。その時から、中山町は東区中山町になりました。その頃から住所表記も変わったようです。私が暮らしていた当時は、住所表記に小字の地名がまだ残っていました。以下、私以外の皆さんには意味が無い文章かと思います。すみません。長々と書いていますが、つまらない文章ですので、どうかスルーなさってください。

▪️中山町は、広島市の市街地から峠をひとつ越えたところにありました。元々農村地帯です。1956年に広島市に編入される以前は安芸郡中山村でした。東西は山で、中央には単線の芸備線が走っていました。その芸備線に沿って川があり、その川に向かって東西の山裾に谷間がいくつもあるような地形でした。その谷間の傾斜地に水田が作られていました。そのようなわけで収穫量は高いわけではなく、逆に、農業的には厳しい地域でした。海外へ移民された方達も多数おられたようです。国土地理院の空中写真(1947年)を拝借して地名を付け加えています
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▪️そのような地域なのですが、広島という都市の郊外に位置していることから、高度経済成長期には、以前は農村の里山だった丘陵地が新興住宅地になりました。戸建て住宅からなる大規模な住宅団地が造成されたのです。その頃から、少しずつ地域の雰囲気も変わっていったのかもしれません。いわゆる、混住化ですね。私の暮らした家は、そのような新興住宅地にではなく、農家が農地を切り売りした土地に建てられていました。三軒の二階建て住宅と、二軒のやはり同じく二階建ての賃貸住宅、農家の立派なお宅が並ぶ谷筋の集落の一番奥に、この5軒の住宅が並んでいました。この集落の下方には棚田が並んでいました。

▪️私がそのような混住化した地域に暮らしたのは4年半ほどの期間ですが、子どもの時とはいっても12歳から16歳までの期間ですから、かなり記憶に残っています。今回は、広島駅の北側からバスに乗って中山町の、かつて暮らした場所の近くのバス停で降りました。そこには、昔の記憶にはない大きな高速道路(広島高速5号線)が建設中でした。山陽自動車道広島東ICと直結し、広島駅周辺市街地と広島空港との間の高速性・定時性を確保するとともに、広島市北東部地区の交通渋滞の緩和を図るために建設されているようです。

▪️じつは、事前にGoogleMapで調べて高速道路が建設中であることはわかっていたのですが、実際にその高速道路を下から眺めると、やはり何か違和感のような感情がありました。しかし、その高速道路を抜けてかつて暮らした家に近づいていくと、ほぼ記憶通りの風景が目の前に現れました。近づいていくと特徴のある住宅が目の前に現れました。これまで思い出すことはありませんでしたが、「ああ、そうだった。この家はよく覚えている」と急に記憶が蘇ってきたのです。記憶の奥底にある記憶と目の前の住宅が一致しました。ただ、人がお住まいになっているような雰囲気はありませんでした。

▪️そこから坂道を登っていくと、農家の立派な和風の建物の奥に、かつて暮らしていた住宅が現れました。ひょっとすると築後60年ほど経っているのかもしれません。我家が暮らしていた住宅、今も人が暮らしいることはわかりましたが、ずいぶん庭は荒れていました。ちょっと残念な気持ちになりましたが、私がとやかくいうことではありません。その住宅の向かいには、私が中学生の頃には、新婚のご夫婦が暮らしておられました。当時と同じご夫婦が今も暮らしておられるのかどうかわかりませんが、もしそうならば、70歳代後半のご年齢でしょう。

▪️50年前は、ここが谷筋の一番奥で、その後ろは山林でした。ところが今は、さらにその奥に住宅開発が行われていて、整然とした街区に新しい戸建て住宅が並んでいました。その手前、私が暮らしていたところのあたりだけは、まるでタイムカプセルに保存されていたかのように50年前と変わっていませんでした。私が暮らしていた住宅に隣接する農家には、私よりも一つ年上のお嬢さんがお住まいでした。性別も学年も違うので、話をすることはありませんでしたが、農家のご夫婦には大変親切にしていただきました。よく記憶しているのは、年末の餅つきに呼んでくださったことです。懐かしいです。50年ぶりに訪ねていっても、怪しまれるだけでしょうから、外から眺めるだけでしたが、今はどなたがお住まいになっているのでしょうね。気になりました。

▪️その後、通学していた小学校に向かいました。記憶の中にある通学路は、ほぼ昔のままでした。通学路なんですが、そこは舗装はしてあるものの軽トラックが1台通過できるほどの狭い農道でした。今も、水田が耕作されているところは記憶している昔のままでした。ただ、その先に進むと農地も住宅化しているせいか、記憶にある道は残っていませんでした。農業排水路が暗渠化されて小さな道になっていたりして、記憶とまったく合致しませんでした。また、私が小学生の頃は、同じ間取りの平屋の賃貸住宅が並んでいました。その賃貸住宅の並ぶ土地を抜けて学校に通っていたのです。今は、そのような賃貸住宅はありません。仕方がないので別の道を探すことになりました。当時のことですが、小学校からの帰宅時、賃貸住宅の前で練炭で秋刀魚やタレに漬け込んだ鯨の肉を焼いておられたりしていました。なんだか、のんびりしていました。



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▪️ここまで来ると目の前に芸備線があります。私が中山小学校に転校したての頃は、まだ蒸気機関車が走っていました。C58という形式の蒸気機関車だったと思います。当時、蒸気機関車は全廃する直前でした(全廃は1975年)。もうじき消えていくということで、全国的にSLブームでした。私の周りの男の子たちの関心は、もっと大型のD51(デゴイチ)とかC62だったように思います。だから、C58については少し残念な気持ちもありました。それはともかく、この芸備線で強烈に記憶に残っているのは、私が勝手に「黄色い霧事件」と密かに呼んでいる出来事です。当時、客車にはトイレがついていましたが、汚物を貯めるタンクはついていなかったと思います。朝、通学路で一緒になった保健室の先生と一緒のこの芸備線のガードの下を潜ろうとした時、上を走っている客車から黄色い霧が散布されたのです。私は保健室の先生と一緒に「うわーっ」と驚きながらガードしたを通りすぎました。先生は、ハンカチを出して笑いながら拭いておられました。拭いても仕方がないのですが…。今だと考えられない感じでしょうか。私もそのまま学校に向かいました。



▪️芸備線のガードをくぐったところに、今では雑草が生えまくっていますが、私が小学生の頃は、ここに「拝み屋」さんの小さな家がありました。家といっても掘立小屋のような粗末な小さな建物でした。その建物の前には、記憶が曖昧ですが、家庭菜園と花壇があったかもしれまん。この「拝み屋」さんとは、民間の祈祷師のことです。当時小学生だった私からすると老婆でした。でも、今の私よりもお若いかもしれまん。時々、祈祷師の衣装(僧侶に近い装束)を身につけて出掛けておられました。お仕事があったのでしょうね。おそらく、この土地は当時は国鉄のものだったのではないでしょうか。どういうわけで、そこにお住まいになっておられたのか、その辺りの事情はよくわかりません。

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▪️芸備線のガードをくぐった後は、右に行くと小学校なのですが、まずは左にある小高い丘の上の神社に向かうことにしました。この神社でもよく同級生と一緒に遊びました。神社の社殿の下に潜り込んで、蟻地獄(ウスバカゲロウの幼虫)を観察したりしていました。社殿の下には、たくさんのすり鉢状になった蟻地獄があったのです。それから、近くにはドングリの実が成っていました。地面に落ちたドングリの実を集めて、いろんなことをして遊びました。今回、参拝してみたところ、社殿はずいぶん立派になっていました。蟻地獄のあった社殿の下もコンクリートで固められていました。ちょっと残念でした。

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▪️社殿の横には、「中山稲生神社の沿革」という説明板が設置されていました。その沿革の最後の段落には、2003年に中学生の火遊びが原因で消失したため、再建されたとあります。そういうことでしたか。また広島市に合併される以前の中山村の歴代村長と中山小学校の歴代校長の顕彰碑が建てられていました。村長と校長の顕彰碑、何か時代を感じます。そこには、私が小学生だった時の校長先生のお名前もありました。長野幸雄先生です。顕彰碑の長野先生のお顔を拝見しながら、先生から伺ったことを思い出しました。長野先生は戦時中、海軍の兵隊でした。なんの軍艦だったか忘れましたが、沈没して救出されるまでの話を今でも記憶しているのです。疲れて眠ってしまうと海に沈んでしまうので、眠らないようにナイフで自分の体に傷をつけて痛みで眠らないようにした…そのような話だったように記憶しています。

▪️神社を参拝した後は、小学校に向かいました。校門の近くには、給食の調理室があり、良い香りが漂ってきていました。校舎も、増築されていました。ネット上にある情報を確認すると、1・4・5・6年は3クラス、2・3年は4クラスもあります。また、「昭和40年ごろから新興住宅地として発展してきたが,児童数もその影響を受けて増加の一途をたどった。その後児童数はやや減少ぎみであったが,最近は,学区内に団地ができたり,マンションが建設されたりして児童数が増えている」という説明もありました。私が在籍していた頃は、各学年は2クラス程度でした。1クラスあたりの人数はわかりませんが、増築が必要なほど児童数が増えているのではないでしょうか。私が小学生の頃は、マンションなどもちろん建設されていません。典型的な都市郊外の混住化した地域でした。

▪️当時、私の家族のような転勤族は、「旅の人」と言われていました。また、どこかに転居していく人たち、一時的にここに暮らしている人たち…という意味でしょう。私は、広島市立中山小学校、そして広島市立二葉中学校を卒業した後、高校は広島市内にある広島県立皆実高等学校に入学しました。しかし、在籍したのは高一の一学期という短い期間でしかありませんでした。父親の転勤で、その後は編入試験を受けて兵庫県立兵庫高等学校に転校しました。実際に「旅の人」だったわけです。この「旅の人」という言い方には、なにか少しネガティブな響きもありますが、私自身は、暮らしていた地域の皆さんにとても親切にしていただきました。もし、編入試験に落ちていたら、そのまま皆実高校に通っていたら自分の人生はどうなっていただろう…おそらく大きく変わっていたに違いないと思います。

▪️長々と駄文を連ねてしまいました。つまらない投稿で申し訳ありません。さて、卒業生とはいえ、中山小学校を訪ねるわけにもいかずに、怪しまれないように母校の横をゆっくり歩いて通り過ぎ、そのあとは、再び市街地にバスで戻って行きました。大変短い時間でしかありませんが、記憶の奥底に眠っていた50年前のことを思い出すことができて満足しました。

JR瀬田駅までのウォーキング/田口さんとの再会

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20230429walking5.jpg■昨日も帰宅時に歩きました。ただしJR瀬田駅まで、たった3kmですが。それでも208kcalを消費しました。いつもより、少し早め、1kmを10分切るスピードで歩いてみました。「だったらジョギングの方がいいやん」と言う方もおられるでしょうね。。まあ、そうなんですが…。でも、昨日はウォーキングでした。卒業生の皆さんは、見覚えのある風景でしょうね。私も、あと2年で瀬田キャンパスから深草キャンパスに引っ越すので、この風景も懐かしくなるはずです。

■1段目の右は、瀬田キャンパスです。ウォーキングをスタートしてすぐの頃。智光館の横のあたり。2段目左は名神高速道路。右は瀬田丘陵からの風景。左に比叡山、右に比良山系が確認できます。真正面に見えるのは、琵琶湖の南湖。3段目は、ずっと駅に近いところにある寿司店の角に置かれている道標です。大学までのバスが通る学園通りと旧東海道とが交差する地点の角にあります。「三條大橋迄で五里余り」、「膳所藩札所より大萱港常夜灯に至る」、「江戸日本橋迄で百二十里余り」、「旧朝倉道信楽より伊勢 桑名に至る」。最初の二つは東海道。一里は、3.92727kmですから、京都の三条大橋までは20km弱、江戸の日本橋までは、約470kmになります。この東海道と交差する道が、現在の学園通りです。龍谷大学の正門の少し北側のあたりに森の中を抜ける道があるのですが、それが信楽に向かう道で。昔は、この細い道を通って伊勢方面に人が歩いていたのでしょうね。

■JR瀬田駅から電車に乗り、昨晩は、大津駅で下車。そして、大津駅前のいつもの居酒屋「利やん」へ。お店に入ったら、びっくりすることがありました。なんと、田口宇一郎さんがいらっしゃいました。私は以前、滋賀県立琵琶湖博物館に勤務していましたが、その時の上司が田口さんでした。初めてお会いしたのは、博物館が開館する以前の開設準備室の時でした。今から、33年前、1992年のことになります。田口さんは、滋賀県庁では、最後は嘉田由紀子知事のもとで副知事を務められた方ですが、私にとっては「社会人の先生」のような方でした。「組織で仕事をすることの本質」を教えてくださった方かと思います。県庁のOBの方とも「私たちは、田口スクールの生徒だよね」と話すことがあります。開設準備室以降、琵琶湖博物館が開設してからも、本当にお世話になりました。結果としてかもしれませんが、いろいろ教えていただきました。

■私が2004年に龍谷大学に勤務するようになってからも、大津駅前のいつもの居酒屋「利やん」で、しばしばお会いしてきました。龍谷大学に関係することでも、表には出ませんが、大変お世話になりました。そういう感じで、田口さんとは「利やん」を通してつながっていたのです。ところが、コロナ禍以降は、そういうことがなくなりました。そんなこんなで、今日、やっとお会いすることができたのです。こんな嬉しいことはありません。田口さんからは、「また準備室時代の面々と、この店に集まって呑もう」との提案をいただきました。以前、「利やん」で集まって同窓会を開いたことがあったのです。いろいろ手配して、関係者にお声がけしようと思います。初代の館長をおつとめいただいた川那部浩哉さんにもご連絡をいたします。昔の職場の皆さんが、また集まることができたら素敵だなと思います。田口さんは81歳、川那部さんは91歳、私は65歳、みんな同じだけ歳をとっていきます。あたりまえのことですけど。

「コピ・ルアク」

20230425kopiluwak.jpg ■息子から誕生日プレゼントが届きました。ジャコウネコがコーヒーの実を食べてウンチと一緒に排泄した種子=コーヒー豆です。ジャコウネコの腸内の発酵や酵素で、独特の香りがするとのこと。ウンチには引っかかりますが…。そういえばインドネシアを旅行した時に飲みましたかね。味については記憶に残っていないけれど。高級な豆らしく、週末にミルで挽いて楽しもうと思います。このコーヒーの名前ですが、「コピ・ルアク」というそうです。「コピ」はインドネシア語でコーヒーのことです。後半の「ルアク」は、インドネシア語でマレージャコウネコをこう呼ぶのだそうです。

■この「コピ・ルアク」がどうして誕生したのか。インドネシアがオランダの植民地だった頃、オランダ人がコーヒーのプランテーションを開発して、そこでインドネシア人の農業労働者にコーヒーを作らせていました。コーヒーは、もちろんオランダ人のためのもので、オランダに運ばれるため、インドネシア人はコーヒーを味わうことはありませんでした。ただ、ジャコウネコが排泄したウンチにコーヒーの豆が未消化で残されていることに気がつき、それを綺麗に洗って乾燥させ、焙煎してコーヒーを作って飲んでみたところ、めちゃくちゃ良い香りがして美味しかった…それがこの「コピ・るあく」の始まりなんだそうです。まあ、未消化ですけどウンチの中にあったものですからね、よく飲もうと思ったな…とは思いますいが、今や高級ブランドのコーヒーです。息子に感謝です。

■息子も私と同じ4月生まれなので、私からもプレゼントをしました。岩手県三陸のご当地グルメ「瓶ドン」です。三陸のいくら・めかぶと、イカ、タコ、ウニをそれぞれ贅沢に漬け込み、瓶詰めしたものだそうです。自分にもプレゼントしたいな。そうそう、息子からは、ワコールから出ているCWXのランニング用5本指ソックスも一緒に届きました。頑張ってウォーキングやジョギングに励んでね…ということなんでしょうね。ありがとう。

前期高齢者になりました。

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■本日、65歳になりました。今日からは前期高齢者です。すでに2人の孫のおじいさんですが、国の制度や統計の中でも晴れておじいさんとして扱われることになりました。少し前に介護保険証も送られてきました。おいぼれてきて、おそらく周りの方達は心配されていることでしょう。本人も自覚しています。加齢とともに衰えていくことは仕方がないとしても、なんとか今後10年を元気に過ごしていきたいと思っています。

■写真は、娘の家族から届いたお誕生日プレゼントです。娘に「何がいい?」と聞かれて、「桜のミニ盆栽があるから、今度は紅葉のミニ盆栽がいいね」と言ったところ、本日の午前中に届きました。大切に育てたいと思います。

準拠集団

■Facebookに投稿したものを、ブログに転載いたします。孫娘に関する投稿です。ひな子といいます。だから、ひなちゃん。

「ひなちゃん通信」です。ひさしぶりですが、写真はありません。

先月、ひなちゃんは赤ちゃんの頃から通った保育園を卒園しました。今月から小学生です。入学式はまだですが、学童保育に通い始めました。初めての学童保育、どうだったのかな…と心配になりますが、機嫌よく帰宅したようです(お父さんがお迎えに行きました)。

大変興味深いことを、娘(母親)が教えてくれました。学童保育に行く前と行った後とでは、ひなちゃんに少し変化があったというのです。喋り方が変わったのだそうです。たぶん、学童保育の先輩たちに影響をされているのですね。学童保育に通うお兄ちゃんお姉ちゃんたちが、ひなちゃんが、これから目指すべきモデルなのかな。社会学の古典的な用語で言うと、「準拠集団」(reference group)が保育園から小学校に変わった…ということになるのかな。こうやって、少しずつ成長していくのですね。

ひなちゃん、今までの保育園とは違うので、戸惑うこともあるとは思うけど、学校と学童を楽しんでね。

身の回りの分別廃棄

■自宅の勝手口のそばに資源ゴミをストックするボックスを置いています。以前はアルミ缶(ほとんど発泡酒ですが)もそのボックスにためていましたが、今は普段利用している生協のスーパーが引き取ってくれるようになりました。これは、ポイントがつきます。今、ボックスの中はビンと燃やせないゴミだけ担っています。■ついゴミ出しを忘れて溜まりごちだったビンなんですが、つい最近、すべて出すことができました。ボックスの中は空っぽになりました。ゴミの問題を考える場合は、その行く末にまで思いを馳せて考えなければいけないのですが、それでも少し気持ちがスッキリしました。

■自宅の書斎も机周りを少し整理をして、仕事をしやすくしました。まだ、書類や資料の類を分別廃棄しなければなりませんが。それでも少し気持ちがスッキリしました。こんなことなら、もっと早くスッキリさせておくんだったと深く反省しています。職場の研究室の整理も進めなければとも思います。2025年には、勤務している社会学部が、大津市の瀬田キャンパスから京都市の深草キャンパスに移転します。当然、研究室も引越しになります。そのタイミングに合わせて、整理をしていこうと思います。まずは書類や資料の類の分別廃棄ですかね。ほとんど、もう廃棄でしょうね。

■この歳になって、あまり「この資料は後で役に立つかも」などと、考えない方が良いように思います。もう自分のやるべき仕事は限定されてくるわけですし。そう、これからの分別廃棄は、残りの人生、その生き方の問題でもあるわけです。でも、好奇心は持ち続けたいですね。となると、分別廃棄しても、また増えていくような気がしないでもありません。

いよいよ小学生

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■facebookのヘビーユーザーです。若い学生の皆さんはfacebookのアカウントを仮に持っていたとしても、普段使うことはありませんよね。facebookは、日本では、私のような年代の人たちのSNSのような気がします。まあ、そのことはともかく、facebookには「あなたは○年前にこんな投稿をしましたよ」と教えてくれる機能があります。今日教えてくれたのは、6年前の投稿です。初孫のひな子が生まれて、病院に対面しに行った時の写真です。そのひなちゃんも、6歳になりました。4月から小学生です。昨年、ランドセルをブレゼントしました。で、そのおじいさんは、4月から前期高齢者です。やったー!!……なにが。この6年間でだいぶ老け込みました。

2023年の雛祭り

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■うちには、雛祭りを楽しむ子どもはもういません。ずいぶん前までは娘が家にいたのですが、大学1年生の時に家を出て自立し(大学時代は仕送りをしていましたが)、その後就職し、そして結婚して、今はもう2人の女の子の母親になりました。で、私も、2人の孫のおじいさんになったわけです。本当に時が経つのははやいですね…。とはいえ、我が家では、押し入れの奥に入れたあるお雛様たちを、この季節にはお出ましいただき、リビングに飾っています。小さい方は、おそらく60数年前のものですかね。大きい方は36年前のものです。なにか個人情報を意図せず漏洩しているようですが…。小さい方のお雛様は、もともとはガラスケースに入っていたのですが、今はこうやって、ケースの外でのびのびとされています。これから桃の花なども、飾ってみようかなと思います。

積もりました。

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■積もりました〜。

■今日は、担当している授業の定期試験の日でしたが、2月1日に振り替えになりました。新しい長靴も買って準備万端だったんですが。職場の教職員の中にも、帰宅できなかった方がおられました。電車の中で、あるいは職場に戻って眠られたようです。大変でした。学生の皆さんは大丈夫だったのでしょうかね。私はといえば、昨日は午前中に海外出張の手続きの書類作りをしていました。なんとかやるべき仕事を済ませることができました。お昼頃から雪が降り始め、最初は降ったり止んだりでしたが、暗くなった頃から本格的に降り始めました。

■雪で痛んだら嫌だなと思い、育てているビオラやガーデンシクラメンの鉢を屋根の下に移動させました。しかし、無駄でした。風も伴っていたいたようで、屋根の下でも鉢には雪が積もってしまいました。朝起きて、植木や花が痛まないように、できる範囲で雪を取り除きましたが、多くは雪のしたで痛んでいることでしょう。積雪量が少なければなんとかなったかもしれませんが、仕方ありません。宿根草、多年草は根っこが生き残っていればなんとかなるのかもしれません。もちろん、本格的な雪掻き仕事もしました。20cm弱ほど積雪量があったので、結構時間がかかりました。ついでにご近所のお一人暮らしのお宅の雪掻きも少しお手伝いしました。それから、64歳のおじいさんですが、超下手くそな雪だるまも作ってみました。孫にLINEで見せてあげたい…ということでして。

■まあこんな感じで午前中は雪掻き仕事と庭の世話が続きました。午後からは世界仏教文化研究センターの打ち合わせ会議。そのあとは、学科会議、教授会、研究科委員会と続きます。自宅の書斎から、teamsを使ってのオンラインによる会議です。今、学科会議が終わりました。研究科委員会のあとは、zoomによるまちづくりの学生団体とのミーティングになります。諸々続きますが気になるのは積雪です。時々外を眺めています。また積もり始めました。湖北や東北・岩手県等の雪国のfbのお「友達」からすれば大したことはない積雪なんですが。明日もJRが動かないとほんと困ります。

良いお正月でした。

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■2023年のお正月が終わりました。息子が帰省し、娘の家族も孫2人と我が家にやってきした。今日、我が家は急に静かになりました。庭の世話どころではなかったのですが、今日は庭に出ました。庭に咲いたスイセンが強風で折れてしまったものを鋏で切り取り、室内で花瓶にいけることにしました。その花瓶をキッチンのカウンターに置いているのですが、調理や洗い物をしているとスイセンの香りがして「はっ…」とすることがあります。屋外で咲いていると分かりにくいのですが、スイセンはとても強い香りがします。好き嫌いはあるかと思いますが、私は好きです。

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■昨日は、奈良で新年会がありました。91歳の義父と85歳の義母を囲んで一族で新年会を開催するのが毎年新年の恒例の行事になっています。残念ながら、義父は足腰が弱くなっており参加を諦めたようで、総勢11人での新年会になりました。娘や息子にとっては、従兄弟と会える大切な時間になっているのではないかと思います。加えて、昨日は、娘の子ども、つまり私の孫たちも参加しました。新型コロナ感染拡大で、この2年間は新年会の開催を断念してきましたが、今年はなんとか開催することができました。賑やかでした。小さかった甥たちも、立派な成人になり大人の話ができるようになったことは嬉しいです。甥の1人は結婚をしました。お連れ合いの女性には初めてお会いすることになりました。

■新年会の前に、1時間半ほど時間があったので、新年会の会場の近くにあるニュータウン(けいはんな学研都市)の公園でしっかり遊びました。公園にある遊具にチャレンジしていました。おじいさんは、そのサポート。下の孫は2歳半ですが、ちょっと怖いのを克服して、楽しんでいました。運動能力が少しずつ発達してきていることがよくわかりました。お別れするときに、「また遊ぼうね」というと、「楽しかった」と言ってくれました。おじいさんは、幸せです。

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