震災発生から6日後に収録されたパペポTV (上岡龍太郎・笑福亭鶴瓶)


■滋賀県で高校の先生をされている知り合いの方が、この動画に関してfacebookに投稿されていました。23年前に起こった阪神淡路大震災のあと、6日後に収録されたテレビ番組です。当時、大変人気のあった「鶴瓶上岡パペポTV」という番組です。笑福亭鶴瓶さんと、今は引退された上岡龍太郎が出演するトーク番組です。1987年4月14日から1998年3月31日まで放送されました。さて、知り合いの高校の先生の投稿には、このようなメッセージが添えられていました。「鶴瓶師匠が言うてること、当時自分が感じたこととほぼイコールです。お時間あるときに、見てください」。

■その先生は、西宮で被災されました。当時は西宮で中学校の先生をされていました。その中学校には多くの方達が避難され、そこで被災者の皆さんに懸命に対応されたようです。さて、鶴瓶さんと上岡さんが語られている内容の細かな点や事実認識については様々な異論があるかもしれませんね。ただし、特に、鶴瓶さんの報道のあり方に対する意見については、共感される方が多いのではないかと思います。知り合いの先生が「鶴瓶師匠が言うてること、当時自分が感じたこととほぼイコールです」というご指摘、被災地と非・被災地との間にある圧倒的な非対称性の問題でしょうか。あるいは、最近、しばしば言われる言葉であれば、「災害ポルノ」(disaster porn)の問題でしょうか。自らも被災者である鶴瓶さんと上岡さんの間にも、若干、そのような非対称性を私は感じてしまいます。(この動画は、YouTubeに2015年にアップして公開されたようです。テレビを直接撮影しているようなので、画質は相当悪いですが、著作権的に問題があるとの指摘があるかもしれません。それでも、有益な動画と判断し、リンクさせていただきました。)

■この動画と関連するネットのインタビュー記事を見つけました。「【熊本地震】「“震災ポルノ”ではなく潜在的課題を報じて」農村社会学者が感じた震災報道の “違和感”」です。インタビューを受けているのは、農村社会学者の徳野貞雄さんです。熊本大名誉教授で、一般社団法人「トクノスクール・農村研究所」の理事長もされています。徳野さんは、熊本地震が「マチ型震災」と「ムラ型震災」の複合型震災であるにも関わらず、マスコミの報道が限定された結果、「マチ型震災」ばかりがクローズアップされている点を指摘されています。目に見える分かりやすい「マチ型震災」に報道が集中し、農山村部の被害状況についてはほとんど報道されていないという指摘です。加えて、以下のような指摘もされています。「震災ポルノ」(=「災害ポルノの問題」)です。

「ムラ型震災」に限ったことではないが、目に見えにくい被害を、もっと多く伝えてほしいと強く願う。例えばトイレ問題。人間、排泄を長い時間我慢することは難しい。特に女性や高齢者は、発災直後、どこで排泄するかという問題に直面した。こうした課題を報じることで、地震の経験が日本全体で共有・蓄積されていく。
目に見えにくい被害に共通するものは「日常生活の解体」だ。これを早期に復旧させるために、報道や研究者はこのテーマにもっと注目してほしい。
今回の熊本地震で特に感じたことだが、テレビや新聞は「心の交流」などと、心温まるエピソードを紹介しすぎだ。もちろん、こうした報道には、人々を勇気付けるという素晴らしい目的がある。しかし、それも度が過ぎると“震災ポルノ”となってしまう。被害のあった建物や橋などの映像も、明らかに多すぎる。何でもバランスが大事。マスコミは“震災ポルノ”ではなく、目に見えにくい潜在化した課題について、しっかり報じるべきだ。

ーー“震災ポルノ”とは?

徳野氏:目に見える感動しやすい部分を、安易に取材して記事化したものを指す。報じたとしても、課題が解決されることはない。

■最近は、この「震災ポルノ」=「災害ポルノ」だけでなく、「貧困ポルノ」や「感動ポルノ」(障がい者の存在がメディアなどによって過剰に感動的に演出され、非障がい者の消費の対象になっている)等、いろんなところでこの「〜ポルノ」という言葉が使われています。ショッキングな言葉だからでしょうか(これらの言葉自体は少しインフレ気味かもしれませんね)。困難な問題に抱える人びとに寄り添うようでありながら、その問題を、外部からのステレオタイプな関心(あるいは好奇心)によって「消費」していることの問題性を、徳野さんは指摘しているわけです。被災地の外部の人の好奇心の入り混じった関心に合わせて、情報が切り取られ、強調され、提供されていくことの結果、「ムラ型震災」が無かったかのように扱われ、目に見えにくい潜在化した課題も伝えられない…ということになっているのです。

■冒頭の「パペポTV」で鶴瓶さんが必死に伝えようとしていることは、「自分たち被災者は災害ポルノとしてマスメディアで消費されている」一方で、現実の本当に困っている問題、徳野さんの指摘で言えば「目に見えにくい潜在化された課題」にはなんら社会的な対応がなされず、被災地とその外部の非・被災地との間に大きな落差が存在している…ということなのだと思います。阪神淡路大震災、東北大震災、熊本地震…。この問題はずっと変わっていないのかもしれません。私も含めて、外部にいる人間は、いつでも、簡単に、この「ポルノ」の罠に絡め取られてしまう危険性を抱えています。

神戸・須磨ニュータウン

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▪︎23日(金)は、「我が故郷神戸」に行ってきました。鵯越という場所にある「神戸シルバーカレッジ」という生涯学習施設に伺いました。60歳以上の方たちが学ぶ成人大学です。ここでグループワークと講義を行いました。今年で3年連続…ということになります。

▪︎「我が故郷神戸」に帰るのは良いのですが、やはり自宅のある奈良からだと結構遠いな…という気持ちになります。実質的な移動時間は、普段の通勤とあまり変わらないのですが、たまにしかいく用事がないものですから、「我が故郷神戸」であっても、気持ち的には「遠い街」になってしまっています。昨年までは、どうせ時間がかかるんだったらと、電車で新開地まで行き、神戸電鉄に乗り換え、西鈴蘭台まで移動し山岳列車気分を味わっていました。今年は、これまでとは移動方法を変えて、三宮からバスで行くことにしました。すると、意外なことに早く到着しました。三宮からは、かつて私が暮らしていた30年前にはなかったバイパス道路によって、「神戸シルバーカレッジ」の近くまで一気に移動できるからです。

▪︎15時頃、「神戸シルバーカレッジ」での授業を終えました。そのまま帰宅してもよかったのですが、高校から大学まで過ごした須磨区にあるニュータウンに行ってみようと思い立ったのでした。須磨に転居したのは、約40年前、1975年(昭和50年)のことになります。新しく開発されたニュータウンに、両親が頑張って一戸建住宅を建てたのです。「高倉台」というニュータウンです。この「高倉台」までの移動が、けっこう大変でした。「神戸シルバーカレッジ」のある地域には「ひよどり台」というニュータウンがありますが、そのニュータウンを経由して、須磨ニュータウンの「白川台」を通り、まずは神戸市営地下鉄の「名谷駅」まで移動しました。この「名谷駅」から一駅、次の「妙法寺駅」まで地下鉄で移動し、「妙法寺駅」からは再びバスに乗って「高倉台」まで移動しました。何度も乗り換えてけっこう大変だったわけですが、かつてかこのような移動はできませんでした。不可能でした。ニュータウンの開発が終わっておらず、この日に利用したような公共交通機関も存在していなかったからです。隔世の感がありますね。

▪︎私が暮らした「高倉台」は、基本的には記憶通りの街でしたが、周辺部分は若干拡大しているようにも思えました。記憶のある街並みは、確実に40年を経過している…ことを実感させるものでした。まあ、当然ですね。「高倉台」の南側にある山にも登ってみました。ここは、公園としても整備させており、六甲山縦走のコースの一部にもなっています。山の頂上に登ると、私が暮らしていたときには存在しない「茶屋」が立っていました。おそらく、登山シーズンのときに開店するのでしょう。頂上からの景色は、とても懐かしいものでした。「高倉台」全体を見渡すことができるだけでなく、遠くに明石海峡や淡路島を望むことができたからです。唯一、記憶と違うことは、そこに明石海峡大橋が存在していることです。また、明石海峡大橋の右側には、さらに遠くに、ぼんやりと島の影が確認できました。たぶん…小豆島だと思います。この山頂から小豆島が見える…これは記憶にありませんでした(そうだったんだ…)。

▪︎私が暮らしていた時は、この「高倉台」からさらに奥にある地域が開発中でした。もちろん、現在では、今日、講義をした「神戸シルバーカレッジ」のあたりまで、いくつものニュータウンが広がっています。須磨ニュータウンは、主要には6つの住宅団地から構成されています。「北須磨」団地が1967年、「白川台」団地が1970年、「高倉台」団地が1973年、「名谷」団地が1975年、「落合」団地が1978年、「横尾」団地が1979年。主に1970年代に開発された住宅団地です。私が暮らした「高倉台」のばあいは1973年で、私の両親が家を建てて転居したのが1975年ですが、私の家のまわりには造成地がひろがっているだけでした。造成地のなかに、私の家も含めて、ポツポツと住宅が建ってるいだけでしたが、すぐに続々と戸建住宅が建設されました。

▪︎ここで、神戸市須磨区が出した「須磨区計画」(平成23年)には、以下のような記述があります。ニュータウンのある北部の地域は、高齢化していることがわかります。全国的に、都市郊外のニュータウンは高齢化していますが、須磨区も同様であり、10年・20年後のことを考えると、なかなか厳しい状況がみえかくれするのです。

須磨区の人口は、須磨ニュータウンの開発に伴い、昭和 50 年代から急増していましたが、60 年 代からは、横ばいとなり、平成 6 年の約 18 万 9 千人をピークに微減の傾向が続き、現在、約 16 万 8 千人となっています。将来的にも、須磨区全体の人口は減少の傾向であると予測されます。

須磨区の年齢別の人口構成に関しては、全市の平均と比べて、20 歳代から 40 歳代の人口が少なく、60 歳代以上の人口が多くなっています。特に北須磨支所管内では、60 歳代前半のいわゆる 「団塊の世代」の割合が高いことが特徴です。また、本区では、35 歳前後の「子育て世代」の割合が高いと言えます。

須磨区でも少子高齢化が進んでおり、本区、北須磨支所管内ともに、高齢化率は全市の平均を 上回っています。中でも友が丘地域などでは、高齢化率が 40%を超える推移を示しています。 特に、北部のニュータウン地域では、子どもの減少などが見られるとともに、急速に高齢化が 進んでいます。

▪︎ちなみに私の両親と妹は、1980年代の後半頃までこの「高倉台」に暮らしていましたが、その後、大阪に近い川西市の方面に転居しました。そちらのニュータウンに新しい家を建てて、転居したのです。結局、その新しいニュータウンも、高齢化率が高まっています。困ったものです。

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