NHKクローズアップ現代「“穏やかな死”を迎えたい~医療と宗教 新たな試み~」
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■細かな議論は別にして、とても大切なことだと思います。なおかつ、とても関心があることでもあります。
NHKクローズアップ現代「“穏やかな死”を迎えたい~医療と宗教 新たな試み~」
“最期のとき”をどう決める~“終末期鎮静”めぐる葛藤~(NHKクローズアップ現代)
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▪︎1月19日(火)に放送されたNHKの「クローズアップ現代」のテーマは、「“最期のとき”をどう決める~“終末期鎮静”めぐる葛藤~」でした。強い関心をもっているテーマなのですが、仕事の関係で、この時間帯に家でテレビを視ることができません。しかし、この「クローズアップ現代」の公式サイトでは、すでに放送した内容を、そのまま文字で読むことのできるサービス「放送まるごとチェック!」を提供しています。皆さんも、ぜひ、こちらをまずはお読みください。以下は、番組の紹介文です。
いま、在宅で療養する末期のがん患者に、「終末期鎮静」という新たな医療が静かに広がっている。耐えがたい苦痛を取り除くために鎮静剤で意識を落とし、眠ったまま最期を迎えるというものだ。最新の調査では、在宅で亡くなったがん患者の7人に1人に行われていたことがわかった。自分の意志で、眠ったまま苦しむことなく死を迎える患者。その一方で、遺族の中には、「“終末期鎮静”に同意したことで、患者の人生を終わらせてしまったのではないか」と悩んだり、罪悪感にさいなまれたりする人もいる。自宅で最期を迎えるがん患者が増える中、終末期の医療はどうあるべきか、考える。
▪︎この「放送まるごとチェック!」を通勤電車のなかで読んで、涙が出てきて困りました。番組に登場された末期ガン患者の男性と奥様とのやり取りを読んだときです。ご本人や奥様やご家族も、「終末期鎮静」という選択をして良かったとお考えのようです。しかし、すべての方達がそのように思えるわけではないようです。このような「終末期鎮静」が、「積極的安楽死」とほとんど違わないと考える人もおられるからです。非常に、難しい問題です。医学だけではこのような困難に対応することができません。番組のなかでは、日本在宅ホスピス協会会長であり、医師・僧侶でもある小笠原文雄さんが、次のように述べておられます。
われわれは患者さんにエネルギーの5割ぐらいを、そしてご家族の方にも5割ぐらい、要するに患者さんだけでなくて、家族がお疲れになると、患者さんも疲れた家族の顔を見たくないもんですから、どんどん痛みも悪くなってしまいますので、どうしてもよくない負の連鎖が始まってしまいますから、患者さんとご家族と、両方きちんとケアをしないといけないところは、なかなか両方ケアするのは大変なこともあるものですから、難しい点もあるのかなと思いますよね。
(そういうことから終末期鎮静が選択されてしまう?)
そうですね。
ケアをするためには看護師さんとか、多職種みんなで、大勢の方でケアをしないとうまくいかないことが多いもんですから、最終的には、終末期鎮静にまでなってしまうケースもあるんだなあという、そういう感じがしてます。
▪︎できれば、ご家族も、医師も、「終末期鎮静」という選択をせずに、患者さんに与えられた命を全うして、「生ききって」ほしいと願っていると思いますが、終末期のケアは大変難しいわけです。身体の痛みと心の痛みは連動しているのです。苦しみ方が変わってくるのだそうです。
痛みはやっぱり、心の痛み、これが大事なんです。
心っていうか、精神的な痛み。
いわゆる在宅ホスピス緩和ケアというのを提供してるんですが、ホスピスというのは命、生き方、死に方、みとりの哲学、考え方です。
そして緩和ケアの「緩和」は苦しみを和らげること、「ケア」とは生きる力、希望が出ること、だから心のケアをするだけでかなり痛みの感じ方が変わってくる、苦しみの感じ方が変わってくる。
▪︎このような心のケアの問題は、医学や医療の領域を超える問題です。私は、広い意味での(特定の教団や宗派等にとらわれない)宗教的な支えが必要だと思っています。いずれやってくる最期を、意味のあるものとしてご本人とご家族が共に受け入れるためには、小笠原さんが述べておられたように、「多職種みんなで、大勢の方でケアをしないと」いけません。その「みんなで」の中には、患者さんの最期を意味の側面から支える専門家の存在、すなわち宗教的に支える専門家の存在が必要になると思っています。言い換えれば、生と死の境界を「通過」していくことを支える専門家の存在ですね。では、そのような専門家の支えも含めて、個々の患者さんにとって必要な精神的なセーフティネットを、どのようにすれば構築していけるのでしょうか。私の父は末期の肺癌で苦しんで亡くなりました。父を看取りました。そのとき、現代社会では人の死を扱う様々な専門家が分業化しており、人の死の苦しみをトータルに扱えないことを痛感しました。
▪︎生から死へ、その境界どのように通過していくのか。安心して死に向かうためには、自分のなかに、しっかりとした死に向かうためのイメージが必要になるでしょう。もちろん、よく言われてきていることですが、周りの方たちと最期のことについて語りあっておくことが必要になるでしょう。この世に未練を残していると、非常に辛いと思います。まだ健康なときから、そのような準備を重ねていかなければならないわけです。大変な時代になりました。私の知人のお爺様は、ご家族に「ほな寝まっさ」といっていつものように布団で休まれましたが、朝には亡くなっておられました。大往生です。素晴らしいと思います。誰しもが、自宅で、家族に見守られつつ、眠るように、安心して苦しまずに死んでいきたいと思うでしょうね。また、ご家族の皆さんも、亡くなった方が命を全うされたと、当たり前のように受け止められると思います。しかし、現代社会では、そのような大往生は非常に困難になっているように思います。
樹木希林さんの死生観
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■今月の1月5日の新聞に、出版社である「宝島社」の2016年の企業広告が掲載されました。新聞の見開きという大きさもさることながら、そこに癌の治療をしながら女優を続けてこられた樹木希林さんが登場され、ご自身の「死生観」を表明されていることから、話題になりました。
■上の写真は、樹木希林さんの広告(朝日新聞)。下は、その題材となったミレーが描いた絵画です(wikimediacommonsより)。シェークスピアの「ハムレット」に登場するオフィーリアです。絵画については全く知識がありません。調べてみました。このミレーの作品は、オフィーリアがデンマークの川で溺れて死ぬ前に歌を口ずさんだ、そのシーンを描いたもののようです。樹木希林さんは、このオフィーリアを演じているのです。つまり、もうじき死ぬことを前提にしている…ということにななります。そう考えると、この「宝島社」の広告に書かれた文章の意味もよくわかります。
「死ぬ時ぐらい 好きにさせてよ」
人は必ず死ぬというのに。
長生きを叶える技術ばかりが進化して
なんとまあ死ににくい時代になったことでしょう。
死を疎むことなく、死を焦ることもなく。
ひとつひとつの欲を手放して、
身じまいをしていきたいと思うのです。
人は死ねば宇宙の塵芥。せめて美しく輝く塵になりたい。
それが、私の最後の欲なのです。
■樹木希林さんは、死を自分の日常生活の延長線上で受け止めようとされているかのようです。樹木希林さんもいうとおり、医療の技術的進歩により、人は、なかなか「死ねない」時代になりました。それに加えて、私たちの現代社会は死を「不可視化」させます。死を「隠蔽」しようとします。そして「生」ばかりを煽ります。「欲」を捨て切れません。「欲」を媒介に「生」ばかりにこだわると、「生」から「死」への移行が非常に困難になります。樹木希林さんは、生きている時から「生」と「死」の間にある境界をきちんと乗り越えるための準備をされています。それを樹木希林さんは、ひとつひとつ欲を手放すことだと言います。欲は、生への執着と関連しています。ただ、こうも言っておられます。「人は死ねば宇宙の塵芥。せめて美しく輝く塵になりたい。それが、私の最後の欲なのです」。
■これは欲と言うよりも、境界を超えた向こうにある「死」にスムースに移行するための、心に深く位置付けられたイメージようなものなのだと思います。「生」と「死」は連続しています。「生」の最期の瞬間に、すぐに到来する「死」を先取りできていないといけません。そのような意味での心の「羅針盤」が必要になります。「私」という存在は、この「地球」から生まれ、「地球」は宇宙の「塵」から生まれてきたのですから、また「私」もその「塵」に還っていくのです…樹木希林さんがおっしゃっていることは、そのような大きな宇宙的・神話的な循環のイメージでしょうか。おそらくは、樹木希林さんの場合は、そのようなイメージが、「身体」の感覚の一部になるほど深く身についておられるのかもしれません。表面的なところで「理屈」として理解したとしても、「生」と「死」の間にある境界を超えることはなかなか困難です。「境界などないのだ。両者は連続しているのだ。そのことを普通に経験するのだ」という強いイメージを持つことはなかなかできません。そのために、人類は、様々な宗教的な文化的な装置を作り出してきたのではないか、私のそう思うのです。にもかかわらず、そのイメージを実感することが困難な時代や社会に、今私たちは生きているのです。
■浄土真宗の僧侶の方とお話しをしたことがあります。私の職場には、僧籍をお持ちの方が多数働いておられますが、普段、浄土真宗の教えや死生観についてお話しを聞かせていただくことは、ほとんどありません。酒席でお隣りになったとき、たまたま偶然にそのようなお話しを聞かせていただくチャンスが生まれました。お話しの中では、お父様もお母様も、死ぬ時には苦しまれなかったということをお聞かせくださいました。それは、「お聴聞を繰り返してきたからだ」というのがその方の説明でした。浄土へとお連れくださる阿弥陀如来への感謝の気持ちを深く身体化していく、浄土真宗の教えを「理屈」だけではなく「身体」の感覚のレベルまで深く受け止めていたから…そのように私は感じ取りました。私は、樹木希林さんの「せめて美しく輝く塵になりたい」という言葉を読みながら、ふとこのようなことを思い出しました。
孤独死現場処理業者
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▪︎Facebookで教えていただいた記事です。記事のタイトルは「世界でもっとも物悲しい仕事として海外で報じられている「日本の孤独死現場清掃処理業者」。アパートで孤独死した85歳の男性。死後1ヶ月後に発見されたといいます。記事中には「隣人は老人の不在には気がつかなかったという。家賃は銀行口座からの引き落としで、家族が訪問することもなかった。ようやく遺体が発見されたのは、下の階の住人から変な臭いがすると苦情があったからだ」とあります。朝起きて、この記事のことを知りました。世の中には、こういうお仕事をされている方達がおられること。それが仕事として成立していること。こういう方達がいて救われる方達が多数おられること。そもそも、救われるってどういうことなのか…などと、いろいろ考えました。
孤独死現場処理業者
▪︎阪神淡路大震災以降、孤独死という言葉をたびたび聞くようになりました。NHKスペシャル『無縁社会~“無縁死” 3万2千人の衝撃~』により「無縁社会」という言葉が広がるとともに、一層、この「孤独死」や「無縁死」という言葉が広まっていったように思います。あくまで個人的な印象ですが…。いろんな書籍が出ています。比較的最近のものを、amazonでざっと拾ってみました。
『孤独死のリアル』 (結城康博、講談社現代新書)
『孤独死なんてあたりまえだ』(持丸文雄、文芸社)
『孤独死の作法』 (市川愛、ベスト新書)
『孤独死の看取り』(嶋守さやか、新評論)
『孤独死―被災地で考える人間の復興』(額田勲、岩波書店)
『ひとりで死んでも孤独じゃない―「自立死」先進国アメリカ』(矢部 武、新潮新書)
『孤独死を防ぐ―支援の実際と政策の動向』(中沢卓実・結城 康博、ミネルヴァ書房 )
『孤独死のすすめ』(新谷忠彦、幻冬舎ルネッサンス新書)
『しがみつかない死に方』(香山リカ、角川oneテーマ21)
『人はひとりで死ぬ―「無縁社会」を生きるために』(島田裕巳、NHK出版新書)
『無縁社会から有縁社会へ』(島薗進 他、水曜社)
▪︎私はこれらの本を読んでいるわけではありません。本の内容の紹介やカスタマーレビューを読んで推測しただけなのですが、「孤独死」や「無縁死」をどのようにとらえるのか、その前提となっている考え方に違いがみられるように思います。極論すれば、ひとつは、「孤独死」や「無縁死」を否定的なこととして捉え、そのような「死」をいかに防いでいけばよいのかという立場。もうひとつは、「孤独死」や「無縁死」を否定的なことだという考え方に疑問を提示し、「孤独死」や「無縁死」を生み出した社会構造や親密圏の変化や、その趨勢を前提に、むしろ「孤独死」や「無縁死」をどのように社会に受け止めていくのかという立場です。お断りをしておきますが、あくまで推測です。「孤独死」や「無縁死」、非常に重要な問題だと常々思っています。「孤独死」・「無縁死」した人に関わった人たちは様々なことを思い、それを語ることができます。しかし、「孤独死」・「無縁死」をした人たち自身は語ることができません。「孤独死」・「無縁死」とは、どのような経験なのでしょうか(経験と呼ぶことに問題があるかもしれません…)。そもそも、「孤独死」や「無縁死」だけでなく、「死」という現象は誰のものなのでしょうか。はたして「死」は個人に帰属するのでしょうか。難しい問題ですが、多くの人びとと、考えていかなくてはいけない問題のように思います。
【追記】▪︎NHKスペシャル『無縁社会~“無縁死” 3万2千人の衝撃~』の取材にあたったNHK記者・池田誠一さんの講演会の内容が、以下で紹介されています。引用は、最後の部分です。
取材を続けていく中で「家族のつながりが薄れている」という事実が浮き彫りになった。今、この日本で何が起きているのか。どうなっているのか。処方せんのようなものがあるのか。取材を続けているものの、いまだに分からないままだ。
介護保険制度がスタートして10年以上が経過した。しかし身内に困った人がいても「介護保険を利用すればいいでしょう」「あなたたちにお任せします」などといって、行政にすべてを委ねる人が増えてきているのではないだろうか。
救急病院のソーシャルワーカーとして、30年ほど務めている人はこのように言っていた。「10年ほど前であれば、身内に厄介扱いされている人がいても、『しょうがないわね』と言って引き受けてくれる人がいた。しかし今ではそうした人がほとんどいなくなった」と。
臨床宗教師
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■昨晩は、偶然ですが、テレビをみました。NHKの【ETV特集】「臨床宗教師〜限られた命とともに〜」です。たまたま、リビングにいくと、亡くなった岡部先生が登場されていました。「あっ!!」と思って立ち止り、番組を続けてみることにしました。この番組を視ていた妻も、「きっと関心をもつ内容だと思う」ともいってくれました。以下は、番組の公式サイトからの引用です。
がんを患い、余命10か月の宣告を受けた男性が、自分の人生を振り返り、楽しかったこと、つらかったこと、さまざまな思い出を語っています。 傍らに寄り添い、耳を傾けているのは、「臨床宗教師」です。 臨床宗教師とは、在宅緩和医療を専門とする医師が、その必要性を訴え始まった新しい試みです。東北大学では2012年から臨床宗教師を養成する講座が始まりました。医療の現場で、医師や看護師と連携しながら、医療者とは違う立場で患者を支えます。
高橋悦堂さんは、臨床宗教師として活動を始めたばかりの、34歳の若き僧侶です。宮城県にある寺の長男として生まれ、現在は副住職を勤めますが、通夜や葬儀の場には何度も立ち会ったことはあるものの、人の死に触れた経験はほとんどありません。そんな悦堂さんが、命の終わりを前にさまざまな思いを抱える人たちに出会います。工場を経営してきた男性は、仕事に対する誇りを語ります。末期のがんが見つかった男性は、やり場のない怒りや死への恐怖をにじませます。10年以上の闘病生活を続ける人は、つらさ、苦しさを口にしながら、自分が亡くなったあとの家族を心配していました。
「三途の川の向こうで、死んだ両親がにこにこと手を振ってたんですよ」
そういった男性は、10日後に亡くなります。
悦堂さんは、時に戸惑い、時に言葉を失いながら、懸命に寄り添い続けます。みずからの命の終わりを知った人は、その時を迎えるまでの時間、何を語り、悦堂さんはそれをいかに受け止めるのでしょうか。むき出しの魂と向き合い続ける、臨床宗教師の姿を追いました。
■この番組をみて一番印象を強くもったことは、高橋悦堂さんが、本当に悩んでおられることです。死に向かう人、自分が死に向かっていることを自覚している人、真っ暗な暗闇に吸い込まれていくような不安や恐怖に苦しんでいる人、そういう方に、お若い高橋さんが一生懸命に向き合おうとされていることです。上記の番組の紹介のなかには、「むき出しの魂と向き合い続ける」と書いてあります。ただひたすら話しを聞き、受け止める。これは、とても大変なことです。もっと書きたいことがあるのですが、ちょっと、なかなか難しいです。再放送も予定されています。また、拝見したいと思います。12月6日(土)午前0時00分(金曜日深夜)から再放送されます。皆さんも、ぜひご覧ください。
【関連エントリー】
『「富山型」デイサービスの日々 笑顔の大家族このゆびとーまれ』
NHKスペシャル「終(つい)の住処(すみか)はどこに 老人漂流社会」
お葬式に参列して
■妻方の親戚のお葬式に参列しました。お葬式に対する感じ方、年々、違ってきているなあ…と思いました。死をみつめることは、今の生をしっかり生きることの前提であり出発点でもある…年を取ると、自然とそのようなな考え方が強まってきました。死を終着点ではなく通過点としてイメージすることも大切かなと思います。
■今日は、妻方の親戚のお葬式があり、大阪の葬祭場まで、妻、妻の母(義母)の3人で参列してきました。亡くなられた方には、ひょっとすると親戚の結婚式のときにお会いしただけなのかもしれません。こういう遠い親戚のばあい、最近は、参列しない人のほうが多いのかもしれませんが、なぜか参列させていただこうという気持ちになりました。
■その親戚の男性は、82歳でお亡くなりになりました。天寿を全うされたと思います。何人ものご弟さんやお姉さんが参列されていました。現在、家族の規模はどんどん縮小していますから、近い将来、このようにたくさんの兄弟姉妹が故人をみおくるということは無くなるのではないかと思います。葬儀は、その時代ごとの家族のあり方や死生観と大きく関係しています。近年は、家族だけで葬儀を行う家族葬、お通夜をおこなわない一日葬、そして火葬のみの直葬もおこなわれるようになりました。その善し悪しについては、様々な議論があるところですが、お葬式はどうなっていくのでしょうか。これは、日本人の生き方に関わるけれど、みえにくい、社会の根底にところに潜んでいる切実な問題だと思っています。
■お葬式だけではありません。今は、墓の問題も深刻です。先日のNHK「クローズアップ現代」のテーマは、「墓が捨てられる~無縁化の先に何が~」というものでした。「全国各地で墓石の不法投棄が相次いで」おり、「その背景には、お参りする人がいないいわゆる無縁墓の急増が」あるというのです。そして、「過疎化の進む地方から始まった墓の無縁化が、今、都会でも急速に広がり始めて」いるというのです。詳しくは、こちらをご覧ください。現在は、先祖伝来の土地で生涯暮らすわけではありません。子どもの世代は、遠く離れたところに住んでいます。祖父母のことを孫たちはよく知らない…物理的にも心理的にも世代を超えた家族の関係は希薄にならざるをえません。そのような状況のなかで、墓の無縁化が進んでいるのでしょう。
■番組のなかで、宗教学者の山折哲雄さんは、以下のように説明されています。
これは戦前からずっと、日本人の宗教の一つの中心をなしていたのは、『家の宗教』としての先祖崇拝でした。これがガタガタと崩れ始めた、その結果とも言えるかもしれません。従来の伝統的な家制度の中で作られたお墓信仰は崩れざるを得ない、魂の行方を信じることができない。現代人がそうですよね、私もそうだ。誰も思わなくなってしまったとすれば、自分の死後の問題をどうするか、葬儀の問題をどうするかという問題に直面しているということです。ある意味ではジレンマの時期に今さしかかっていると思います。
■昔は、死んだ後のあとのことは、子どもや子孫が面倒をみて、きちんと供養するのがあたりまえでした。ある意味で義務でした。しかし、今は、生きているあいだに自分が死んだあとのことを考えなくてはいけません。番組のなかでは、本人の希望どおりに死後の手続きを勧めてくれるNPO法人と契約されたご夫婦が登場されます。ご夫婦は墓もつくりません。以前、家族社会学者の山田昌弘さんが、もう5年ほど前のことでしょうか、日本社会学会の学会誌で「家族の個人化」と「家族の『本質的』個人化」について論文を書かれていました。私は、そのような「家族の『本質的』個人化」と、このエントリーで取り上げているような問題が関連していると考えています(こりのエントリーでは、個人化については説明しませんが)。死後のことを、自己責任で考えねばならない時代がやってきているのです。
■このような問題は、ひとつ上の世代ではなく、まさに私たちの世代の問題なのです(私は56歳ですが)。死んだあとのことをどうするのか…そのことを今から考えねばなりません。問題は、このこと以外にもあるように思います。まわりの同世代は、しばらく先に定年を迎えます。「残りの人生」をどう充実させていくのかということを真剣に考え始めています(そして、どう生きていくのかも…)。もちろんそれは大切なことなのですが、今の「生」をしっかり生きることの前提や出発的には、「死」をしっかりみつめることが必要だ…そのように思います。「生」を煽る現代社会において、「死」をみつめることは非常に難しい。みつめるためには、「死」を終着点ではなく通過点としてリアルに「イメージ」することも大切かなと思っています(山折哲男さんのいう「魂の行方」)。「死」をみつめ「死」を通過点としてイメージする。私も含めて、一人一人にとって大きな課題なんじゃないのか…個人的にはそう思っています。
権利だけの話しなのか…
■ちょっとした偶然から、2つの動画を視ることになりました。難しい。
米 29歳末期がん患者、「安楽死する」と公表
スイス 自殺幇助サービス(2010)
■「個人」の「権利」の問題に還元してしまうことに、死を「個」の問題に限定してしまうことに、どうもしっくりこないものを感じます。いろいろ書こうと思いましたが、まだまだ不勉強なので…。いいがげんなことを書いてしまうのではないかと思い、本文を書くこと、途中でやめて削除しました。
高齢者による新聞への投稿
■親しい知人のおじいさまは、100歳を超えておられます。100歳になったときは、地元の自治体の首長さんからお祝いの言葉が届けられました。一般論として長寿は大変おめでたいことなのですが、おじいさまは、孫になる私の知人に、「嫁さんもとうの昔に亡くなり、子どもたちもみんな先に亡くなってしまった。寂しい」と言っておられるそうです。一緒に生活をともにしてきた身内の人たち、言い換えれば、いろんな体験や記憶を共有している人たちが亡くなってしまうことが、お寂しいのですね。では、幸せな最期とは、どういうことでしょうね。家族や身内、そして友人たちに囲まれ、「ありがとう。あなたと一緒に過ごすことができて私は幸せでした…」といってもらいながら、息をひきとる。記憶や体験とともにある豊かな関係性を実感しながら亡くなっていく…ということなのかなと思います。あくまで、個人的な考えですが。
■今日、新聞で80歳になる男性の投稿を読みました。11年前に奥様を亡くされています。優れたユーモアのセンスをお持ちだということがわかります。しかし、同時に、亡くなった奥様のことを偲びつつ、奥様と一緒に暮らした日々のことを思い出しながら、生きてこられたご様子もなんとなく伝わってきます。そして毎日毎日を「しっかり生きておられる」ふうにも想像します。毎日毎日同じような暮らしかもしれないけれど、「しっかり生きる」。「しっかり生きる」ことができることを感謝する。そのような心持ち。これもあくまで個人的な想像ではありますが、素敵な投稿だと思いました。
宮沢賢治の「幸せ」と「死生観」
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■先日、7月24日の朝日新聞(朝刊)の「リレーおぴにおん」に、宮澤賢治の弟・清六さんの孫である宮沢和樹さんが登場されていました。とても興味深いご意見でした。
■賢治ファンの皆さんが、宮沢賢治を聖人や偉人のような存在に位置づけようとする傾向を「違う」と否定されます。「賢治さんは失敗のほうが多かったといってもいい」とも語っておられます。賢治の作品を「悩みを抱えた人間が書いたもの」という視点で読むことではじめて「真の価値」が見えてくるというのです。この「おぴにおん」の後半部分では、賢治の「幸せ」観や「死生観」について語られています。
自分自身や他人に対して、何か後ろめたいことをしていると感じたら幸せにはなれない。ならば、どう生きるべきかと、考えさせてくれます。
現代人の死生観にも訴えるものがありますね。童話では登場人物が死んでしまったり、八パーエンドでなかったりします。それでも基本的には明るいと思いませんか?人はみな、いつか死ぬ。じゃあ、何もかもなくなってしまうのでしょうか。銀河鉄道の列車は時空を超えてどこまでも走っていく。そのよう「意識」のようなものは残り、終着点はない。死は悲しいことだけど、同時に悲しいことじゃない。
■とても大切なことをおっしゃっておられる。死ぬ前の段階で、「死は終着点ではない」というイメージやリアリティをもつことができるのかどうか、とても大事なことだと思います。このようなイメージやリアリティをもつことができなければ、「底なしの真っ暗闇に吸い込まれていく…そして消えていく…」、そのような恐怖しか存在しないからです。よく、「死んだらすてべて無くなる。自分もただの物質に戻っていく(たとえば…遺骨)」という発言も聞きます。しかし、そのようなイメージも、現代科学の、たとえば生態系やそのなかでの物質循環のイメージを媒介にしながら、死後をイメージしようとされているのだと思うのです。
■フォロースルーという言葉があります。調べてみました。「野球、テニス、ゴルフなどの球技で、ボールを打ったり投げたりしたとき、そのプレーの流れとして後まで続いていくからだの動き」のことだそうですね。死の瞬間が、バットにボールが当たる瞬間、ラケットにボールが当たる瞬間、ゴルフのクラブにボールが当たる瞬間と考えるならば(実際には、死は瞬間ではなく一定の幅をもった時間と考えたほうがよいと思っていますが…)、死は生の終着点と考えるのではなく、死は生との連続線上にあるものとして理解できます。現世と死後のイメージとが連続しており、通常私たちがいう死とはその経過点にしかすぎなくなります。そうでないと、今、生きているこの瞬間が「幸せ」にはなりません。この続きは、また別のエントリーで。
躍動する仏教系NGO
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■2013年度 第1回 国内シンポジウム「躍動する仏教系NGO―その活動と展望」を開催します
龍谷大学アジア仏教文化研究センター(BARC)
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2013年度国内シンポジウム「アジア仏教の現在Ⅳ」
「躍動する仏教系NGO ― その活動と展望」
開催日時:2013年6月1日(土) 13:30~17:00 <13:00会場>
会 場:龍谷大学大宮学舎 清和館3Fホール
登 壇 者:茅野 俊幸 (公益社団法人シャンティ国際ボランティア会 専務理事)
茂田 真澄 (特定非営利活動法人アーユス仏教国際協力ネットワーク 理事長)
中村 尚司 (龍谷大学人間・科学・宗教総合研究センター 研究フェロー、龍谷大学アジア仏 教文化研究センター 研究員、特定非営利活動法人JIPPO専務理事)
主 催:龍谷大学 アジア仏教文化研究センター(BARC)
協 力:特定非営利活動法人JIPPO
問い合わせ先:龍谷大学 アジア仏教文化研究センター(BARC)
TEL:(075)343-3808 http://barc.ryukoku.ac.jp/
龍谷大学 人間・科学・宗教総合研究センター事務室
TEL:(075)645-2154
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プログラム:
13:30~13:45 開会の挨拶
桂 紹隆 (龍谷大学文学部教授,龍谷大学アジア仏教文化研究センター長)
13:45~15:15 第一部基調報告
報告1.茅野 俊幸 「アジアの活動を被災地に生かす」
報告2.茂田 真澄 「アーユス事業の特質:仏教者としてなすべきこと」
報告3.中村 尚司 「宗門の壁を越える課題:JIPPOの経験から」
15:15~15:30 休憩
15:30~16:45 第二部 パネルディスカッション
ファシリテーター:若原 雄昭(龍谷大学文学部教授,龍谷大学アジア仏教文化研究センター ユニット1リーダー)
コメンテーター :小原 克博(同志社大学神学部教授,一神教学際研究センター長)
高橋 卓志 (神宮寺住職,NPO法人アクセス21代表,龍谷大学文学部客員教授)
16:45~17:00 閉会の挨拶
佐藤 智水 (龍谷大学文学部客員教授,龍谷大学人間・科学・宗教総合研究センター 研究フェロー,龍谷大学アジア仏教文化研究センター ユニット3リーダー)