『沖島に生きる-琵琶湖に浮かぶ沖島の歴史と湖稼ぎの歩み-』小川四良

20130704okishima.jpg ■やっと古書店から届きました。サンライズ印刷出版から出された『沖島に生きる-琵琶湖に浮かぶ沖島の歴史と湖稼ぎの歩み-』(小川四良・著)です。

■本のタイトルにある沖島とは、琵琶湖に浮かぶ離島です。琵琶湖には、沖島、多景島、竹生島の3つの島がありますが(沖の白石は岩礁なので除いてあります)、そのうち、人の暮らす集落があるのは沖島だけです。世界的に見ても、淡水の湖に浮かぶ島に人が暮らすコミニュティがあるということは、大変珍しいことなのだそうです。ちなみに、「湖稼ぎ」は「うみかせぎ」と読みます。で、何故この本を求めていたかというと、1年生の授業「社会学入門演習」の現地実習で訪問したのがこの沖島だったからです。大学の図書館にも入っているのですが、そちらの方は、入門演習の学生たちに優先的に読んでほしいので、自分について古書店から入手することにしたのでした。

■1996年に出版されています。かつて私が主任学芸員として勤務していた滋賀県立琵琶湖博物館が開館した年です。ということで思い出しました。琵琶湖博物館の『うみんど』というニューズレターで、この本の著者・小川四良さんと、琵琶湖博物館の館長(当時)で生態学者の川那部浩哉さんが対談されています。本が出版された翌年、1997年です。

『湖人うみんど』vol.3(1997年)
館長対談「沖島の漁業の変遷など」

■この対談のなかで説明されていますが、小学生に沖島のことを説明するためにご自分の体験を原稿にされたものが、この本の下敷きになっているようです。自費出版しようと原稿をもってサンライズ出版社に相談にいったところ、逆に「私とこで出版させて下さい」ということで正式に出版されることになったのだそうです。小川さんは1920年生まれ、漁業者として生きてこられた方の経験が記録になっているわけですから、これは価値があります。すぐに出版されるのもわかります。

■さて、川那部さんと小川さんとの対談、これも貴重ですね。以下のような証言、本当に大切だと思います。

川那部■沖島の漁業もずいぶん変わってきたようですね。じかに関わってこられた小川さんの眼から見ると、いかがですか?
小川■兵隊から帰ってきた昭和二十一年頃、特に多かったのはシジミですね。ほんまに無尽蔵と言って良いくらい。特に四~五月は、大きゅうて艶のある、それもあの黄色いセタシジミが、島の周り一帯の砂地で、面白いくらいなんぼでも獲れましてん。錨を下ろして、ロープを百メートルぐらい伸ばす。真鍬(まんが)のついた底曳き網を入れて、ロープを引いて舟ごと動かすわけですわ。殆どはむき身の煮シジミにして出しました。
川那部■シジミが減り始めたのは?
小川■昭和四十年ぐらいからで、四十年代の末にはとんと無くなりました。昭和の三十六―七年から、田んぼの排水がえらい濁って来たんです。それにPCPもありましたな。一般の市民も琵琶湖が濁ってきたのに気付かれましたが、一番初めに気がついたのは漁師です。
川那部■琵琶湖総合開発の調査で、私がセタシジミの資料を調べたのが、ちょうどその頃です。沖島の周りはもちろん、南湖でもまだたくさん獲れました。それに、内湖がどんどん失われたのもその頃ですね。
小川■そうです。大中の湖の干拓が完成するのも、昭和四十二年。それに農機具が近代化された時代です。湖岸線一帯が濁ってきて、この辺ではアユも殆ど寄り付かんようになりました。

――真珠養殖のイケチョウガイにも、ブームがありましたね。
小川■そうです。昭和五十五年ぐらいが最後のピークでした。琵琶湖そのものではもう枯渇してまして、残されたのが西の湖やったんです。しかし、真珠の核を入れた母貝も、われわれが人工孵化させて作った母貝も、五十七年ぐらいには、水質が悪くなって全部死んでしまいました。
川那部■セタシジミもニゴロブナもビワヒガイも、このイケチョウガイも、みな琵琶湖の固有種ですね。ちょうど西の湖が出て来ましたが、最近は水郷めぐりでも有名ですね。どうしたら良いと思われます?
小川■まず水質。外湖への水の疎通と言うか、流れがないわけですよ。今度新しい閘門(こうもん)が出来て、余計にひどくなりました。これまでもヘドロの除去をやかましく言うて来たのですが、なかなか実現しない。
――昔は泥取りとかしてましたね。
小川■藻も取りました。「藻は舟一杯で千円、泥は簡単やから五百円」で、戦後、付近の人から買って、田にまいて耕したんです。特に藻を入れた年は、一俵か二俵余計に穫れた。内湖を掃除してたわけです。

■さて、この対談で「――」とあるのは、進行役の総括学芸員・嘉田由紀子さん、現在の滋賀県知事です。当時は、直接の上司でした。また、「海人うんみんど」のなかに「研●究●最●前●線●「関係」について考える」というコーナーがあります。これを執筆しているのは、39歳当時の私です。写真も写っていますが、自分のことながら若いですね。ため息が出てしまいます…。

『新聞再生』畑仲哲生

20130704shinbun.jpg ■昨日のエントリーで、読売新聞の「しが県民情報」で私たちの「北船路米づくり研究会」の活動が紹介されたことをお知らせしました。あらかじめ、記者さんからも7月2日に記事なりますよ…と知らせてもらっていたのですが、facebookでも、この記事のことを紹介してくださった方がおられます。同僚の畑中哲生先生です。たまたま手に取られたようで、大変喜んでくださいました。というのも、畑仲先生は、元々「共同通信」の記者として勤務されながら、東大の大学院で地方紙の可能性について研究されてきた方だからです。

■本日、昨日、facebookでお知らせいただいたことの御礼を申し上げに畑仲先生の研究室を訪問させていただきました(といっても、お隣の研究室ですが…)。そのさい、写真の本を献本していただきました。ありがとうございます。『新聞再生-コミュニティからの挑戦-』(平凡社新書)という新書です。新書の帯にはこう書いてあります。

「新聞危機説」は実は「大新聞危機説」に過ぎない! 地方紙の挑戦と挫折を綿密にレポート、「新聞なるもの」の未来の姿を探る。

■昨日のエントリーの最後に「こういう点で、地域新聞って、地域再生にはとっても重要だと思うんですよね」と書きましたが、どうやら畑仲先生もこの新書のなかで同様のことを主張されているようなのです。

■地域社会には、地域に根を張って地域の課題解決に地道に取り組んでいる方たちが、たくさんいらっしゃいます。ただし、普段の暮らしのなかでは、そのような方たちの存在にはなかなか気がつくことはありません。しかし、地域新聞=地方紙は、地域の課題解決に地道に取り組んでいる人たちに「光をあてる」ことができます。地域に元気を与えることができます。それは、全国紙にはできないことです。また、そのような人たちが「出会う」社会的な「場」を紙面につくっていくこともできます。さらに、地域の課題解決に地道に取り組んでいる方たちが情報発信をしていく「場」にもなるでしょう。そのような「場」の構築により、地域社会固有の「公共的課題」について、共感がひろがったり、そのことを媒介に具体的な連携のネットワークが広まる可能性だってあります。

■私たちは、新聞といえば全国紙を頭に浮かべますが、もっと違った形の新聞が存在していもよいと思いますし、必要だと思います。特に、私のように地域社会で実践的な活動をしようとしている人には、とっても必要なメディアだと思うのです。『新聞再生』の著者・畑仲先生とお話ししていて、いろいろ勉強させていただきました。

読売新聞発行「しが県民情報」に

20130703shigakenmin2.jpg■昨日の大阪読売発行の「しが県民情報」1面トップに掲載していただきました。ありがとうございます!!じつは、まだ「実物」を読んでいません。「しが県民情報」は、家庭に配達される「読売新聞」に無料で挟まれている新聞です。読売新聞(大阪本社)が発行しています。滋賀県民のゼミ生の皆さん、ご自宅で読んでいる新聞が「読売新聞」のばあいは、この「しが県民情報」をキープして研究室にもってきていただけますか。よろしくお願いいたします。私、奈良県民なもので…。

■こうやって新聞に取り上げていただくと嬉しいです。ひとつのゼミの小さな小さな活動ですが、光を当てていただくと、学生はもちろん、村の方たちも喜ばれると思います。「農・学連携事業」ですから。また、月1回開催している「北船路野菜市」で野菜を買ってくれている地域の皆さんもにも、喜んでいただけるのではないかと思います。こういう点で、地域新聞って、地域再生にはとっても重要だと思うんですよね。

20130704kenminjyouhou.jpg【追記】■実際に新聞を読みました。記事中、幼稚園とあるのは保育園ですが…。全体として、とてもわかりやすく私たちの活動をご紹介いただきました。読売新聞社「しが県民新聞」の記者さんならびに関係者の皆さんに、心から感謝いたします。ありがとうございました。記事をクリックすると拡大して、読むことができます。

■記事のなかで、卒業生である岩崎くんが「兼業農家を目指したい」といっていますが、これは思いつきで答えているのではなくて、本気です。農地取得の見込みもあるようです。彼のモデルは、「北船路米づくり研究会」の顧問で、農業に関する指導者でもある吹野さんです。吹野さんが、昼間は都市でビジネスマンとして営業を仕事になさっているわけですか、早朝、週末は地元で農家、こういうライフスタイルに岩崎くんは惹かれているのかもしれません。吹野さんのばあい、農家の息子に生まれて仕方なしに家産である農地を守るという生き方ではありまん。積極的に、農のある暮らしを楽しまれています。素敵なことだと思います。ある意味、時代の先端をいっているライフスタイルなのかもしれません。

『父の暦』谷口ジロー

20130702taniguti.jpg ■谷口ジローの『父の暦』です。先日の『遥かな町へ』に続いて、こちらも読了しました。こちらも奥が深いですね。両作品とも、主人公は中年の男性です。『遥かな町へ』では、主人公が中2のときに、家族を捨てて父親が蒸発してしまいます。『父の暦』の方も、やはり中年男性が主人公です。こちらは、主人公の母親が子どものときに、両親は離婚し、母親はいなくなります。

■『遥かな町へ』では、主人公の父親はなんとか戦争を生き抜き、戦後は、戦死した戦友の妻に頼られて結婚することになります。戦争が父親の生き方に大きな影響を与えているのです。洋服の仕立てを仕事にしながら、家族を支えるために懸命に働くのですが、自分の本当の生き方を探すために蒸発してしまうのです。残された妻は、そのような夫の選択を半ば覚悟していたのでしょう。現実を静かに受けとめ、再婚もせずに、子どもたちと生きていくのです。『父の暦』では、鳥取大火災が、主人公の父親のその後に生き方に大きな影響を与えます。大火災で失った店舗を再建しなくてはいけません。妻の実家から借金をします。その借金を返すために、趣味や暮らしの楽しみを捨てて、ただ黙々と働きます。そのような夫に愛想をつかして、母親は父親と離婚してしまいます。残された父親は、その現実を受け止めます。どちらも、自分ではどうしようもない、突然訪れる不幸を、静かに受け止める人たちの話しでもあります。…というところでは共通していますね。

■『遥かな町へ』で、いなくなるのは父親。『父の暦』では、いなくなるのは母親。しかし、両作品とも、父親と息子の関係が重要なポイントになります。そして主人公自身が歳を取り、父と同様に「人生」というものを経験してきた結果、最後には「蒸発した父親」の気持ちを理解できたのです。「亡くなった父親」の自分たちへの深い愛情を理解し、それをやっと深く受けとめることができたのです。谷口ジローさんは、映画監督・小津安二郎の作品からの大きな影響を受けておられるようですが、そのこともこうやって両作品を比較してみるとよくわかります。

都会と農村をつなぐ実践

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■都会と農村をつなぐ様々なプロジェクトが、全国各地で展開されています。私のゼミでも、ささやかな活動ですが、「北船路米づくり研究会」に取り組んでいます。さて、今日は、私が関心をもっている2つのプロジェクトを紹介させていただきたいと思います。ひとつは、「greensmile」(グリーンスマイル)、もうひとつは「セガレセガール」です。

■まずは、いまなかてつや さんを代表とする「greensmile」。以下のことを目的に活動されています。

都会(ニーズ・消費地・情報)と田舎(シーズ・生産地・担い手)を
コネクトし、日本のこれからのために挑戦するひとたちすべての、
夢実現へ向けたサポート活動をします。
参加する人すべての、清々しい笑顔を作るのが、
グリーンスマイルプロジェクトであり、
参加メンバーをグリーンスマイルプロジェクトメンバーと呼びます。

■で、具体的には…。下の動画をご覧ください。

【greensmilムービー2012夏】

【greensmilムービー2012冬】

■いかがですか。活動の仕組みについては、こちらに説明してあります。グリチャレ( greensmile Challenger)が、自ら都会と農村をつなぐ構想や事業を提案すると、それをグリサポ( greensmile Supporter)と呼ばれる多様なサポーターの皆さんが、資金、情報、広報、マネージメント、開発の面で応援する…、またグリボラ( greensmile Volunteer)と呼ばれるボランティアとして応援する…、ということのようです(これで正しい理解なのか…ちょっと不安だけど)。現在、東京都檜原村、奈良県桜井市、福島県会津地方(予定)等で、1㎡からのレンタルファームである「平米ファーム」という事業に取りくまれています。また、「平米ファーム」及び地域の特産を媒体に、地域(田舎)の情報発信と、販売地区(都会)の周辺情報を発信し、双方のファン作りをするための野菜を通じたコミュニケーションセンター「全快野菜ちゃん」も運営されています。さらには、情報交換コミュニティーとしてリアルなたまり場「TAMARi BAR」(地域活性型飲み会)や、品川を拠点にした燻製イベント「全快燻製ちゃん」を定期的に開催されています。すごいですね。盛りだくさんです。

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■もうひとつは、「セガレセガール」です。「セガレセガール」とは、都会で暮らす農家の息子(セガレ)や娘(セガール)たちの実家や地元のものを売る活動のことです。このセガレセガールを運営「地元カンパニー」という会社では、都会で暮らす農家の息子(セガレ)や娘(セガール)が地元のことを思い親孝行をするために、月1回マーケットを開催し場所を年会費(有料)で提供しているのです。「都会の企業に勤めながら、それでも限られた時間だけでも、実家のためや地元のために、何かしたいなって人」のためにチャンスを提供するビジネス…ですね。これも面白い試みですね。

【20130519_セガレセガール_マーケット】

「地元カンパニー」では、「地元準備室」という事業も展開されています。「地元に戻りたい人が集まって、地元に戻る「準備」を」し、「地元に戻った際に始めるビジネスモデルを蓄積し、発信」することにも取りまれています。

■「greensmile」、「セガレセガール」、どちらも都市と農村・地方をつなぐ興味深い社会的企業(Social Enterprise)ですね。卒業後、力を蓄えて、このような取り組みにチャレンジする卒業生が現れてきてほしいと、心から願っています。

【追記】■以下の動画は、最近のgreensmileの活動。「東京ゴマ01プロジェクト」。ゴマも栽培されています。

龍谷大学深草町家キャンパス

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■龍谷大学社会学部では、地域連携型教育プログラム「大津エンパワねっと」の大津市中心市街地での拠点として、「町家キャンバス龍龍(ろんろん)」を開設しました。「大津エンパワねっと」コースの「地域エンパワねっとⅠ」・「地域エンパワねっとⅡ」を履修する学生たちが、地域の皆さんと一緒に活動する場として設けられたのです。2007年のことです。このような「町家キャンパス龍龍」の開設が可能になったのは、「大津エンパワねっと」が文部科学省の現代GPに採択されたことが直接的な背景になるわけですが、もうひとつ大切な社会的な背景が存在しています。

■現在GPに「大津エンパワねっと」が採択された時点で、私たち担当教員は中心市街地に拠点が欲しいと考えました。中心市街地はキャンパスから少し離れているからです。そのような状況のなかで、以前からお世話になっていた大津市役所都市計画部都市再生課の課長Tさん(当時)から、現在、私たちが使用させていただいている町家を拠点として使ってはどうかとの提案がありました。都市再生課では、中心市街地に多数残る町家を地域資源とした新しい地域づくりを進めておられたからです。そのような市の政策的な背景もあり、都市再生課のほうで、龍谷大学と町家のオーナーさんとの間を仲介してくださったのでした。オーナーさんの方でも、「まちのために使っていただけるのならば」ということで、前向きに了解をしていただけました。大学と行政と地域との連携のなかで、「町家キャンパス龍龍」は開設することができたのです。

■開設にあたっては、当時の若原学長からは「エンパワねっとは地域の皆さんと学生がともに考え、ともに行動していくことができる環境を地道に整えようという考え方が最大の特徴。この町家キャンパスを拠点に、龍谷大学としての姿勢を示していきたい」、そして大津市の目片信市長(当時)からは、「まちの活性化には若者が定着してくれることが非常に重要。龍谷大学が自ら求めて地域に視野を広げてくれることは、まことに時宜を得た取り組みだ」との応援のメッセージをいただくことができました。

■ところで、つい最近のことになりますが、大学の本部のある深草キャンバスにも町家キャンパスが開設されることになりました。「龍谷大学深草町家キャンパス」です。こちらは、特定の学部が利用しているわけではなく、深草キャンパス全体で活用していこうという点で、私たちの「町家キャンパス龍龍」とは異なっています。以下は、大学のホームページにある「龍谷大学深草町家キャンパス」のページに書かれている説明です。

龍谷大学深草町家キャンパスは、本学が、町家の利活用を通じて、地域社会と連携を図りながら、 教育・研究上の成果や学内資源を地域に還元し、地域に開かれた大学として、地域社会と共に発展することを目的としています。

深草町家キャンパスは、京都市が全国初の条例として制定した「京都市伝統的な木造建築物の保存及び活用に関する条例」の適用第1号として保存建築物に登録されています。

■「京都市伝統的な木造建築物の保存及び活用に関する条例」の適用第1号。京都市が進めようとしている政策ともうまくマッチする形で開設されてきたことがよくわかります。じつは、明日、「龍谷大学深草町家キャンパス」を訪問します。「町家キャンパス龍龍」の方が、開設が早く兄貴分であるわけですが、後から開設された弟分の「龍谷大学深草町家キャンパス」の方が、より公共に資する形で運営しようとされていることに関心をもっています。開設までの経緯や、運営の仕方等について、いろいろヒアリングをさせていただき、勉強してくるつもりです。

『遙かな町へ』谷口ジロー

20130630taniguti.jpg ■通勤するときは、自宅のある奈良から京都まで近鉄。そのあとは、キャンパスのある大津市瀬田までは、JRを利用しています。先日、通勤途上でたまたま見かけた特急列車が気になりました。特急「スーパーはくと」です。京都から鳥取、そして倉吉に行く特急です。途中、非電化の線路を走るのでエンジンで動く気動車です。その車体が気になりました。谷口ジローという漫画家の作品が描かれています。2012年に開催された「国際まんが博」の開催にあわせて、谷口ジローさんの作品を描いたイラスト列車なのです。谷口さんは鳥取県出身です。

■ところで、ついうっかりしていましたが、谷口さんは、『坊っちゃんの時代』や、『孤独のグルメ』といった作品も出されています。以前、それらの作品を読んでいたのですが、すぐには特急「スーパーはくと」のイラストとは結びつきませんでした。いけません…。ということで、彼の別の作品を読んでみることにしたのです。『遙かな町へ』と、『父の暦』です。今日は、母親の世話をしにいく電車のなかで、読むことにしました。

■大人の漫画です。おそらく、10年程前、まだ若い段階で読んでいたら、読後感もかなり違っていただろうなと思います。この作品は、谷口ジローが51歳のときのものです。漫画の主人公は48歳です。おじさんになったから(なってしまったから…)、心に沁みるように読むことができたのだと思います。漫画評論家の夏目房之助さんが、良い解説を書いておられました。

(このマンガの主人公は)若い頃にあった可能性や選択肢は、やがて「ここではないどこか」への、不可能な思いとして二重化されることを知っている。人がもってしまう、存在へのこの不可能な問いは、父を了解してしまう形で現在の主人公に回収される。大人であることの代償のように。

■ここを詳しく説明すると、「あらすじ」がわかってしまいますね。ですから、まだお読みでない方は、ぜひご自身でご覧いただければと思います。また、すでに過去にお読みになっているばあいでも、改めてお読みいただければと思うのです。この『遙かな町へ』、ヨーロッパでも人気が出て有名な漫画賞を受賞しているようですね。ところで、漫画の舞台は昭和38年の鳥取。漫画のなかの会話をみながら、鳥取出身の卒業生のことを思い出しました。どうしているかな。

【追記1】■谷口ジローさんのインタビュー記事のメモ。
覚え書:「時代を駆ける:谷口ジロー」、『毎日新聞』1~9

【追記2】■この『遥かな町へ』のことにつきましては、facebookにも投稿しました。すると、facebookの「友達」でもある職場の事務職員の方から、「私も、じつ『遥かな町へ』のファン」なんですと、笑顔とともに声をかけていただきました。なるほど〜。でも、その方はまだ30歳代前半です。私がその年代のときであれば、おそらくこの漫画の奥底にあるものを、ぼやっとしか理解できていなかったのではないかと思います。歳を重ねていくこと、また異なる味わいがあるのではないかと思いますよ。

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