22年前のこと

■22年前のこと。思い出しています。頭の中には、まるで当時の写真を見ているかのように、具体的なシーンが浮かび上がってきます。

・大きな揺れに驚き、2段ベッドに寝ていた子どもたちのところに飛んで行ったこと。
・すぐにテレビをつけたけれど、「マンションが倒壊しているらしい」といった報道が信じられなかったこと。
・交通機関が麻痺している中、当時、膳所にあった職場(琵琶湖博物館開設準備室)まで頑張って行ったこと。
・職場のテレビを視て驚いたこと。
・翌日、西宮市上ヶ原にある母校・関西学院まで、西宮北口から歩いて行ったこと。
・大阪の街の被害はたいしたことがないのに、尼崎のあたりから被害が風景の中に現れ、西宮に入ると、途端に被害が増えていたこと。
・古い立派なお屋敷は潰れていたけれど、ハウスメーカーの住宅だけはしっかり建っていたこと。
・フランス語の文法の再履修でお世話になった紺田先生に会ったこと。
・後輩、恩師、友人の安否を確認しに回ったこと。
・仁川にお住いの恩師・鳥越晧之先生のことを気遣う学会関係者から、自宅に「何かわからないか」と電話がかかってきたこと。
・実際に恩師の仁川のご自宅まで行き、ご家族と共にご無事であったことを確認して安堵したこと。
・恩師のご自宅は仁川の川沿いの斜面に建っていたけど大丈夫だったこと。
・崖崩れは反対側の斜面だったこと。恩師からは、お世話になった事務職員の女性が崖崩れに飲み込まれて亡くなったと聞かされたこと。
・小学校の体育館には、毛布に包まれたご遺体が並んでいたこと。
・友人の荻野昌弘さんの自宅に行ったこと。
・マンションの室内は無茶苦茶で、震災のショックで何もやる気が起こらず、水道水が出ないため、水代わりにシャンパンを飲んでいたこと。
・地底からゴジラが飛び出してくるような感じがしたという説明を聞いたこと。
・荻野夫妻と母校まで歩いたこと。
・人びとが、自助・共助で生き抜こうと必死になっていたこと。
・ガス臭い街の中で、人びとが自主的に交通整理をしていたこと。
・水洗トイレの水を確保するために、バケツに紐をつけて川の水を汲んでいたこと。
・荻野さんと2人で、「社会がゼロから立ち上がる瞬間」を確認したこと。
・さらに翌日から職場のトラックやバンで救援物資を運んだこと。
・検問中の警察官から「ご苦労様です」と一礼され、一台も車が走っていない名神で阪神間のどこか近くの地域まで移動したこと。
・名神を降りた時の街は異常な混乱状況だったこと。
・中央分離帯に片側の車輪を乗せて逆走するパトカーのこと。
・静まり返った高級住宅街の中で、企業の社宅だけが人が集まっていたこと。
・同僚のお母様が亡くなったこと。死後硬直されたご遺体の様子のこと。
・混乱する道を避けて、六甲山の山裾の道を抜けて大津の職場まで戻ったこと。
・正式に自治体の職員としてボランティア派遣されたこと。
・派遣先が母校・兵庫高校だったこと。
・かつて本を読んでいた図書館で、上司や他の自治体の職員さんたちと並んで、毛布に包まって寝たこと。
・校舎の廊下で上を見上げると地震でできた隙間から空が見えたこと。
・教室はもちろんのこと、校庭にもたくさんの被災者がテントを張って避難していたこと。
・その校庭から、通勤されていたこと。
・高校に隣接する室内商店街や周囲の地域が焼け落ちていたこと………その他まだまだ、いろいろ。

■昨年からは、阪神淡路大震災で家族を失った遺族の長期にわたる悲嘆を研究するために、修士課程に看護師の女性が社会人入学してきました。

■さて、トップの動画ですが、当時、市役所職員だった方が記録たし映像と、ご本人へのインタビューで構成されています。

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