2015年度 社会調査実習(4)

20150807kurimi15.jpg
20150807kurimi17.jpg20150807kurimi19.jpg
20150807kurimi18.jpg▪︎江戸時代に開発された栗見出在家の集落全体は、長方形の形をしています。そして、水路や道が、碁盤の目のように交差しています。集落全体は、そのような水路や道によって8区画にわかれています。整然とした区画された集落の周囲には、水田が広がっています。栗見出在家は、もともと、三角州の上に開発された村ですから、内陸の農村のように自然の高低がなく、江戸時代の開村当時から、クリークや葦原に接するところ以外は、宅地も水田も四角形でした。もちろん、35年前に行われた圃場整備によって1筆ごとの水田は大きくなっています。

▪︎そのような集落や水田からは、琵琶湖にむかって何本もの排水路がまっすぐに伸びています。私たちは、その排水路の様子を見学するために、栗見出在家を囲む堤防を越えて琵琶湖の湖岸に出てみました。堤防自体は、1972年から1997年にかけて行われた琵琶湖総合開発によって建設されたものです。トップの写真は、堤防の外に出た湖岸から撮ったものです。琵琶湖が広がっています。右側には湖岸の樹木があり、その先には、杭が何本もうってある場所を確認することができます。愛知川が運んでくる土砂が排水路を埋めてしまわないように、このように杭を打ってあるのです。かつては、この杭の外側に土砂が堆積していました。そうやって堆積させることで排水路を守ったのです。もちろん、ダムが建設され、治水工事や河川改修が行われた現在、土砂が溜まることもなくなっているようです。

▪︎この排水路からは、栗見出在家の水田にむかって魚が遡上していきます。2段目の写真をご覧ください。さきほど述べましたが、琵琶湖総合開発により堤防が建設され、水門も設けられています。しかし、写真からは、その堤防や水門の下を、琵琶湖からまっすぐに排水路が伸びていることがわかります。この排水路には、「魚のゆりかご水田」プロジェクトで堰上げ式の水田魚道が設置されます。琵琶湖の方から少しずつ水位が高くなるように堰板を排水路に入れていくのです。段々畑のように、排水路の水位を少しずつ高くして、最後の堰の手前では、水田とほぼ同じ高さまで排水路の水位を上昇させるのです。春、田植えの頃、この魚道では、琵琶湖の固有種であるニゴロブナ・コイ・ナマズなどの魚が、魚道をジャンプしながら水田まで遡上します。そして産卵をします。外来魚であるブラックバス等は、その習性からこの魚道をジャンプして遡上することができません。

▪︎少し詳しく見てみましょう。排水路のコンクリートの柱の横に、錆止めをぬった断面がLの字型の鉄の枠が排水路の壁面に取り付けられていることがわかります。魚道の堰板は、柱と枠の隙間に入れていくのです。そして、その周囲を土嚢で固めるのです。右の写真をご覧ください。バイブの排水口がみえますね。春、田植えの作業を行うころには、堰上げ式の水田魚道が設置され、排水路の水位も水田の水面と同じところまであがります。魚たちは、このバイプの排水口から水田に遡上して、水田で産卵をします。6月、卵からかえった仔魚が数センチにまで成長した段階で、水田も中干しの時期になります。仔魚が水田から排水路へ、そして琵琶湖へと泳いでいけるよう、水田には溝を切ります。田んぼの水を抜くと同時に、魚たちは琵琶湖に向かって泳いでいくのです。この大きさにまで成長すると、ある程度、自力で外来魚からも逃げることができます。最近の研究では、成長したニゴロブナは自分が生まれ育った水田=「ゆりかご」のあたりにまで帰ってくることがわかってきました。

20150807kurimi16.jpg
▪︎これは、堤防の外から撮ったものです。トップの写真とは、別の方角を撮っています。沖島の集落が見えます。沖島の大きなスピーカーからの音だと、この湖岸まで聞こてくるそうです。その対岸には、「伊崎の竿飛び」の竿が突き出しています。写真では、よく写っていませんが、肉眼では確認できました。この「伊崎の竿飛び」は、約1100年前に伊崎寺で修行中の建立大師が、目の前の琵琶湖に空鉢を投げて、漁船で湖上を行き交う漁民たちに喜捨を乞い、そのあと自分も湖中に飛びこんで空鉢を拾いあげたという故事に基づいている…そうです。現在では、一般の参加はできませんが、昔は、近在の農村の若者たちも参加していました。栗見出在家の若者たちも参加していたそうです。

▪︎栗見出在家湖岸の足元をみると、たくさんの木切れが流れついていました。冬になると、西からの強い風がふくため、もっとたくさんの木切れが流れ着くのだそうです。燃料革命がおきる以前、栗見出在家の皆さんは、この木切れを大切な燃料とされていました。どの家にも、そのような木切れを集めて保存しておく場所があったそうです。愛知川の三角州に建設された村ですから、自分たちの里山がありません。しかし、里山がなくても、燃料をきちんと確保されていたのです。また、琵琶湖や、隣接する大中湖からは、水草や湖底の泥をとっていました。それらは、水田に肥料としてすき込まれました。冬の季節に、大中湖から泥をとってきては水田に入れていくことが重要な農作業だったと聞いています。もともと砂地の土地ですから、肥料分のもちが悪いのでしょう。里山がなくても、こうやって湖岸、琵琶湖、内湖を利用しながら暮らすことができたのです。里山ではなくて、「里湖」の資源を有効活用していたのです。

管理者用