2015年度 社会調査実習(2)

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▪︎公民館で「魚のゆりかご水田」プロジェクトの取り組みについてお話しを伺ったあと、「栗見出在家 魚のゆりかご水田プロジェクト協議会」の代表代行をされているFさんが、集落の中を案内してくださいました。

▪︎写真は、栗見出在家の集落内にある道路です。他地域の農村と比較して、大変道幅が広いですね。現在では、道路になっていますが、もともとここは水路だったのです。後ほど、別のエントリーで詳しく説明することとし、ここでは簡単に栗見出在家の歴史を説明しておきたいと思います。「出在家」とは、新しく開発された農村につけられる呼称です。栗見出在家は、1806年(文化3年)に誕生しました。愛知川の河口に土砂が堆積してできた三角州に、彦根藩が新田開発を行ったことにより生まれた村なのです。このように三角州につくられた村であるため、排水路や運搬のための水路(クリーク)が大変発達していました。この道路もかつては水路で、たくさんの田舟が行き交っていたのです。ちなみに、この通りに面している家々の表玄関は、反対側の通りになります。そちらは開村当時から道がありました。こちらは、家々の裏側になります。
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▪︎道路沿いの家々の基礎部分をみると、石垣が確認できます。これらの石垣は、かつて水路があったころのものです。水路の両端には石垣が積まれ、その上に住宅が建てられていたのです。寺院などは一般の住宅と比較して石垣がさらに高くなっていました。栗見出在家は、愛知川の河口域に開発された農村であるとから、たいへん標高の低いところにあります。村の方たち自身「滋賀県で一番低いところにある村」と説明されます。「一番低いところにある」ため、長雨などにより琵琶湖の水位が上昇すると(南郷の洗堰ができるまで人工的に水位を調整できなかった)、しばしば村は冠水してしまいました。寺院の石垣が高いのは、そのような水害にあわないように土地をかさ上げしているためなのです。また、宅地から道路(かつての水路)にむかっては、ゆるやかな勾配になっています。水路に停泊している田舟に、荷物を楽に乗せたり降ろしたりできるようにするため、勾配がつくられのだそうです。それが現在でも残っているのです。このようなお話しを、代表代行のFさんから伺うことができました。「なるほど〜」と思うと同時に、かつて水郷地帯だった頃の風景を想像しました。

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